魚は花の呼吸を知るか(藤芥) 藤棚の手入れをするのに忙しいから、一人で遊んでいなさい。まるで子供を待たせる親のような口ぶりでそう言われた芥川は、けれどやるべき事も差し迫ってあるわけではなく、暇を持て余していた。潜書も午前中に済ませてしまったし、助手業務も今日は自分の担当ではない。せっせと藤棚の補修と手入れに励む幾人かの仕事ぶりを竹で編んだ縁台に座って眺めていた。すぐそばにある脚のついた長細い灰皿は芥川の吸っている煙草ばかりが山のようにこんもりと溜まっている。そろそろ吸い殻を突っ込んだら燃えるのではなかろうかと不安になるような有様の灰皿へ、また一本、短くなった吸いさしをどうにかねじ込み、火種を揉み消して溜息をこぼす。室生と、それから萩原を誘って、出掛けたかったのに。萩原は行方が分からないし、室生は芥川よりも庭弄りの優先順位の方が高い。放って置かれるのも待つのも、それほど苦ではないけれど、終わったら一言だけでも言ってやろう。反論の余地もないような、そんな言い回しを考えながら懐から取り出した煙草の箱が、やけに軽い。軽く振って見たが物音一つせず、嫌な予感とともに中を見てみればすっかり空っぽだった。室生を待つ間に一箱空にしてしまっては、見つかれば吸いすぎだなんだとまた小言が降ってくるだろう。ぎゅ、と雑巾を絞るように空の箱を捻って、捨てる場所を探して結局懐に仕舞い直す。捨てるのを忘れないようにしないとなあ、と呑気に構えていると、横合いから華奢な腕がぬう、と生えてきた。その手には封の切られた煙草の箱が握られており、一本どうぞ、と勧めてくるような仕草である。
「頂いてしまっても、構わないのかな」
間のいい事だと、背後に立つであろう人物を肩越しに振り仰いで、芥川はそのまま双眸をすっと眇めた。
「どうぞ。愛飲しているものとは、ちょっと違うだろうけど」
煙草を差し出した島崎は、冷え冷えと凍りつくように温度を下げた芥川の視線をいなすように平然と煙草を差し出し続けた。これがまだ、笑いながら、或いは何かを企てるような、そんな気配を感じるような顔だったのならどうとでも言い包められたかもしれないのに、何を考えているのか全く読めないし察する事もできない、能面のような無表情に視線ばかりか声までもが低く冷たくなる。
「結構だよ。君の煙草は遠慮しておく」
「そう?それは残念だな」
あっさりと腕が引っ込んで、煙草の箱も視界から消える。捻っていた首を戻し、はやく室生が戻ってこないかとあれだけ待ち侘びていたのに、いまはまだ戻ってこないでくれと真逆のことを考えている芥川の隣に、縁台の側をぐるりと回った島崎が腰を下ろした。
「君は手伝わないの?」
さっきまで差し出していた煙草を口に銜え、火をつけた島崎がぽつんと芥川へ声をかける。ふわりと鼻先を掠める煙草の匂いに、喉が乾くような、飢えにも似た恋しさが込み上げるが無理やりに飲み込んで、芥川は黙っていた。返事がないのを承知の上で、島崎は取り留めなくぽつぽつと、独り言のように話を続けた。
「今年の藤は、秋声と室生くんが頑張ってたから、綺麗に咲いたよね。蜂が凄かったけど、雨に濡れてるところなんかは本当に見事なものだったと思わない?」
黙っていても、これは延々と話が続くのだろう。芥川の返事を待つように、一拍、言葉の端々に間を置きながら喋る島崎の声は、決して通りがいいわけでも、耳触りがいいわけでもない。だというのに、やけに耳に残って離れない。それが癇に障って、芥川は下瞼に皺を寄せながら縁台から立ち上がった。
「藤は嫌いなんだ」
「へえ。どうして?」
「……藤棚ではなくて、杉の木に巻きついた、野生の藤を見たけれどね。あんまりにも身勝手で、見ているだけで君を思い出して不愉快だったよ」
「そう。綺麗だった?」
不愉快だと、言っているのに綺麗だったのかと問う、その豪胆さに、呆気にとられたように開いた口を塞ぎ損ねた。は、と乾いた笑いを零しながら、脳裏に杉の木に巻きつき、蔓を伸ばし花を咲かせた藤を思い出す。瑞々しい葡萄を思わせるような房がまるで飾り立てるようにいくつもいくつも花を咲かせている姿は、確かに、美しいと。一瞬、ほんの数秒だが、確かにそう思った。けれど、それを彼に教える理由が、芥川には無い。振り向きもせず、室生を待つ事も諦めて、踵を返して歩き出す。後ろから追いかけてくるものは何もなかった。藤の野趣に富んだ美しさも、力強さも、知りたくもなければ、思い出したくもなかった。