ある男の話~後編~
李儒から話を聞いた董卓は、眉間に皺を寄せたまま足早にある場所へと向かっていた。宮中の奥の更に奥にある、中庭に作られた離れ。帝の護衛という名目で其処に“閉じ込めている”彼に会う為だ。
離れに到着すると合図も無しに扉を勢いよく開けたが、離れの主人は驚く様子を見せず、ただ面倒そうな視線を向けるのみだ。
彼は大きく作られた窓の桟に器用に腰掛け、外を眺めていたようだった。衣服の隙間から見える白い肌、白い長髪、赤い目、髭を生やしてはいるが美しい顔立ち。その出で立ちから人の世のものでは無い雰囲気が漂ってくるが、彼は確かにこの場にはっきりと存在している。
「……呂布」
離れの主人――呂布は返事を返さず、視線を窓から見える外に移す。
「李儒から聞いている。先日の戦では手を抜いたそうだな」
「……別に、俺が出る必要は無かった」
かろうじて董卓が聞き取れる声量で返ってきた言葉。董卓の眉間の皺がますます深まる。「そうではない。軍師の命を聞かない、それはつまり軍全体を危険に晒す可能性もあるという事だ」
「何だ、軍規違反で俺を罰するか」
「……そうだな。明日、罪人の処刑をするつもりだったが――お前がやれ」
今まで反応が鈍かった呂布が、僅かに肩を震わせた。
これを見逃さなかった董卓が追い打ちをかける。
「どうもお前は、近頃他人と関わるのを嫌うな。それを取り除くためだ、やれ」
こうも断言されてしまっては、拒否という選択肢は初めから存在しないのと同じだ。呂布は董卓に聞こえないようにこっそり溜息を吐いた。
「……それで、満足するなら」
「今度は手を抜くな。次に失敗すれば、こんなものでは済まないと思え」
来た時と同様、董卓は足早に立ち去る。不機嫌な彼を背を見送り、気配が完全に消えたと同時に、呂布は大きく溜息を吐いた。
* * *
こんな下賤の者が行うようなものを、どうして彼がやらねばならないのだ。そんな疑問が高順の頭を支配する。
呂布を思われる人物は無言のまま高順を見下ろす。数秒そうした後、手ですぐ側に控えている兵士に下がるよう指示を送った。兵士はそれに従い、数歩後ずさる。
これで高順の側には呂布しかいなくなる。言葉を交わす事無く、彼は手に持つ方天戟を高く掲げる。
「ま、待ってくれ」
高順は知らずの内に口を開いていた。そこまで大きくない声量だったが、呂布は聞き逃さなかったようで首に刃が食い込む寸前で手を止めてくれた。
「貴方は、呂布なのか?」
勝手な行動を止めようと離れていた兵士が剣を手に近づいてこようとしたが、呂布が手を挙げ制止させる。素直に言う事を聞く兵士。
「……そうだ」
初めて聞く呂布の声はとても静かで、戦場での姿とは似つかわしくないと思った。
呼び止めてしまったが、この後どうするか高順は全く考えていなかった。ただ死ぬ前に呂布という人物がどういう人間なのか知りたかっただけで、別に許しを請いたかった訳ではない。焦りからか、つい頭に浮かんだ言葉をそのまますぐに口にしていた。。
「どうして、貴方のような武人がこんな事をやっているのだ」
これから首を切られる罪人だというのに、そんな事を忘れて顔をあげ、呂布の顔を真っ直ぐ見つめる高順に対し、呂布は問いに答えずただ高順の顔をじっと見つめている。
「貴方は、あの見事な汗血馬に跨がり戦場を駆け、血気盛んな敵の首を刈り尽くすのが似合いだ。こんな愚かな罪人の首を斬れば……貴方の刃が穢れてしまう」
「首に、価値も無価値も無い。皆同じだ」
本当に静かに喋る人だ、と高順は感じていた。
戦場での呂布の姿はほんの一、二度しか見た事がない。だがそれでも彼がもたらす「恐怖」はしっかりと植え付けられていた。対峙すれば最後、生きて帰る事は出来ない――まさに死神そのものだ。
しかし、今此処にいる彼からはそんな雰囲気を微塵も感じられなかった。あの戦場の人物と同一人物なのかと疑いたくなるほどに。失礼なのは承知の上だが、彼からは――ほんの僅かな「怯え」が感じ取れるのだ。
一体、何に怯えている?
高順は呂布という人物をもっと知りたくなっていた。だが、今居る場所は処刑場でもうすぐで高順の刑は執行される。今知った所で何の意味も無い事は重々承知している。だが、それでも。
「――名は?」
今度は呂布の方から口を開いた。
「これから死ぬのだから、意味はあるまい」
「聞かせて欲しい」
「……高順」
名を聞いた呂布は方天戟を地面に突き刺し、仮面に手をかけると、ゆっくりとそれを持ち上げた。
現れた顔に、高順はますます目を奪われた。
仮面の下の顔はどんな悪人顔をしているのだろうと勝手に想像していた高順だったが、その予想は少しも当たっていない。
白い肌。白い髪。赤い目。そして暴虐とはかけ離れた整った顔立ち。高順は漢人以外の異民族を数人見た事はあるが、彼の色はどの民族にも該当しなかった。その姿に不気味さを感じるのは仕方がないのかもしれないが、高順はそうは思えない。むしろ、神秘的だ、と直感的にそう思った。
仮面を外した開放感からかゆっくりと深呼吸をする呂布。だが仮面を被っていた時とは違い、高順としっかり目を合わせようとしない。
「これでも、お前は俺の事をただの人間だと言えるのか。こんな、化け物のような姿をしていても」
自嘲でしかない彼の言葉を、高順はしっかりと聞いていた。一言一句、聞き漏らさずに。
それを踏まえた上で、高順はこう答えた。
「……狼と化している貴方を見た時は、自分とは違う存在だと思っていた」
呂布がこちらとほんの一瞬、目を合わせた。その時を逃さずに、高順は呂布の目を見続ける。
「だが、こうして顔を合わせてほんの少し言葉を交わした今は……そうは思えない。うまくは言えないし、自分に人物を評価する才も無いが……貴方は、きっとただの人間なのだろうと思う」
ここで、呂布は跪き、高順の顔をじっくりと見る。今度は、目を反らそうとはしなかった。
「髪や目の色が他と違うのは、我々漢民族にとっては恐怖なのだろう。そのせいで何か嫌な思いをしたというのなら……どうか、この首で許してもらいたい。最期に貴方と話せて、良かったと思う」
高順が頭を下げ、首を曝け出した。言葉は続かない。彼はもう言いたい事は全て話したのだろう。
その様を呂布は無表情で見つける。そして、ゆっくりと立ち上がり方天戟の柄を掴んだ。
足音が聞こえる。ああ、何も残らなかった人生ではあったが、悔いは無い。やれるだけの事はやった。高順は目を閉じ、刃が降ろされる時をただ静かに待つ。
呂布の方天戟が風を切る音がする。続けて、血が噴き出す音――しかし、高順の首は胴から離れていない。
どういう事だ。高順が顔を上げると、まさに呂布に首を切られた兵士が地面に倒れる瞬間を目の当たりにした。
困惑する高順を余所に呂布はしっかりとした足取りで高順に近づくと、枷を壊し、高順を解放する。だが、予想外の出来事に高順はその場から動けない。
「な、何故」
「いくら董卓でも罪人の顔まで覚えていないだろうし、末端の部下の顔も覚えていないだろう。首の数はこれで問題無い」
呂布は高順の腕を掴むと、引っ張り上げて無理矢理立たせる。
「これでもう自由だ。好きな所に行くと良い」
呂布は静かな足取りでその場から立ち去る。高順はただ、その時は黙って見送る事しか出来なかった。
結局、どうして助けたのかは最後まで聞けずじまいである。
――お前は、ただの人間だ。
そう言われたのは2度目だ、と呂布は思い返していた。初めに言ってくれたのは茶の髪と緑の目を持つ戦友――張遼であった。漢民族と北方騎馬民族の血を持つ彼だからこそ、漢民族とは違うこの容姿を受け入れ、そしてあるがままに接してくれている。
だからこそ、高順の言葉は予想外だった。真っ当な漢民族からあのように言われるとは。
今でもほとんどの漢民族からは恐怖か蔑んだ目しか向けられていない。もう奴らからは何の希望も見出さなかったし、極力関わらないようにしていた。向かい合っても疲れるだけだから。
自分の事は張遼がわかってくれればそれでいい。それでいいのだが。
(……どうして、俺は……)
気づけば彼を助ける為に手が動いていた。後先を考えず、ただその感情だけで。自分がやった事だと言うのに、理由がわからなかった。こうして現場から遠く離れた今でも、わからない。
張遼に聞いてみよう。どうして高順を助けたのか。きっと、一緒にその理由を考えてくれるだろう。
それから数日後。高順は再び呂布の前に姿を現した。
あの答えを聞くために、呂布の従者として生きるために。
完