今夜彼が頂くのはふわふわ卵とじのカツ丼
ひとかかえもある鞄を背負って、三段ギアのついたクロスバイクに飛び乗った。
太陽はすっかり地平線の向こう側。
彼の注文がこの時間に入るのは珍しい、と思いつつサドルから腰を浮かしペダルを踏みしめた。鞄の中身の注文者…彼の家は緩やかな上り坂の途中にある。
「久しぶり!」
インターホンを鳴らすと息を切らして彼が扉を開けた。
「最近注文しても別の人が来るからどうしてるのかな、って思ってた。最近別の仕事してた?」
「いいや、ずっと配達をやってたからタイミングの問題だな」
「そうか。…最近この仕事してる人多いもんね。指名制度があったらいいのに」
「美容院みたいだな?おれの指名料は高くつくぞ」
ポロシャツの襟を正してみせると彼は笑った。
「出せるかな」
「ワンコイン」
「えっ安い」
そう軽口を叩きながら、鞄から20分前に店から引き取ってきた器を取り出した。
彼の顔がぱあ、と輝く。
「後輩から美味しいって聞いてたんだ、サヴォおばさんがテイクアウト始めたカツ丼」
彼から差し出された代金を受け取り、どんぶりを渡した。
「念のため注文内容と間違いないか確認してもらっていいか?」
「うん」
彼が蓋を開ける。ふわ、とほのかにかつおだしの匂いが漂った。
「間違いない、ありがとう。とじてある卵もふわふわで美味しそうだね」
「よかった」
おれがそう答えたのと、腹の虫が鳴ったのは同時だった。
何も聞こえないふりをしてみたが彼の目が丸くなる。バレている。
「夕ごはん、これから?」
「あ、ああ。明日休む為に今日はバイトを優先させようと」
つい言い訳混じりに答えてしまった。
本当は夕飯を食べる直前に切り忘れていたアプリから彼からの注文が届いて、慌てて家を飛び出してきたのだ。家で待つラーメンはすっかり伸びているだろう。
彼は少し考え込んだ後、待ってて、とこちらに言い残して部屋の奥に消え、少しした後かけ戻ってきた。片手に持ったどんぶりの蓋が消えていたから、蓋だけ置いてきたのだろう。
彼は片手で器用に割り箸を割ると、丼から大ぶりのカツをひとつ俺に差し出した。
「はい」
「…いや、ありがたいが食べるわけには」
「僕には少し多すぎるから。一口食べていって」
まじまじと見つめると、彼は頬を赤らめて本当だよ!と付け足した。
しばし迷ったが、固辞したところで「あーん」の体制のままの彼はてこでも動かなそうだ。
彼の好意に甘えることにした。
頬張ったカツは柔らかく、衣の香ばしさが鼻に抜けていった。
「旨いな」
「よかった。」
「それにしてもこの一切れ一番大きいやつじゃないか?おれが食べてよかったのか?…いや食べてから言うことじゃないな」
「もちろんだよ、だってほら、人にあげる一口は大きい方がいいって言うじゃないか。どこで聞いたか忘れたけど」
そう言い添えて彼は微笑んだ。
「今夜もありがとう。気をつけて帰ってね、またよろしく」
道路脇にとめていたクロスバイクに跨りながら、彼の最後の台詞を反芻した。
「一口は大きいほうがいいって」
配達完了とアプリに打ち込みながら思わず声が出てしまった。
「ファーストバイトか?」