キープアウト!! 〜危険度1 秒針の進む音が響く静かな部屋の一角。時計が六時をさしたとき、テレビの液晶画面に電源がはいった。さわやかな音楽に合わせておだやかな海の映像が流れ、番組スタジオに切り替わった。素朴な笑顔のキャスターとアシスタントがほほえむ。
「おはようございます。六月二十一日水曜日、朝六時。北海島の今をつたえる『しましま元気!』のお時間です」
「いやあ朝の海はホントウにきれいですね、うん。小林さん、こちらはどこなんでしょうか」
「はい、今朝は北海島南端に位置する函伊達市の海の映像からお送りしています。きれいですねー」
「いやあ函伊達市でしたか。函伊達市といえば、イカ大王都市と同盟国となって今年で十周年ですよね、うん」
「はい、そうなんです。そのイベントに併せて、来月の函伊達夏まつりはさまざまな催し物が予定されております。はい、今朝はそのひとつ、イカイカ踊りに向けて猛練習されている函伊達商店街青年団の皆さんを紹介いたしますねー」
「いやあ、イカイカ踊りといえば墨を全身にかぶるダイナミックな踊りで有名です、うん。今年の函伊達夏まつり、ホントウにたのしみです、うん」
「ではここで今日の妖怪予報です。妖怪予報士の厳龍さん、おねがいしますねー」
朝のさわやかな番組に似つかわしいとはいえない、いかつい体格に髭をたくわえた山伏がぬっと現れた。真顔で画面に向かってふかぶかと礼をする。
「島民のみなさん、おはようございます。今日の北海島の妖怪予報です。北部、西部、南部とも妖怪出現率は十パーセントと低いでしょう。中央は朝日川市を中心に、出現率は六十パーセントとやや高めですので、外出の際は護身札や護身守りをお忘れないようになさってください。東部の出現率は二十パーセントですが、音別市を中心に‘気’が不安定なようすです。よく晴れていても突然の妖怪出現に備えたほうがいいでしょう。盛り塩もお忘れなく。本日も島民の皆様が安全で過ごせますよう。南無妙法蓮華経、カーッ!!」
「厳龍さん、ありがとうございました。はい、今朝も髭がすてきでしたねー。つぎは北海島のお天気です。天気予報士の小宮山さん……」
小宮山天気予報士に画面が切り替わると、番組の表示時刻が六時十分になった。
ごそり。
ベッドからおもむろに少年が起き出して伸びをした。
「二十パーか。いっちょ強化しとくか」
盛り塩のことである。
字見彰人、高校二年。小柄で童顔。兄弟はいない。学力は並。親は去年から本土の大和国中央都市に夫婦そろって赴任中で、一人息子の彰人が新築一戸建ての留守を預かっている。月一で帰宅してくる親の目もあり、高校一年のうちに家事全般をこなせるようになった。問題点を挙げるなら主婦のように独り言が多くなった点だろう。
「あーあ。だるい。留守番って意外とひまじゃないよな。北海島じゃしかたないけど」
彰人は制服に着替えて部屋を出た。テレビのなかではイカ帽子をかぶった青年団が「はりきってまいりますよ」と笑って見せていた。
彰人ははじめに、裏口前の小皿に乗っている塩を回収した。そして空になった皿にあたらしい食塩を盛った。これでひとつ完了。つぎに敷地の隅だ。雨ざらしの小皿にはほとんど塩が残っていなかった。やばいところだった。塩を盛って、ベランダに向かう。
盛り塩は玄関前から裏へと回るほうがいいらしいが、彰人は裏側からと決めている。敷地裏を見落としたために、妖怪の侵入を許してしまったことがあるからだ。
二階の小窓から侵入した妖怪は、二階の床から天井まで縦横無尽に足跡をつけた。掃除後に塩をまいても清水スプレーしても、次の日にはまた足跡がつけられる。これがお祓いをするまで続いた。お祓いは市役所が無料でやってくれても、家の掃除は自分がやるしかなく、天井の足跡を消し終わるのに数日かかった。
あんな苦労は二度とごめんだ。妖怪は二度とうちの敷地内に入れないと決めた。
「これでラスト」
玄関前でふるい塩を取り除いたとき。
ーーゴスッ!!
「うぐほっ!?」
背中にひとつの衝撃を受け、そのままドアに全身を打ちつけた。
「いってえなあ。誰だっ」
硬球でも食らったような衝撃だ。いたずらにもほどがある。
しかしにらんだ先には立ち去る影さえない。
怪訝に思いながら見渡していると、足にかるいものが当たった。背中に激突してきた物体はこれに違いない。しかし。
「なんだ、これ」
馬の尻尾のようなふっさりと繊維がつけられたこん棒。全体に細かい模様が彫り込まれているところをみると、海外の土産物だろう。背中をさすりながら模様をしげしげと見ているうち、あることに気がついた。
「カタカナじゃん」
模様にうまくカタカナが隠されている。
「んーと。かる、ね、もそ、み……」
カルネモソミ。地球上のどこかの国の名前だろうか。見当もつかない。
突然、男の声が彰人に話しかけてきた。
‘我の名を呼ぶ者よ。おまえはここを護る者か’
「え」
上下左右背後、どこにも声の主らしい姿はない。じゃあ幽霊か。声は繰り返し問いかけてくる。
‘カルネモソミの名を呼ぶ者よ。おまえはここを護る者か’
やれやれ。謎の物体がぶつかってきたり幽霊と遭遇したり、朝からへんな日だ。ま、へんなついでに相手もしてやるか。
「ここってどこのことだ。この家のことか」
‘ここだ’
「俺はここを守らないといけない。俺しかいないから」
‘では、おまえがここを護る者なのだな’
「おうわっ」
彰人のすぐ目の前に若い男が出現した。
広い肩幅をもつしっかりとした身体つきの青年で、頼れそうな若い先生といった印象。しかし現代風ではなく、独特な紋様のついた着物に、しろい蔦のりっぱな房がついた冠をかぶっている。
彰人はへえ、と思った。北海島に住んでいた先住民族カリヌだ。カリヌ民族は江戸時代にひっそりと姿を消したと聞く。今残っているのはいくつかの伝承と居住跡だけのはずだ。
カリヌの青年は悠然とした面持ちで彰人をみおろしていた。恨みとかで化けて出たという様子はなく、むしろ深い懐のようなまなざしから、彰人は目が離せなくなっていた。
‘わたしはトンラウンクルの名の元に仕えるカルネモソミ。おまえの名は’
「字見、彰人」
‘あきひと。聞け。ここに危機が迫っている’
「はあ」
ぽかんと見上げる彰人にかまわず、男は真剣な表情でうなずく。
‘トンラウンクルが危機からここを護るために、わたしを遣わした。護る者あきひと、これからわたしと共にここを危機から護れ’
「ふうん。……え?」
思考停止。
ちょっとまて。このカリヌの兄ちゃんはなんか言った。なんて言った。危機? ここ? 護る?
「なんだその話は。危機ってなんだよ。護るとか説明くらい」
‘説明するのはあとだ。危機はもうそこに来ている’
「そこって」
男が見上げたので、彰人もその先を見た。
目を疑った。
まさか。そんなはずはない。
うちの屋根がまっ黒で、その表面がもぞりもぞり動いているなんて。
あ。
やつらがこちらを見た。
見てはいけないものと目が合ってしまった。
本能が、あれは闇だと言っている。
闇だ。闇が自分の全身をなでるように見つめ返してきている。
じわりと、おまえも闇に引き込んでやろうと語っている。
ありえない。ありえなすぎる。おびただしい数の妖怪たちが我が家の屋根に集まっているなんて、ぜんぜんわからなかった。
彰人はかるくあえいだ。全身から力が抜けそうだ。あまりの状況に声も出ない。
カリヌの青年を見た。うなずいた。
危機って。
「あれのことか」
‘わたしを追ってきたクムだ。わたしは、わたしを覚醒させてここを護る者を捜していた。そこであきひとを見つけた。ここまでに何度か危ういときもあったが、わたしはあきひとに出会えた。
しかしクムはまだあきらめていない。覚醒していないわたしは無力だからだ。力を貯めて、一気に襲いかかってくるだろう。わたしだけじゃなく、あきひとも消すつもりのようだ’
「あ、狙いはそっち……いやいやいや、ええええおれもー!? ど、どうしたら」
‘安心しろ。あきひとはこのカルネモソミが護る。あきひとはわたしを使ってクムを殲滅しろ’
「かんたんに殲滅しろとか言うけど、小バエの殲滅でさえ難しいのにできるわけないだろ。そもそも、あんなにたくさんの妖怪たちから一斉攻撃をされたら絶対死ぬって」
‘あきひとが死なないためにわたしがいる’
そんな都合良すぎる話を信じられるかと言い返してやろうと思ったが、深いまなざしが自分をまっすぐ見つめていることに気がついた。
信じろ。目はそう言っていた。
「ほんとうにだいじょうぶなのか」
‘わたしはトンラウンクル第五の剣カルネモソミ。覚醒したら、あれくらいのクムはハエを散らすより簡単だ’
今朝はおかしい。よくわからないことばかりだ。正直縮み上がってる。泣きそうだ。
だけど目の前にいるこいつの言葉は信じてみようと思った。
彰人はカルネモソミに向かってうなずいた。
「じゃあ、たのむ」
カルネモソミは悠然とほほえみをうかべ、消えた。
突然ぱん、と音をたてて棒が弾けとび、白銀の長剣になった。これが第五の剣カルネモソミ。
‘手を’
「て? うわっわっわっ」
おどろく彰人の意志かかわらず、彰人の手は刃に指をあてて軽くすべらせた。いてっ。自分の血が刃にすうっと溶けるのが見えた。
とたんに剣が輝きだし、あたりが銀色に包まれる。
まぶしい。だけどなつかしい。目の奥まで銀色になったような感覚、どこで見たんだっけ。
「うおわっ」
彰人の手は両手で柄をにぎり、剣を勢いよく真上に振りかざした。誰かに手首を捕まれて動かされているようで、彰人はバランスを崩してこけそうになったが、手だけはしっかりと安定していた。
‘トンラウンクルの名においてカルネモソミはこの地の守護者あきひとと共に在ることを誓約する’
「トンラウンクルの名において守護者字見彰人はカルネモソミと共にあることを誓う、ってえええっ、こういうのアリなのかよ」
口が勝手に動いて誓約したことに動揺しているうち、光がおさまった。
剣が右手に握られて勢いよく振る。けっこう重い。本物だ。本物の剣だ。ゲームのなかの勇者じゃない。自分が剣を持って、そして。
‘来たぞ’
「うわ、来た来た来たーっ!」
それは彰人にとって一生わすれられない光景となった。いつ思い出してもスローモーションで、ときには悪夢となって彰人を苦しめた。
妖怪たちは一斉に屋根から離れ、彰人めがけて襲いかかってきた。妖怪たちの目という目、牙という牙、爪という爪が、殺意をもって自分に向かってくるのだ。こちらは自分ひとり。まさしく絶体絶命、四面楚歌。
あ、俺、終わった。
絶望的な光景を見上げたまま、彰人はのんきに思った。
しかし終わらなかった。
むしろ始まりだった。
「えっ」
目の前の光景が横一線に切れたと思ったら、目の前の妖怪たちすべてが身をふたつに分離させ塵と化したのだ。
それは彰人の握っている剣が妖怪たちを一閃した結果だった。
妖怪たちに動揺が走る。
彰人は感嘆を漏らす。
ふ、とカルネモソミが笑った気がした。
彰人もにんまりとした。剣道のように剣を構える。
妖怪が吠えた。上空から波のように第二陣が向かってきた。
‘行くぞ’
「おう。ーーうおっと!」
銀色の刃は縦横無尽に切り裂いていった。
ななめ、横、ときには突き立てられ、襲いかかってくる妖怪たちをことごとく塵にしていく。するどい爪や牙を割り折り、触手をはじき返す。妖怪の攻撃は、彰人の髪一本さえふれることができない。
見事に妖怪を切り崩していくカルネモソミとは打って変わって、彰人は右につんのめり、左に身をねじり、上に引っ張られ、斜め下にこける。カルネモソミに振り回される彰人にはかなりハードな状態だった。
「ちょ、っと、この、待てって、カルネっ、おいっ、おうわっ」
‘しゃべるな。舌を噛む’
「うス」
カルネモソミに振り回されているだけだったが、じき動きに合わせられるようになってきた。目で剣先を追うだけでも違う。
そしてあらためてカルネモソミのすごさを知った。妖怪の動きを読んでいるとしか思えない。すげえ、すげえ、すげえ。
「マンガみたいだ。これ全部カルちゃんがやってるんだ」
‘かるちゃん? ああ、わたしのことか’
カルネモソミがかるちゃんか、と笑っている気がした。呼びにくいからそう呼んだけど、怒らないでくれてよかった。
‘そうだ。わたしはクムの討伐が得意だからな。だが、これはあきひとがいてこそ。あきひとの手がなければ、ただの棒にすぎない’
「そんなもんかな。いやでも、すげえと思うよ」
‘ふふ。ありがとう、あきひと’
カルネモソミの落ち着いた声が聞こえると、自分も落ち着いた気分になるからふしぎだ。暴れる大型犬の散歩でもしてるような激しい全身運動の最中で、息も切れているのに。落ち着いている場合じゃないのに。
「なあ、危機ってなんだよ」
‘わたしにはわからない。だが、すくなくともクムがここにいる自体がおかしい’
「クムって、妖怪のことだよな」
‘そうだ。あきひとが妖怪というものを、我らはクムと呼ぶ。クムは死者の地のものだ’
「そうなんだ。どうりで」
だから俺はあのとき、妖怪を闇だと思ったんだな。納得。
‘ここはトンラウンクルが統べる生者の地。クムはレンカランクルが統べる死者の地に居るべきもの。わたしはクムを塵にして死者の地に還している’
しかし、とカルネモソミは続ける。
‘これだけのクムが集中して襲ってくることはめずらしい。一匹がやられたら、だいたいは逃げるものだ。しかし次々に襲いかかってきている。ということは、このクムたちは誰かの命令を受けているかもしれない。もしくは操られている’
「そんなことできんのかよ」
‘できる者もいる’
「じゃあここで全部倒しても、またこいつらみたいなのが来るかもしれないってことか」
‘その可能性が高い。相手はわたしやあきひとを邪魔だと思っているとしか考えられない。つまり相手はこの地にクムを増やし、レンカランクルを呼びだそうとしている可能性もある’
「そんなことあるのかよ」
‘あった。その時にわたしが造られ、クムというクムを塵にして還したのだ。あの時のように、また誰かがレンカランクルを呼ぼうとしているのなら、それこそ危機だ。これは許されることではない。生死の秩序を崩してはならないのだから’
「俺も嫌だ。あの闇はここにあってはいけないもんだ」
ぶん、と刃に残る塵を払った。
今やほとんどの妖怪が塵となり、残るは上空をぐるぐる回っている数匹となった。
BSアンテナに留まっているヘビ頭のオオワシが、くきけけけけとくやしそうに吠える。たてがみを逆立てているあたり、かなり怒っているようだ。
‘あれがこいつらの長だ’
「そうか」
彰人は剣を構える。
オオワシは彰人めがけて、まっすぐに降りてきた。はやい。
‘危機は訪れない。わたしとあきひとがいるかぎり’
「うおおおおっ!」
刃はあっさりと蛇頭をはね、塵を盛大に散らせた。
それを最後に、妖怪の姿は周辺から消えた。
「終わりかな」
‘ああ。終わったようだ’
するりと手のなかの柄が消え、左手首から肘にかけて細長い剣のような黒いあざが生まれた。一見、痕にも見える。
‘わたしはここにいる。必要なときは柄に触れて名を呼ぶといい。いつでも現れよう’
「わかった」
しかし彰人は最後まで言えず、その場にかがみこんだ。
やばい。きもちわるい。
‘どうした、毒を食らってはいないはずだが’
「違……うっ」
さっきまで大暴れしていたせいだろうか、疲労しきっているうえに、ひどい船酔いのように突然吐き気がこみ上げてきた。なにも食べていないから胃液しか出ないが、かなり、つらい。
「き、今日、ガッコ休も……」
おなじ頃、音別商店街の暗い一角。
ひとつの陰が息を切らせてうずくまった。迷彩柄の布を頭からかぶり、苔むしたふるい壷を大事に抱えこんでいる。
「もうすこしだ。たのむぞ。あそこまで保ってくれよ」
見上げた先に、ひとつの看板があった。
たしかにゆっくりと、そこに危機が迫っていた。