キープアウト!! 〜危険度3 あきひと。
「お。やっと起きたか」
じきに夜になる。どこへいく。
「駅前通り。あそこの商店街にある、汚いビルの三階、キラキラ心霊相談所ってトコ。鋼さんの事務所だよ」
そこは遠いのか。夜はクムの時間だ、気をつけたほうがいい。
「ヘーキヘーキ。学校に行くよりずっと近いし」
「アキト。そういう独り言は、さすがに引くんだけど」
横からさぎりに言われて、彰人はあわてて口をつぐんだ。田舎の道、それも夜なので人通りがほとんどない。現にここにはさぎりと自分しかいないので、油断していたらしい。さぎりのあきれ顔に、あらためて自分が恥ずかしくなる。
「こっちはアキトから聞いてるからいいけど、気をつけたほうがいいよ、それ。頭で考えて会話するとかできないの」
「それはそうなんだけどさ。俺、なんか口に出るんだよ。テスト中でもなきゃ無理」
「じゃあ電話してるフリはどう。ケータイあるでしょ」
その手があったか。
「ハギ、頭いいな」
「わたしじゃないよ、お兄ちゃんのお客さん。妖怪の声を聞く人がいて、その人もつい喋っちゃうみたいで。ケータイがあれば、ひとりでしゃべっていてもおかしくないって気づいて、そうしていたんだって」
さっそく耳に携帯電話をあてた。通話中でもないのに変な感じだが、すぐ慣れるだろ。さぎりとそのお客に感謝だ。
「で。剣はなんて?」
「夜なのにどこ行くんだって。妖怪に気をつけろってさ」
さぎりはくすくす笑う。
「いいヤツだね。妖怪の心配とかするんだ。お兄ちゃんみたい」
「あー、そうだな、鋼さんみたいなもんかも。退魔札があるから、なにかあってもだいじょうぶだと思うけど」
尻ポケットを軽く叩いて、財布の存在を確認する。よし。
財布のなかには現金とポイントカードのほかに、退魔札が入っている。生徒手帳と一緒に配布されたものだ。
夜道は妖怪ホタル入りの街灯が点灯していて、妖怪の動きに合わせて電柱の影が揺れる。この妖怪ホタル街頭は夜が近づくと勝手に灯る習性があり、妖怪たちの活動時間であることも知らせてくれる一石二鳥の街頭だ。退魔札を扱えない小学生たちは、街灯が灯るといそいで帰宅する。
高校生以上ともなると、学校行事で下校時刻が遅くなる機会が増える。そのため、生徒手帳と一緒に一番弱い退魔札を配布されるのだ。虫除けみたいなもので、持参しているだけで弱い妖怪は寄ってこない。中型以上なら投げつけると目つぶしくらいにはなる、らしい。
それでもやっぱり、一般島民は夜は出歩かないほうがいいに決まっている。今回は緊急事態と思っておこう。隣で生き生きとしているさぎりは散歩くらいにしか思ってなさそうだ。妖怪好きにもほどがあるぞ、まったく。
「アキトのプリン、すんごくおいしかったよ! また作ってほしいんだけど」
「いいぞ。また今度な。ハギはほんとにスイーツ好きだよな。それで虫歯無しっていうからむかつく」
「ふふふ。うらやましいか」
「べつに。菓心堂のシュークリームは全制覇したのか。あと半分とか言ってたけど」
「あと一個。いつも売り切れてるんだよう」
「予約したらいいのに」
「わかってないな、アキトくん。ショーケースに並ぶのに、わざわざ予約して買うのは無粋というのだよ。わたしが菓心堂で予約して買うのならアレでしょ、アレ」
「アレ?」
「ウルトラスーパーシュークリーム」
「アレか」
菓心堂は音別市の数少ない喫茶つき洋菓子店で、学生の憩いの場にもなっている。値段も手頃で、パフェとシュークリームが旨い。さぎりの言うウルトラスーパーシュークリームは、数年前の大食いイベントで誕生した菓心堂新名物のドラム缶型ケーキである。
ドラム缶大の筒型スポンジの中にはシュークリーム、ショートケーキ、プリン、チョコやクッキーやマカロンやバームクーヘンとあらゆるスイーツが積めこまれ、生クリームとチョコクリームで芸術的にデコレーションされ、上部にアイスクリームとシュークリームのピラミッドが乗っている。
完全予約制で、ひとつ五万円。ケーキと一緒に写った記念写真つきで、店内にも貼られた写真からは結婚式や成人式で食べる人が多いことがわかる。
これをひとりで平らげるのが人生の目標だと、彰人はさぎりから何度も聞かされている。
「五万じゃ当分無理だよね。お年玉貯金でもむずかしいよ。いつになったら実現するかなあ。やっぱり成人式まで待つしかないかな」
いやいやいやいやちょっと待て冷静に考えてみろ。ドラム缶大だぞ。大人ひとり入る大きさのケーキをひとりで食うのは無理があると思わないのか。
……と言いたいが、いつも無視されるので、黙っておいた。
「ハギなら死んでも墓から出てきて食いそうだな」
「ぜったい食うよ! 霊体でもアキトに憑依して食べればいいしね!」
「やめろ! そんときはこっちが食い過ぎで死ぬわ! やってみろ、鋼さん呼んで祓ってもらうからな。そして説教されて成仏しろ」
「えええ、死んでもお兄ちゃんに怒られるのはちょっと嫌」
ふたりの笑い声は夜の道に響き渡り、街頭の灯りが驚いたようにおおきく揺れた。
「いってえ!」
駅前通りを抜けて商店街に入ったとたん、左腕に静電気が走った。幼なじみの声にさすがのさぎりも足を止める。
あきひと。止まれ。動くな。
「止まれって」
「なんで。もうすぐなんだけど」
だめだ。止まれ、動くな。
「だめだって」
「しょうがないなあ。じゃ、お兄ちゃんにもっかい電話してみる」
すこし離れて携帯電話をいじる背中を見ていると、ふたたび静電気が走ってカルネモソミが叫んだ。
あきひと! はやく抜け!
「カルちゃん痛い痛い痛いっ。待て、落ち着けよ。こんなところで出せるわけないだろ。そもそも抜くやり方もわかんない」
わたしにふれろ。なでるだけでいい。それでわたしはあきひとの手に現れる。はやくするんだ!
「はやくって、なんだよ一体。妖怪なんかいないのに」
レンカランクルだ。まだ遠いが、この先にいる。
「え、なんーー」
ーーわっ。
突然感じた気配に、彰人は髪の先まで総毛立った。
音別商店街はあいかわらず汚くて生ゴミくさい。飲み屋の赤ちょうちんが揺れ、風俗店の看板がいくつも並んでいる。いつもと変わらない夜の商店街だ。
だが、商店街の奥になにかいて、そいつが吐き出す冷たい息がここまで流れてきたーーと思った。
レンカランクルの気だ。
「レンカ、ラン、くる?」
話しただろう。クムの王、レンカランクル。
「まじかよ。ーーうっ」
また冷たい息が彰人を襲い、あまりの冷たさに息をつまらせた。まるで地吹雪みたいだ。吹き付けるだけで全身の体温を奪う冬の風そのもの。
「かなりやばいのがいるのはわかった。でも、この先に鋼さんの事務所がある。電話も通じないっていうし、もしかしたら、そいつはそこにいるかも」
あきひと。レンカランクルだろうと、あれはクムだ。
「わかってるって。今朝とおなじことをすればいいんだろ」
そうだ。クムの王もクムの地に戻さなければならない。
「つまり俺はぜったい行かなきゃいけないってことだな」
さぎりが戻ってきた。
「アキト、まだつながらないんだよ。これ、どう考えてもなにかあったよね。ーーどしたの。寒そうな顔して」
「寒い。ハギ、カルちゃんが止まれっていう理由がわかった。この先にやばいヤツがいる。さっきからすごく寒いのが向こうから流れてきてるんだよ。そいつの気だって、カルちゃんは言ってる」
「ホントにいるんだ」
「いる」
「わかった!」
さぎりはいきなり彰人の腕を取り、奥に向かって駆けだした。
「ハギッ!?」
「祓われる前に行かなきゃ!」
止まれ。だめだ。行くな。
カルネモソミがどれだけ騒ごうと、さぎりの足は止まらず、やっと止まったのは鋼さんの事務所が入っている雑居ビルの前。彰人がさぎりの手を乱暴にふりほどいたことで、やっと足を止めてくれた。
そこは特に寒かった。ビルそのものが巨大な冷凍庫のようで、入り口から冷えた吐息が吐き出されてくるようだった。
手を振りほどかれたさぎりは、驚きと反省が混ざった顔になっている。
「アキト」
「俺は行きたくないけど行くしかない。カルネモソミじゃないとダメだからだ。でもハギは行くな。ここにいろ。ーーって言っても行くんだよな」
「うん」
やっぱり。それがさぎりだもんな。
「待ってくれたら、菓心堂のシュークリームを三十個買ってやる。……って言ってもか」
「いいいいいいい行くっ。ここまで来たらじっとしてられない。大物妖怪だよ、ちょっとくらい見てみたいじゃない」
彰人は苦笑した。
それもそうだ。さぎりの言うとおり、ここまで来たら行くしかないのだろう。それに今朝、あの襲撃を突破できたカルネモソミもいるから、きっとなんとかなる。
ーーよし。
「わかった。でも俺が先に行く。ハギは後ろ。いいな」
不満顔を無視して、彰人はビルの入口をくぐった。
ぞくり。
化け物の口に踏み入ったかと思った。
しかしそんなことはなく、いつものきたない階段が続いているだけだ。六月ではありえない寒さだけど。
人がいないことを確認して、右手で左腕あざをさっとなでる。
すると手品のように、右手に銀の剣があらわれた。カルネモソミだ。
さぎりが息を呑むのがわかった。
「アキト。それ……あの剣?」
「そう。こいつがカルネモソミ」
ぎらりと刃に光が走った。
あきひと、娘は連れてこないほうがいい。クムは女を好む。それも相手が相手だ。近づくほどわたしたちでさえ無事では済まないだろう。娘を帰すんだ。
「だよなあ。俺もそう思う。やっぱりハギは痛い痛い痛い痛い痛えっての!」
背中を平手でバンバン叩かれるのはかなり痛い。もちろん犯人は興奮しきっているさぎりだ。
「ぎゃあああああ! 妖怪の声、はじめて聞いたんですけど!! かっこいい!! もっと喋って!!」
「あ、聞こえたのか」
「ぎらって光ったら喋るんだね!! いい声すぎ!! 惚れる!!」
そうか。刃が光ると、カルネモソミの声はほかの人にも聞こえるのか。
あきひと、この娘はなにか飲まされたのか。ようすがおかしいと思うが。
「あははははは!! おもしろーい!!」
「ハギ、頼むから落ち着け。痛いです。あと黙ってろ」
ごめんごめんと笑って、さぎりはやっと退いた。やれやれ。
「ええと。カルちゃん、こいつ、コレで普通なんです……」
柄にわずかな振動が走った。剣って動揺するんだな。
なにっ。本当なのか。信じられないぞ。これは明らかに……いや、いい。そうだな、時間や土地が違えば普通などたやすく変わるものだった。疑ってすまなかった。わたしには理解できないが、あきひとがそう言うのだから信じよう。
また背中を平手で打たれる。痛い。
「あはははは!! 妖怪でも信じるとか信じないとか言うんだ!! おかしーい!! カルちゃん、いい!! あだっ」
さぎりの頭をたたいて止めた。
「いい加減に落ちつけ」
「うう」
「いいか、ハギ。おまえはおもしろがってるけど、笑い事じゃないんだからな。さっきからかなりやばい気配を感じる。ハギは逃げたほうが」
「行く行く絶対行く!!」
「行きたいなら、俺とカルネモソミの言うことを聞け」
不服顔も、彰人に目で叱られると渋々おさまった。
「俺が先に行くから、二メートルくらい下がってついてくるんだ。いいな。言うこと聞かないと、一ヶ月おやつナシ」
「言うこと聞くであります!」
聞かないだろうな。それがさぎりだから。
キラキラ心霊相談所は緊迫した雰囲気に包まれていた。家財をよけた事務所中央にタコ壷が置かれ、それを囲むように封印陣が書かれており、社長と社員二人は陣を囲む形で立ったまま、三者三様で不発弾妖怪を警戒していた。
「じゃ、やるぞ」
寝癖そのままの髪と丸眼鏡、うす汚れた作業着、やぶれたジーンズにスニーカーという出で立ちの青年に、あとのふたりは目で返答した。
キラキラ心霊相談所の社長、鋼判。「判」は恩人からつけられた通り名である。
判は手の中にある小瓶の蓋を開けた。
「頭領、頼む!」
「ほいサア!」
ずるんと瓶口からふとくたくましい鬼の腕が二本が生え、狭そうに天井を支えた。
判が使うのは封印瓶である。瓶には複雑な封印陣が判の血液で書かれており、判がふれている限り封印している妖怪を解放し使うことができ、判の手から瓶が離れると妖怪は瓶に引き戻されるようになっている。
「頭領。あそこに壷があるだろ。あそこに根源が入ってる。壷から出てこないようがっちり抑えておいてくれ。一日保てばいい」
小瓶がしゃべった。
「ンアア、呼んだと思ったらそれだけかイ、判。ワシなら山の向こうまで投げることもできるゾイ。熊なんかワシの‘でこぴん’で吹っ飛ぶゾイ」
「ああ、うん。頭領は山鬼だからな。鬼の腕ならこいつを投げるなんてかんたんだろう。ただ、放り投げた先で根源が悪さをするから、ここできっちり封印しておきたい」
「封印すんのかイ」
「俺たちじゃ根源の封印は無理だな。厳龍のおっさんくらい力が無いと」
「どうすんだイ」
「おっさんに要請は出した。状況が状況だ、仕事で忙しくても、夜中までには来るだろ。おっさんが来るまで容れ物から逃げないようにきっちり抑えておけばいい。そこで」
「ワシが呼ばれたのかイ」
「そ。念には念だ、一番頼もしい頭領じゃないと無理だと思って。献上酒も旨かっただろ。頼む、手伝ってくれ」
基本的に妖怪は人間に使われることを嫌がる。鬼や龍といった大物ほど、それは顕著だ。しかし彼らは日本酒など貢ぎ物があれば協力を惜しまないものが多い。頭領もそういった妖怪の一匹だ。
「わかっタア」
言うなり鬼の腕がぐうんと伸びて、羽アリでもつぶすように壷を叩きつぶした。
そこにいた誰もが、壷が割れたかと思った。
しかしタコ壷は手の脇に無傷で転がっていた。
ふたたび手は壷をつぶそうとしたが、また転がった。
「どうした、頭領」
「つるつるするゾイ。豆みたいにつるつる逃げるゾイ」
「つるつる……バリアか。角、解除できるか」
「バリアで固まってるんだから解除しないで放っておけばいいよ、鋼。シャコ貝みたいなもんだよ」
角と呼ばれた少年は、壷から目を反らさないまま答えた。正式な陰陽師の衣装を身にまとう彼は中学生がコスプレでもしているようだ。悪びれもなく社長を呼び捨てする態度まで、まるで反抗期のようにも見える。呼び捨てを気にする判ではないが。
「いや、やばい。なにかの弾みで逃げられる可能性がある」
「そうかもね、いいよ。バリア解除してみるよ」
「頼む」
はじめて角と会った人は、子どもに用はないと断る。憤慨し、門前払いもする。しかし、彼の凛とした横顔に似合う毅然とした態度と、封印札を散らしてすばやく印を組む無駄のない手さばきを見て、やっとプロの陰陽師と認めるのだ。はじめから角を認めた人間は、判と、もうひとりの社員だけ。
数枚の札が壷に貼り付いたが、どれも一瞬で黒に変色して落ちる。
「うーん。これも無理か。鋼、バリアを解くのは無理かもよ」
「判。まるごと判の瓶に入れるのは、どうかな」
「へ」
背の高いモデル顔の青年が判に笑顔を向けた。男女問わず魅了してやまない人なつこいほほえみだが、見慣れている側はそれが良からぬことを企んでいる顔だと知っている。
名は彩。薄い色のシャツとカーディガン、細い腰にぴったりとしたジーンズが似合う。いつも物事に興味を示さず椅子から立つどころか顔も上げない彼だが、今回ばかりは陣のそばに立っていた。さらにその細い肩には、漆黒の虎とも熊ともつかない巨大な妖怪が乗っており、壷に向かって血のように赤い眼を光らせている。
グルロロロロ。
「黒曜もそれがいいって」
「無理。駄目。却下。いくら‘鋼の血’が封印に適してても、相手のレベルに見合った量が必要だって知ってるだろ。頭領の時は貧血を起こしたんだぞ。根源なんかそれこそ俺の身体丸ごとでも使わないと無理」
「身体丸ごと使えば、判」
「おいっ!」
「僕も彩さんに賛成! 絶対うまくいく!」
「角までそう言うか」
「鋼の描く封印陣って、専門家からみたらすごく適当なのに、頭領のような主ぬしレベルの妖怪も完ぺきに封印できるんだよ。これってすごい事だって鋼は自覚したほうがいいよ。天才陰陽師の僕でもなかなかできないよ。鋼はそれができるんだから、それを利用しない手はないよ」
「おまえら、なに言ってるかわかってて言ってるだろ。つまりこいつを俺の身体に移しちまえって言ってんだろ。そして俺ごとどこかに閉じ込めておくんだろ。やるわけないだろ! だいたい根源なんか身体に入れたら即死するわ! いいか、やらないからな!!」
小瓶をぶんぶん振り回すので、揺らされた頭領は「およおよおよ」と笑った。
いい案だと思ったんだけどという彩の横で、黒曜が目で笑った。
「じゃあ頭領に預かってもらうとか……どう」
「角の頼みでも、ワシ、同居は嫌ゾイ。まさか判まで、ワシに根源と同居しろと、そんな鬼のようなことを言うんじゃなかろうな」
鬼も鬼みたいなことって言うんだ、と誰もが思った。
「だいじょうぶだ、頭領。俺はおひとりさまひと瓶だから安心しろ。かえって、頭領がそんなに気に入ってるとわかってうれしいよ」
「ここはええゾイ。山も良かったが、ここも静かでええゾイ。なにより邪魔者が入らないからの、落ちつくゾイ。まあ、もうちっと酒があれば、もっとええがの」
ごとん。
壷が動いた音に、三人は息を呑んだ。
パキン。
孵化するように、壷の表面にわずかなヒビが走った。
「頭領、あれを止めろ!!」
「白霞!!」
「黒曜」
頭領の巨大な手と、煙のような妖怪・白霞が壷に覆いかぶさり、その上を黒い獣が襲いかかった。
しかし、根源は早かった。
ほんのわずかな亀裂から発した一条の黒い光。それは頭領の指の間と白霞を突き破り、黒曜の脇をすりぬけて、四方の壁や天井に当たったかと思いきや、一斉に扉に向かう。
止められない。
逃げられる。
おしまいだ。
全員がそう思った時。
「ーーうわああああ!!」
事務所の扉が外から突き破られ、まぶしいほどの白銀の光が室内に射し込んだ。黒い光は怯えた壷に戻ろうとしたが、白銀の輝きに床に縫い付けられて動かなくなる。
美しくも頼もしい白銀の剣が、ぎらりと光った。
レンカランクル、クムの地に戻れ。ここはおまえの地ではない。
「と、止まった」
彰人は柄に身を保たせた。息も上がり膝は笑い、すねも痛い。
階段の途中から突然、カルネモソミに引っ張られたのだ。そのため無茶な全力疾走をさせられた挙げ句、事務所の扉を斬って侵入し、わけもわからず床に切っ先を突き立てている。
いや、剣は黒い影のようなものを見事に突き刺し、影はびくびくもがいていた。
「ア……ッキー?」
鋼さんの声を聞いてはじめて彰人は状況把握した。
事務所の中いっぱいに書かれた封印陣と、陣中央では巨大な両手と白い綿と黒い塊が重なっていて、レンカランクルはその下から伸びている。そして彰人を呆然と見る目線が三つ。
自分がなにか術を施している最中に飛び込んだのは明らかだ。
「あ……これは、えっと」
「おーい、生きてるかー、返事しろー」
さぎりの声に、全員が飛び上がった。
同時に剣がガクガクと震えだし、彰人はぎょっとした。影がアメーバのようにゆっくりと、だが確実に出口に向かおうと伸びていた。
鋼さんが叫ぶ。
「さぎり、来るな!! いいか、そこにいろよ!!」
「えー」
「アッキーはそのまま固定!! こっちはアレを止めるぞ!!」
鋼さんの合図に、封印札や聖水が影にかかった。しかし札は黒く焦げ落ち、聖水はただ床を濡らすだけだった。巨大な豪腕が叩いても、白い煙が覆っても、黒い獣が飛びかかっても、動きは止まらない。
じれったい。カルネモソミなら止めることができるのに。あの先端を突き刺せばきっと。
あきひと、抜くな。彼の判断は正しい。わたしを抜いたとたん逃げられる。
「わかってる!! だけど、でも!!」
あと一メートルもない。
彰人は声を限りに叫んだ。
「ハギ、絶対来るなよ!!」
「来たけどね?」
さぎりがひょこりと顔を出した。
そのときだった。
レンカランクルはさぎりの足を捕らえ、すばやく全身を取り込んだのだ。
さぎりはきょとんとした顔も一瞬で覆い尽くされ、さぎりの服を着た黒いマネキンのようになった。
憑いたな。
カルネモソミが、ぼそりと言った。
「ちくしょ……っ、臨戦態勢!!」
鋼さんの声に社員のふたりが構えたが、マネキンはわずかにきしんだ動きを見せて、その場に崩れ落ちた。
黒いマネキンは、それきり動かなくなった。
彰人は目を反らし、深く深くためいきをついた。突き刺したはずのレンカランクルはそこにはなく、薄汚れた事務所の床があるだけだった。