1. 初夏の日常(1/2) 「あれ? 寝不足か?」
からかいと気遣いを半分ずつ含んだ声が、頭上から降ってくる。真糸零夜は机に突っ伏していた上体を起こし、寝不足で腫れぼったい視線を上げた。
視線の先には、零夜の幼馴染みである瑠璃沢理仁が立っている。理仁の整った顔を見た瞬間、零夜の脳裏に昨晩の悪夢が蘇る。背中を這い上がってきた悪寒を、いつも通りのはにかみと「おはよ」という一言の日常で振り払う。
「マジで寝不足か。また親父さん?」
零夜の前の席に鞄を置きながら、理仁は気遣うように言う。「いや、ゲーム」と嘘をつくと、理仁は「ゲームかよ」と苦笑った。
一年前に離婚をしてからというものの零夜の父親はたびたび酔っ払い、仕事や生活の愚痴をぶちまけるためだけに、深夜に零夜を叩き起こすことがままあった。昨晩は父親に叩き起こされたことに違いはないが、それは零夜が脂汗を流しながら絶叫していたためだった。父親に揺り起こされ、悪夢が悪夢であることを知った零夜は子供のように泣きじゃくり、さしもの父親もしばらく零夜の背中を撫でさすっていた。
トイレでしこたま嘔吐したあとで、すがる思いで洗面台の鏡を凝視した。当然ながらそこに立っていたのは理仁ではなく、間違いなく自分の姿だった。生まれついて、右目全体を覆うように濃く青い痣がある。特徴的ではあるが特徴のない平凡な顔が、恐ろしく疲弊した表情をしてそこにいた。
週末までの課題の話をする理仁の横顔を、零夜は憂鬱な気持ちで盗み見る。親友が溶け死ぬ夢を見たという、罪悪感のような後ろめたさのようなどろりとした気分が、零夜の心を一層重たく沈めていく。
一体、どうしてあんな夢を。どんなに考えても分かることではなかったが、考えずにはいられなかった。
「でさ、さっさと課題終わらせて、カズちゃんとこお見舞い行こうと思うんだけど」
ぼやけた思考に妹の名前が入り込み、零夜はようやく会話に意識を集中させる。
「ああ、喜ぶと思う。でもお前が来るときは事前に知らせろって言われてるから、サプライズはナシな」
「なんで?」
「オシャレするんだってさ」
恋人の可愛らしい気遣いに、理仁は照れたように笑う。
零夜のふたつ下の妹は、半年ほど前から理仁と恋仲になっていた。妹と親友が付き合うというのはどうにも気恥ずかしく、居心地の悪さがないといえば嘘になる。しかし幼馴染として、よく三人で遊んでいた頃とそう変わらないと認識してしまえば、違和感はすぐに消え失せた。
今では、理仁からは「俺のカッコ悪いとことかチクるなよな」と釘を刺され、妹からは「私のだらけてるとことか絶対言わないでよね」と念を押されるという、微笑ましい板挟みにあう毎日だ。
零夜の妹――美和は中学に上がった頃から体調を崩しがちで、たびたび入退院を繰り返していた。
高く間延びしたチャイムが鳴り、教室の混沌としたざわめきが収束していく。理仁も「じゃあ後でな」と零夜に一声かけ、自身の机に向かう。その背中をぼんやりと眺めながら、零夜は改めて昨晩の夢を思い返す。
狂気にも似た使命感に駆り立てられ、他者から憎悪の視線を向けられていたあの男は、やはり理仁ではない。零夜はそう確信する。目の前で人間が苦しみ泣き叫んでも、心を痛めこそすれ、眉ひとつ動かさなかった男。氷の彫像のように凛と佇んでいた残酷な男。あれが、目の前の理仁と同一人物であるはずがない。そう思い込んでしまえば、あれは所詮夢に過ぎないのだと安心できた。
普段は退屈で仕方のない無意味なホームルームさえもが、悪夢の余韻を希釈してくれるようで、零夜の気分を落ち着かせた。日は温かく、風は穏やかで、空は抜けるように青い。ただの「日常」こそ、今の零夜が何よりも必要としているものだった。
頬をくすぐる夏風にあてられて、理仁が小さくくしゃみをする。それを見て先ほどの会話を思い出し、零夜は机の下でスマートフォンの会話アプリを開く。
『今日そっちいく。リヒトも一緒』
短いメッセージを妹へ送ると、程なくして返信があったことを示すアイコンが画面に浮かんだ。やったー!と喜ぶウサギのスタンプが、可愛らしいハートを飛ばしながら踊っている。
零夜は少し顔を綻ばせてから、怪しい行動が教師にバレないうちにと、素早くスマートフォンを鞄にしまった。