1. 初夏の日常(2/2) 街の中心からバスで三十分ほど揺られると、その建物は姿を現わす。関東地方のなだらかな山々に背を守られるようにして、アスクレピオス医療センターは白くどっしりと構えていた。
医療の神の名を冠するこの機関が、最先端の臨床技術が集束する場として一躍有名になったのは二十年前のことだ。
零夜の父親はアスクレピオス財団に所属する製薬系の研究者であり、理仁の父親は医療センターで医師をしている。零夜と理仁、そして美和が幼馴染として縁を結ぶことになったのも、双方の父親が医療センターの設立に伴い、この地へ居を移したことに端を発しているといえる。そういった意味で、ここは二人のルーツとなる場所でもあった。
(変わらないな、ここは……)
幼い頃から、父親の仕事が終わるのを待ちながら、建物の前の広場で遊んだものだった。右目にある濃い痣のために不気味がられ、周囲に馴染めなかった零夜は、一人で暇を潰すことには慣れていたし孤独に抵抗もなかった。しかし理仁という友人を得ることで、一人でいるよりもずっと優しく満たされた時間を、この地で得た。妹の病を想起させもするが、幼年期特有の充足感の片鱗も残す。アスクレピオス医療センターは、零夜にとってあらゆる意味で原点となる場だった。
年数を経て、汚れの目立ち始めた白い壁が零夜を迎える。蛇を模した飾りの巻き付いたアーチをくぐると、すぐに正面玄関に着く。アスクレピオス医療センターは、医療機関にしては珍しく、かなり凝った建築をしていた。病院というより宮殿を彷彿とさせる欧風の建築様式で、建物の写真を撮るためだけにここを訪れる者も多いという。
正面玄関の自動ドアをくぐると、適切に管理された清潔な風が二人の頬を撫でた。総合案内所で面会受付を済ませ、通いなれた病室へと向かう。三階へ上がり、エレベーターホールから左にまっすぐ。突きあたりの個室が、零夜の妹――美和の部屋だ。「飯枝」と名札のついた扉をノックすると、「どうぞ」と声がする。
白い病室は、細く差し込んだ西日に明るく暖められていた。サイドテーブルに置かれた小さな木箱から、オルゴールの澄んだ音色が溢れ出している。
「お兄ちゃん、理仁くん! いらっしゃい!」
窓の逆光が浮かび立たせたシルエットの中で、美和はくしゃりと破顔した。
「外、暑かった?」美和の問いかけに「まだそうでもないよ」と理仁が応える。
「カズちゃんは身体の調子、どう?」
「調子いいよ。そうだ、見て見て! これもようやく作り終わったんだ!」
美和はサイドテーブルの引き出しから、折り紙で作った小箱を取り出す。美和が手にとってみせたのは、色とりどりの糸で編んだミサンガだった。
「こっちが私ので」ピンク色のミサンガ。「こっちが理仁くんの」青のミサンガ。「これがお兄ちゃんのね」赤のミサンガを差し出され、零夜は「俺はいいよ」と首を横に振る。
「なんで、せっかく作ったのに」
美和は丸い頬を膨らませる。もう高校生になろうというのに妙に幼い仕草は、兄と恋人の前で甘えているからだろうか。「俺が貰っちゃうと、俺と理仁がおそろいのミサンガ持ってるみたいになるだろ」と苦笑すると、美和はさらに口をとがらせる。
「良いじゃん、友達同士でおそろいってよくあるでしょ?」
「女の子はそうかも知れないけどさ……」
助けを求める視線を理仁に向ける。理仁はいたずらっぽくニヤリと笑う。恐らく普段から、美和のこういう甘え方に振り回されているのだろう。この状況を楽しんでいるようだ。
「まあまあカズちゃん、お兄ちゃんも思春期なんだって」
含み笑いのフォローに、零夜は「誰が思春期だ」と不機嫌につっこむ。美和はそれでも兄にミサンガを受け取って欲しいようでむくれていたが、「じゃあこっちも俺が貰っていい?」と赤いミサンガが理仁の腕につけられ、理仁の大きな手に撫でられるとすっかり大人しくなる。
オルゴールのか細い旋律が流れる中「しょうがないなあ」と笑う妹の輪郭が、白いカーテン越しの光を浴びて妙にぼやけて見えた。