【小説】メイの過去編
紅色夜叉
メイは唐安の田舎のホン族の農村で産まれた。五人兄弟、男三人女二人の長男であった。
メイの後に歳の近い兄弟が次々と産まれた為、母親は赤子が産まれたらまたすぐに身重になるといった調子で、大きな腹を抱えながら二人の赤子に両方の乳房で乳を飲ませている事もあった。母親は赤子達の世話で休む間も無かった為、兄弟の中で年嵩のメイが幼い頃から子守をしていた。
末の弟ドゥシャは産まれ付き肺が弱く、特に手が掛かった。ドゥシャはいつも咳込んでいて、息が続かない為に隣家まで走る事すらできず、時折血を吐く事もあり、病状は年々悪くなるばかりで、次第に血を吐く回数が増えていった。栄養のある米や卵が他所から手に入るとまずドゥシャに与えられ、他の兄弟は芋や葉物ばかり食べていた。しかし、そんなドゥシャを羨んだりしたらきっとひどく怒られるのだと、メイを含め兄弟達は皆察していた。ドゥシャ以外の子供はおおよそ五歳頃から家業の畑仕事を手伝って泥まみれになっていたものだが、ドゥシャはほとんど家から出ず、せいぜい他の子供が洗った野菜を切って竹ザルに並べて干すぐらいの事しかできなかった。メイは真冬でも外で鍬を振っていた。
子供達が大きくなって食い扶持が増える頃、丁度運悪く凶作が続き、全員を食べさせられなくなった。両親は、子供達のうち誰か一人を丁稚に出す相談を始めた。夜更け頃で、灯りを一つだけ点け、衝立一枚挟んだ反対側では子供達が眠っていた。
「シュウは人の言う事を何でも真に受けるからなあ……都での暮らしには向いてないだろう。きっとすぐ騙される。」
「そうね……うちで一番力仕事ができるのもシュウだし、シュウはここに居ないと……」
「娘達は早く嫁ぎ先を見付けなきゃ行き遅れになるし、体が弱いドゥシャには無理だろうなあ……」
両親は、結局のところメイを丁稚に出さざるを得ないと分かっていたが、メイを厄介に思っていた訳ではなく、断腸の思いであった為、互いの顔がはっきりと見えないほどの薄暗い灯りと魚油の燃える煤けた臭いの中で、いつまでもぐずぐずと煮え切らない話を続けていた。
「良いよ。俺が行くよ。俺は勘定が得意だし、商売ならきっと向いている。」
衝立の向こうで起きてこっそりと両親の話を聞いていたメイが口を挟み、煮え切らない話を自ら終わらせた。こうしてメイは城下町へと丁稚に出る事になった。十二歳の頃であった。
むろん、家族から爪弾きにされたような寂しさを感じなかった訳ではない。兄弟の中では年嵩とはいえ、まだ一人で生きていくには心細い年頃である。しかし、メイは長男らしく気丈に振る舞う事にはもう慣れていた。
出発の日、ドゥシャは無理をしてまで歩いて、忙しなく咳込みながら、村の外れまでメイに付いてきた。
「兄さん、正月には帰って来てね。絶対に帰って来てね。」
別れ際に手を振ったドゥシャの顔は痩せていて青白く、今にも消えてしまいそうで、メイはもう二度とドゥシャに会えなくなるような気がした。しかし一度背を向けたらもう二度と振り返らなかった。
都に辿り着いたメイは、城下町の呉服屋で働き始めた。メイは仕事の手際が良く、また幼いながら商才に秀でているのが見て取れた為、呉服屋の者達から将来を期待されていた。
すっかり仕事に明け暮れていたメイは、正月になっても結局故郷の村へは帰らず、時折家族に宛てた手紙のやりとりをするだけであった。メイが村を出てから二年後にはドゥシャが出家したという事を知って驚いた。あの病弱なドゥシャが仏門の修業に耐えられるのか、と心配したが、何やら珍しい手術を受けて体が治ったのだという事が手紙に記されていた。
メイは成長する程に顔立ちが凛々しくなり、張りのある体付きで背丈の伸びも良く、十五歳の頃には既に男前だと噂されるようになっていた。呉服屋の大旦那は、これは良い宣伝になると見て、メイに店の反物で仕立てた着物を着せ、その着物も季節に合わせて度々新調し、畏まった着方から粋な着崩し方まで教え、メイを快活な好青年の印象にした。メイはしばしば町の娘達を呼び止めて生意気に軽口を叩いたが、娘達の方もまんざらではなさそうであった。
十八歳の頃、メイは丁稚から手代へと格上げされた。手代は番頭の一つ下の位の職である。手代になると給金が支払われるようになり、メイは金を使う事を覚え始めた。最初のうちは酒を飲んだり少々贅沢をする程度の浪費であったが、やがて茶屋や妓楼で女遊びをするようになった。それからはまさに宵越しの金は持たぬといった風で、蓄えはまるで貯まらなかった。
メイは度々、呉服屋の通りの端にある漬物屋で漬物を買って帰り、自分一人では食べ切れないからと言って、他の手代達に分け与えていた。
漬物屋には、リィツという名の娘が居た。他の手代達はメイがリィツを目当てに漬け物屋に足繁く通っている事に気付いており、メイを揶揄った。
リィツはメイの二つ年下であった。澄んだ浅葱色の瞳とふくよかな唇が愛らしく、髪は栗色で少し癖があり、ほっそりとした華奢な体付きであった。そして、少々内気なところがあるものの、打ち解けるとふとした時に冗談を言ったりなどして、意外に愛嬌のある娘であった。町の男達は皆リィツに会うのを楽しみにしており、これはメイも例外ではなかった。同じ女でも、リィツは遊女達とはまるで違う、もっと高潔な生き物のように見えた。
メイは店の使いで漬物屋を訪れた時からリィツを大層気に入り、それからも度々、別に漬物が食べたい訳ではないのに、わざわざ口実を作って買いに来てはリィツと他愛もない話をした。他の娘に軽口を叩く時には慣れたものだが、リィツの前では妙に肩に力が入り、いつになく言葉に詰まる事もあった。大根漬けを買うのをきっかけに、メイの故郷の村で作っていた大根の話を持ち出して親しみを持たせようともした。メイが女に対してそれほどまでに夢中になるのはこれが初めての事であった。リィツの方もメイの恋心に気付いているようであった。
すっかり寒くなった年明けのある時、珍しくリィツの方からメイに話し掛けてきた。
「うちが梅の実を仕入れている梅園ね、二月の半ばになると白い梅の花が満開で、とても綺麗なの……メイさん、一緒に見に行って下さらない?」
リィツは少し俯いてはにかみながらそう言った。メイは二つ返事で約束し、有頂天になった。あれこれと気を引いた甲斐あってか、リィツの方もメイを好ましく思っているという事は見て明らかであった。メイがなかなか手を出してこない為、リィツの方から梅園を口実に助け舟を出したのであろう。
梅の花が満開になった頃、メイは約束通りリィツと梅園を訪れた。梅の実を収穫する為のその梅園は、富豪の好む庭園のように細やかな意匠を凝らしている訳ではなかったが、まるで梅の木が生い茂る山の斜面をそのまま切り取って持ってきたかのように健やかで、そこに咲く白い梅の花には清らかな美しさがあった。メイにはその清らかな美しさが、リィツの心そのものを映しているように見えた。
「私ねえ、子供の頃に、ものすごい熱を出した事があるの。」
「病気で?」
「いいえ。無意識に呪術を使おうとして、自分自身の肉体を消費しかけていたみたい。呪術って、よほど適性がある人以外は、何か取り返しのつかないものを消費してしまうのよ。その時は父が仙術師を呼んでくれて助かったけど……あれ以来、呪術は使えなくなったわ。」
「じゃあ、適性があれば、今頃呪術師になっていたかもしれないな。」
「そうかしら……私、気が弱いから、もし強力な呪術を使えても、戦いなんて向いていないと思うわ。」
「ははっ、君らしいな。君はそれで良いよ。」
メイはからからと笑い、横目でリィツの手を見た。彼女の手は、野菜を切ったり洗濯をしているのが似合う手だ。平穏な日常を生きる手だ。特別な術など使えなくて良い――
「メイさんはいつ故郷を出たの?」
「十二の頃。」
「……そう。寂しかったでしょう。」
「よくある話だろう。」
「関係ないわ。よくある話でも、寂しい時は寂しいでしょう。」
言われてみれば当たり前の事であった。よくある話でも、寂しい時は寂しい。そんな簡単な事に、どうして今まで気付かなかったのか。それは、メイが胸の奥の奥にずっと隠していた痛みであった。触れられるまで気付かない痛みであった。要塞のように何重にも壁を隔てたメイの本心に、リィツが、何の武器も持たない只の女が、いとも容易く入り込んだのである。
メイは突然、リィツの手を握って立ち止まった。手を握るのはこれが初めてであった。リィツはぱっと顔を赤くしてメイの顔を見上げた。梅園には二人の他に誰も居なかった。
「毎年、梅の花が開いたらここに来よう。二人で……来年には夫婦になって、いつかは俺達の子供も一緒に。そうしてくれないか。」
メイのその言葉には何の躊躇いもなかった。リィツはにっこりと微笑んで、まるでメイのその言葉をずっと待っていたかのように、素直に頷いた。二人は白い花々の下で優しく抱き合った。この頃メイは十九歳、リィツは十七歳であった。
リィツはそれからすぐに嫁入りの支度を始めた。噂はすぐに広まり、町中の人々が二人を祝福した。リィツはまだ生娘であった為、二人は祝言を挙げたその夜に初めての契りを交わそうと約束した。
メイは呉服屋にリィツを呼び、畳の埃を隅々まで丁寧に払い、反物をおぼろ雲のように広げた。リィツが祝言で着る白無垢を仕立てる為である。僅かに色合いや風合いの異なる幾つかの反物をリィツの肩に掛け、その中で最もリィツに似合う、僅かに黄味がかった白練色の絹に梅の刺繍があしらわれた反物を選んだ。
「この刺繍きれいね。まるであの梅園みたい。」
リィツはまだ仕立てていない反物を打掛のように羽織って微笑んだ。メイもリィツの言う通りだと思った。梅園で、毎年ここに来ようと約束した時のように、リィツは白い花々に囲まれて清らかな美しさに満ち溢れていた。
早速採寸を済ませ、仕立人に反物を預けると、メイはリィツを彼女の家まで送り届けた。季節は春の半ばで、夕方でも寒さを感じなかった。別れ際に振り返ったリィツの零れそうな笑顔を見て、メイは白無垢を着て紅を引いた彼女の姿を思い浮かべた。それはきっとこの世の全ての喜びをかき集めた花束のような姿に違いないと、メイは浮かれた足取りで家路に就いた。
白無垢が仕上がると、メイは早速リィツを呼びに行った。一度彼女に着せて、仕上がりや丈の具合を見る為である。しかし、家にも漬物屋にもリィツの姿は無かった。
店に居たリィツの父親に居所を尋ねたが、なぜか口籠ってはっきり話そうとしない。それでもメイがしつこく尋ねると、彼は悲痛な顔で事情を話し始めた。
リィツの父親には借金があった。彼の妻、すなわちリィツの母親が病床に伏した頃に、彼女の治療代と代わりに雇った働き手の給金を払う為に借りた金である。それはメイも既に知っていた事だが、問題はその借金の金額と利息であった。父親は毎月必ず決まった額の金を返していたが、返した金の半分以上は利息に消え、焼け石に水であったという。それほど大きな借金である事をメイは初めて知った。
そして、それまでの話を聞いたメイの最悪の予感は当たってしまった。リィツは借金を返す為、胴元の一家が仕切る妓楼に買われてしまったのである。父親はメイに対し、借金について全てを話していなかった事、またリィツを守れなかった事を涙を流して詫び、メイから受け取った結納金も必ず返すと言った。
メイは、返された結納金を受け取れば、すなわちリィツと夫婦になるのを諦める事になると考え、これを拒んだ。そして、どうか今のリィツの姿を見ないでくれ、という父親の願いも聞かず、花街へと駆けていった。
リィツが売られた妓楼はバラキ楼といって、事もあろうに、かつてメイが女遊びに明け暮れていた頃に通っていた店であった。あの頃は、妓楼は男の桃源郷だと思っていた。しかし、張見世の格子越しに遊女の姿をしたリィツと目が合った時、そこはもはや桃源郷ではなかった。地獄だ。ここは、その怖ろしさが我が身に降り掛かるまで見えない地獄だ。リィツは艶やかな打掛を羽織って紅を引き、皮肉にもメイが思い浮かべた花嫁姿のように美しかったが、その美しさはメイと結ばれる為に用意されたものではない。誰のものでもないのに、誰のものにでもなれる女。こんな哀しい女があるだろうか。リィツと遊女達が違う生き物だと思っていたのは間違いであった。何も変わらない。かつてメイが人形のように簡単に買った遊女達にも、遊女になる前は只の女としての人生があったのであろう。家族が居たのであろう。あるいは自分のように将来を誓い合った男が居たかもしれない。そんな簡単な事に、どうして今まで気付かなかったのか。恋を知らなかったからだ――メイは格子の前に呆然と立ち尽くした。
遊女を物色するでもなく物憂げな顔でリィツを真っ直ぐに見詰めるメイと、気まずそうに目を逸らして俯いたリィツを見て、他の遊女たちは、この男はリィツの間夫か、それとも嫌われているのにしつこく通う野暮な客か、とあれこれ想像を巡らせているようであった。メイは居ても立っても居られなくなり妓楼へ上がったが、二階へ通される時にも好奇の目が付いて回った。リィツはこの頃には部屋持ちの遊女であり、すなわち一つの部屋で二人きりになれる為、他の客と衝立一枚挟んで相部屋にはならずに済んだが、部屋持ちであるという事は、既にそれなりに稼いで遊女としての位が上がったという事でもある。リィツがそれほど稼ぐまでに何をしてきたのかなどと、考えたくもなかった。
「どうして……」
重苦しい沈黙を破り、リィツはたった一言そう尋ねた。
「君の父さんに聞いた……いや、もちろん彼は話そうとしなかったが、俺が無理矢理聞いたんだ。」
「そうじゃないの。どうして今の私に会いに来たのって意味よ。こんな姿、あなたにだけは見られたくなかったのに……」
「済まない。でも……どうしても会いたかったんだ。」
「会ってどうするの? 一晩遊んで帰るの?」
リィツは哀しさを誤魔化す為か、責めるような口ぶりになっていた。行燈の灯りに照らされたリィツの顔はぞっとするほど艶やかであったが、どこか危なげでもあり、メイはリィツのそんな顔を始めて見た。それでもメイの想いはあの梅園でリィツを抱き締めた時と変わらなかった。
「俺が君を身請けする。今日はそれを言いに来た。」
「正気なの? すごい金額よ。」
遊女は大抵、男に身請けすると言われたら嘘でも喜んで見せるものであるが、リィツは不安げに首をかしげるばかりであった。メイは引き下がらなかった。
「知っている。でも要するに俺がそれだけの金を用意すれば身請けできるという事だし、身請けしたら約束通り俺と君は夫婦になれる。そうしたら全て元通りだ。また最初からやり直せる。祝言を挙げるんだ。君の白無垢はもう仕立て上がっている。あの白無垢を来た君の姿を見たい。その為なら俺は何だってする覚悟だ。何だってする覚悟があればいくらでも稼げるさ。」
楽観であろうか、あるいは狂気であろうか。メイの裡にはどんな強風にあっても消えない炎のような夢が燃えていた。リィツはその夢をすぐに受け入れる事ができなかった。女には眩しすぎる夢であった。
「今日俺が言った事を覚えておいてくれ。俺は子供の頃から我慢ばかりしてきたが、君と夫婦になる夢だけは我慢しないと決めたんだ。」
メイはそう言うとすっと立ち上がり、静かに妓楼を去った。
リィツを身請けすると決めてから、メイは贅沢も女遊びもきっぱりと止めて金を貯めた。そして、呉服屋の誰よりも力を尽くして働いた。持ち前の商才もあってか、稼ぎは順調に増えた。
メイは度々妓楼へと足を運び、リィツに仕事の調子を知らせに行った。長く待たせればリィツが心変わりするかもしれない、と怖れた為である。メイは怖れを悟られないように気丈に振舞ったが、リィツは会う度に辛そうな顔をするばかりであった。そして、メイはリィツの辛そうな顔を見る度に、一日でも早く身請けして妓楼から連れ帰りたいと願った。間夫だと噂されても構わなかった。誰も信じないだろうが、まだメイとリィツは契りを交わしていなかった。祝言を挙げたその夜に初めての契りを交わそうというあの約束を、まだ律儀に守っているのである。それは二人だけが知っている密やかな誇りであった。
二十歳の頃、ついにメイは手代から番頭へ格上げされた。この格上げは異例の若さであった。これはメイの実力ではあるが、呉服屋の大旦那に血の繋がった跡取りが居らず、出来の良い後継人が必要であった為でもある。大旦那はいずれメイに店を任せる心積もりであった。すなわちメイは事実上の若旦那となった訳である。これでリィツも身請けの話が絵空事でないと、きっとそう信じてくれるのではないかと期待し、メイは急いでこの話を知らせに行った。厚手の羽織を着ていても震えるほど寒い冬の日であったが、走っていると次第に体が温まり、花街に着く頃にはまるで寒さを感じなかった。
張見世にリィツの姿は無かった。他の客に先を越されたか、あるいはこっそり厠にでも行ったかとメイは思ったが、遊女達に哀れむような目でじろじろと見られた事が気に掛かった。妓楼へ上がり、遣手に呼び止められたところでメイはその理由を知った。
遣手が言うには、リィツはもうこの妓楼には居ないという事である。それでは今はどこに居るのかとメイが尋ねると、なんと、他の男に身請けされたと言う。信じ難かった。リィツがそんな事を承知する訳が無いとメイは訴えたが、話を聞くと、どうやら相手の男はこの妓楼を仕切るウロマチ一家の親分らしい。たとえリィツが承知しなかったとして、親分の申し出とあっては逆らえる訳がないのである。
帰り道は凍えそうな寒さであった。はらはらと淡雪が降り始めたが、メイは傘も差さずに歩いた。頬や手に雪が当たり悴んだが、そんな事は構わなかった。青ざめた肌で力無く歩く姿はまるで亡霊であった。自分は既に死んで、本当に亡霊になってしまったのではないかとさえ思った。
メイは過去の浪費の日々を呪った。あの頃から真面目に金を貯めていれば、その分の金があれば、誰よりも早くリィツを身請けできたのではないか。あるいは、リィツが売られる前に借金を返してやれたのではないか。どうしてそうしなかったのか。リィツはこんな自分を愛してくれていただろうか――そう信じたかった。しかし、信じる証拠は無かった。リィツはメイを頼りない男と見なし、金持ちのウロマチに心まで奪われてしまったのではないか、という耐え難い疑惑を消し去る事ができなかった。どんな綺麗事を並べようとも、女は金に弱い。それは女遊びの経験に富んだメイだからこそ、嫌というほど知っている事であった。
それからも、メイは朝から晩まで働いた。働く以外にする事が無かった。元はと言えば、リィツは金で奪われたようなものである。金で奪われたなら、金で取り戻せば良いのではないか。ウロマチよりも金持ちになればリィツは帰ってくるのではないか。そんな狂った希望だけがメイを生かしていた。
そうやって働いているうちに、とうとう年老いた大旦那に代わってメイが大旦那になっていた。儲ける為ならどんな手でも、時には少々狡い手を使ってまで店を繁盛させた結果である。もはや城下町で一番の呉服屋と呼ばれるようになった店の格に相応しい立派な看板を新調し、メイ自身も毎日上等な服を着て、何かにつけて派手な宴会を催し、時には宣伝の為に音楽隊を呼んだりと、とにかく羽振り良く暮らした。また、本業の呉服屋のみならず、両替商も始めて更なる財を成した。
いかにも田舎者らしい成金だと噂されても構わなかった。悪い噂だろうが何だろうが、とにかく目立って人々の話題の中心に居れば、いずれリィツがメイの想いに気付くのではないかと思っていた。
年が明けて梅の花が開いた頃、かつてリィツと交わした約束の通り、メイはまたあの梅園を訪れた。昼になると番頭に仕事を任せ、梅園でリィツの姿を探し、夕方になると帰る。それを何日も繰り返した。あの日リィツと梅園に訪れたのは昼と夕方のちょうど間頃であった。だからリィツも同じ頃にここに来るかもしれない、という考えであった。しかし、いつ来るのか分からない、あるいは来ないかもしれない相手を待つというのは、すなわち気が遠くなるような忍耐をし続けるという事であった。
メイは俯いて、上等の袴に似合わず力無く立っている脚を見下ろした。この脚が木の根になって、ずぶずぶと土に植わって、いっそ自分自身が物言わぬ木になってしまえば今よりは幾分か楽だろう、とさえ思った。背中が、腕が、ばりばりと乾いた音を立てながら幹に代わり、枝が伸び蕾を付け、花が咲き、かざした掌の白い花弁の間にリィツの姿が見える――暫くするとその幻は消えた。脚も、背中も、腕も、元通り只の肉体であった。しかし、一つだけ幻でないものがあった。この梅園に、メイの目の前に、確かに本物のリィツが居たのである。
「リィツ……」
それ以上の言葉が出なかった。リィツは一目で高価だと分かる二重織の服を着て、すっきりと髪を結い上げ、その顔には僅かに疲れが表れていた。メイと出会った頃の無邪気なリィツでも、妓楼に居た頃の危なげなリィツでもなく、彼女は今、人の妻なのである。この頃メイは二十二歳、リィツは二十歳であった。
「もしかしたらここに来れば会えるかもしれない、でもそんなのきっと夢のまた夢だと思っていたのに……本当に会えるなんて。」
「それは俺が言いたい事だ。君はもう俺を忘れているんじゃないかと思っていた。」
「忘れる訳ないじゃない。昔も今も、他の誰が居たって、私が愛するのはあなた一人だったのよ。私、どうしてもそれを伝えたくて、今日ここまで来たのよ。」
「それはどうかな……金に目が眩んでヤクザの女になったが、俺が金持ちになったって噂を聞いたら今更惜しくなったんじゃないか?」
メイは自分でも驚くほど意地の悪い口ぶりになっていた。リィツが去ってからというもの、彼女を愛するのと同じだけ、彼女を憎んでいたのかもしれない。熱いような冷たいような妙な感覚が体中を駆け巡り、心に仕舞い込んでいたその愛憎が突然溢れ出るのを感じた。リィツが何か言い掛けたが、メイは平静を装い、すぐに言葉を続けた。
「……いや、もしそうだとしても良いんだ。過去の事だからな。君がまた俺の元へ帰ってきてくれるなら、俺はもう二度と君の想いを疑わない。全て元通りにしよう。また最初からやり直そう。どうだ、帰ってきてくれるか?」
「できるなら帰りたいわ……でも、無理よ。あなたはウロマチの怖ろしさを知らないのよ。銃という武器を知っている? 彼は外国からそれを仕入れて持っているの。それだけじゃないわ。彼は麻薬の取引で力を付けてこの街を裏から支配しているの。私が今着ているこの綺麗な服だって、麻薬で稼いだお金で買い与えられたものだと思うと、いたたまれないわ。どこかの誰かを不幸にして手に入れる贅沢なんて……」
銃と麻薬。それはメイも寝耳に水であった。銃は火薬の力で遠くから人や獣を攻撃する新しい武器で、その威力は火矢を凌ぐという話を聞いた事がある。妖呪仙術に長けた武人が多い唐安においてはまだ普及していないが、そういった神通の力を持たない者にとっては強力な武器なのであろう。そして、この国の侠客といえばまず酒場、賭場、妓楼を主として、あとはせいぜい的屋等の細々とした商売が財源だと思っていたが、麻薬に手を染めているとあっては、ウロマチは途方もなく危険な男である。これにはメイも面食らった。
「麻薬の力に勝てる人は居ないわ。買う人だけじゃなくて売る人もよ。ほんの少し売るだけですごい金額を稼げるし、仲間内でも幅を利かせられるようになるから、一度売り始めると止められなくなるの。まるでこの商売が麻薬そのもの……関わった人達は皆ウロマチの言いなりになったわ。私が居た妓楼も、ウロマチとぐるで私の身請けを仕組んでいたのよ。だって、父は毎月決まった額の借金を返していたのに、よりによって祝言の寸前に私が買われるなんて、不自然だと思わない? 私は最初から、ウロマチに身請けされる為に買われていたのよ。あなたが幾らお金を用意したって身請けできる訳がなかったのよ。」
認めたくはないが、リィツの言う事は全て辻褄が合っていた、怖れ、悔しさ、怒り……メイの裡にあらゆる感情が渦巻いた。しかしメイは呼吸を整え、かつてこの梅園でそうしたようにリィツの手を握った。食べるものに困っている訳ではないだろうに、リィツの手はあの頃よりも痩せている気がした。
「ひどいな……でも、そんなひどい男なら猶更、君は一緒に居ちゃいけない。俺と一緒に逃げよう。」
「逃げる……?」
「この街がそいつに支配されているなら、この街から遠く離れたところへ行けば良い。呉服屋は他の奴に任せて、俺は君を連れてどこへでも行ってやるさ。呉服屋をあそこまで大きくした俺だ。商才には自信がある。きっと新しい街で商売を初めてもまた成功するさ。」
「正気なの?」
「正気じゃないぐらい愛しているからできるんだ。」
「メイさん……」
リィツの目に涙が溢れた。メイはリィツを抱き締め、リィツもメイを抱き返した。
「付いてきてくれるだろう?」
「ええ。私……」
その時であった。聞き慣れない、パン、という高い破裂音と共に、メイの体に衝撃が走った。リィツがメイの腕の中で血を吐いて倒れた。メイはリィツの名を叫んで揺さぶったが、彼女はメイの目を見詰めながら口を開いたり閉じたりして何かを言おうとするばかりで、その言葉は声にならず、やがて彼女は目を閉じてぐったりと倒れた。
メイが咄嗟に当たりを見渡すと、少し離れた場所に男が立っていた。男は手に何かを持っていた。メイは直感で理解した。生まれて初めて見るそれが、銃というものなのであろう。
「ウロマチ……?!」
メイはその銃を持っている男がウロマチだと察した。もしそうであれば、ウロマチは外国から銃を仕入れて持っている、というリィツの話と一致する。それに、この場でリィツを殺すほど二人に嫉妬する男はウロマチしか居ないであろう。長身痩躯で癖毛で、皮肉めいた三白眼で、顔の所々に皺のあるその男は、リィツと親子ほど歳が離れているのではないかと見えるような中年であったが、大きな一家を束ねる親分にしては少々若く見えた。
「なあ、俺がなんで先にリィツを撃って、てめえをまだ撃っていないか分かるか?」
その男は開口一番に妙な質問を始めた。侠客らしい、想像通りの掠れた声であった。ウロマチと呼ばれて否定しないところを見ると、やはりこの男こそがウロマチである。メイが質問の意味を理解しかねて戸惑っていると、梅園にウロマチの子分と思わしき男達が雪崩れ込んできた。
「撃つ前に、女房に手を出された恨みを晴らさねえと気が済まねえからに決まってんだろうが。」
ウロマチが手で合図をすると、子分達は一斉にメイに飛び掛かり、メイがまだ抱き締めていたリィツの体を力づくで奪い、殴るわ蹴るわ、袋叩きの私刑を始めた。夕立のような絶え間ない痛みがメイの体に降り注いだ。しかし、メイはその痛みを理不尽であるとは思えなかった。どれほどの想いがあったとして、メイが人の妻を連れ去ろうとしたのは紛れもない罪である。
頬に何か平らなものが強く当たり、暫くしてメイはそれが地面である事に気付いた。休む間もなく、メイは髪を掴まれ顔を引っ張り上げられた。掴んでいるのはウロマチであった。
「俺は一人目の女房に逃げられてな……リィツは二人目だった。初めて漬物屋でリィツを見掛けた時は驚いた……そっくりだったんだよ。一人目の女房に。運命の巡り合わせだと思った……しかし、リィツには既に男が居た……それがてめえだった。俺はてめえがどんな男なのか気になって、こっそり呉服屋を覗いた……確かに、てめえは見ての通りの男前で、しかも将来有望だった……まあ、普通のおっさんなら、そんな男から女を奪うなんて無理だな。でも俺は違う。俺は奪ってやった。どんな手段だろうが、リィツはてめえじゃなく、俺の女房になったのは事実だ。だってのになあ……諦めが悪いんだ、てめえは。」
ウロマチは左手でメイの髪を掴みながら、右手に抜き身の匕首を持ち、それをメイの左の頬に当てた。
「男前が災いしたな、メイ……」
ウロマチは匕首をメイの左の頬から右の額へと一気に滑らせた。顔の肌がすっぱりと切れ、血が飛び散った。ウロマチは匕首を鞘に収めると、先程リィツを撃った銃に持ち替え、メイの頭に突き付けた。
その時。リィツの体を抱えていた男が悲鳴を上げた。見ると、リィツの体が煮え滾るように赤く光っていた。男は咄嗟にリィツの体を放り投げ、他の者達も後ずさった。リィツの体は光に溶け込み、やがて赤い一塊の光となって、蛇のようにうねりながら、近くにあった一本の梅の木に乗り移った。すると、白かった梅の花がみるみるうちに赤味を帯び、紅色に染まった花弁が風に乗って辺りに舞い散った。その花弁に触れた者は次々と火傷した。男たちは熱い熱いと言いながら、この得体の知れない現象を怖れ、梅園から逃げて行った。ただ一人、メイだけが花弁に襲われなかった。
「リィツ……君がやったんだな?! そこに居るのか?!」
リィツの体はどこにも見当たらなかった。メイは先程の梅の木に駆け寄った。幹や枝や花を触って確かめ、何度もリィツの名を呼んだ。返事は無かった。光は止み、先程まで激しく舞い散っていた花弁は静まり、何の変哲もない只の梅の木になっていた。しかし、あの光は幻ではなかった。白梅ばかりであったはずの梅園で、確かにその木の花だけが紅梅になっていたのである。その紅色の花弁は、まるで最初からそうであったかのような、ごく普通の梅の花弁の感触であった。
「体を……使い果たしたのか? 呪術と引き換えに……最期に、君にできる限りの力で、俺を助ける為に……」
男の声が聞こえた。彼は泣き叫んでいた。メイはそれほどまでに激しい哀しみの嗚咽を初めて聞いた。他の誰でもない。それは自分自身の声であった。
通りを歩くと、誰もが振り向いた。無理もない。メイの顔は血塗れで、傷口にはまだ乾いていない赤々とした肉が剥き出しになり、肉の間に鼻の骨までが覗いていた。呉服屋の大旦那がそれほどの傷を手当てもせず、それよりも先に済ませる用事があるとでもいうかのように、なりふり構わず歩いている姿は異様である。馴染みの客もメイに声を掛けず、驚いた顔で遠巻きに見ていた。
「待ちなさい。」
一人だけ、メイに後ろから声を掛ける者が居た。老人のしわがれた声であった。メイは振り向かずにその場で立ち止まった。
「君は……復讐しに行くつもりか?」
「……」
「今はやめておけ。返り討ちに遭って、君の方が死ぬだけだ。」
「それでも良い。もう他にする事が無いんだ。あんたには関係ないだろう。」
「相手がウロマチなら、私にも関係がある。」
そう言われてメイはやっと振り向き、この時初めて老人の顔を見た。頬の肉が垂れ下がった、小柄な老人であった。
彼はジュウゾウと名乗った。これは本名ではなく、ウロマチ一家と対立するジュウゾウ一家の親分という意味らしい。侠客といえば大抵は強面で、わざと威圧的な話し方や仕草をするものであるが、ジュウゾウは違っていた。彼は重そうな瞼を持ち上げたが、その奥にある瞳はどことなく、くたびれていた。しかし、それは老いの為ばかりではなく、深い海の底に落とした宝物を思わせる、諦めに似た哀しみの為であるように見えた。彼はくたびれていても、決して弱さを感じさせなかった。彼の言う事がどこまで本当かなど分からないが、メイは不思議と彼の言う事を信じる気になった。
「君と話したい事はいろいろあるが……まずはその傷の手当てをしよう。血の匂いは判断を鈍らせる。判断が鈍っては話にならんからな。」
メイは言われるがまま彼に付いていき、彼の屋敷で医者らしき男に手当てを受けた。その広い屋敷は色彩こそ地味ではあるものの、透かし彫りの梁が見事で、長年手入れをしながら使い続けたと見える調度品の数々が、この一家の歴史の深さを物語っていた。なぜか、屋敷の至るところに猫が居たが、人に慣れた様子を見ると、どうやら飼われているらしい。メイは薬草を煮出した湿布を傷口に貼ったまま、迷路のように何度も廊下を曲がった奥の部屋に通された。この部屋にも猫が居て、軽やかな足取りでジュウゾウの膝の上に乗った。ジュウゾウは意に介さず、猫を撫でながら話を始めた。
「実はな……梅園にウロマチ達が集まっていると聞いて、うちの者に探らせていた。ウロマチと君と彼女の関係はおおよそ知っている。まったく、君は不幸な男だ。」
「……それで、あんたは俺に何をさせたいんだ? 声を掛けたからには、何かウロマチ一家に関する目的があるんだろう?」
メイは相手が相当な大物であるとは察していたが、決して下手には出なかった。むしろ、侮れない相手であるからこそ、隙を見せる訳にはいかないと考えていた。
「話が早くて助かる。結論から言おう。私は、私を裏切らない子分が欲しい。うちの一家はヤクを扱わないのが鉄の掟だが、近頃はウロマチ一家がヤクで勢い付いているのを見て、どうやらうちの者達も徐々にヤクの取引に惹かれ始めているらしい。いずれ、ウロマチと内通して、私を裏切って、一家の掟を変えようとする者が現れるだろう……これは過去のウロマチ一家と同じ流れだ。今のウロマチの親分もそうやって成り上がった男だからな。今も昔も変わらん。しかし、裏切り者が現れた時にこちらから内通の情報を掴めば、その時こそ、ヤクに関わる者をウロマチもろとも一気に粛清する好機になる。私はその時を待っているのだ。ウロマチに復讐する好機が欲しい君にとっても、悪い話ではないはずだ。」
「分からないな……今日会ったばかりの俺に、なぜそこまで内情を話す? まあ、俺が断ったら生きて返すつもりはないんだろうがな。」
「……むろん、誰が裏切るかは予想できん。しかし、ウロマチに決して消えない恨みを持つ者、復讐という明確な目的がある者なら、他の者よりは幾分か信頼できる。それが君だ。通りで君の顔を見て、私はふと、君に賭けてみようと思った……確かに、私は君と今日初めて会ったが、昨日までの君と別人だという事は分かる。復讐の為だけに生き、他の全てを捨てた者の顔……まるで夜叉だ。」
「夜叉……」
メイはジュウゾウの手元に視線を落とした。ジュウゾウはまだ猫を撫でていた。大きな金色の瞳の、小さな三毛猫であった。この男は、こんなに可愛らしい猫を撫でながら、なんと平然と怖ろしい事を言うのであろうか。メイは唖然とした。しかし、この不釣り合いな仕草こそが、ジュウゾウという男をよく表しているような気がした。彼にとっては、夜叉と化した者でさえも、この屋敷の猫と同じように、見慣れた日常の一部なのであろう。
メイも一家の一員となれば、いずれは猫も夜叉も膝に乗せて撫でるような男になるのであろうか。想像ができなかった。しかし、もうそれ以外の道を選べないという事は分かっていた。
あれ以来、梅園には人が近寄らなくなった。白梅の中に一本だけある紅梅は呪われた木で、根元に埋められた死体の血を吸い上げて花が血の色になったらしい、という気味の悪い噂が流れた為である。
しかし、その噂を怖れずに梅園を訪れる者があった。彼は――メイはもう呉服屋の大旦那ではない。店は他の者に任せ、僅かばかりの荷物を持って出てきたところである。
きんと冷えて清々しく晴れた冬の空の下、メイは紅梅の根元の土を掘った。呪われた木とは、あながち間違いではないかもしれない。しかし、ここに埋まっているのは死体ではないと、彼だけは知っている。メイは荷物の中から丁寧に紐で結ばれた包みを一つ出し、掘った土の中に埋めた。包みの中身は、かつてリィツの為に仕立てた白無垢であった。
「ここに埋めておくよ。俺はまだこの世でする事があるから、すぐには行けないが……」
梅の木にしばしの別れを告げると、メイはリィツの父親に全てを話しに行く為、梅園を去ってまた歩き出した。
その後、メイはジュウゾウと盃を交わし、正式に一家の子分となった。当面の役目として、ジュウゾウ一家が仕切るミカエ楼の楼主を任される事となった。
皮肉にも、妓楼の地獄を知り尽くしたメイにとって、楼主は天職であった。遊女に男を手玉に取る手練手管を教え、化粧の仕方が野暮ったければ直させ、上客は一度掴んだら離させず、遊女が年増になる前に次々と身請け話を進めた。遊女を泣かせるようなあくどい間夫は容赦なく追い出した。田舎から売られてきたばかりの芋娘も、メイの手に掛かればひと月もしないうちに色気の溢れる良い女になる――そんな噂まで流れるほどであった。
顔に大きな傷のあるメイは、もはやかつてのような快活な好青年の印象ではなかった。ジュウゾウに前髪をきちんと上げろと言われ、それまで下ろしていた前髪を全て上げてからは、更に貫禄が増し、度々実際よりも年上に見られるようになった。
ある時、メイは明け方の酒場で大和から来た流しの刺青師と出会った。刺青師は頭の両側を剃り落とした斬新な髪型の、気さくな若い男で、前時代的な男の世界に生きるメイとは全く似ていないが、刺青の美に並々ならぬ拘りのある彼は、呉服屋の経験によって目が肥えたメイと美的感性において通じ合うものがあった為、二人は意気投合した。
刺青師はメイの張りのある体付きが大層気に入ったらしく、その肌に刺青を入れたらもっと伊達になるに違いない、と太鼓判を押した。彼に何枚か見せられた下絵はメイから見ても趣味が良いものであった為、彼に刺青を勧められて悪い気はしなかった。メイは背中から胸にかけて刺青を入れると決め、刺青師との約束を取り付けた。
約束の日、メイは予め話を通しておいた宿に上がり、硬い草を編んだ敷物の上にうつ伏せになり、刺青師の前に背中を晒した。
刺青師はメイの骨や筋肉を触って形を覚え、覚えた形に沿って、手際良く下絵を肌に写していった。よく喋る男であったが、気が散っている様子ではない。むしろ、彼は言葉によって自身と客の、互いの感性を引き出す為に喋っているらしかった。彼の場合は、そうした方が仕上がりが良くなるのであろう。
「……感情ってのは胸のあたりにあると思ってる奴は多いが、オレは感情の在り処は肌だと思うね。人の顔より肌を見てる時間の方が長いオレだからそう思うのかもしれねえが、確かに肌には感情が出る。その感情に色を付けてやるのがオレの仕事……要するに、刺青ってのは、剥き出しの心みたいなもんなのさ……赤は怒りの色。いつも肌に怒りが滲み出てるダンナには、ぴったりの色だね。」
「赤は怒りの色、か……」
メイの裡に、あの日の梅園の光景が鮮やかに蘇った。花弁を紅色に染め、ささやかな嵐を起こしたリィツは、最期に怒りを抱いていたのであろうか――それは、リィツに最も似合わない感情であると思えた。
下絵の写しが終わり、いよいよ針を刺して墨を入れるという時に、刺青師はメイに手拭いを噛ませた。歯を食いしばる為である。彼の針は、まるで美の為なら一切妥協しないと言わんばかりに、一度動き出したら止まらない勢いでずぶずぶと肌を刺し続け、確かに手拭いを噛まずに食いしばれば歯が欠けてしまいそうな程に痛かった。しかし、メイは喉の奥からこみ上げる悶えを噛み殺し、額にじっとりと汗を浮かばせながら、この痛みを愛おしく思った。
この痛みは君の痛みそのものだ。これからは、君の代わりに、俺が怒りを背負ってやる。だから君は平穏に眠れ。君の魂の平穏の為なら、俺は夜叉にでもなってみせる――
メイの肌に、荒れ狂う紅色の花弁が刻み込まれていった。
終