エバーグリーン一、いずれは朽ちる花の庭 バロールは鮮やかで瑞々しく香りを放つ花々に満ちた庭で、その花々に丁寧に水をやり植えられた常緑樹や薔薇の手入れをしている少女を見つめていた。最初、出会った直後よりその手つきは格段に良くなっている。園芸の技法などさほど理解していないどころか知りもしない素人目でも、こなれた調子で花を木々を薔薇を労わる手は滑らかに、無駄なく動く。それは、バロールが己が所属する学園ではない建物の中にある温室に通うようになってから、それなりの時が過ぎていることの証拠でもあった。監視役のところではなく、様々な縁によって別の学校に編入することになった少女は、バロールの前でせっせと使っていたシャベルにハサミのよう器具やホースを着々としまい始める。この少女は、一度これをすると決めたら他のことは目に入らなくなる性質のようで、かなり目立つ客人のことも、意識の外にやってしまっているのだろう。所属している部活で今日やるべき、全ての工程が終わって少女がバロールを見た時、ようやっと彼がまだ温室にいたことに気付いた、という顔をしたからバロールの予想は全く間違っていなかった。
「終わったのか?」
「ええ、今日の分は。すみません、毎回毎回挨拶が遅くなっちゃって」
邪魔にならないように一つにまとめた髪を揺らして分厚い手袋を外しながら、彼女は申し訳ないという表情を浮かべた。その表情にバロールが低い笑い声を漏らせば、少女は余計に縮こまった。
「気にするな。別に今日来るといったわけでもない」
「でも、」
「余が気にするなといっているんだ。それより顔が土まみれだ」
バロールが彼女の顔についた土を指先で拭うと、彼女は顔を赤くした。いつも突然やってくる顔見知り程度の存在であっても、他者の前でツナギや汗をぬぐうためのタオルも土だらけであるのは、流石に他者の目を気にしてしまう年頃になった子供の羞恥を誘うらしい。
「咲いている花が変わったように見えるな」
「あ、そうなんです。今、春の花は終わっちゃったんですけど夏に咲く花が盛りの時期で……ほかにも先生がペチュニアの品種色々用意してくれたので、昨年のことは分からないんですけど今年はこの温室、いつになく豪華で」
みれば天井付近から吊り下げられたハンギングバスケットにも、色や株姿の違う花が咲き乱れている。ここの温室を管理している部活は、彼女しかいないわけではないらしいが幽霊部員のほうが多く、ほぼ三年生の部長と彼女と顧問だけで管理していると言っていたはずだ。部外者の立ち入れる温室が美しいのは、土で汚れるのもいとわない献身のためだった。
「ほかの温室も見ていきますか? この温室はペチュニアと薔薇が中心でノウゼンカズラとか、アジサイとか、さっき言った夏に咲く花は少ないんです」
「……ああ、そうだな」
じゃあ、行きましょうかと朗らかに笑って少女は別の温室につながる扉に向かう。様々な体格の転光生でも入れるように配慮された扉は滑らかに開いて、麗しく鮮烈な色をした夏の花がバロールと少女を出迎える。バロールは小さな体を見つめながら、出会った時から感じるどうしようもない愛おしさを持て余していた。孫のたましいを、バロールを殺すと予言されたもののたましいを持つ少女は「さっきの温室にあった薔薇には夏は厳しい季節なんですけど、秋になったらちゃんと綺麗に咲くと思うんですよ。夏の花が散るのは寂しいですけど、手入れした花が綺麗に咲くと嬉しくなっちゃって、寂しいのは変わらないけれど、散るのもそう悪くないかなって、思うんです」といった。
温室には花々が満ちている。いずれ散ることが定められている儚いものが。バロールは少女の説明を聞きながら、どれだけ見つめても小さな彼女の背中に、慈しみを多分に含んだ溢れ出すばかりで歯止めがきかない愛情をのせた視線を当てた。
二、消えない香り バロールが彼女に会うためにあの温室に足しげく通うようになって、さらに数か月が経った。薔薇の季節になりつつある中、うっとおしく付きまとってた熱気も去り、気温もちょうどいいくらいにさがっている。バロールは温室の中ではなく、その入り口に立っていた。先日、どこか一緒に遊びに行きませんかと彼女に告げられてバロールがそれを受け入れたためだ。冬には少し遠いが、すでに来る気配をにじませる風の冷たさに、バロールは目を細める。
「すみません、待ちましたか?」
「いいや。今来たところだ、気にするな」
バロールは彼女の服装に目を当てた。見慣れた土に汚れたツナギではなく、どこからしくないと思ってしまう小ぎれいな余所行きを着ていた。同級生の、おしゃれに詳しい子に選んでもらったんですと彼女は言う。ここにきてからずっと花のお世話ばっかりで、こういうおしゃれな服に疎くてと、苦笑した彼女は植物館に行きたいんですといった。管理の難しい異世界の花がいっぱい咲いているらしくて。結局興味の矛先は一つであるらしいが、バロールはそれに微笑ましさを感じた。植物館は歩いていっても、そう遠くない。バロールが手をかざしてやると、彼女はその指先をつかんだ。歩く道中、バロールのしるティルナノグの花や木々の話をすれば少女は本当に真剣にその話を聞く。
「本当に、草花が好きだな」
「はい。それに、あなたがしてくれる話だから、だとも思います」
少女の体温が滲む指先の、不自然な惑う動きは彼女に伝わってしまっただろうか。バロールは冷静を強く押し出した声色で、少女に問いをかけた。
「どういう意味だ?」
「私たち――いえ、私が整えている温室に、足を運んでくれるのはあなたしかいないんです。私は部長ほど顔が広くないし、親しくしてくれている同級生も、まぁ、ただ花や木を見るだけなんてつまらないってひとが、多くて、」
植物館の入り口を目指す足は止めないまま、バロールは彼女の言葉に耳を傾ける。
「あなたが私が任されている温室に咲く花や植わった木々に興味があるか、はわからないけれど。私はずっと、自分以外の誰かの目に、あの温室をうつしてほしかったんです。あなたがなぜ温室を訪れてくれるかも、私には、もっとわからない。けれど、ええ、そうですね、私はあなたに勝手に恩義を感じているんです」
「恩義か」
「すこし……いえ、言葉はだいぶかっこうつけたんですけど。それに……あなたの存在が私の温室にあることが、ええ。とても、うれしいんです私は」
植物館の入り口をくぐりながら、少女の言葉をバロールは何度も思い返す。最新鋭の空調設備等で、美しく咲く見知った、あるいは初めて見た花々と木々を少女はその目で、じっと見つめている。バロールは握られた指先から感じる無垢な体温に目を伏せた。あなたの存在が私の温室にあることがうれしい、殺し文句を何のためらいも他の意味もなく発した少女の少し低い体温を感じながら、バロールは伏せた瞼を閉じて、たとえようのない愛しさに滲み始めた、もはや孫のたましいをもつ存在へ向けるものだけでない、隣り合う少女自身へ向き始めた感情に、バロールは少女に気づかれないよう、そっと自分を嘲笑う息をついた。
「あ、あの花」
「……どうした?」
「いえ、図鑑でもネットでも見たことのない花があって。説明文、見てもいいですか?」
一見するとその花は白い百合にも見える。けれど形が似ているだけで、咲き方は百合のそれではなく、エンゼルトランペットに似ていると少女はバロールに告げた。ひときわ成長した長く太い樹木からいくつも釣り下がる花の前につけらた紹介が書かれた鉄の板を少女は見つめている。
「これ、恋人のための木、だそうです。この木の前で恋人たちがキスをすると、その絆は永遠に途切れない。ええと、今は香りがしないけれど、思いが通じ合うとともいい香りを発して――」
「香り、か。試してみるか?」
「え?」
バロールは少女を片手で持ち上げると、直接視線が交わるほどの高さに少女を誘う。言葉を失っている彼女に、巨人の王は明確な誘惑を込めて、少女に「試してみるか」と声色の違う言葉をかける。誰もいない温室に密やかに欲望を満たす老練した誘いに、少女の顔はいかなる花も敵わないほど、赤く染まっていた。
「わたし、は」
「迷うがいい、余が許す」
やはりやめるかと安易に告げて、そうですねといわせる逃げ道は与えない。限りのない愛おしさとその裏に確かに存在する劣情が、ティルナノグの王の中で熾火のように火は見せずに、けれど確実に燃えている。少女は迷いに迷って、けれど無意識であろうと心のどこかで同じ感情が燻ぶっていた少女は、その身を差し出して、明け渡した。
くちづけは儚く、なんの楔にもならない。そして白い花のうち、二人に最も近い場所にあった花から、蜜が一滴だけ、滴り落ちる。甘く、けれど呵責なく脳を揺さぶる香りの中に、二人はしばらくとどまっていた。
三、エバーグリーン あの儚い口づけをかわしてほんの数週間後、すべての状況は一変した。他のギルドが少女を狙って動き出して、ウォーモンガーズも少女を確保するために動き始めたからだ。バロールも、兵を率いて代行者として動いている。
今頃、管理するもの失ったあのささやかな、けれど日々彼女が手を入れて美しく整えられていた、献身によって保たれていた温室は見る影もなく荒れていることだろう。きっと綺麗に咲くだろう、と少女が笑っていた秋の薔薇をバロールが、いや、他の誰ももはや見ることはない。
ほとんどが瓦礫と化した、もはや東京全土に伸びた戦場で、ふとバロールはあの植物館がまだ形を保っていることに気がついた。綺麗に、とはいいがたいが中の花にそう影響はないようにも見える。兵を全て置いて、バロールはひとり、植物館に足を踏み入れた。
恋人のための木は、建物の奥にあったはずだ。忘れがたい香りに導かれながら、バロールは奥へ奥へと進んでいく。恋人のための木は、あの蜜を落としたもの以外、白い花はすべて枯れ落ちていた。植物が死に絶える様がいやに悲しくうつるのは、明確な命の滅びとして目に映るからだ。解説の前に立っている少女は、今やただの敵対者となったバロールをただ真っすぐに見つめている。
「エバーグリーンって、知ってますか」
バロールは少女の問いに「いいや、」と答えた。
「常緑樹のことです、意味は、それだけではないですが」
すでに枯れ落ちる末路しかない木の前で、少女は初めて笑顔以外の感情を、泣きそうな顔を浮かべた。神器を握る手が恐怖だけではない感情のせいで、震えている。バロールが一歩近づくと、少女は一歩下がる。少女は木に背をつけるほど追い込まれると、意を決したようにその神器を構えた。けれど、少女はバロールに傷をつけること程度は叶うだろうが、勝利はつかめない。それは、花が咲けば枯れるのと同じ、必定であるからだ。バロールは邪眼を開く、すべてに死を与え死をまき散らす邪眼が少女を見た。
最期、彼女は笑った。どこまでも寂しい、諦念を含んだ笑顔。彼女のつぶやきにも囁きにも似た最期の言葉と一緒に背後の木も枯れ落ちて、最後まで残っていた、恋をした証明の白い花もひっそりとしぼんで崩れる木に飲まれて消えた。
四、常緑と不朽 新たなループが始まった時、バロールは自らの意志で監獄学園の奥にいた。もはやこの戦いに、バロールが戦う意味を見出すことはない。戦う意味は、自らの手でもって失った。無味乾燥とした監獄に、あの植物の織りなす色彩の洪水を見出すこともない。たまにいま目の前にいるテスカトリポカが訪れる以外、ここに誰かが来ることはない。気が向けば話をすることもあるし、気が向かなければ一方的すぎる情報提供に耳を傾ける。けれど、今日は少し違った。
「お前、エバーグリーンって知ってるか」
「ふむ、珍しいことだね。君の方から私に何かをたずねるとは!」
「うるせぇ、知らないならそれでいい」
「待ちたまえよ、知っているさ。常緑樹という意味がある、そのほかは――そうだね、不朽という意味もある」
「…………そうか」
テスカトリポカが去った後、バロールは残煙をけぶらせる。あの時枯れ落ちた恋は、殺した恋は最期に「わすれてくださいね」といっていた。朽ちることのない思い出となるしかない日々と、もはや永遠に失われたあの温室。彼女の庭園とさいごの笑顔を、思い返しながらバロールは骨が軋むほどに強く、拳を握った。