veil壱 目覚めひどく小さな視界に広がっていたのは青空と、豪奢を極めた故郷の宮殿、その奥にある離宮だった。シヴァは驚きのまま声を発そうとしたが、さえずりばかりが喉から滑り落ちる。何故、と思う余地はない。東京にいる必要のなくなったシヴァは、頼りなく震えることしかできない小鳥になっていた。
小鳥の内でも、巣立ちも済んでいない幼鳥であるらしいのはろくに動かない羽や足でわかる。このまま死ぬだろうか、と思った。けれどシヴァを東京に誘った悔恨は晴れ、今となっては未練は少ない。目を閉じて、冷たくなっていく体を感じ取る。命の終わりは、ごく近い。
「マカラ、布を用意してほしい。ああ、それだ。ついでにお湯も沸かしてきておくれ、ああ、ああ。大丈夫だとも、わたしは医療の神ではないが、元をたどればわたしがいのちをつくったのだからね」
労りに満ちた男神のやわらかい手のひらに宿る体温は、ただただ穏やかにシヴァの体を温める。シヴァは眩暈がしそうだった。殺めたはずものものが、カーマデーヴァではないヴァルナが、シヴァの目の前に存在した。
「大丈夫だとも、ちいさないのち。わたしはお前を殺めない。わたしは、お前を助けたい。よし、よし、羽毛はあれども寒いだろう。すぐに温めるから、しばらくは私の手のひらで我慢しておくれ」
シヴァの肉体の上に、ヴァルナは温度をより与えようと手をかぶせた。知らない温度は不愉快ではない、ヴァルナの温度は、ひたすらに優しかった。
「ああ、準備ができたのか。必要なものは離宮に運んでおくれ」
手当をされながら、シヴァはヴァルナを見つめた。すべてが穏やかな気品をもって形作られ配置された優美で秀麗な作りの面は、感じた印象の差異こそあれど、確かにシヴァが自らの手で滅ぼしてしまったものであった。
弐 ヴァルナの手当はマカラの介助もあり、的確にシヴァの傷を癒していた。おまえはきっと巣から落ちたのだろう、といつぞやヴァルナがつぶやいていた。お前の翼が早く治るといい、空を裂く翼の自由を知ってほしいとも、誰よりも不自由な存在は、眼に慈愛だけをにじませて告げた。
「ああ、雨だ。お前の傷に障るといけない、離宮に入ろう。マカラ、手伝っておくれ」
創造主は離宮にいることを好むようで、シヴァを拾い上げてからというもの、ほとんどの時間を宮殿と比べればかなり質素な離宮で過ごしていた。というより、ここが普段住んでいる場所なのだろう。質素ではあるが、家具の一つ、食器の一つにしても華美にはみえないが宮殿に置かれているものと、おそらく価値は大差ない。
ヴァルナの手のひらに包まれながら聞く雨音は、ひどく奇妙な心地になるとシヴァは思った。安心、がいちばん近い。最高神の手のひらを褥とし、雨音を音楽としながら、シヴァは己がひどく贅沢な立場にいるということにようよう思い至った。
「起きたのか……こら、暴れない。こら、こら。暴れてはいけないと言っているだろう。せっかく治ってきた傷に障る。わたしの手のひらが気に食わなくなったのかい?」
さみしげな声にシヴァの中の羞恥が加速する。滑らかな皮膚の上で羞恥に突き動かされるまま暴れまわったが、ヴァルナがシヴァを離す様子はなく、結局シヴァのほうが根負けして、手のひらに身を投げ出す。
「ふふ、はは……いやすまない。今まで小鳥を助けたことは何度かあるが、お前のようなそぶりをした子は今までいなくてね。ああ、すまない、失言だったとも。だから暴れないでおくれよ」
参 空を打つ羽はなかなかうまく使えない、シヴァの元の肉体にはない器官であるから、余計に戸惑う。それでも勝手はつかみ始めていて、滞空時間が長くなれば、腕にとまったシヴァをヴァルナは優しくなでた。
「お前には、世界は美しいかい」
時折遠くを見つめるようになったヴァルナに、シヴァはああという意味のさえずりを返した。さえずりの意味は通じないはずだが、ヴァルナの慈眼に感情のさざ波が揺れる。
「わたしはこの世界を愛している、本当に。けれど――」
ヴァルナはそこで言葉を区切った。寂寞が二人の間を包む中、ヴァルナはやはり遠い目をして、こうつぶやいた。
「わたしは、見たいのかもしれない。異なる世界を、異なる姿を、愛を、この目で」
つぶやきはすぐに霧散して、あったということもなくなるようだった。ヴァルナ、と心中でつぶやいたシヴァは思う。これは、一種の罰なのかもしれないと。
ヴァルナ、お前はお前の愛したすべてにお前を支える信仰を与えてゆくのだろう。そしてその果てに俺に殺されるのだ、お前を知らない俺に、お前に抱いた感情を受け止められなかったがために、殺されるのだ。
シヴァはまた体を包む手のひらに抵抗を示さなかった。ありえない邂逅は、きっと夢でしかない。夢のあぶくがすべてはじけるまで、どれほどの猶予があるのだろう。けれど。けれど、かわした言葉はきっと無意味なものではないのだろう。
離宮に戻る二人を、夕日が赤く染めてゆく。世界は美しいかい、その言葉に解を放てない鳥の器であることが悲しみをもたらすことも告げられないまま、開け放たれた大きな鳥籠に、二人は今日も帰っていった。