悪霊と傀儡「カオスに染まった
穢らわしい黒い肌、視界に入るだけで吐き気がするよ。」
すれ違いざま、威勢よく吐き捨てたのはいかにも偏屈そうな老婆。やれやれ、どいつもこいつも飽きぬものだな。反論するのも馬鹿馬鹿しいが、おとなしく引き下がってやるのも
癪であるゆえ、
溜息交じりに我は口を開く。
「〈皇帝様〉はとうに『カオスは
穢れである』との見解を撤回なさったであろう?」
「だから何だってんだい、この悪霊が! 皇帝様からご慈悲を
賜ろうと、アンタがこの世界にふさわしくないのにゃ変わりないのさ。とっとと成仏しな!」
言い終わるや否や、年齢にそぐわぬ健脚で遥か後方へと老婆は去っていく。紅き世界が青き聖地へ統合されてからというもの、出歩くだけでこのように喧嘩を売られるのは我にとっては日常茶飯事であった。
悪霊と
傀儡
アストラル世界がバリアン世界を取り込んでから変わったことといえば、民の一部がエリファスを〈皇帝様〉、その妻――エナとかいう小娘――を〈皇后様〉と呼び、以前にも増して二人を
崇めるようになったことくらいか。かの信者らに共通するのは、
未だにカオスを
穢れと信じ、我を含めた元バリアン世界住民に敵意を向けていること。エリファス・エナ夫妻が「カオスは
穢れ」との主張は誤りであったと認め撤回して久しいが、
彼奴らは敬愛する〈皇帝夫妻〉の発言に耳を貸さずにいる。そればかりか、我らバリアンが〈皇帝夫妻〉を
唆し世界を改悪させたのだと信じてやまない。その盲目的な信仰に〈両陛下〉が頭を悩ませているとも知らず、
彼奴らは〈皇帝様〉〈皇后様〉のため今日も我らを迫害している。
尤も、
謂れなき中傷ごときで自らの人権を明け渡してやるほど我らはヤワではないのだが。
エリファス・エナ夫妻からアストラル世界の運営に関して意見を聞かせてほしいと頼まれ、我は今、二人の居城へ向かっている。当初は二人がわが王宮へ足を運ぶと言っていた(臆面もなく我らに暴言を吐く連中の
屯する市街地を我に歩かせるのも、物を頼む側が玉座で待っているのも気が引けるとのことだった)が、〈皇帝夫妻〉が旧バリアン世界地区へ
赴いたとなれば例の厄介な信者どもが暴徒化するのは目に見えているため、二人の善意を無下にせざるを得なかったのだ。
それにしても、この世界にはどうも暇人が多いようである。
「皇帝夫妻を
誑かす
卑しき
淫魔め、おとなしく赤い世界へ帰りやがれ!」
「二つの世界の合併は〈皇帝夫妻〉の思し召しだ。我らはそれに従ったまで。」
血気盛んな
若人は正論に
怯むことなく、仲間とともに我の進路を阻み続ける。特別急ぐ必要もないが、かと言って面倒事に一々構ってやれるほど我は暇ではないのだぞまったく。おざなりにでも脅しておけば道が開けるだろうか。
「ひょっとして、我を『女も男も魅了する美貌の持ち主』と讃えておるのか? それはそれは光栄なことだな。今宵はキサマらと
契りを交わしにゆこうか?」
先ほどの
若人に歩み寄り、軽く目を伏せつつ目線を重ねて顎下を軽く撫で、
艶めかしい声で囁いてやると奴はわかりやすく
戦慄と嫌悪感をあらわにした。
「ん、んなワケあるか気色悪い! とっとと失せろバーカ!」
我の手を振りほどいた男の悲鳴にも似た罵声をきっかけに、年若い信者たちは蜘蛛の子を散らすがごとく逃げていった。生憎だがキサマらのような
痴れ者など
端から願い下げだ、たわけが。
「あのような者を迎え入れるだなんて、皇帝様は一体何をお考えなのかしら?」
「皇后様はなぜお止めにならないのかしら?」
「薄汚い連中を野放しにするたあ、お
上の考えるこたあわかんねえな。」
「賄賂か。」
「謀略にしろ賄賂にしろ、あのお方が
下賤の者に踊らされるとは失望したよ。」
愚かなり純潔なる夫婦よ。
バリアン世界を受け入れたばかりにキサマらの信用は地に堕ちた。そうなることなどわかっておったろうに、それでもキサマらは過ちを認め
バリアン世界に手を差し伸べたのだ。
ヌメロンコードの力により蘇ったのち、エリファスは言った。「キミの前科は私の責任でもある」と。いかなるカオスも許容せず
排斥する愚行を犯しさえしなかったならば、我がヌメロンコード絡みの一連の事件を起こすことはなかったとでも言うのか。
図に乗るなよ
木偶人形めが。
民の心にカオスがある限り、例え世界から追放された者がおらずとも、同様の野望が芽生える未来はあり得たのだ。あの時アストラル世界がカオス排除へ舵を切らずとも〈我〉が生まれ出で災厄を振り撒いていたであろうに、それを民の
傀儡であったキサマの負うべき
咎であるかのように語るな――
人工生命体ごときにわが〈臓物〉を奪わせてなるものか。
「……愚か者め。」
〈皇帝夫妻〉の居城は、まだ見えない。
――終――