シトラスバスタイム「ん~~……効くぅ~~……」
一人分の湯船に、一人でも実は少し狭い。
昔は広く感じたものだが、今は足を十分に延ばせないくらい狭くなっていて、俺の背がすごく伸びたのを感じる。もう豆ともチビとも呼ばせねえぞ。
旅から帰ってきてから数日。部屋に籠り切りで持ち帰ったものを整理したり、成果を元大佐に提出するレポートにまとめたりと気の休まらない日々が続いていた。数か月分の旅の記録をまとめるんだから、一日二日で済むわけがなかったし、これらに集中してあることを考えないようにしたかったのだ。
「……って、気ぃ抜くと、思い出すんだよな」
湯船に浸かる度に、結局思い出してしまう。帰ってきた翌日の、昼間のことを。
その日、俺は――ウィンリィと一線を越えました。
「真昼間にやっちまった……しかも一緒に風呂で二回戦まで……その日のうちにばっちゃんにはバレたし……」
もう恋人同士だし、予約もしたし、いつかはやると思っていた。だが、真昼間に我慢できず押し倒し、俺の部屋に連れ込み、あいつに受け入れられるがまま最後までやっちまうとは。しかも終わった後には、甘えられる嬉しさとか初めての疲れとかで、そのまま一緒に風呂に入っちまうとは。さらに、立ってしまったので頼み込んで二回戦に持ち込んでヘロヘロにしちまうとは。
あいつの素肌の白さとか、柔らかさとか、かわいい喘ぎ声だとか、思い出すだけで顔から発火しそうだ。いたるところが綺麗で、柔らかくて、いい匂いで……あんなお転婆で機械オタクな女が、俺だけに見せた顔は色っぽくて綺麗で、語彙が足りなくなるくらいにドキドキした。まずい、また思い出している。昨日もそうだった。
とにかく、一線を越えて以来、俺はウィンリィをなるべく避けるようにわざと忙殺していたわけだ。あいつの顔を見るだけで、色っぽく見えてしまって、どうしようもなくなってしまうから。いつまでもヘタレじゃいられないと腹をくくった癖に、結局のところ俺はヘタレらしい。一度やっただけで、頭の中は思春期に逆戻りだ。こんなの、今頃シンにいるアルにバレたらからかい言葉のカーニバルになりそうだ。
「しかし、さすがにあいつも風呂に突入してくることはないだろ。風呂はとっくに上がってるし、夜も遅いし……」
独り言の響く浴室に、ドアノブの捻られる音が聞こえた。聞き間違えか?
俺も大分疲れているみたいだ。こんな夜中にエプロンを掛けたウィンリィが入ってくるなんて見間違えまでするとは――
「――って、見間違えじゃねーー!!」
「こら、あんまり大きい声出さないの。夜中なんだから」
聞き間違えでも見間違えでもなかった。なぜか、浴室に、寝間着にエプロン姿の、ウィンリィが、いる。
裸じゃなくてよかったと少しだけ安心しつつ、俺は混乱した頭のままで理由を聞く。
「ななななんでおまえ! とっくに風呂入ったし寝てたんじゃないのか!?」
「確かに、お風呂は入ったし、寝ようとしたわよ。でも、何日も夜遅くまで部屋に籠って、ご飯のときもまともに目を合わせないあんたが心配だから来たんじゃない」
「だだだだからって風呂! 俺が風呂入ってるときに来るこたぁねーだろ!」
「こんなときじゃないと、あんた逃げるし、ちゃんと話できないでしょ。エド、部屋にいるときは集中してるだろうから邪魔しないようにしてたんだから」
「まったく、大胆な女だぜ……」
確かに、今日までの間で一緒になる飯のときも、食べる様子がやけに色っぽく見えて、まともに目も合わせられなかった。だからって、俺が風呂でくつろいでいる間に来るとは。
うろたえている間に、ウィンリィの手が、そっと俺の少しだけ湿った髪に触れた。こうやって髪に触れられたのは一線越えたあの時以来で、胸の音がドキリと鳴る。
「髪、まだ洗ってないの?」
「お、おう。肩凝ってて、先に湯船に浸かりたかったからな」
「パサパサしてる。長旅だったからかな……」
「そりゃ、まともに手入れしてないからな。女じゃないし、別に気にしなくてもいいだろ」
何故だろう。こいつがシャワーの蛇口を捻っている。こいつの手元には、俺の石鹸とは違うシャンプーの容器が見える。
「髪、洗ってあげる。湯船の縁にうなじ載せて、楽にして?」
「い、いいよ別に。俺一人でできるし」
「疲れてるんなら、大人しく言うこと聞きなさい」
「……はい」
俺は大人しく湯船の縁に項を載せて、抵抗を諦めた。
聞こえるのは、髪と指が触れ合う音、泡の弾ける音、指が頭皮を擦る音、そしてこいつの楽しそうな鼻歌。爽やかな柑橘系の香り。俺が帰ってくる前にシャンプーを変えたんだな。俺としてはこっちの方が好みかもしれない。湯船の縁に載せたうなじが、少し冷たい。逆さまの視界には、楽しそうな顔が見えた。
今の俺は――何故か、ウィンリィに髪を洗われている。
「野郎の髪なんか洗って、何が楽しいんだか」
「男にはわからないでしょうけどね、女の子は人の髪を触るのが楽しいものなの」
「ふーん……わっかんねぇ」
「旅の事はまとまった? ずいぶん熱心だったじゃない」
「まぁ、大方まとまった。数日集中したおかげだな」
「……気持ちいい?」
「ん、そうだな……気持ちいいよ」
ぽつぽつ会話をしている間にも、こいつの指が頭皮を擦って、その度にわしゃわしゃと小気味良い音がする。力加減は強すぎず弱すぎず、丁度いい。有体に言えば、眠たくなるくらいに気持ちいいと感じている。
「ねぇ、エド……どうして何日もあたしと目を合わせなかったの?」
楽しそうだった声は少し寂しそうな声に変わる。さっきまでのは会話のきっかけで、こっちが本題だろう。
「そ、それは、だな……」
言葉に詰まった俺を見る顔が、途端に曇って行く。これはまずい。悲しませたくなんか、ないっていうのに。
「やっぱり……え、えっちをした時のあたし、何かいけないことしたかな……へんな声出しちゃったし、へんな顔してたかもだし、一緒にお風呂なんてわがまま言っちゃったし……」
「そ、そんなことはねぇよ!! おまえは悪くない!! 悪いのは俺だ!!」
えっ……? という声と共に、指の動きが止まった。
そうだ。いつまでも、ドキドキするから気まずいからって避けたままじゃいられない。
俺は、ウィンリィの恋人で、予約までしたんだから。ちゃんと向き合わないといけないんだ。
だから――顔が熱くなるのを我慢して、言ってやる。
「俺がおまえを避けてたのはな! あのときのおまえがかわいくて綺麗すぎて! 顔見る度に思い出しちまって! 他にも何かと色っぽく見えて! どうしようもなくなっちまうからだよ! つまりは惚れた俺の逃げ!! あの時のおまえはかわいかったし綺麗だったし今もそうだから何も気にすんな!! 分かったか!!」
息継ぎもなしに言いきる。うなじをバスタブの縁に載せた姿勢もあって、ちょっと苦しい。だが、数日間言えなかったことを思い切り口に出したからか、大分すっきりした。
と、曇った顔をしていたウィンリィが、いきなり笑い出す。止まっていた指はまた動き出して、頭をくすぐるようにこすられた。
「な、何がおかしいんだよ!?」
「ふ、ふふっ……だってぇ……あんたがこんな真っすぐに『綺麗』とか『かわいい』とか言ってくるの珍しいし、うふふっ……安心したら、なんだか勝手に不安感じてたあたしがおかしくなっちゃって……よかった。エド、あたしのこと嫌いになっちゃったのかと思った」
「あのなあ……俺が嫌いな女を風呂場に入れたままにするか? 頭触らせるか? おまえを嫌ってるわけないだろ。頭洗われるのは正直気持ちいいし……その、おまえのことは、すげーすきに決まってるだろ……」
顔が熱い。耳まで熱い。今の俺は、茹ったエビのように真っ赤になっていることだろう。そんな熱くなった俺の頭に、思い切りシャワーが掛けられた。顔まで、思い切り。
「ウブブ……おいウィンリィ! 顔に掛けんな! 溺れさす気か!」
声を出して笑うのをやめたこいつの顔に、不安の曇りは一切ない。代わりに、頬を染めた笑顔が見えた。お湯を掛けられてにじむ視界でもわかる。かわいい。
顔までお湯の掛かるシャワーは、止まっていないが。変わらず顔に掛かっているままなんだが。
「ホント、よかった。勇気を出してお風呂まで来て、こうやって話すことができて。それに、エドから『すき』って言ってもらえたし……ふふっ、嬉しい」
「だから顔に掛けんなー! すすぐなら頭だけにしろー!」
「避けてた理由を早く言ってくれなかったお仕置きよ。スパナじゃないだけマシだと思いなさい」
確かに、スパナで殴られて流血沙汰よりは大分マシだが……このままだと溺れる。本当に溺れる!でも、数日振りにウィンリィとまともに会話をして、じゃれあっていられるのが嬉しい俺もいた。
それはそれとして溺れる。本気でやばい。
「ごぼごぼ……てめ、後でおぼえてろよ……ごぼぼ」
逆さまかつ顔にお湯を掛けられたまま、見えにくい視界の中で見えたのは――数日間ぶりの、本当に綺麗な笑顔だった。
「――うん。いい匂い。あたしと同じ、ネロリとグレープフルーツの香りがする。それに、エドの髪ってお日様色で綺麗よね」
風呂から上がって、濡れた髪をウィンリィの持ったタオルで優しく拭かれる。ここまで世話されるのはくすぐったいが、数日間家にいたのに構ってやらなかったのだ、大人しく世話されてやるしかない。
数か月の旅のうちにまた伸びた髪からは、こいつと同じシャンプーの香りがして、なんだか落ち着かない。いつもは、商店で買う一番安い石鹸で頭から爪先まで洗っていたのだ。この人生で女物のシャンプーなんて初めて使われた。
「あのなあ……髪洗うんなら、いつもの俺の石鹸でよかっただろ……なんか落ち着かねぇ……」
「傷んでるって言ったじゃない。あたしのシャンプー使った方が、髪が綺麗になるのよ。タオルドライ終わったら、ヘアオイルもつけてあげる。あと……同じ香りを付けたら、あたしの印みたいで安心するの」
「へえ……」
つまりは、同じ香りを付けて所有印にするという独占欲か。
こいつ、結構かわいい所あるよな。いじらしいというか、何というか。
「旅先で、あんたが他の女の子に惚れられたりしないか不安だったんだから。エド、昔より優しくなったし、口も上手くなったし……」
「ばーか。買いかぶり過ぎなんだよ」
俺がおまえ以外の女にうつつ抜かすわけないだろ。って言葉は、ごくりと飲み込んだ。
「ふふっ、安心したわ。さっきのこともそうだし、エドって、ホントにあたしのこと好きなんだなーって分かったから」
髪から二枚目のタオルが離れる。十分に拭き終わったらしい。
一方的にされるがままになったくすぐったさや、さっき言った「すき」の恥ずかしさを隠したくなった俺は、つい憎まれ口を叩いた。
「あんまり自惚れんなよ。おまえみたいなお転婆で機械オタクな変わった女、惚れる奴なんて俺しかいねぇってことだよ」
「あら。あたしだって、あんたみたいな口の悪い天邪鬼で錬金術オタクな変わった男、惚れるのなんてあたししかいないわよ」
「んだとぉ!?」
言い返されて、青筋が浮かびそうになる額。そこに、突然唇が当たり、ちゅっ、という音を立てて離れた。
今のは……ウィンリィが、俺の額に、キスをした音か?
自覚すると、また顔面がカッと熱くなり、俺は不意打ちに弱いことを改めて思い知った。
「なんてね。好きよ。大好き。また、髪洗ってあげるわね」
思わず、キスされた額を抑える。熱い。耳までまた熱くなっている。
「……ウィンリィ。おまえ、そういうこと絶対俺以外にすんなよ」
「ばか。しないわよ。あんたに全部……じゃなかった、八割五分?あげるって言ったもの。それより、何日も話してなかったんだから、今夜はもっと話してよ。まだ、旅の話もぜんぜん聞いてないんだから」
「あー、そういやそうだったな……帰って一線越えてからホンット籠りっ切りだったもんな……」
髪を拭くのが終わったら、俺の部屋からこいつの部屋に帰そうと思っていたのに。ウィンリィに土産話をせがまれると、結局逆らえないヘタレな俺。
やれやれ、今夜は長くなりそうだ。これも、しばらく構ってやらなかった俺の自業自得だが。
「ヘアオイルつけてあげる。もう少しじっとしてて」
「どれから話せばいいかな……アレからにするか?」
――そうして、俺はこいつが眠くなるまで、旅先での出来事を身振り手振り付きで話してやることにした。
たまには、こんな夜も悪くないと思いながら。