私と先生とサメと人に問われれば、声だけで情報を届けるラジオの仕事を通して、と答えるだろうここ最近の私の特技は、声に感情の揺らぎを出さないこと。いつだって、自分の声に、その時に必要なポジティブさを乗せて話すことができるようになっている。だけど、この技術を私が本当に必要として、本当に最大限活用するのは、電話をする時間すら次の約束ができない婚約者のため。
呼吸器の感染症が世界を一変させてもう1年以上。先生はずっと、もうずっと最前線で戦い続けている。あの日東京に呼び戻されてすぐの最初の頃はこちらを案じるメッセージや、気を付けるべきポイントを伝える電話がかかってくることもあった。けど、その後はこちらから送ったメッセージがたまに既読になることが唯一のコミュニケーションだった時期もある。
最近はまだ落ち着いてきて、たまに電話がかかってくる。私のラジオの仕事の時間を慮って電話をかけられるのにかけなかったことを聞いた時にこんこんとお説教をしてしまった日のことはいまだに少し反省している。でも、私が先生の声を聞けるなら、先生が私の声を聞いてちょっとでも元気が出るっていうのなら、多少の寝不足なんてどうってことなかった。
ふとかかってきた電話にすぐに出れば、18日ぶりの先生の声。すぐに、「百音さん?」と呼ぶ声が、19日前とは違う響きだと分かる。訪問診療で自分の無力をかみしめていた時でも決して聞くことはなかった、打ちひしがれた声。今までは話すときに私に心配をかけさせまいと振り絞っていた力すら、もう出せないことが伝わる。でも、それが伝わったことは、先生には微塵も気取らせない。
「電話ありがとうございます。今日は?もういいんですか?」
時々、退勤後と言って電話をくれていた時間にあたることを腕時計で確認して話の口火を切る。
「ええ、今日はもう帰宅しました」
私から投げた話題には返事をして、でもそれからを続けられないように語尾がすぼむ。電話での沈黙の時間もそれはそれで私たちが好んできたものだけど、今日はそれが好ましいものには思えなくて。
「晩ごはん、ちゃんと調達しました?何食べるんですか」
我ながら無難だとは思うけど、無難な話題が必要な時もあるというのは大人になって学んだことのひとつ。その答えを待っていると、電話の向こうから、ぼそりと悲痛に満ちた言葉がこぼれてきた。
「もう、僕は医者をやめたほうがいいんじゃないかと思うんです」
「え?」
「中途半端な能力で目の前の人を助けられそうで助けられない。助けられなくて、患者にも周囲にも負担をかける。それなら、いないほうがいい…」
今までの電話でも先生が弱音を吐くことはあったけど、ここまでの弱音は初めて。一年以上張り詰めてきたものが毀れたんだ、と思うと胸がいたくなる。うずくまってくぐもったような声。
けど、やっぱり本心じゃない、そう思う。
だって、本当にそう思ったら、相談せずに決める人だから。それが本当に彼と周囲にとって必要なことなら。
私に言うってことは、きっと弱音をはきたいだけ。そしてよしよし、って言ってはほしくないだけ。
「ねぇ、先生」
気持ちと心を整えて、そっと言葉を届ければ、ふぇ?と聞こえるか聞こえないかの相槌が返ってくる。
「先生と初めて会った時のこと覚えてます?」
電話の向こうでうなずいている気配がする。
「同じ施設に併設の診療所に通ってくる、挨拶はものすっごく無愛想だけど、子供の遭難に的確に指示を届けてくれるお医者さんでした」
聞こえるか聞こえないかの相槌。
「東京で再会した時の先生は、再会確率に納得がいかなくて、でもド新人の空回りをちゃんと分析するお医者さんでした」
「鮫島さんのデータを集めて分析している時の先生は、いつだって冷静にスポーツ選手に必要なケアを考えているお医者さんでした」
先生のじっと聞いている気配に集中しながら、二人でたどってきた時間で私が見てきた事実を、事実として伝えつづける。
「登米に会いに行ったときの先生は、訪問診療先のご家族全員の健康状況を把握してるお医者さんでした」
「東京に戻るって決めた先生は、日々進歩する医療にキャッチアップする必要を知ってるお医者さんでした」
「私が出会う前からも出会ってからも、先生はずっとお医者さんだったんです。私にきついことをいう時も」
最後の言葉に、かすかな笑い声が聞こえる。
「だから、大学病院を辞めても、先生がお医者さんでいることを止めることはできないんじゃないかな、って思います」
息をのむ気配のあと、ふっとそれが吐き出された気配がする。
「それに」
「それに…?」
まだ続くと思っていなかったのか、やっと一塊の言葉が返ってくる。
「それに、先生からお医者さんを取っちゃったら、私とサメしか残らないですよ」
ぽーんと言い放つと、小さなくつくつとした笑い声が届いてきた。その笑い声がだんだん沈んで、凝ったような沈黙がぽとりとやってくる。
「だとしても。だとしたら」
絞り出すような言葉に、何が続くのか、全神経を傾けて、待つ。
「医者であるべきことを一瞬でも放棄することを考えるような僕が。あなたにいつ会いにいけるかも分からない、いつ自分が感染するかも分からない僕が。あなたを縛ることが、あなたにとっていいこととは思えない」
あぁ、今、きっと、頭を抱えてうずくまってる。心と頭がバラバラになったような声で。
「僕のことは、もう待たないで…」
最後まで言い切れないのに、でも言ってしまう、そんなちぐはぐさが空中分解して。
言ってしまった後、こちらの様子をじっと待ってる。
「ねぇ、先生」
「ん?」
「私、ちゃんと寂しいですよ。先生に会えなくて」
「ん…」
「だから寂しくないです。ちゃんと寂しいから」
「え?」
「こうやって先生を待ってるから寂しいって思えることが、私の気持ちを形作ってるんです。だから、待てるし、待ちます」
はぁあ、と先生が大きく息を吐く。
「うん」
と返ってきた短い返事は、さっきより力が籠っていて、ちゃんと先生の意思が出した言葉に聞こえた。
こちらのほっとした気持ちは声に出ないように気をつけながら、私の言葉を届ける。
「大体、お医者さんやめたいって言ってたら、私とサメしか残らないのに、さらに私に待たなくていい、なんて言っちゃったら、先生にはサメしか残らなくなっちゃいますよ」
あんまりな私の言いぐさに、先生が「そっか…」と笑ってつぶやく。
「うん」となんでもない風な私の返事に、「うん」って柔らかい声が返ってくる。
「暖かいもの食べて、お風呂入って、しっかり寝てください」
「はい」
「食べるもの、ありますか?」
「冷凍の鍋焼きうどんがあります。それにします」
「ゆっくり食べてください」
「はい」
おやすみなさい、とお互いに言って電話が終わる。
終わった瞬間、思わず零れる涙ごと両手で顔を覆った。漏れそうになる嗚咽をぐっとこらえる。
あの先生をあそこまで追い込んだ感染症が憎い。
そこに一緒にいられない自分が歯がゆい。
ずっと会えなくて、見通しもなくて寂しい。本当に寂しい。
綯い交ぜになったいろんな感情を少しの涙とため息に混ぜて吐き出す。
ちゃんと寂しい。だから、私はまだ大丈夫。
ずっとうつむいて顔を覆って、しばらく机の前から動けなくて。
やっと涙をぬぐって顔をあげたところに、メッセージの着信を告げる短い音。
画面を見れば、湯気の上がった鍋焼きうどんの写真。
コサメちゃんのスタンプを送れば、サメがぺこりとお辞儀をしたスタンプが返ってくる。
私と先生とサメと。
先生にとって、まるっとひとつであればいい。