ある春の日のおでかけキャリーケースを曳きながら東北新幹線で東京駅に降り立し、在来線改札を通った菅波は、予想外の光景に出くわして思わず立ち止まり、すぐに後ろから続く旅客をよけようと軽くよろけたのは日曜の朝10時過ぎだった。百音と12時に会う約束をしていて、少し早く着いた時間で本屋にでも寄ろうかと思っていたところ、在来線改札を抜けてすぐのところに、嬉しそうに唇をむぐむぐさせる百音と、少しあきれ顔のように紙袋から顔を出しているサメ太朗がいたのである。
「あれ、え?永浦さん?約束は、その、12時じゃなかったでしたっけ」
よろけた拍子にキャリーケースに体を預けるようにしたまま、数歩で目の前に立った菅波を、百音は笑って見上げた。
「先生のことだから、早く来るだろうなと思って」
「…来なかったらどうするつもりだったんですか、こんな人ごみのところで」
あきれ顔の菅波に、紙袋に入ったサメ太朗で自分の顔を半分隠しつつ、百音がてへ、と笑ってみせる。
「でも、こうやって会えてますよ」
サメと百音の笑顔に勝てるわけもなく、菅波は、確かに、と小さく嘆息して、おはようございます、と百音に挨拶する。百音も、改めて、先生、おはようございます、といい、ふわりと笑った二人は、ひとまず、菅波のキャリーケースが一日歩き回るには邪魔なので、駅構内のコインロッカーに入れに行く。キャリーケースを預けついでに菅波のリュックの中のあらかたの論文の束やノートPCも取り出してロッカーのキャリーケースの上に置いて身軽になり、さて、と、百音と菅波とサメ太朗は複雑な東京駅構内の人込みを、菅波の誘導で歩き始めた。
「今日は、京葉線?に乗るんですよね」
「そう。ちょっとここから歩きます」
「ここから歩く…。とはいっても、駅の中ですよね?」
「東京駅を名乗ってはいます」
菅波の言葉に、百音が首をかしげたころ、ちょうど、今いる地上階から、地下に伸びるエスカレータにたどり着いた。これを降りるんですね、と、フム、という顔の百音に、菅波がはにかみつつ、エスカレータに乗る。菅波が下の段に、百音が上の段に乗ると、二人の顔の距離はだいぶ近くなって、いつもと違うように見えるのが、なんだかくすぐったい。へへ、と百音が笑うので、菅波も目じりに皺を寄せる。
エスカレータを降りたところで、目の前にはずっとトンネルと動く歩道が伸びているのが見えた。菅波は、百音とついっと手をつなぐと、動く歩道には乗らず、その脇の通路をてくてくと歩いた。動く歩道乗らないんだ、と自分を見上げる百音の顔に気づいて、菅波があいた手で首筋をかく。
「すみません。自分の歩くスピードと動く歩道のスピードが相乗されるのがどうも苦手で…。あ、永浦さん、乗りたかったですか?」
焦る菅波に、百音はふるふると首を振る。
「使い慣れないので、うん、私も自分で歩く方がいいです、はい」
その言葉にほっとした顔になりつつ、もちろん、移動に制約がある方には必要な設備だとは分かっているんですが…と菅波がぶつぶついうのが、百音には、あぁ、せんせいだなぁ、と面白く。
と話しつつ、動く歩道と並行して歩を進めつつ、動く歩道がひとつおわり、もう一つ見えた動く歩道が先が見えないほど長いのを見て、百音が不安げに菅波を見上げた。
「先生、これ、道合ってますか?」
百音の表情に、菅波は口許を緩める。
「あってます」
「ナルホド…」
さっき、菅波の言った、「ちょっとここから歩きます」が、本当に、ここから歩きます、レベルだったことに何やら納得した様子の百音がふむ、と歩く。先が見えないほどの動く歩道の横を歩ききったところで、また動く歩道が見えて、また百音が菅波を見上げ、菅波も、うーむ、と首をひねった。
「もう一個あったか…。こんなに遠かったかなぁ」
「これ、ほんとにあってますよね?」
「あってることは合ってます。にしてもやっぱり遠いな…」
二人してなんだか不安になりつつ、やっと通路を抜けると、キオスクのような小さな売店や改札が見えて、また駅めいた景色が見えて、うん、やっと着いた、と菅波が百音と顔を合わせる。そこからさらにエスカレータを降りて、京葉線ホームにたどり着き、ちょうど発車前の各駅停車に乗り込んで、乗客もまばらな車両でロングシートに座ったのだった。
一息ついた百音が、隣の菅波を見上げる。
「先生が、東京駅を名乗ってはいます、って言った意味がよく分かりました」
歩くのは苦じゃないけど、それにしても、と百音がびっくりした顔をしていて、サメ太朗も百音の膝の上で、遠かったね、というような顔をしていて、本当ですね、と菅波も頷く。
「実は、ほぼ、山手線の隣駅の有楽町駅の下らしいですよ。有楽町駅からでも、駅員に言えば乗り換えられるとか」
百音がむむむ、と、東京はおそろしいですねぇ、というので、菅波も、まったくです、と同調しつつ、築地からだと、日比谷線で八丁堀から乗り換える方がマシでしょうね、などという話をしているうちに、地下を走っていた電車は地上に出て、遠くに海を臨む線路を進む。沖の方に貨物船らしき船影がちらほらと見え、海上流通の要衝たる東京湾の姿が垣間見えるようだ。
ふたりといっぴきが乗っていた車両から、5駅目で降りたのは彼らだけ。案外近いんですね、という百音に、むしろ京葉線ホームの方が遠い気がしますね、と菅波が笑う。早速ホームを降りようと階段に向かうと、階段の壁一面に海藻や海の生き物のシルエットがあしらわれ、潜水艦の丸い窓のようなフレームの中には、写真も飾られている。
「あ!先生、シュモクザメですよ!」
「アカシュモクザメですね。あ、こっちにはシノノメサカタザメも」
楽しみですね、といいながら、改札階におりると、駅員がポケットティッシュを配っている。百音が受け取って裏をみると、踏切非常ボタンの利用を呼び掛けるもので、百音が足を止めたのに気づいた駅員が、どうぞこちらを!と案内するのは、踏切非常ボタンのモックがついたパネルである。
「え、これ、押していいんですか?」
「ぜひ、押してみてください!」
普段、絶対押すことがないボタンを押してよい、と言われ、百音がどきどきと赤いボタンを押すと、警報音が適度な音量で鳴り響く。おぉお、と感心する百音に、駅員が、いざというときには、こうして押してくださいね、と言い、百音はこくこくと頷いた。
「僕も押してみていいですか?」
菅波も好奇心に負けて、赤いボタンを押し、百音と同じようにおぉお、と感心する。ありがとうございました、と礼を述べて改札を抜けた二人は、顔を見合わせた。
「なんか、普段絶対に押したらいけないと分かっているボタンなので、押していい、って言われても、なんだかドキドキする」
訓練しておくのも大事なんだけど、と菅波がいい、百音も、ほんとに、と頷く。テレビ局にも、絶対触っちゃダメって言われてる装置とかボタンとかあって、押したら何が起こるんだろう、って、どきどきしたりするんですよ、という話に、病院にも似たようなものはありますね、と菅波も頷く。
こわいこわい、と二人で笑いつつ、階段をてくてく降りると、今度は目の前に警視庁のオレンジ色に青のアンテナのマスコットキャラクターの着ぐるみが警察官と共にグリーティングをしている。緑のビブスを着けたご婦人が、交通安全週間で~す、と言いながら、これまたティッシュを配っていて、百音はそれも律儀に受け取る。百音が律儀に受け取ったのを見て、マスコットキャラクターが手招きをする。
「先生、私、ピーポ君、初めて見ました!」
数駅先のテーマパークの着ぐるみに会ったテンションで百音が言うので、東京都出身の菅波とはテンションが致命的にかみ合わない。わー、と百音がマスコットに駆け寄るので、菅波が慌てて追いかける。マスコットに付き添っている警察官が、写真撮りましょうか?と申しでて、百音がお願いします!と自分のスマホを渡す。百音とサメ太朗、菅波でマスコットを挟んで、ぱしゃりと写真が撮られ、また、ありがとうございました、と礼を述べながらその場を辞する。
歩きながら、こんな写真でした!と百音が画面を見せてくると、マスコットが百音の肩を抱いていて、一気に菅波の眉根が寄る。サメ太朗に、ピーポ君に初めて会ったねぇ、と話しかける百音は、菅波がチベスナになったことには気づいておらず、菅波は眉根を指先でほぐしつつ、次に何かのマスコットと写真を撮る時は立ち位置に気を付けなければ、と心に誓うのだった。
開館すぐの水族園はさしたる混雑もなく、いくつかの小さい水槽を冷やかしつつ歩けば、見上げるほどの高さの水槽の中で、悠々とアカシュモクザメやツマグロ、スミツキザメが泳いでいるところにでた。シュモクザメって、本当に面白い形ですよねぇ、と百音が興味深く水槽を見上げ、こうして一緒に自分の趣味を百音が楽しんでくれることが菅波にはうれしくてたまらない。
ロレンチーニ器官が目と目の間の頭部にびっしり分布していて、金属探知機みたいになってるんですよ、とシュモクザメについて菅波が解説し、えっと、なんでしたっけ、電流?を検知する、んでしたっけ?と百音が前に聞いたことを思い出しつつ、そうそう、エラ呼吸の際にイオン交換があって…と菅波が情報をカブせ、ああだこうだ、と会話は尽きない。
サメのいない水槽も、それぞれの生き物の生態が面白く、また展示も工夫されていて、興味は絶えず、結局、水族園を出たのは入館してから2時間ほど経ってからだった。
「もう少しコンパクトに見るつもりだったのに、長くなりました。すみません」
と、館外に出て、太陽が真上にあることをみとめた菅波が謝ると、百音が、私もたのしかったですから、と笑う。菅波の手には、入館時には持っていなかった紙袋がさがっていて、その中にはミュージアムショップで購入したサメ柄の小風呂敷と、シュモクザメの形のタイピンが入っている。
水族園の外周に設けられた散策路を手を繋いでゆるりと歩きつつ、公園の方に出て、菅波が百音を海の方へ誘いつつ、そろそろ昼飯にしませんか、と言う。百音にもちろん否はなく、どこか心当たりが?と聞くと、うん、と菅波が頷く。海に向かってひらけたガラス張りの建物をかすめて階段を降りると、そこにはゆるやかに海辺まで芝生が伸びる広場とカフェがあった。カフェの前には、『ピクニックセットあります。レジャーシートつき』と書いた看板が。
「これ、どうでしょう。これを頼んで、外で食べるの。散りばなですが、桜もまだ残ってるし」
菅波のとびきりの提案に、百音はそれはとっても素敵です、と頷き、その動作で揺れる紙袋の中のサメ太朗もなんだか嬉しそうである。じゃあ、これにしましょう、と、二人でカフェのレジで会計と注文を済ませる。
こちらでお呼びします、外にも電波通じますので、と呼出ベルをレジャーシートと共に渡された二人は、ぶらりと店の外に出て、芝生を少し下ったところに借りた厚手のレジャーシートを早速広げる。靴を脱いでレジャーシートの上にあがり、サメ太朗も紙袋から出してやる。ふぃ、と一息つくと、心地よい海風が百音と菅波の頬を撫で、サメ太朗の背ビレを揺らした。
「気持ちいいですねぇ」
と百音がおろした髪を風に揺らされるままに微笑むと、菅波も、うん、と頷く。風にあおられたくせっ毛が、てんでばらばらな向きになるのを、百音が笑って撫でてやると、菅波は気持ちよさそうにされるがままにするのだった。
「先生、ここにピクニックセットがあるの、知ってたんですか?」
「うん。水族園のことを調べてたら、近隣の施設紹介で見かけたので、永浦さんと行けたらな、と思って」
「言ってくれたらおべんと作ったのに」
「でも、それだと永浦さん大変でしょ。弁当って、単に作るだけじゃなくて準備も後始末もあるし。二人とも楽に、ふらっと手ぶらで来て、ふらっとピクニックする、っていうのもいいかな、って」
百音の変則的な勤務時間の仕事も慮った菅波の言葉に、百音は口許をむぐむぐと緩めて頷く。登米の菅波の元を訪れた時に、二人で弁当を作って出かけたことはあるが、東京でどこかに出かける時に弁当を作っていくとなると、百音に支度の比重が偏ることは想像するだに事実で、それを単純には良しとしない菅波の思慮が百音には温かい。
にしても、大きなレジャーシートですねぇ、と百音が自分の座ったあたりをなでると、ねぇ、と菅波も頷く。たっぷりとした広さのレジャーシートは、二人といっぴきが座っても十分に余裕がある。先生でも寝ころべるんじゃないですか?寝ころんでみてください、と百音が言うので、菅波が寝ころんでみると、少し足がはみ出るものの、膝を軽く曲げればシートの上に収まった。
寝ころべましたね、と菅波が百音を見上げると、青空の下で百音が自分をいとおしげに見下ろしていて、その光景の余りの眩しさに、菅波は頬に朱をはいて、両手で顔を覆う。いきなり菅波がそうふるまうのが百音にはよく分からないながら面白くて、くすくすと笑いながら、また菅波のくせっ毛を撫でた。
百音が菅波の腹の上にサメ太朗をのせてやると、菅波が右手でサメ太朗の背中をぽんぽんと撫でてやる。私は今日スカートだから寝ころぶのやめときます、と百音が言い、あ、じゃあ僕も、と菅波が起き上がろうとするのを、百音が制して、また菅波の髪を撫でる。そうして百音が菅波のくせっ毛の手ざわりを愛でていると、ふと手の下から微かな寝息が聞こえてきた。
青空の下、転寝をする菅波のリラックスした顔に、百音の頬が緩む。きっと、昨日も遅くまで調べ物か勉強をしていた菅波が、8時過ぎには家を出ていたはずで、日々、地域医療の重責を担いながら仕事をしている中、こうして気持ちよく寝落ちするなら、それを邪魔したくない。それに、この寝顔を見れるのは自分だけ、と百音のひそかな独占欲も沸く。
しばし、百音は沖合を貨物船が行きかう東京の海のそばで、菅波の髪を撫でて穏やかな時間を過ごす。ピーとなりかけた呼出ベルの音は素早く切って、菅波の腹のサメ太朗に、先生をよろしくね、と小声で声をかけて、カフェまでピクニックセットのランチを取りに行く。
小走りで行って戻ると、菅波の寝相が変わっていて、腹から滑りおちたサメ太朗が、寝返りうったよ!というようにレジャーシートの上にころがりつつ、菅波にしっかり抱っこされていて。もうちょっとだけ寝かせてあげようね、と百音は笑いながら、レジャーシートの上に、さっき買ったサメの模様の小風呂敷をランチョンマット代わりに広げ、ピクニックセットのホットサンドやデリを並べ、自家製レモンスカッシュを並べていく。
全部の支度が整ったところで、百音が菅波を起こそうと顔を近づけたところで、菅波が「ながうらさん…ももねさん…」と寝言を言うものだから、百音は頬を真っ赤に硬直して。ふたりといっぴきのピクニックは、気持ちの良い風と柔らかな日差しにつつまれて、もうしばらくのんびりと続く様子なのであった。