人の恋路を邪魔する奴は刀に斬られて死ねばいい
高校を卒業するときに、これでこの妙な気持ちともお別れだと思った。
源さんと私は、進学する大学が違う。私は私で自分に無理のない大学を選んだし、源さんは頭がいいのもあって偏差値上位の大学に行くと聞いていた。二人で勉強しているときに特にそういう話をすることはなかったけれど、卒業したらもうこうして過ごすこともないのはわかっている。
でも、それでいいのだ。
女の子を好きになるなんてどうかしてる。きっと、受験とか思春期とか、そういう不安定な年頃の気の迷い。これはそうに違いない。だから卒業したら、忘れてしまえばいい。ちょうどいい節目なのだ。
三年生のときの私と源さんはクラスも違って、私は源さんが名前を呼ばれて登壇するのを既に卒業証書を持った状態で見ていた。入学式のときよりも短くなった紺のプリーツスカートは、源さんの背が伸びたから。もうこうして姿を見ることはないのだなあと思ったのを覚えている。
ホームルームを終えて、クラスメイトとも挨拶をして。私はいつも通りに鞄を持ち、校舎を出た。バス通学だった私はそのままバス停に向かおうとしたのだが、昇降棟の方から「おーい」と手を振ってきたのは源さんのほう。
「酷いなあ、探したのに。どうして何も言わずに行っちゃうんだい」
「……ごめん」
まさか本当にその通りで、挨拶もせずに別れようと思っていたとは流石に言えなかった。これで終わりにするつもり。だから自分が、別れの言葉はないほうが楽だった。
「あのね、昨日弟と一緒に買ったんだよ」
「何を?」
プリーツスカートのポケットを探って、源さんはスマートフォンを出してくる。今の今まで、源さんときたら煩わしいとか言って携帯電話を持っていなかったのだ。
「やっと買ったの」
「うん、そろそろいるなあって思ったから。だからこれ教えてくれる?」
源さんが見せたのは、メッセージアプリだった。まだ連絡先に膝丸君の名前しかない。まるで家族の番号しかない私のおじいちゃんの携帯みたいだと思った。
「卒業式なんだから、クラスメイトと交換して来ればよかったのに。源さんの連絡先知りたがった男子多かったでしょ」
「いいよ別に。持ってないって言ってきちゃったし。ほら、出して。君これ使ってるよね? 見たことあるから知ってるよ」
源さんと同じスカートのポケットに、確かにスマホは入っている。そして同じアプリも。だが出そうかどうしようか心底迷った。
卒業式はいい区切りなのだ。自分のこのよくわからない気持ちとも、この綺麗な女の子ともお別れするいい機会。連絡先なんか交換して、しまったら。
しかし源さんときたら私のことなんかお構いなしにポケットに手を突っ込んでスマホを取り出す。開こうとして出来なくて、こちらに画面を向けた。
「つかないよ」
「……指紋認証だもん」
「じゃあ手を貸して」
細い手が私の手を取って、勝手にスマホに添えさせる。パッとロックが解除された。
「えーっと、どうするんだったかな。んーっと……ああ、思い出した」
パパパッと操作して源さんは勝手に私の連絡先をアプリに登録した。ついでに電話番号まで抜かれる。それから「はい」と私の手にスマホを返した。
「連絡するから、無視しちゃ嫌だよ」
ね、と笑う源さんから目を逸らす。
「別な大学に行くんだよ。そんなに連絡取ることもないって……」
ただ、席が一度だけ前後になっただけの間柄じゃないか。クラスが一緒だったのも、二年生のときの一年だけ。部活だって違うし、家の方向だって違う。ただの高校のクラスメイト、それだけだ。
だから卒業したらお別れする。それでいい、それがいい。そう思って、今日を迎えたのに。
「……えい」
シュルシュルと音を立ててセーラー服からスカーフが抜き取られる。「あ」と声を上げたときには私のスカーフは源さんが手にしていた。
「ちょっと、スカーフ」
「そんなに難しく考えることないよ。僕は君に会いたいから会いに行くし、君もそうすればいい。大雑把にいこう」
自分のセーラーカラーからスカーフを引き抜いて、源さんはそれを私の襟に巻き直す。するすると安っぽい生地のそれが紺の制服と擦れて音を立てる。
「高校生じゃ出来なかったこと、一緒に出来るようになるよ。大人になったらもっとそういうのが増えるね、嬉しいな」
「……大人になっても会うつもりでいるの?」
たかだか、一度席が前後しただけで?
ああだめだ、式でさえ泣かなかったのに。私は慌てて目元を押さえて俯いたけれど、キュッとスカーフを結びなおした源さんは何を思ったかそのまま私に抱きついた。
「当たり前だよ。だって僕は君が大好きだし、君も僕のこと大好きだろう?」
なんで女の子に抱きしめられて泣いてるんだろうだとか、それは友達だからとか色々考えたけれど全部どうでもよくなる。
そのときただ、私はこの子のことが大好きで、恋をしてしまったのだと。やっとストンとそれが心に落ち着いたのだ。
「おはよー、起きてー。そろそろ遅刻だよ?」
「っ?」
がばりと体を起こす。反射で枕元にあったスマホを取り上げて画面を見た。アラームが鳴った形跡がない。代わりにいるのはにこにことしてエプロンまで着けた髭切である。
「えっ、アラームは」
「切っちゃった。起こしてあげようと思って」
「いやならもうちょっと早くがよかった!」
「ふふ、よく眠っているなあって」
笑い事ではない。私は慌てて起き上がった。しかし着替えようとしているにもかかわらずにこにことして髭切が出て行こうとしないので、私はじっとりと髭切を見る。
「着替えるから、出てって」
「ふふ、はいはい」
一人暮らしだが、私の家には寝室とリビングがある。家賃は高めだが、今はそれでよかったと思っている。二部屋ないとこの状況では生きていけない、無理である。
着替えてリビングに行くと、髭切はもう既にお弁当と朝食の支度を終えて身支度を整え始めていた。ドレッサーらしいドレッサーはないので、テーブルの上に鏡を二つ並べて私も先にメイクを済ませることにする。
「ちょっとずれて」
「うん、いいよ」
ずるずると髭切が鏡を退かしてくれた隣に自分のものを置く。髭切は自宅から自分の基礎化粧品を全部持ち込んでいた。なんでも私のものを使うつもりで髭切は荷づくりをしていたらしいのだが、それはやめろと膝丸君に止められたらしい。
「家に世話になるのだぞ、自分のものくらい自分用意せねば」
というのが膝丸君の言、らしい。
「あっ、ちょっとそれ私のアイシャドウ」
「ちょっと貸してー、綺麗な色だったから」
しかしそれが髭切に響いているかと言われれば微妙のようだが。
お互いにメイクポーチを並べているので、がしゃがしゃと髭切がその中を混ぜてアイシャドウを取り上げる。そんな感じでよく化粧水も持っていかれるのだが、そういうときは私も髭切の同じものを使うことにしているので私も今日は髭切のアイシャドウを取った。
「あ、いいなあ今シーズンの新色だ。あれ、発売してたっけ」
「それねえ、弟がくれた。新作だって」
「あ、そっか、膝丸君が。メーカーだもんね」
膝丸君は意外にも意外、化粧品メーカーの営業さんなのである。それも結構大手の。だからたまに私も試供品なんかをもらう。
「気に入ったならあげるよ? 弟に言っておくね」
「え、いいの? 買おうと思ってたんだけど」
「いいよいいよ、そのかわり感想なりなんなり弟に伝えてあげると喜ぶと思うなあ。言ってあげてね」
ふふ、と笑いながら髭切が片目を閉じアイシャドウを塗る。私にはちょっと可愛らしすぎる春色のアイシャドウも、髭切がすればしっくりくるのが流石だなあと思う。気に入ってるならあげるよと言いたくなるくらいだ。
「あ、リップなくなるよ。買いに行こうね」
「ああ、そうね。そうだった」
あまりブランドに頓着せず、基本的に膝丸君が持ってきたものを使う髭切だったがリップグロスだけは私とお揃いのものを愛用しているのだ。するっと塗れて匂いが美味しそうなのがいい、だそうだ。
髪の短い髭切はヘアブラシで簡単にまとめただけで、最後にシュッとスプレーをして終わりにしてしまう。私はまだ少しセットだけしたかったのでヘアアイロンに電源を入れる。その間に髭切は焼いたトーストを皿に乗せていた。
髭切が私の家に転がり込んでから、一週間ほど。まあそれなりの生活は送れていた。髭切は確かにマイペースではありこそすれ、だらしがないわけではない。基本的な生活能力はあるのだ。ただ弟の膝丸君が優秀すぎるために、普段そういった家事をする機会自体がないというだけで。
「はい、今日のお弁当。君の嫌いな茸も入っているけど、ちゃんと食べるんだよ」
「うわ……」
「嫌そうな顔しないの。栄養なんだから」
バンダナで包まれたお弁当を受け取って鞄にしまう。私は別にお昼なんて買ってしまえばいいと思っていたのだが、髭切が来てからはお弁当になった。それは「作ってあげるよ」と髭切が言い出したためでもあり、「僕のも作って」と言い出したのもあり。
とにもかくにも、私の生活は髭切が来てから前よりも規則正しく健康なものになりつつある。何故か。
「今日はいつ頃帰るの? 残業したりしちゃ駄目だよ。寄り道もね」
朝からトーストを三枚もかじっている髭切はもそもそと口を動かしながら尋ねた。あまり朝は食べない私は、早々に一枚食べ終えてお茶を手に取る。
「その時点で定時に上がるしかなくなっちゃうじゃない」
「ふふ、晩御飯美味しいの作るから。あ、でもお買い物に行かないといけないかな」
髭切は楽しげに頬杖を突いてこちらを見つめにこにことした。うちにきてからこちら、至極ご機嫌であった。その分私がげっそりしているとも言うが。何せずっといるのだ、傍に。
「ほら、駅まで一緒に行こうね。手を繋いで行こう」
「いや、いいよ。小さい子じゃあるまいし。忘れ物ない?」
二人ではやや狭い玄関で靴を履く。スペアキーは先日以来そのまま髭切に持っていかれてしまっているため、彼女の革のキーケースの中に仕舞われていた。あれは膝丸君が髭切の就職祝いに贈ったものだ、確か。それでがちゃがちゃと施錠し、早く早くと髭切は私の背を押す。
髭切の勤める会社は私の家からも十分に通える距離にある。まあそれゆえにこれまでも週の半分入りびたりな生活を送っていたわけだ。最寄から一緒に電車に乗って、乗換えがある髭切だけが途中で降りる。
「毎日混む路線だよねえ、君の家の近くって」
「その代わり一本で行けるの」
「それは便利かもしれないけどねえ、もうちょっとこっちにおいで」
ぎゅうぎゅうに詰まってきた車内を見やって、髭切は私のことを引っ張った。カツコツと髭切の高いヒールの音が鳴る。私は肩掛けの鞄を抱えたままで移動し、髭切と向き合ってドアに凭れかかった。こちら側は暫く開かない。
「僕たち、二人でこうやってどこかに通うのって、一緒に暮らすようになってからが初めてじゃないかい?」
「……そう言えばそうかも」
「高校のときは君がバスで、僕は自転車だったものね」
ふふ、と髭切が笑う。確かにそう言われてみればそうだった。これまでは家に入り浸りでも途中で私が昼食のためにコンビニに寄ったりなんだりしていて、きちんと一緒に行くことはなかった気がする。
「一緒に帰ろうよ、君も部活、入っていないんだろう?」
鞄を持って振り返った源さんに、私は何度か目を瞬いた。それから首を振る。
「でも私、バス通学だから」
「……ありゃ、それってだめ?」
きょとんとして源さんは首を傾げる。そりゃあ、駄目だろう。どうやって一緒に帰る気でいるのだ。自転車で併走でもするのか。
「じゃあ途中まで僕の後ろに乗っけてあげようか?」
「途中って、どこまで? 源さんうちと反対方向じゃなかった?」
「うーん、あ、じゃあ君のおうちのほうまで行ってあげる」
「いいよそこまでしなくて」
慌てて私がそう言えば、そう、と源さんは小首を傾げた。まだ長かった髪がふわふわと揺れていたのを覚えている。源さんは普段、剣道部の弟が部活を終えるのを待ってから帰っているのだ。それまで他の部に顔を出していたり、ふらふらと時間を潰しているのを知っている。部活には入っていなかったけれど、私は委員会があったから見たことがあるのだ。
「僕と一緒に弟のこと待つ?」
「いやどうして? それに六時過ぎちゃうとバスが減るの」
それを聞いてどうしようか源さんは首を捻って考えたようだったけれど、最後には手のひらを広げてこちらに見せる。白く長い指だった。
「それじゃあ、また明日だね。ばいばい」
「うん、ばいばい」
ひらりと手を振られて、振り返す。無理をすれば自転車で通えないわけでもない距離だったのを、そうすればよかったかなと思ったのもあのときが初めてだ。
「僕、君と学校に一緒に行ったり帰ったり、寄り道したりしてみたかったんだよ」
今は短くなったふわふわの髪を揺らして、髭切は微笑む。私はガタゴトと揺れる電車の車体に体を預けた。
「寄り道なら、前にあったよ、したこと」
「……ああ、うん、確か、にっ」
カーブか何かで電車が揺れて、ぐらついた髭切がこちらに倒れ掛かる。幸い座席の端に寄りかかっていた私は問題なかったが、髭切のほうは私の横にあった手すりを掴んだ。しかしそれでも他の乗客に押されたのか髭切は私に抱きつくような形でやっと止まる。上背のある髭切に圧し掛かられて、うっと私は呻いた。顔に胸が当たる。
「ごめんね、大丈夫?」
「へ、平気」
あれ、と私は思った。いつもより高いヒールを履いているのか、私の前に立っている髭切を随分見上げていた。だがそのことに違和感がない。むしろこちらのほうが正しいような気さえ、する。反射的に私は髭切が着ているカーディガンの背を握っていた。
「じゃあ、また帰りにね。ちゃんと連絡するんだよ」
耳元で柔らかな声が響き、はっとして私はそれを離す。もう髭切の降りる駅だったらしい。
「えっ、あ、うん、いってらっしゃい」
「いってきまーす」
笑顔満面、髭切は降りていった。その駅で若干乗客が減って、私もすし詰めからは解放される。ふうと息を吐いて視線を車内に移すと、げんなり顔の加州君と目が合った。どうやら座席に座っていたらしい。
「あ、おはよう」
「おはようー、じゃないよ! 何あれ!」
「ああ……今髭切うちに住んでて」
「はっ? 何で!」
それは私も聞きたいくらいだが、教えてくれない。斯く斯く云々で、と誤魔化して私は加州君と電車を降りた。
「髭切は弟が大学に入学したタイミングで家を出たから、今は弟と二人暮らしなんだけど……元々よくうちには遊びに来てたから」
「だからって住む? それも一ヶ月? 何で」
「さあ……私も聞いては見たけど、教えてくれないし」
髭切が気まぐれで突拍子もないことを言い出すのは今に始まったことではないが、流石に訳もわからず家に住まわせるわけにはいかない。膝丸君に連絡を取ってもよかったが、髭切が目の前にいるのに、それを通り越して膝丸君に尋ねることは誠実ではない。……友達として。
「ちゃんと、一月したら出て行くよ」
けれど何を聞いても、髭切は微笑んでそれしか言わない。
髭切がこれまで自分が言ったことを捻じ曲げたことは一度だってなく、嘘を吐いたこともない。だからきっと髭切は一ヶ月の間は絶対にうちに住むのだろうし、一ヶ月経ったら出て行くのだろう。
「考えて、みるよ。髭切は確かにマイペースで我儘なところはあるけど。理由もなく何かするってことはないから」
いつも何か、彼女の中では理由があって行動している。何か考えることや思うことがあるはず。わざわざ私の家に住み込んでまでの何かが。
「……まあ、あんたがどう思うかはあんたのことだと思うから、いいけどさ。でもそれにしたって突拍子もないっていうか、逆に行動力があってすごいっていうか」
「でも案外生活回ってるんだよね。私も驚いた」
「……ふ、あんたずっとお昼コンビニばっかだったもんね。ここ一週間弁当に変わった理由がわかっちゃった」
くつくつと愉快げに加州君が笑って、思わず私はあははと声を上げてしまった。確かに、お弁当箱が日の目を見たのは随分久しぶりなことかもしれない。
「でも彼氏と付き合い始めて間もないのに、それじゃ家にも呼べないじゃん。案外オトモダチの目的はそれだったりして。源さん? あんたにべったりで、恋人みたいだったよ」
同じフロアにはいてもデスクはちょっと離れている加州君が、別れしなにくるっと首だけ回して悪戯っぽく私に言う。
「……まさかあ。それはないよ」
そんなこと、あるはずがない。そんな、都合のいいこと。
一緒に初めて一週間、生活は十分回っている。それも申し分がないくらいに。ただ一つ問題なのは、それが理由で彼氏を家に呼べないことやデートも出来ないことに対して、私が何も苦に感じていないということだった。
職場のシンクで簡単に洗ったお弁当箱を鞄にしまう。明日は私が食事当番だった、何を作ろう。髭切が凝ったものでなくともちゃんとしたものを作るものだから、私も前日から仕込んでおかないと申し訳がないのだ。向こうは気にしていないようだが、こちらがなんとなく、やるせない。
冷蔵庫の中身を思い返しながらタイムカードを切る。あがろうとしたところで、彼氏に呼び止められた。
「お疲れ様」
「ああ、うん。今上がりなの?」
「うん、丁度よかった。飯でもどう?」
「あー……」
残業は駄目、寄り道も駄目、と言っていた今朝の髭切の言葉が過ぎる。私は首を振った。
「ごめんね、用意してきちゃったの」
髭切が食事当番の日は、きっちり夕食を支度しているものだから外でなんて食べられないのだ。それも冷めると冷めるでうるさいので、早く帰らなくてはならない。
「珍しいな。加州君からも聞いたけど、最近弁当なんだって?」
「うん、そうなの。ちょっとね」
どうやら加州君はお弁当なことだけを伝えて、彼には髭切のことは言わないでおいてくれたらしい。それに私は少しだけ感謝した。言いようのない後ろめたさが気持ち悪い。
別に、友達と一緒に暮らしているだけ。高校のときの同級生で、同性の。浮気ではないのに。
だが彼のほうは屈託なく笑って続けた。私と彼とは、駅までの帰路が同じ。
「じゃあ今度から飯は事前に誘わないと駄目かな。それか、食べさせてもらおうかな。食べてみたいし。だめ?」
「そ、れは」
料理が苦手だとか、今練習中だからとか、適当な言い訳なんて腐るほど思いつくはずなのに。私はどうしてもそれが言えなかった。我ながら不器用が過ぎて苛々する。
困って言いよどんだところで、鞄が震えだした。スマホが鳴っている。画面には髭切の名前が表示されていた。思わずピッと切って鞄に放り込む。違う、だめだ、だめだ。
「ごめんね、この間失敗したばっかりなの。もうちょっと上達したら言うね」
「ははは、期待してるよ」
やっとのことでそう言って、私は駅で彼と別れた。
行きと同じだけ混んでいる電車に身を任せる。何をやっているのだ、本当に。どれだけ今まで苦しんだと思っている。髭切に恋をすることで、どれだけ悩んだと。
鞄の中でまたスマホが鳴っている。相手が誰だかわかっているがために、私はそれを取り出しもしなかった。スマホは暫く震え続けて、止まった。どうせ家に帰ったら、髭切はいるのだ。肺に残っていた空気を、はあと吐き出す。
「どうしたんだい、電話も出ずに。具合でも悪くなっちゃったのかと思ったよ」
家どころか髭切は改札に立っていて、私が出てきたのを見るなり両手で私の手を掴む。いつから待っていたのだろう。
「……ごめんね、電車の中だったから。急ぎだった?」
「帰るときスーパーに寄ろうと思って。君も帰ってる頃なら一緒に行けるんじゃないかなと思ってねえ、連絡したんだよ」
「え、じゃあ結構待ったんじゃない」
最初に電話をくれた時点でどこにいたのだろう。私が電車に乗っている時間は三〇分近くある。けれど髭切は「ううん」と首を振った。
「そうでもないよ、僕も電車に乗る前に電話したから」
「あ、そう、ならよかった」
掴んだ私の手を握り直し、髭切は歩き出す。スーパー、私も明日の食材を買ってしまわなくてはならない。
「ねえ、今日何が食べたい?」
「あるもので十分だけど……何があったか思い出せない、え、何があったっけ」
「んーっとね」
じゃがいも、にんじん、それからお米。歌うように髭切が答える。ひとしきり聞いてから私はなんとなく笑ってしまった。
「じゃあ今日はカレーかなあ、丁度材料が揃ってるし」
「いいねえ、そうしよう」
ショッピングカートに籠を載せて、二人であれこれ野菜を見たりなんだりする。髭切はお肉のパックを必要以上に籠に入れようとしていたので慌てて止めた、そんなに要らない。だが聞けば家ではそのくらい食べているときょとんとして言われる。それは男の膝丸君がいるからだろうと反論しかけたが、髭切だって相当量食べるのを思い出してやめた。
食材を買ったら髭切は当たり前のようにお菓子売り場に行って、ぽいぽいといくつかスナック菓子だのチョコレートだのを籠に放り込む。最近戸棚に増えたお菓子の犯人は髭切か。
「お菓子買いすぎー」
「えぇ? 食べるから大丈夫大丈夫。君も一緒に食べようね」
「こんなには食べないよ」
「金曜日に君と夜更かしして食べる用だよ。映画見ながら食べようね」
あははと笑いながらレジへ並ぶ。意外にも髭切はちゃんとエコバックまで持参していた。ブランド物のバッグから取り出されたそれに驚きつつ、膝丸君が常備していると聞いて納得する。確かに、膝丸君ならそうだろう。
「弟とも交代だったから、食事当番」
「え、そうだったの? てっきり膝丸君が全部やってるとばっかり」
「あはは、酷いなあ。ちゃんと交代だよ。僕も弟も仕事があるんだし、いない日だってあるし。昔から、お互いのことはきちんと自分でやってた」
エコバックを二人で肩に掛けて、私と髭切は家まで歩いた。思えば髭切が私の家に入り浸ることはあっても、私が髭切の家に行くことは一度もなかった。だから髭切と膝丸君がどんな風に生活しているのかを、私は知らない。
「洗濯は弟が一緒なのを恥ずかしがるから別。それから料理はねえ、ふふ、弟の作ったお弁当、見せてあげようか」
「え、まあ、うん、興味はあるけど」
鞄からスマホを取り出した髭切はいくらか操作して私に写真を見せる。え、嘘。スマホを受け取って私はぎょっとした。髭切はおかしそうに肩を揺らしている。
そこに映っていたのは所謂キャラ弁。ライオンを模ったなんとも可愛らしく彩りの多いお弁当だった。ウィンナーがタコだ。膝丸君は高校でも硬派で通っていたし、おそらく今もそうだと思っていた私は唖然として口まで開けてしまう。
「うそお」
「本当本当、弟のほうがねえ、こういうの凝って作っちゃうんだよねえ。ウィンナーの形なんて何でもいいのに。女の子は皆こういうほうが喜ぶと思って作ってくれるんだけど、僕はあんまり気にもしないから。会社の女の子は可愛いーって褒めてくれるけど。皆僕が作ってるお弁当のほうを弟が作ったものだと思ってるみたい」
確かに、それはわかる。髭切の作るお弁当は全体的に栄養素だのはしっかりとして作られているのだが、女の子らしい可愛らしさなんかは皆無であった。私もお弁当にそこまでこだわりがないため気になんかしていなかったが、そうだったのか膝丸君……。
「君はウィンナー、タコのほうが食べやすいかい? そうなら次からそうするけど」
「いや、気にしたことなかったかな……」
「そうだよねえ。それより僕は君に茸食べてほしいけど」
クスクスとしながら髭切は至って普通に、キーケースから私の家の鍵を出し玄関を開けた。それからただいまあなんて声を上げる。私はおかえり、と小さくそれに返した。
エコバックから買ってきたものを取り出して冷蔵庫に入れつつ、髭切が食事当番なら私はお風呂でも洗うかななんて考えた。とりあえず部屋義に着替えて、と寝室で服を脱ぐ。すると普通に髭切が部屋に入ってきたので思わず軽く悲鳴を上げた。
「なっんで普通に入ってくるかな!」
「え? 君だし、いいかなって」
「なんで。声くらい掛けてよ」
上半身は下着姿だった私は慌てて部屋着を被った。この間髭切が買ってくれたものがやたらと着心地がいいのでよく着ている。髭切はそれを見て目を細めて笑った。
「お風呂洗ってきてくれるの? 今日は一緒に入る?」
「いやいや、入らないから。日常的に一緒に入ってるみたいな言い方するのやめよう」
「でも僕に見られて困るものなんてあるのかい? 今更」
するりと細い腕が後ろから腰に絡んだ。整ったラインの顎が肩に乗る。甘い匂いがした。
「ないよね、そんなの。あるはずないよ、君と僕の間のことなんだもの」
「……髭切」
「君の髪を洗ってみたかったんだよね、だめ? 僕のも触っていいよ。短いから楽だろうし」
髭切が、あの長くハーフアップにしていた髪を切ったのは大学生の頃。背中の中ほどまであった、長い髪。今でも覚えている。一度私の鼻先を掠めていった細い猫っ毛を。
腹の辺りにあった髭切の手が、するすると服の上から臍から鳩尾辺りをなぞる。私はパッとそれを押さえて振り返った。
「カレー、鍋を火にかけたままじゃ、焦げちゃうよ」
押さえた白く柔らかい手のひらを握って、離す。お風呂を、洗いに行かなくては。
「……一度だけ、寄り道した日のこと、覚えている?」
ポツリとしたその髭切の呟きに、私は答えなかった。
……行かなきゃ、間に合わなくなる前に、行かなきゃ。
自分が馬鹿なことをしでかしているのはよくわかっていた。きっと皆怒るに違いない。いや、そうして当然だ。私だって、もし皆がこんなことしたら喉が枯れるほど叱るだろう。けれどそうしなくてはならない。今間に合わなければ、今走らなければいけないのだ。
「っだめだ! 戻れ、戻るんだ主!」
誰かが私を止めるために叫んだけれど、それでも私は手を大きく広げて立ち塞がった。私の小さな体で庇いきれるかわからない、だからできるだけ腕を伸ばして。
痛みというよりそれは衝撃だった。袈裟がけに走った重い衝撃。けれど守りきれた、それだけはわかる。よかった、間に合った。死なせずに済んだ。斬られると同時に弾かれた私を、背後にいた誰かが抱き留める。
汚してしまった、綺麗な白い上着だったのに。謝らないと。こちらを覗き込んでいる誰かにそうしようとして口を開いたけれど、出てきたのは言葉どころか声でもなく生ぬるい血液だった。
でも、言いたかったな。できるなら、ごめんね以外にもう一つ。たった二文字返せばよかった。けれど今更そう答えたとしてももう、何の意味もない……。
「おはよう、起きてー」
思いの外近くで声がする。耳元でくすくすと笑うようなのも聞こえる。なんだか楽しそうな様子だ。思うように意識が浮かんで行かず、重たい瞼に手の甲を当てた。ふわふわする。
「う、ん……」
「まだ眠いのかなあ、昨日ちょっと夜更かししたからね。でも映画面白かったねえ」
お腹のあたりに巻きついている何かがきゅっと締められて、すりすりと背後から柔らかいものが押し当てられる。温かくて気持ちいい。まだもう少しこうしていたい。
温かい方に体を向けて蹲った。シーツとは違うすべすべした布が顔に当たる。良い匂い卯もした。
「おや……どうしよう。起こそうと思ってたんだけどこれも悪くないし。うーん、よしよし。寝心地はいいかな」
乱れていた髪が後ろに流される。少しひんやりした何かが耳の後ろのあたりに当たったことで、少しだけ頭がはっきりし始めた。首筋の匂いをかがれたところでこれはおかしいと気付いた。
「んっ?」
「ありゃ起きた?」
……? いや何故ここにいる。
「ひっ、髭切、なんで」
髭切は私の家に暮らすようになってから、一応あった客用布団でベッドの下にそれを敷いて寝ている。寝るのは一緒がいいとごねたのだが、それはやめてほしかったのと、背も高く結構しっかりとした体つきの髭切と私とではシングルベッドで眠るのは物理的に無理があった。
それが何故か、今同じベッドに乗っかっている。思考回路が高速で動き始めた。私が今顔を埋めたのは、先程首に当たった冷たいのは。
「なっにしてるのっ?」
半ば悲鳴のような調子で声を上げたというのに、髭切のほうはにこっと笑って上半身を起こす。ぎしりとベッドのスプリングが軋んだ。
「起きたならお出かけしようよ、今日天気もいいから」
見れば髭切はすっかり着替えまで済ませていた。なにやら動きそうな細身のジーンズに、白いゆったりとしたブラウスが眩しい。私はまだパジャマなのだが、と半身を起こすと手を引っ張られる。
「えっ、お出かけって、どこに?」
「どこでもいいよ、君の好きなとこで」
「何それ……」
「とにかく起きて、朝ご飯作ったから。はーやく」
時計を見れば普段出勤するのと同じくらいの時間帯だった。昨日特に何をしたというわけではないが、普段休日はもう少しゆっくり起きる。髭切だってさほど朝に強いわけではないので、ゆるゆると午前中を過ごすことが多かったのだが今日はどうしたのだろう。
ややぼんやりしているところにトーストを出される。髭切は完全に外出する構えであった。
「出掛けるってどこに?」
何か欲しいものがあるだろか、そんな話していただろうか。どこかがバーゲンだとか、そんな葉書が来ていたとか……覚えがないが。
そんな風に考えていると、髭切はにこりとして口を開いた。
「僕とでえとしよう」
「デート?」
私がトーストを落っことしかけたのを、おっとと髭切が押さえる。ついでに垂れかけたジャムを指で掬い取りぺろりと舐めた。
「したことないよね、でえと」
「したことないっていうか」
「ね、僕としよ? でえと」
女同士で? それはデートと定義していいものだろうか? 普通に出掛けるとかショッピングとか、そういう。
「どこがいい? まだ早いからどこにでもいけるよ。君、前に好きって言ってなかった? えーっとあの、海の近くの遊園地、あの、畜生がいる」
「え、そんな、本当にしっかり出掛けるつもりなんだ?」
まさかそんな定番のデートスポットを提案されると思っていなかった。しかし髭切のほうはむっと顔を顰めて頬杖を突く。長い指先で机を叩けば、カツカツと爪が音を立てた。
「でえとだって言ったじゃないか。行く? 遊園地」
「いやそこはちょっといきなりだと体力的にきついって言うか」
「じゃあどこに行く? 晩御飯も外で食べちゃおう、うーんと」
「わかったわかった、とりあえず着替えるから、着替えるから待って」
何を言っても髭切は出掛ける意思だけは曲げそうになかったので、私は慌ててトーストを全て口の中に突っ込み、手だけ合わせて立ち上がった。いや、何を考えてそんな突拍子もないことを。……いや、今まで髭切がしてきたことに前兆なんて殆どなかった。今回の同居だってそうだ。
だからつまりは、今日だって髭切の中では何か考えてデートなんて言い出したわけで。
「服に悩んでいるなら僕が選んであげるよ」
「ヒッ」
コンコンと一応のノックをドアを開けた状態でしてから、髭切は寝室に入ってきた。何も気にすることのない様子で髭切は上から下まで私を見る。この間から着替えの最中にやってくることが多すぎやしないか。
「む、ちょっと痩せたかな?」
「それノックの意味ない!」
私は叫んだが、髭切はそれを全く意に介せずクローゼットを開いた。あれは本気で私の着替えを見たことなど気にしていないのだ。それもそれで何とも言えない気持ちになるのだが。
「あの服可愛かったよねえ、えーっと、どこにしまってあるかな」
「ど、どれ」
カチャカチャ音を立てながらハンガーをあっちにやったりこっちにやったりして、髭切はそこを探る。箪笥だったかなあなんて呟いたけれど、そのうちに目当てのものを見つけたのか、パッと顔を明るくした。
「これこれー」
ひらっと髭切が取り出してきたのは、以前一緒に買いに行ったワンピースである。レースの華奢なデザインで、髭切ならまだしも私にはちょっとと思ってクローゼットの肥やしになっていた。
髭切はハンガーを外してクローゼットに戻してしまうと、それを頭から私に被せる。勢いが良かったので私は思わず肩を竦めた。
「うっ」
「はいはい、袖を通してね」
言われるままに私はそれを着た。くるりと後ろに回った髭切はジーッとゆっくりファスナーを上げていく。ややひんやりとした感触が背中を辿った。
「今日はお化粧も僕がしてあげようか?」
くすくすとしながら髭切は言う。なんだかその声音はとても楽しげだった。一番上までファスナーを上げきってしまって、髭切は留め具を嵌めた。おしまいにぽんぽんと両肩を叩く。
「どうしたの? 今日世話焼きだね」
「ふふ、してあげたいからしているだけだよ。ね、どこに行きたい?」
少しだけ考えた。無難にウィンドウショッピングだとか、ちょっと電車に乗ってカフェなんかでも、私は構わないのだけれど。でもそれは髭切のしたい「デート」になるのだろうか。
何か話したいことがあって、したいことがあって、髭切はそんなことを言っているのではないだろうか。
「……行こっか、遊園地」
「え?」
「そういえば行ったことなかったもんね、一緒に」
でも遊園地に行くのにこのワンピースなのはどうなのだろう。私がうーんとその服装を見下ろしていると、後ろからがばりと抱き着かれる。華奢でも上背のある髭切にそうされると、がくりと体を倒さざるを得なかった。
「車で弟に送ってもらう?」
「いや、それは可哀想だからやめようね……」
電車に揺られて一時間と少し、遊園地に辿り着く。休日の割にはそう混んでいないようにも見えたが、それは開園からもう時間が経っているからだろうか。中に入るのにはそれほど並んでいない。
「海の近くだから風がすごいねえ」
「そうだね、帰る頃には髪の毛パキパキかも」
「ふふ、ぱきぱき」
歩きながら髭切は不思議そうに周りを見回した。まあ確かに、ここは駅から既に別世界に来てしまったような雰囲気はある。
「なんだかんだ初めて来たかもしれないなあ、僕」
しげしげと髭切が珍しそうに華やかなゲートを見つめる。これよりも動きやすい服のほうがいいのではと言いはしたのだが、結局私は髭切の選んだワンピースを着ていた。海風で裾がひらひらと揺れる。提げていたショルダーバッグからお財布を取り出しながら、私は髭切に聞いた。
「小さい頃家族とかでこなかったの?」
「行かなかったなあ、あんまり興味がなかったのかも」
「私は来たなあ、小さい頃と、あと大学生の頃……? 社会人になってからはなかったけど」
「えーっ、なんで僕を誘ってくれなかったかなあ」
むっと髭切が頬を膨らませた。二人で入園チケットを購入してゲートをくぐる。地図を開くと髭切はしげしげと覗き込んだ。初めてならどんなことをするのが楽しいだろうか。定番のアトラクションをとりあえず回る……?
うーんとこちらが考えている隙に、髭切はクンと鼻を動かした。
「美味しそうな匂いがするね」
「え」
「こっちかな」
髭切はぱっと私の手を握ると歩き出す。今日は歩きやすいスニーカーだったためにサクサク進んだ。ぽこぽこと楽しげな音を立ててポップコーンを溢れさせている機械を見て、ぱちぱちと髭切は瞬きを繰り返した。
「美味しそう!」
「食べる?」
「食べる、半分こしよう、あれに入れてもらえるのかい?」
髭切はキャラクターをかたどった容器を指差した。別にそれでなくとも紙のケースもあるのだが、まあ折角だしと容器を買った。こうして実生活で使わないものを増やしてしまうんだよなあと反省しつつ、髭切はにこにことしながらそれを持ち上げているのでいいかとも思ってしまう。
食べるのが好きな髭切のことだ。まあそういうところで楽しんでもいいのかもしれないと考えていた矢先、今度は別な方に手を引っ張られる。
「あれ楽しそう、あれ乗ろうよ、あのぐるぐるしてるやつ」
「ぐるぐる? えっ嘘、絶叫はちょっと」
「早く早くー」
「あっこら、園内を走っちゃだめだって」
あははと笑って髭切はまた私の手を引っ張って走り出す。
ふわりと金色の髪が揺れた。白いブラウスがひらっと翻ったのを見て、何かが私の脳裏を過った。
白い、上着。いや、髭切が今着ているのは上着ではない、女性もののちょっとひらひらとしたブラウスだ。買ったときさえ覚えている。あのブラウスは、去年のバーゲンで買ったのだ。髭切が出勤のときに着るものが欲しいと言って、一緒に。でも違う、私が前に見たのはこの服ではない。
私が見たのは、「この髭切」ではない。
「……どうしたの?」
振り返った髭切の琥珀色の瞳がこちらを覗き込んで我に返る。
何を、言っているのだ。髭切は髭切ではないか。私の、高校のときの同級生の女の子で。それで、私の……。
「何でも、ないよ」
白く柔らかい手を握ると、小首を傾げた髭切も同じようにして握り返してくる。ふわっと甘く柔らかい匂いがした。香水を使っているのかと前に聞いたとき、髭切は「ううん」と首を振った。じゃあこの香りはなんなのだろうといつも考える。
どこか懐かしい、この香りは。
「ぐるぐるするのが怖いかい? 大丈夫だよ、手を握っててあげるから」
「……違うよ、絶叫は嫌だけど」
ありゃあと笑いながら髭切はまた歩き出す。引かれるままに、私はその後ろ姿を追いかけた。
「次はあっちに行こう!」
「ま、待って、スパンが短い、待って」
軽やかな足取りで髭切が進む。楽しげも楽しげ、提げている鞄が髭切が進むのに合わせて一緒に上下に跳ねた。まるで小さい子のようだ。頭には先程買ったカチューシャまでつけているのだからすごい浮かれようだ。ふわふわの熊の耳が付いたカチューシャはお揃いがいいと聞かなかったので私もつけた。正直恥ずかしい。
「髭切、ちょっと落ち着いたのにしない? さっきから並んでばっかりで疲れたし、もう絶叫はいい!」
先程のがかなり効いた私は正直足元がフラフラしているのだ。もともとさほど絶叫は得意ではない。けれど毛嫌いするほど苦手というわけでもない。だがそれは上ったり下ったりのジェットコースターに限る話。つまり急上昇急降下を伴うフリーフォールのようなものはてんでだめ。それなのにこの遊園地の目玉アトラクションがそういうタイプの絶叫マシンだったのだ。
酷い目に遭った。私はげっそりして息を吐く。まだ胃のあたりに嫌な浮遊感が残っている。
ああいう絶叫マシンは、頭をしっかり背もたれにつけてあとは足で踏ん張れば体の浮遊が押えられる。だからそうするしかないと思って私はしっかりと手すりを掴んだ。なんでベルトがこんな車と同じようなものなのだ。もっとしっかりしてほしい。上から下ろす感じの、がっしりしたものがあるだろう。
「怖い?」
私の顔がこわばっているのに気が付いたのか、髭切はこちらを覗き込んで笑った。なお髭切はここまでの絶叫マシン全て楽しげにしていた。なんならジェットコースターは万歳で乗っていた。流石にその勇気はない。
「苦手なのこういうのは……」
「ふふ、じゃあ手を握っててあげる」
するっと髭切は私の手の上から手すりを取る。これでは手を握るというより掴むだが。
「大丈夫、落っこちちゃっても離さないからね」
ね、と小首を傾げる髭切にその落っこちるのがダメなのだと言いかけて……急上昇したのでそこからあまり覚えていない。
「あはは、君が物凄い叫ぶものだから僕も笑ってしまったよ。買えばよかったかな写真」
「絶対に嫌!」
けらけらと楽しげに髭切は声を上げる。心の底から面白がっているな、まったく。
「わかったよ、じゃあちょっと休憩。この下って少しのんびりできるんじゃない?」
髭切は私の手を引くと建物の中を下っていく。確かこのあたりのモチーフは人魚姫だったか。
室内なこともあって、そこは外より少しひんやりして心地よかった。海の中をイメージしたらしく、魚や海草やらを象ったオブジェがたくさん並ぶ中を、髭切は楽しげに進んでいった。そもそもこのエリアの元になった映画を見たことがあるのだろうか、髭切は。よくわからないが、髭切はたまにものすごく世間一般のことに疎いときがあるのだ。
「魚がいっぱいで美味しそうだねえ」
「髭切、人魚姫知ってる?」
「話として? 知ってるよ一応」
一際薄暗くなった、恐らく人魚姫に足を与えた魔女の洞窟を髭切は歩く。このあたりは外と比べて小さい子が多い、特に女の子が。
「足の代わりに声をあげちゃって、どうやって自分だって話をするんだろうってずっと気になってたんだよねあれ」
「ま、まあ。そうね。気持ちはわかる」
王子様は人魚姫の声しか覚えていなかったというのに。どうコミュニケーションを取って、たったの三日間でキスをしてもらうつもりだったのか。大人になって冷静に考えると、気になることがごまんとある。
「おお、鮫だ」
「ぅわっ」
前にいると大きく鮫が映されるらしいスクリーンの前に立っていたらしく、顔を上げるとデフォルメされたそれが視界いっぱいにいて、思わず声を上げて髭切の腕を掴んでしまった。すると髭切は「あっはっは」と笑って私の手をポンポンと叩く。すぐに離そうとしたのだが、髭切が今度はそれを上から押えていた。それどころか腕同士を絡ませるようにしてくる。
また少し歩いて、私と髭切は今度は洞窟や船の暗がりから人魚姫の秘密基地までやってきた。そこは先程とうって変わって明るく海の中にいるようなライトに照らされている。
「真実の愛のきす、だっけ? 三日のうちにそれをしてもらわなきゃいけないんだよねえ」
「そうそう。じゃないと魔女に姿を変えられちゃう」
「うーん、やっぱりそれってすごい負け戦だよ。だって君、会って三日で誰かのこと好きになれる?」
私はちょっと、苦笑い。
……だって私は、ほぼ一目惚れだったのだから。
「さあ……わかんないけど。でもまあ、万に一つに賭けたい気持ちだってあるよ」
人魚姫が大切に集めていた人間界の何でもないもの。上からのライトで、足元にはゆらゆらと水面が煌めく。反射して光る硝子片やフォーク。私たちにとっては何でもないものだけれど、きっと人魚姫にとってはもっと別な特別なもので。
「じゃあ君は何だったら賭けられる?」
私と腕を絡めたまま、髭切は体を屈めて顔を覗き込んできた。そのあたりにある貝を象ったオブジェより綺麗な桜色の爪が頬を撫でて、くすりと笑う。
「万に一つの可能性に、君は何を賭ける? もしも、望んだものが手に入るなら」
髭切のアイシャドウをきらきらとライトが反射する。甘い匂いが少しだけした。私と同じリップグロスのものだ。
「……僕はね、もし、もしもそれが叶うなら」
僅かに開いた唇から、尖った犬歯が覗いた。
「これ何に使うか知ってる?」
唐突に響いた歌うような声に、びくっと肩が跳ねる。そちらを振り返ると、箱を開けると自動で流れる音声のようだった。後ろで遊んでいた子どもが開けたらしい。
「僕知ってるよ、それはふぉーく」
にこっと笑って髭切が私越しに答える。顎が見事に肩に乗っていて重い。
「違うよお姉ちゃん、他にも入ってるよ」
「え? あ、ほんとだ。結構ちゃんと作ってあるんだね。ほらほら君も」
腕を引っ張られて私もその子と一緒に銀食器のケースを眺める。いや本当にしっかり作りこんであるな。髭切はしげしげとそのフォークの歯を指でなぞった。
「フォークじゃ髪は梳かせないよねえ」
「いや髭切くらいの短さなら、って思ったけど痛いね普通に」
「やっぱり餅は餅屋だよ。ちゃんと櫛使わないと。君は真似しちゃだめだからね」
子どもに向けて髭切がそう言えばその子は「しないよ」なんて結構あっさり言って行ってしまった。近頃の子は世知辛い反応をする。
「あはは、行っちゃったよ。僕らもそろそろ休憩終わりにして行こうか」
「……そうだね」
もしもそれが叶うなら。私は、何を賭けられるだろう。想いを伝えられるなら、振り返ってもらえるかもしれないなら、私は。
「あ、あの乗り物楽しそう! ぐるぐる回るやつ!」
「コーヒーカップはやめて、酔うから本当に、本当に嫌!」
ぎゅっと腕を絡めたままで髭切はまた歩き出す。
髭切は、何を賭けるつもりだったんだろう。言いかけたことを聞き直す勇気はなかった。。
元々髭切は体力がある方だなあと思っていたが、ここまでとは予想外だった。おかしい、昨日は普通に私と同じように働いていたはず。何なら映画を見てから就寝したのだから、ベッドに入ったのは気持ち遅めだった。それなのに何故こんなにパワフルなのか。
「も、ちょっと無理、休ませて休憩!」
日が陰り始めたころ、私はついに白旗を上げて叫んだ。首からポップコーンの容器を下げた髭切が振り返る。
「えぇ?」
「あれ、あのおやつ買ってあげるから!」
私は髭切の手を引っ張ってワゴン車に連れて行った。シナモン味の揚げ菓子を一つ買い、受け取って髭切に渡す。それから傍のベンチに座った。足が棒になりそうだ。ワンピースとはいえ、フラットの靴を履いていてよかった。ヒールなんてあったら堪ったものではない。
はああと息を吐いて脱力していると、ごそごそとジーンズのポケットを探った髭切がスマホを取り出した。揚げ菓子を持ったままぽちぽち何かを操作してカメラをこちらに向ける。
「はい、こっち向いてー」
「え?」
カシャとシャッター音が響いた。どうやら写真を撮ったらしい。なんのカメラアプリを使わなくても髭切は美人なのだが、私はそうでもないのでちょっと加工くらいしてほしかった。もそもそと細長い揚げ菓子を食べながら、髭切は片手でその写真を誰かに送りつけている。
「膝丸君?」
「そうそう、でえとだよって送っておいた」
シュッとすごい勢いで既読が付き、返事が返ってくる。見るのが早い。
「ふふ、遅くなる前に帰るのだぞ、だって。必要があれば迎えに来てくれるみたいだよ?」
「お父さんみたい、平気だよって言っておいてね。帰りも電車で帰ろう、混むかもしれないけど。髭切は嫌?」
生真面目な膝丸君が、腰に手をやってそう言う様まで想像できて笑ってしまう。髭切もくすりと笑って、わかったよと答えた。
「ううん、平気。君がそうしたいならそうしよう。同じ家に帰るんだもの」
同じ家、か。私は投げ出していた足をずりずりと戻した。明日はきっと、酷く痛むだろう。起きるのだって昼くらいになるだろうし、そうしたら一日部屋着でのんびり過ごすことになる。髭切はここぞとばかりに布団から抜け出してベッドに這い上がってくるかもしれない。前に夜更かしをした次の日もそうだった。
でもそれも、あと半月もない間のことだ。
髭切が家に転がり込んできてからもう、二週間と少し。本当に一月で出て行くのならそうなる。同じ家に暮らすのは……。
「髭切」
「ん? なあに?」
何のために同居なんて始めたの?
どうして今日はデートなんかに連れ出したの?
明らかにしなければならないことは、たくさんあるのに。
「君も食べたかった? ほら、口開けて」
揚げ菓子を髭切は私に持ってくる。そういうわけではなかったのだが、かぱりと口を開いた。美味しい。
「……胸のとこ落ちてる、シナモン」
「ありゃ、取って取って」
白いブラウスの胸元をぽんぽんと叩いた。こするとシナモンがついてしまうだろうかと思ってそうしたのだが、私の倍近くあるサイズのそこは軽くそうしただけで揺れる。なんだか申し訳ないことをした気分になった。
「ごめん」
思わず謝れば、髭切はきょとんとして首を傾げた。
「え? 何が?」
「いや、なんでもない」
謝るのも変な話だっただろうかと思っていると、髭切は自分の胸元を見てにやっと笑う。悪い顔をしている、非常に悪い顔をしている。
「ふふ、ちょっとどきどきした?」
「そういうんじゃっ、ないから!」
「別にいいのになあ、君が触りたいなら触って」
こんなことされたら、若い男の子なんかはコロッと落ちてしまうのだろうなあ。ちょっとくらくらとしながら私は額に手をやる。この一月は流石にそんなことないようだが。
「だーっから、もう、そういうこと軽々しく言わないの! もう食べた? 次どうする?」
揚げ菓子を包んでいた紙をくしゃくしゃと丸めてしまうと、髭切はうーんと考えた。空は赤紫の夕暮れから藍色の夜になろうとしている。閉園までもう少しあるが、ギリギリまで髭切は遊び倒すだろうか。
「ねえ、夜になると花火があるんだろう?」
「え、あ、うん。そうだね。風が強くなければ」
海だからどうかな、と私が言えば髭切は空を見上げた。金色の髪がふわふわと揺れる。
「どこかでそれ、ゆっくり見られないかな」
「花火? 見たいの?」
「うん、君とね」
また手を繋いで、髭切は先にベンチから立ち上がった。
「でえとで花火って、定番じゃないのかい?」
笑って髭切は歩き出す。やっぱり、何か話したいことがきっとあるのだろう。私は提げていたショルダーバッグの肩紐を掴んだ。
どこもかしこもワイワイと人の賑わっている園内をうろうろとして、途中スタッフの人に花火はどこからならよく見えるのかなんて聞きながら暫く歩いた。笑顔が百点のお姉さんがこっそりと、「そこの建物の上の窓が実は穴場なんですよ」なんて教えてくれたので私と髭切は二人でそこに立った。まだ花火までは少しある。私には丁度いい窓辺も、背の高い髭切は少し屈んで寄り掛かった。
「はあ、今日は遊んだねえ」
「そうだね、いきなり来たけど結構色んなことしたかも」
穴場だというお姉さんの言は嘘ではなかったようで、ここには誰も来なかった。花火より少し早い時間なのもあるかもしれない。園内にかかるゆったりとした音楽を聞きながら、私はすっかり暗くなった空を見る。イルミネーションで、明るいここでは流石に星は見えなかった。
「あ、そうだそうだ。君にこれあげるよ」
ポップコーンの容器を窓辺に置いた髭切は、ごそごそと鞄を漁る。それからいつ買ったのやら、可愛らしいショップの袋から熊のペアストラップを取り出した。べりっと包装を剥がすと髭切はその片方をこちらに差し出す。
「はい、ちゃんとつけてね」
「これ、いつ買ったの?」
「さっき君がお手洗いに行ってる間。可愛かったから。えーっとどうやって付けたらいいかな、穴はどこかな」
髭切は頭にリボンのついた熊のキャラクターを持って、スマホをひっくり返している。ストラップホールが見つからないらしい。私は笑ってそれを取りあげた。
「ここに付けちゃいなよ」
ケースに開いていた穴に紐を通し、ストラップをくくりつけた。ちょっと大きくて邪魔かもしれないが、まあ自分で選んできたのだから付けるだろう。返すと、髭切はスマホを持ち上げてちょっと振る。熊はゆらゆらと左右に揺れた。
「……ふふ、ちょっと大きいね。君のもつけてあげるよ」
同じようにケースに穴がついていたのを見つけて、髭切は私のスマホにもストラップを通した。社会人になって可愛すぎるかもしれないが、まあいいだろう。
「膝丸君にはよかったの?」
「ん? 買ってあげたよ、似たような色の猫がいたから」
「お揃いが良かったって言うかも」
「それはどうかなあ」
あははと髭切は笑った。
ちょうどそのときに、ヴヴと手にしていたスマホが鳴る。私はもちろん髭切もその画面を見た。
「……あ」
つい、反射的にスマホをパッと隠すようにして引いてしまう。
彼氏だった。今日は連絡を取ってもいなかったから、向こうからしてくれたのだろう。視線が自然と下がって、窓辺に寄り掛かっている髭切の腕と腰のあたりしか見えなくなる。
後ろめたく思う必要なんて何もない。だって私は今、友達と遊びに来ているだけ。そんなのよくあることだ。だからこんな風に隠す必要も、口を噤むこともない。ましてや気まずく思うことも、このあと何と言って説明するか考えることも。
そうであってはいけないのに。
「……前に、一度だけ寄り道したの。君は覚えてる?」
口元しか見えない髭切が言った。
忘れるはずもない。私がその「寄り道」を、忘れてしまえるはずがない。
私に初めて彼氏が出来たのは、大学一年生のときだった。同じ学部の男の子で、いつもにこにことしてとても優しい人だった。講義を一緒にとったり、時間割が合えば空いた時間で自習をしたり、休みには普通にどこかへ出掛けたりもした。ごくごく普通の、大学生のカップルだったと思う。
好きか嫌いかで言えば、もちろん彼のことは好きだった。傍にいて落ち着く人で、初めて出来た「彼氏」だったこともありちょっと連絡を取ったりデートをするだけで随分どきどきした。あれだって、立派な「恋」だったと思う。
でも、その人とは二年生の頃に別れた。理由は、私が連絡もなしにデートをすっぽかしたことである。
「おぼえ、てるよ」
「そりゃあそうだよね、僕もだよ。髪が随分軽くなったから」
あの日、私は彼とデートをするはずだった。もう何度目かのデート、いつもの場所で待ち合わせて、何でもない予定だったけれど二人で過ごすはずで。それが心地よくて。
けれどその日、私が待ち合わせ場所に向かったとき。彼と私との間たったの五〇メートルもない距離に立っていたのは髭切だったのだ。
長かった髪をバッサリと切っていた。その前に会ったときは腰まであった金色をしたふわふわの髪。高校生の頃はハーフアップにされていたそれが、丁度項のあたりまで。ボブヘアにも満たないショートヘアに。
「なんでここにいるの?」
そう問えば、髭切はにこりと笑った。
「どこかに行く前に、僕と寄り道しようよ」
「え……」
雑踏だったのに、人はたくさん他にもいたのに。カツンという髭切の履いていたヒールの音まで覚えている。髭切はそのまま駆けて私の手を握り、私の来た道を戻り始めた。彼と目が合う、驚いた表情をしていた。
振り払うことなんてできたはずだったのだ。髭切の手を、振り払って彼のところに行くことは簡単だった。けれど私はそれをしなかった。
自分の意志で、しなかったのだ。
「どうしてあの日僕が、君を寄り道に誘ったのか、わかる?」
「……」
花火までは、あと少し。今いる建物の下も他の来園客で賑わってきた。私は顔を上げられないでいる。
「ねえ、君」
きゅっと白い手が、私のスマホを掴んでいる指を握った。ヴヴと再びバイブが鳴った。薄暗い中で液晶画面の灯りが光る。メッセージは見られない。
「こっちを向いて」
もう片方の手が伸びてきて、指が頬をなぞった。ついと丸く整えられた爪が唇を引っ掻く。トップコートの塗られたその指先は滑らかな感触だった……けれど。
ちかちかと別なものが私の脳裏を過る。昼間と同じだ。あの白い上着と同じ既視感。
見たこともないはずの上着、いつもより上背のある髭切。いつか私の唇にこうして触れたのは、頬をなぞった手のひらはもっと大きかったはず。私の頭をすっぽりと覆って、節だって力強い、別な……。
「んっ」
ぷちゅ、とリップグロスが音を立てた。高く筋の通った鼻がぶつかる。琥珀色の瞳は閉じられておらず、真っ直ぐに私の目を見つめたままだった。長い睫毛が頬に当たる。髭切と私は揃いのリップを使っていた。だから今ほんのりとするこの甘い味が自分のものなのか、髭切のものなのかはっきりわからない。
「ひ、げきりっ!」
柔らかい胸を押し返した。ふわりと金色の髪が揺れる。あの「寄り道」で切って以来一度も、髭切は髪を伸ばしたことがなかった。
「何するの!」
「……何って、だめだった?」
「だめも何も、髭切も私も、女で」
「それってそんなに重要なこと?」
怒っている風ではないが、笑ってもいない。髭切は淡々とそう言った。花火があと五分ほどで上がると園内のアナウンスが流れる。
「僕はそれでも、君のことが好きだよ」
唇が離れても、髭切は私の手を握ったままだった。スマホごとそれを押えている。
「……やめて」
「ねえ、大雑把に行こうよ。君は僕のこと、好きじゃないの? 女の子だったらだめなの? 女の子だから、僕のこと好きじゃないの?」
「違うっ!」
反射的に叫んでしまい、私は自分の口を押えた。ガツンと音を立てて持っていたスマホが石畳に落ちる。先程髭切が付けてくれたストラップが跳ねた。
「何が、違うの?」
夜風にそよぐ、髭切の髪。長くてぱちぱちとした睫毛と、私よりずっと柔らかくてつやつやとした唇。背が高くて、胸も大きいけれど体つきは華奢というよりは案外しっかりしている。だから腰回りや足は筋肉質でしなやか。
私はそういう女の子に恋をしたのだと、思った。髭切が綺麗で、眩しくて。だから惹かれたのだと。
でも違った。そうではなかった。
「なんで、ねえ、私なんで」
「……うん」
「なんで私、髭切のことが好きなのかなあ……っ」
違う。違うのだ。本当はずっと、違った。
私は、女の子に恋をしたわけではない。恋をしようと思えば、男の人にだってそうできたのに、それなのに。どうして私は。ただ、「髭切」のことが好きで。でもそれが何故だかとても怖くて、悩みをすり替えた。女の子に恋をしたのがいけないのだと思い込もうとした。
ぼろぼろと涙が零れて、私は髭切に両手を握られたまま屈みこんだ。じゃり、とフラットの靴が僅かな小石と石畳を擦って軋んだ音を立てる。
「やっぱり、いつも君は同じことで悩むんだね」
ぽつりと髭切が呟いた。顔を上げると、同じ視線の高さまで髭切は膝を折った。しかし片膝を着くような座り方だ。私の両手を握り、引き寄せる。
「前は、刀だからって泣いてた。ヒトじゃないからって、君は」
「か、たな……?」
「うん、そうだよ」
パッと黄色い光が髭切の顔を横から照らす。窓から差し込む、花火の一瞬の煌めき。夜空に散る火花。
フラッシュのように絶えず色とりどりの光が何度も何度も弾ける。その度に私の心の片隅で同じように繰り返し、繰り返し何かが点滅する。ドンドンという破裂音が、爆ぜる火花が。カンカンと鎚で叩く音と被る。鉄を打つ、あの音。
「ひ、げきり」
片膝を着いて座る髭切の姿に、別な男の人の面影が重なる。
白い上着に大きな手をした、刀の面影。
「……うん、だからね。今生においても僕が君と結ばれる体を持たなかったのは、やっぱり罰なんじゃないかって、思うんだよ」