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    ②考えることが多すぎる


     彼女のことを好きでもいいことになった。
     ただし、村雲が彼女よりも強くなれれば、だけれど。
    「……強くって、どういうことかな」
     顎に手を当てて松井が呟く。風呂上がりで頭にぐるぐると手ぬぐいを巻いている。ついでに顔を保湿をしながらである。
    「物理的にはもう強いわけでしょお? 主は米袋も持ち上げられないし。村雲は一応持てるよねえ」
     桑名も同様に手ぬぐいで前髪を上げつつ、首を傾げながら村雲に尋ねた。買い出しのときを思い出しながら、村雲は微妙な気持ちで頷く。
    「持てる、けど」
     負け犬とはいえ村雲だって刀剣男士の端くれである。普通の人間よりは遙かに優れた身体能力を肉体に備えてはいる。ただ打刀という刀種の性質上、勝てたり勝てなかったりする相手はいるかもしれないが。
     しかし篭手切が拭いた眼鏡を掛けながらおずおずと切り出した。
    「ですが審神者の方は、就任の際にある程度政府で研修を受けて護身術を納めると聞きました。それに主は体力だけなら十分にあります」
    「えっ、そうなの」
     篭手切は眼鏡を中指で押し上げつつ、申し訳なさそうに付け加えた。篭手切は江の中で一番に顕現した刀剣男士だ。彼女のことについて、知っていることも多いだろう。
    「前に、時間さえあれば今剣さんの鬼ごっこに午後一杯付き合える程度と聞きました……」
     サッと村雲の顔が青ざめる。あんな飛んだり跳ねたりするのに、午後一杯。
     なんだかくらくらしてきた。負け犬の自分が頑張っても意味はないのでは。いやそうは言っても諦められないのだから、弱音を吐いている場合ではないのだけれど。
    「ですが、諦めないのですね。雲さん」
    「雨さん……」
     隣に座った五月雨が、同じく湯上りで手ぬぐいを持ったままどこか嬉しそうに微笑む。どうぞとフルーツ牛乳を差し出された。ちなみにまだ村雲は風呂を済ませていない。
    「雨さん、ありがとう……」
     受け取って両手で持って飲む。ほんのり甘くて美味しい。だが五月雨はうんうんと何度も頷きながら続ける。
    「ええ、いいことだと思います。恋は季語です。心が動きます。きっといい歌が詠めるでしょうね。ぜひお聞かせください、楽しみです」
    「……雨さん?」
     なんだか別なことを期待されている気がする。だが村雲が呆気に取られている間に、昼間同様バンバンと豊前が背中を叩いた。
    「まあわっかんねーけど。とりあえず加州に近侍でも代わってもらったらどうっちゃ?」
     あ、なるほど。それはそうだ。近侍は審神者の最も傍らに仕える立場。彼女より強くなる云々はとりあえず置いておいても、彼女との時間は確保できる。
     と、言うことで村雲は今加州に頭を下げている。
    「そういうことなので近侍を代わってください」
    「は? 嫌だけど」
    「えっ」
     即答で断られた。それどころか加州はどこか胡乱な目つきで村雲の方を見つめている。
    「俺やめとけって言ったじゃん。何直談判しに行ってんの。懲りてないの?」
    「だ、だって、諦められなくて」
    「諦められないからってそうなる? 言ったじゃん俺、主は頑固だからって。っていうか俺あんたに協力なんかしてやんないよ」
    「えっ、なんで」
     昨日の態度からてっきり力を貸してくれるものと思っていた村雲は、慌てて踵を返した加州について行く。頭一つ分くらい村雲よりも小さい加州は、てきぱきと廊下を進んだ。
    「主とあんたとなら俺は主に味方するから。主があんたが自分より強くなるまで考えないって言うなら、俺も主と同じように村雲を見極める」
    「えぇ? そうなる?」
     くるっと村雲の方に振り返ると、加州は眉を上げてにやぁっと笑った。
    「だからまあ、頑張りなー?」
     ひらっと手を振り、加州は執務室に向かってしまう。近侍でもなければ用もない村雲は、執務室には行けない。
    「くっそぉ……」
     廊下で一振、村雲は呟く。
     前途多難である。


     村雲江はとても幸せな恋をしていた。過去形なのは、現状その恋は問題が山積みだからである。そもそもこっそり主のことを好きでいたつもりだったのに、同じ江のものだけならまだしも近侍の加州にも思いはバレバレであったし、彼女自身にも薄っすら察せられている始末。どうやら隠せていると思っていたのは自分だけらしい。
     それにしたって、どうする。村雲はうぅと唸りながら廊下に屈みこんでいた。
     振られて一度は持ち直したかに見えた恋も、いきなり壁にぶち当たっている。そもそも彼女よりも強くなるって一体なんだ、何なのだ。
     篭手切曰く、彼女は政府で護身術を会得していて、体力もあって、落ち込んでいるところなんて見たことがないし、体調を崩していることだってない。村雲より弱い点が今のところどこにもない。
     これは無理じゃないのか、彼女より強くなるなんて。
    「うぅう……お腹痛い……」
     失恋したと思って一日中胸が痛かったときよりは遥かにましな体調ではあるが、考えることもやるべきことも多すぎる。一体何から手を付けたらいいかすらわからない。それに努力したところで彼女より強くなれるか疑問だ。こんな二束三文の負け犬に何ができると言うのだ。近侍も加州に断られたし。
     ぐるぐると考えながらしゃがんでいると、トントンと肩を叩かれる。顔を上げて村雲はぎょっとした。
    「雲さん、どうしたの? またお腹痛い?」
    「あっ、ぅ、主」
     上から彼女が、屈んだ村雲の顔を覗き込んでいる。手には書類綴じを持っていたので、備品倉庫かどこかから執務室に戻るところなのかもしれない。
    「お腹痛いのにこんなところでしゃがみ込んでたら余計体冷えるよ。執務室来る?」
    「えっ、い、いいの?」
     でも、強くなってから考えると言われたのに。だが彼女は苦笑して体を起こす。
    「私より強くなってからとは言ったけど、具合悪いの無理しろとは言ってないよ。よかったらおいで。温かいお茶すぐに出せるから」
    「いっ、行く、行くっ!」
     勢いよく村雲は立ち上がった。戦装束だったので、彼女がちらりと村雲の後ろを見てくすくすと笑う。
    「え、なに?」
    「尻尾」
    「えっ、あぅ」
     ばたばたと忙しなく揺れているそれを上から押さえる。全く、勝手にはしゃぐのだから仕方のない尻尾だ。
     彼女の後について執務室に行くと、加州は見回りに出ているのか刀剣男士は誰もいなかった。彼女は書類綴じを文机の上に置くと、戸棚から湯呑を取り出す。
    「普通にお茶でいい?」
    「うん、ありがとう」
     何かできることはないかと村雲も首を回したけれど、お茶の支度は彼女が一人で済ませている。けれどこのままというのも。さらに部屋を見渡して、ふと先ほど彼女が置いた書類綴じに視線が留まった。村雲はそのすぐ隣にあった紙束に手を伸ばす。
    「……あれ? すごい、早いね」
     少しして湯呑を二つ手に戻ってきた彼女に声を掛けられる。集中していた村雲は慌てて振り返った。畳の上には用途ごとに分けられた領収書が並んでいる。
    「ごめん、触っちゃだめだった?」
    「ううん、ちょうど仕分けようと思ってたところで。ありがとう、よくわかったね」
    「よく主が分けるところ見てたから」
     領収書の仕分けは村雲が執務室で休ませてもらっているとき、たまに彼女がしていた作業だった。彼女の顔をじっと見ているのは気恥ずかしくて、よく手元を見つめていたのでなんとなくどう分ければいいのか覚えていた。
     彼女に湯呑と交換で留め具で小分けにした領収書を手渡す。
    「どうもありがとう。どうしても面倒になってこういうの後回しにしちゃって。助かるよ」
    「ううん」
    「おやつ食べる? お腹痛いならやめておく?」
    「食べる」
     腹痛はもう引っ込んでいた。焼き菓子の包みを剥いて食べる。美味しい。ぺりぺりと彼女も包み紙を取って、同じように口にしていた。
    「今日は雲さん、非番だったよね。あんなところにいて何か用だったの?」
    「う、ん、いや、ちょっと、ね」
     まさか加州に近侍を代わってほしいと頼んで断られたとは言えない。味方をしてくれると思ったのが甘かった。味方してくれたらこの上ないくらい心強かったのだが……。ちょっと焦げたところが口に入る。苦い。
     もちろん近侍を変える権限は彼女にあるため、彼女に直接お願いすることも可能な事柄ではあるのだが、村雲は言うまでもなく経験で加州に劣る。しかも加州は既に修行を終えて極の姿となっており、能力でもかなりの差をつけられている。交代できる要素がない。
     はぁあと小さく息を吐いた。考えれば考えるほどどん詰まってしまう。
    「雲さん?」
    「うっ、ううん、なんでもない」
     尋ねてきた彼女に慌てて首を振る。とはいえ、近侍を代わってもらえなかった以上、また何か考えなければならない。今度はお腹ではなく頭が痛い。
     そもそもなぜ近侍になろうとしていたのだっけ。ああそうだ、彼女との時間を確保しようと思って、それで。近侍でなければ、こうしてお腹の痛いときに執務室を訪ねるのがせいぜいなのだ。本丸には刀剣男士も多いことだし……。
    「それで、何かいい案思いついた?」
    「ぅえっ、んぐっ、うっ」
     まさに悩んでいたことを言い当てられた村雲は、喉に焼き菓子の突撃を食らって噎せる。それを見て彼女も焦って村雲に飲み物を手渡した。
    「お、お茶! お茶飲んで!」
    「うっ、ん、ぅう……」
     胸元を叩きながら小麦粉の塊を奥に押し込む。ゼイゼイ言いながら村雲はお茶を飲み干した。程よく冷めていてよかった。
    「な、なんでいきなり」
    「昨日の今日だから、考え事してるならそれかなと思って……」
     気まずそうな顔で、彼女は村雲にお茶のお代わりを注いで渡した。図星だったのだからなお悪い。そのうえいい案は思いついていないのだ。
    「何にも思いついてない……」
     立てた膝に腕を回し、じっとりとした目で村雲は彼女を見つめた。しかし頑固な彼女のこと、こちらのことなど一切気にせずに自分のお茶も用意し始める。
    「そうだよねえ」
     そうだよねえって、あまりにも素っ気ない。むすっと村雲は口を尖らせた。
    「……ちょっとくらい手掛かりとかくれてもいいと思うんだけど。お腹も痛いし」
    「それじゃ私より強くなれないんじゃない?」
    「だって、一応、主の問題でもあるのに」
     そう呟けばやっと彼女はこちらを向いた。どきりとして村雲はちょっとだけ座ったまま後ずさる。あまり、彼女に直視されるのは得意ではない。どうしてもどきどきして緊張してしまうのだ。
    「……無理しなくたっていいんだからね」
    「え……?」
     ひどく神妙な、やはりまだ逡巡した表情で村雲に向かって彼女は言った。
    「無理、って」
    「昨日は、ああ言ったけど。でも私も、自分の気持ちを変えるつもりはないから」
     ここで、刀剣男士が安心して幸せな生活を送れるように強い主になること。そのために他に脇目を振ることはできないということ。
     ぐっと村雲は唇を噛み締めた。 
     その彼女の目標を曲げてくれとは、村雲は言えなかった。だってそれは彼女が頑張っていることなのだ。ここでずっと、それこそ全身全霊を傾けて。
    「だから本当に、無理しなくても」
    「やっ、やだ。嫌だよ」
     彼女の言葉を遮って村雲は言った。
    「昨日、主より強くなれればいいって言ったんだから。絶対嫌だよ、絶対諦めないから」
     ぎゅっと唇を引き絞って主張する。彼女が努力しているのはわかっている。けれど同じように、村雲だって諦めないと決めたのだ。お腹が痛くても、胸が痛むよりましだったから。だから頑張るのだ。
     現状、何のいい案も思いついていないけれど。
     少しの間、彼女はじっと村雲の方を見ていた。何か言いかけようとしたので、村雲はぎゅっと彼女の服の裾を握る。そのうちに彼女も諦めて肩の力を抜いた。
    「……頑固なんだから」
    「……主が頑固だからだよ」
     ぱさぱさと音がする。どうせ尻尾が揺れて畳の上で擦れて音を立てているのだ。彼女もそれに気づいて村雲の後ろを見、それから少し笑った。村雲も抱えた膝の上に顎を置いてその笑顔を見つめる。
    「ねえやっぱり手掛かりくれない?」
    「……だめだめ。それじゃ意味ないよ」
    「うー……」
     やっぱりそうかぁと村雲は顔を顰めた。彼女自身からなにか手掛かりがもらえるならそれが一番だったのだが、そうはうまくいかないか。
     膝の上に額をこすりつける。するとしゅんとした村雲を見て彼女が少し微笑んだ。
    「考えるの苦手?」
    「苦手だよ。いまいち何も思いつかないし、正直何をどこから手を付けたらいいかもわからないし」
    「まあ誰にでも苦手なことあるよね。私もさっきの領収書整理とか苦手で。いつも最後に回しちゃうから月末困るんだよね」
     ……ん?
     苦手で、困る。
     ハタと気づいて村雲は膝から顔を上げた。
    「苦手なこと、あるの?」
    「そりゃあ、私だってできないことの一つや二つあるよ。いや、数えきれないくらいあるか」
     苦手なこと、苦手なこと……そうか。勢いよく村雲は立ち上がった。
    「ちょっと用思い出したから! またね!」
    「え、でも一杯茶良くないよ」
     そう言われて村雲は再び座る。それはそうだ。
     彼女が注いでくれたお茶を焦って飲み干す。今度は少し熱い。
    「ごちそうさま! またあとで!」
    「うん、またあとでね」
     手を振った彼女に同じように手を振り返して、村雲は江の部屋に駆け戻る。今は誰がいるだろうか。桑名は太陽が出ている時間帯なので畑、松井は今日は事務仕事を手伝うと言っていたし、篭手切はいつもどこかしらに駆り出されていることが多い。豊前はれっすんまで大抵遠乗り、となると部屋にいるとしたら。
    「雨さん! いるっ?」
    「はい」
     本に目を落としていた五月雨が顔を上げる。よかった、五月雨も五月雨で外に出る方が好きな質なのだ。下手すると無刃だった、五月雨がいてくれてよかった。
    「どうしたんですか、そんなに慌てて」
    「あっ、雨さん、雨さん聞いて」
    「雲さん、加州に近侍は代わってもらえましたか」
    「ううん、それは、無理だったんだけど。でも、主、領収書の仕分けが苦手だって!」
     いや、苦手なことを嬉しそうに言うのも気が引けるのだけれど、今の村雲にとってそれは唯一の光明だった。
    「領収書の、仕分けが」
    「うん! それに他にも苦手なことあるって。だから俺、主の苦手なこと得意になったらいいんじゃないかって思うんだけど」
     ぱたんと五月雨が手にしていた本を閉じる。それから何度か頷いた。
    「なるほど、確かに。頭の苦手なことを習得すれば、その点では雲さんのほうが強いと言うことになりますね」
    「そうだよね!」
     我ながらいいことを考えたものだ。五月雨に肯定されると、村雲は自信が持てて嬉しくなる。
     ただこれには一つ、問題があるのだけれど。
    「それではまず、頭の苦手なことを知らねばいけませんね」
    「そう、なんだよね……」
     苦手なことがわからないと、この妙案は頓挫する。だが彼女には目に見えて苦手なことがない。少なくとも村雲は知らない。それを探すためには彼女のことをもっと知らねばならないのだけれど、それではまた近侍問題に帰ってきてしまう。
    「雨さんは主の苦手なこと知らないよね……?」
     五月雨は村雲よりいくらか早く顕現しているけれど、それでも大差がない。五月雨はやや考えこんだが、首を傾げた。
    「思い当たりません」
    「だよね……」
     となると地道に、領収書仕分けのように探して行くほかないだろうか。けれどそれではどれだけ時間がかかることやら。
     うんうん唸りながら村雲が考え込んでいると、正座のまま暫く黙していた五月雨がふと顔を上げた。それから隣にいた村雲のほうに向き直る。
    「ですが雲さん、私に良い考えがあります」
    「い、良い考え?」
    「はい」
     膝の上にあった本をきちんと机の上に載せて、五月雨はすっくと立ちあがった。
    「雲さん、少しこのまま待っていてください」
    「えっ、雨さんどこ行くの」
    「恐らくすぐそこにいらっしゃるはずなので」
     すたすたと五月雨は部屋から出て行く。そこにいらっしゃる、ということは誰かを連れに行ったのだろうが、一体誰を。まさか彼女本人に苦手なことを聞きに行ったわけではない、と思うが。
     ……しかしありえない話ではない。むしろ五月雨はまどろっしいことをするよりは直接何とかしたほうがいいと考える方である。不安になって来た。
     だが村雲が腰を上げたのと誰かが部屋に入ってきたのは同時だった。真っ黒い髪が視界に入る。
    「ちょっと、急ぎの相談って何?」
    「え、あ、加州?」
     どうやら五月雨が呼んできたのは、加州だったらしい。会うのは今日二度目の村雲はやや気まずい気持ちで、何故かやって来た加州を見つめる。加州の方も何故連れてこられたのかわからないといった表情で五月雨と村雲に交互に顔を向けた。
    「何? 俺内番の見回りに出てただけで、そろそろ主のとこ帰らないと。あっ、近侍の件なら朝断った通りだからね」
     腰に手をやって加州が釘を刺す。う、と村雲は言葉に詰まった。やはりだめか、いや、わかっていたけれど。けれどしゅんとした村雲に対して、五月雨は静かに首を振る。
    「いえ、加州に聞きたいことがありまして、どうぞ座ってください」
    「なに? 何か困ってんの?」
     五月雨は正座して加州に座布団を勧めたけれど、加州は座らなかった。村雲はそろそろと五月雨の隣に屈む。すると五月雨はさらりと本題を切り出した。
    「はい、困っています。頭の苦手なことを教えてください」
    「雨さんっ?」
     いきなり何の捻りもなく直球で五月雨がそう言ったので、思わず村雲はその穏やかな顔を二度見した。驚いたのは加州も同様だったようで、赤い瞳を丸くして五月雨を凝視した。
    「何言ってんの?」
    「斯く斯く然々です。何でも構いませんので、教えていただければ」
    「いっ、言うわけないじゃん、自分で調べなよ! 俺は協力する気ないって言ったでしょ?」
     呆れたように加州が脱力する。ですよね、と村雲も思った。加州は彼女を頑固と言ったが、加州も同じくそこそこ頑固だ。一度手伝わないと言ったら絶対にそうだろう。
     だがしかし五月雨は涼しい顔をしたままでさらに続けた。
    「ですが加州、あなたは雲さんに借りがあるのでは?」
    「は? 借り?」
    「雨さん? な、何言ってるの……?」
     そんな借りなんて村雲自身にも心当たりのないことだ。だが五月雨のほうは冷静に、ひとつひとつしっかり加州に告げる。
    「うっかり頭に雲さんのことを話して、焚きつけてしまいましたね」
     そう言われた途端、加州はぎょっとして首を振った。村雲もパカッと口を開けてしまう。まさかあれを逆手に五月雨は加州から彼女のことを聞き出すつもりなのか。
    「あっ、あれは別に、そういうつもりじゃ」
    「ですがご自分で、余計なお節介をしたと仰っていたように思いますが」
     にこ、と五月雨が微笑む。加州の頬が引き攣る。それからわっと五月雨に反論した。
    「さっ、五月雨ずるい! 卑怯!」
     確かに、傍で聞いていた当事者の村雲もそれはちょっと狡いと思った。けれども五月雨はどこか得意げに笑うばかりである。
    「ふふ、忍びに卑怯は褒め言葉です。それで、教えていただけないでしょうか」
     あぁだとかずるいだとかなんとかぼやきながら、加州はその場に座り込む。座布団をどうぞと五月雨が再度勧めたので、加州は溜息を吐いた。
    「なんていうか、マイペースっていうか、図太いっていうか……周りが厄介なんだよなぁ」
     ずるずると畳の上を移動して、加州は座布団の上に落ち着く。五月雨は満足げに笑った。
    「ありがとうございます」
    「いや、今のは褒めてるか微妙なんだけど……。あー、もう、しょうがないなあ……今回だけだからね」
     一度だけ顔を覆った加州が、観念したように呟く。しょうがない、ということは教えてくれるのだ。パッと気持ちが明るくなって、村雲は声を上げた。
    「あっ、ありがとう!」
    「よかったですね、雲さん」
    「わん!」
     襟足のあたりを掻いて、喜ばれて嬉しいような、それでもちょっと微妙な表情の加州がやや頬を染めながら慌てて念を押す。
    「今回だけ! 今回だけだから! もう、そんなに尻尾振らないでよ」
    「えへへ、ごめん」
     ふうと加州は一拍置いた。教えてもいいのか加州が迷うのは、きっとまだ村雲を心配している気持ちも多少あるのだろう。村雲に協力するのは、この恋の片棒を担ぐことになる。加州はそもそも、村雲が傷ついてしまうことを危惧していたのだ。
     けれどもう、仕方ない。村雲は彼女のことを諦められなかったのだから。
     でも、もしも彼女が苦手なことが、村雲が苦手なことだったらどうしよう。どきどきと緊張しながら、村雲は加州の返答を待った。
    「……料理」
     ぼそりと加州が呟く。一言一句聞き漏らすまいとしていた村雲は、たったの三音で終わったことに拍子抜けして繰り返した。
    「え、料理?」
    「頭は調理が苦手なのですか」
     きまり悪そうに加州は肩を竦める。胡坐をかいた足を両手で自分のほうに引き寄せながら、加州は続けた。
    「料理っていうか、生活能力っていうの? あんま高くないんだよ、あの人。結構夜中まで仕事してたりするのに、夜食用意するの面倒くさがって食べなかったりとか。俺も夜更けまでかかるってわかってたら厨当番に軽食お願いしたりするんだけど。黙って徹夜したりしてるときもたまにあるし、っていうか仕事優先で全体的に食事とか身の回りのことが後回しになりがちっていうの? いっつも俺も注意してるんだけど」
     最後のほうはちょっと愚痴になっていた。なるほど、加州もなかなか苦労しているらしい。
     それにしても、そっか、料理か! 村雲はパッと立ち上がった。村雲が聞く前に、五月雨が知りたかったことを教えてくれる。
    「雲さん、篭手切はちょうどよく厨を手伝いに行っていますよ」
    「うん! ありがとう雨さん、加州!」
    「……あんま無理しないようにね」
     やはりどこか心配そうな様子で加州が村雲に言う。うん、と村雲は頷いて見せた。
     問題も、考えなくてはいけないことも、やらなくてはいけないことも山積みで多すぎて、正直それを思うとお腹が痛い。
     だが、それでも諦められない。
    「こっ、篭手切、料理! 俺に料理教えて!」
     パッと暖簾を跳ね除けて村雲は厨に駆け込む。厨当番ではないけれど、脇差の性質からかしょっちゅう色んな所に駆り出される篭手切は野菜の皮を剥いていたらしい。こちらを振り返って首を傾げる。
    「村雲さん、どうして。料理、ですか?」
    「うん、料理、俺に料理教えて」
     お腹が痛くても、それでも。諦められない。
     だったらもう、思いついたこと全部やるしかないのだ。



    「では村雲さん、準備はいいですか?」
    「う、うん。よろしくお願いします」
     内番着に前掛けをした村雲は頭を下げる。同じく内番着の篭手切が両手を振った。
    「いいんですよそんな、私なんかに頭を下げなくたって」
    「でも、随分夜遅くになったし。ごめん」
     厨は滅多に無人にはならない。早朝は朝食の支度で誰かしらがいる。昼も夕方も然りで、誰もいない時を見計らうなら、皆が寝支度を整えた夜更けになってしまう。当然ながら村雲の料理の練習で全員の食事の準備を邪魔するわけにはいかないため、篭手切と村雲は夜もだいぶ更けた時間帯にそこに立っていた。今の頃合いなら、せいぜい酒のつまみを取りに来るだとか、夕飯の残りを漁りに来た刀剣男士くらいしか厨には顔を見せないはずだ。それなら調理をしていても邪魔にはならないだろう。
     篭手切が色々棚から調理器具を取り出してきて、次々に一番大きな机に並べていく。大変手早い。
    「その鍋は明日の朝食のための出汁が入っていると歌仙に聞いたので、触らないでおきましょう。それ以外の調理器具は何を使ってもいいそうです。食材もちょっと桑名さんから分けてもらいました」
    「ありがとう、何から何まで」
     昼間に料理の練習がしたいと村雲が言えば、篭手切は仔細を特に聞くことなく「わかりました、任せてください」と二つ返事で引き受けてくれた。どうやら場所だけでなく、道具と食材まで整えておいてくれたようだ。有難く頼もしい限りである。
     村雲が後ろで一つにまとめた髪をしっかり結い直していると、篭手切は眼鏡を押し上げながらはきはき言った。
    「いえ! 頑張りましょう! 料理のできるあいどるは需要がありますので! 後々の冠番組も目指して!」
     かんむりばんぐみ、何の。
     色々突っ込みたいことはあったのだが、篭手切は張り切ってくれていたので何も言わなかった。手をしっかり洗ったあと、篭手切は前掛けから紙を取り出して置いた。
    「こちらが今日の献立になります!」
    「献立?」
     覗き込めば、握り飯、味噌汁、それから卵焼きに煮物、上から順に書いてあった。
    「ばらんす、もばっちりです! 松井さんにちぇっくしてもらいました!」
    「こ、こんなに一度に作るの?」
     サッと村雲の顔から血の気が失せる。正直舐めていた。せいぜい一品ずつ練習するものだと。
     だがそうだった、篭手切はやるときはとことんやる努力の鬼なのだ。
    「勿論です。一品ずつ作っていたら最初に作ったものが冷めますよ。というわけでまずはお米を炊きます。でもこれは明日の朝食分なので、握り飯は夕飯の残りで作っちゃいましょう。はい、分量と要領覚えて下さいね」
    「う、うん」
     篭手切に釜を渡されて、村雲は慌てて頷く。大きい。これは全刀剣男士分なので仕方がない。
     当然村雲も厨当番を割り当てられることがあるので、米櫃だのなんだのの場所はわかっている。けれど当番のときは手伝いがせいぜいで、中心になって調理をするのは大抵別な、料理が得意な刀剣男士なのだ。自分一人で何か一品を仕上げることはあまりない。
    「あんまり研ぎすぎてもうまみが落ちますから、研ぎ汁の白っぽさが少し薄れるくらいでいいです。流すとき気を付けてください」
    「ん、ぅわっ、流れる」
     米粒が手のひらから零れ落ちて行きそうになって、慌てて村雲は傾けていた釜を起こした。わかっていたが水を捨てるのがなかなか難しい。
    「ザッと水を捨てるとお米も流れますから。ゆっくりで。給水させる必要があるので、お米より少し多い量の水を張って、炊飯器に入れて下さい。釜は一度外側を拭いてから戻しましょう。予約は私がしておきますね」
     てきぱきと篭手切が炊飯器のボタンをいくつか押す。これで朝には炊けているらしい。明日、無事に白飯ができているといいが……。自分が研いだものなので出来が気になる。朝食のとき何も言われないことを村雲はちょっと祈った。
    「卵焼きは工程が少ないのであとに。味噌汁の具と煮物にするジャガイモの皮を剥きましょう。今日の具は玉ねぎ、油揚げ、豆腐です」
    「わかった」
     これはよく手伝うから聞かなくてもできる。村雲は玉ねぎの皮をペリペリと捲って、まな板の上で切り始めた。やや目に染みたが、瞬きを繰り返して耐える。篭手切が笑って褒めてくれた。
    「村雲さんは器用ですから、切ったり皮を剥いたりは問題なさそうですね」
    「ありがとう……、う、ちょっと目が痛いけど」
    「我慢、我慢ですよ。頑張りましょう」
     ジャガイモの芽までくりぬいてしまって、村雲は下準備を終えた。戸棚に行って、今度は調味料を揃える。だし汁と言われていりこを取りに行こうとすれば、村雲は篭手切に止められた。
    「村雲さん、出汁は、これで作れますから」
    「……なにこれ」
     篭手切が村雲の手の上に置いたのは、何やら粉が入っているらしい一包。間違っても煮干しや昆布ではない。なんだこれは。
    「篭手切、なにこれ」
    「村雲さん、これは出汁の、素です」
    「出汁の……? でも煮干しとか」
    「村雲さん」
     がしりと篭手切に手首を掴まれる。それからしっかり、一言一言村雲に告げた。
    「村雲さん、何事も丁寧にすることは大事ですが、便利なものは使いましょう。私も時間に余裕のあるときしか出汁の下処理はしません。この粉は素晴らしいものなので、使わない方が損です」
    「そ、そんなに」
    「そんなにです。一袋入れちゃってください」
     本当にこんなので、と思いつつ村雲は粉末を鍋に溶かした。クンクンと鼻を鳴らしてみる、確かにほんのり出汁の匂いはした。不思議だ。
    「煮物用と味噌汁とで鍋を分けましょう。芋は煮物のほうに漬けおいて、煮物のほうは他の調味料も入れてください」
    「篭手切、分量は」
    「献立表に書いてありますので、それで」
     大匙小匙を持って、村雲は何度か鍋と献立表を往復した。こういうのは割としっかり書いてある通りに作らないと落ち着かないほうなのだ。
     味噌汁と煮物は火にかけて様子を見るとして、後は卵焼き。う、と村雲は鳩尾を押さえる。実は献立表を見たときから、一番心配だったのはこの卵焼きなのである。
    「では村雲さん、卵を溶いてください」
    「うん……」
     卵を割って、黄色の黄身を溶く。卵焼き器に油、と手を伸ばそうとすれば篭手切は村雲に砂糖の入った瓶を差し出した。
    「主は甘いほうがお好きですよ」
    「そ、そうなの?」
    「はい。ですがあんまり入れると焦げるので、ちょっとで。気を付けてください」
     焦げる、に村雲はややびくりと反応した。
     実のところ、村雲は卵焼きを焼いたことがないのである。食べたことはもちろんある。しかしいつも食卓に並ぶあの綺麗な卵焼きが自分にできるとは到底思えない。そもそもどうやってぐるぐるにするのだ。
    「溶けたら焼きましょう! 少しずつ入れて、奥から手前に巻くのがコツですよ」
    「う、うん……」
     いざ火の前に立ったものの、焼く勇気が出ない。菜箸を持ったまま、村雲はやや立ち尽くした。奥から手前って言ったって、最悪炒り卵になりかねない。耐えかねて村雲は隣で見ていてくれる篭手切のほうを向く。
    「あの、篭手切、これ」
    「大丈夫ですよ!」
    「え? な、何かコツとか」
     明るく元気に篭手切が言ったので村雲は期待したのだが、篭手切が提示したものは全然違った。両手に一個ずつ新しい卵を持っている。
    「やり直しならいくらでもできますからね! できるまで頑張りましょう!」
    「そ、そっち……?」
    「はい! 失敗しても私が食べるので大丈夫です!」
     とにかく前向きな篭手切の言葉にまた村雲は青ざめる。篭手切に、自分の失敗作など食べさせるわけにはいかない。どんなに腹を壊しても一人で完食する。
    「くそぉ!」
     ヤケクソになって村雲は器に溶き卵を流し込んだ。ジュっと小気味よい音がする。
    「はい、そのくらいで! 全体に卵を広げましょう」
     広げる、卵を。向こうにこちらに、右に左に村雲は器を傾けた。それで、問題はここからである。
    「奥から手前に、ですよ」
     最早答える余裕はなく、村雲はただ頷いて菜箸を持ち直す。奥から手前に、器をちょっとこちらへ傾けた。たぶんこの方がやりやすい。卵の端を器から剥がして、こちらに引き寄せた。
    「奥から、手前」
     気を抜くと菜箸の先が震えそうになる。今のところ焦げてはいない、と思う。変な匂いはしない。時間をかけると失敗する。
     くる、くると卵が回る。しまった、なんだか斜めになった。だが隣の篭手切が「大丈夫ですよ」ともう一度言った。丸く筒状になった卵が村雲の手元の側まで届くと、篭手切がわっと手を叩く。
    「上手い上手い! じゃあその卵をもう一度奥にやってください、空いた部分に油を引いて。毎回引き直した方がいいですよ。残りの卵をまた少し入れましょう!」
     終わりじゃないのか、そりゃそうだ、まだ卵が残っている。三回ほど同じことを繰り返して、村雲は卵を焼ききった。こちらに、と言われた皿にフライ返しで卵焼きを移す。
     そろそろと慎重にきつね色の卵焼きの下からフライ返しを抜いて、ホッと村雲は息を吐き脱力する。
    「はぁー、ちゃんとできた、よかったぁ」
    「上手! 上手ですよ村雲さん! 初めてなのにこんなに綺麗に焼けてます!」
    「そ、そう?」
    「はい! とっても! ほら、こんなに綺麗な色です! 端っこの方切って食べてみましょう」
     篭手切が包丁を持ってきて、両端を切り落とした。二振で箸を持ち、口に運ぶ……が、村雲は不安で篭手切が食べるのをじっと見ていた。篭手切は口元に手を添えて、躊躇いなく卵焼きを咀嚼する。
    「どう……?」
     恐る恐る尋ねる。殻とか入っていなかっただろうか。焦げたり、ましてや生焼けだったりしたら。ハラハラしながら篭手切を見つめる。自分の持っている卵焼きが緊張で震えた。
     しかし静かに何度かもぐもぐと口を動かした篭手切は、首を何度も縦に振りつつ、眼鏡を押し上げて言った。
    「美味しいです! 甘さがちょうどいいです、美味しい!」
    「ほ、ほんとにっ?」
    「はい! 食べてください、冷めますよ!」
     不安だ、不安だが思い切って村雲は自分の焼いた卵焼きを食べる。柔らかく、ほんのり甘い。本当に自分の作った料理なのだろうか。
    「……美味しい」
    「ね! あっ、もう煮物とお味噌汁もよさそうです。握り飯を作りましょう」
     夕飯の残りの白米を温めて、篭手切は村雲に塩水を作らせた。それから二振並んで米を握る。俵型が楽だと聞いたけれど、何となく握り飯は三角だという気がしたのでそちらを教えてもらった。米粒を潰さないように、けれどしっかり形がまとまるように。篭手切は調子よく、回すように握り飯を作っている。
    「私は、努力は裏切らないと思っています」
    「……え?」
     手を止めることなく、三角の整った握り飯を作りながら篭手切はただ続けた。
    「思うようにならないこと、れっすんを重ねてもうまくいかなかったこと。色んなことがありますが、それでも。頑張ったことは絶対に、私を裏切りません」
     真っ直ぐと、篭手切はよく磨かれた厨の机の上を見つめる。眼鏡の奥の緑色の瞳は揺るぐことがなかった。迷いなく、訥々と篭手切は言う。
    「努力が報われないことは、やっぱり悲しいです。何が足りなかったのか、いつも考えます。ですがそれでも私が努力したことは、絶対に変わりませんから。私はそう、思っています。それに、何度だって手を伸ばし続ければいつか星にも届くかもしれないんです。諦めずに、努力し続ければ。今日だめだからと言って、明日もだめだなんて誰にもわからないことなんです」
     思えば、最初村雲が諦めると言ったときも明確にそれを止めようとしたのは篭手切だけだった。
    「ですからどんなことでも、私は村雲さんをお手伝いします。何でも、言ってくださいね!」
     綺麗な三角の握り飯を、皿の上に置く。こちらを向いて、篭手切は元気にそう締めくくった。
    「うん……ありがとう、篭手切」
    「いえ! れっすんも、頑張りましょうね!」
    「う、うん」
     そうか、それもあった。もしも村雲がこの調子で料理の腕を上げて、近侍になれたとしたら、結構忙しいかもしれない。そう考えたら胃がしくりとしたがひとまず首を振り無視をする。
     その心配よりも先に、今はとにかく練習して、少しでも彼女に近づきたい。料理以外にもやらなきゃいけないことは山積みなわけであるし。
    「立派な献立ですね!」
     海苔を巻いた握り飯を皿に盛って並べる。一汁一菜、確かにしっかりとした食事に見えた。洗った手を拭いている篭手切に村雲は礼を言う。
    「ありがとう篭手切」
    「いえ! やっぱり村雲さん器用ですね。これなら何度か練習すればきっとすぐに厨当番をできるくらい上手になりますよ」
     嬉しそうに篭手切が言って、使った調理器具を流しに持って行こうとしたので村雲は代わりにそれを手に取った。
    「篭手切、もう寝ていいよ」
    「えっ、ですが片づけが」
    「俺がやっておく。あと何度か卵焼きの練習もしたいから。篭手切は明日、出陣が早い部隊だっただろ」
     あともう少しで日付も変わるくらいだ。毎日誰かを手伝ったり、自分のレッスンに手を抜かない篭手切をこれ以上ここに留めておくわけにはいかない。
     でも、と食い下がる篭手切を何とか引き下がらせて、村雲はもう一度卵焼き器に向き直る。最初のまぐれで成功したなら意味がない。それに練習できるのもこうした夜中だけだ。明日支障が出ないくらいに練習して、それからこの作った食事も捨てるわけにはいかないから食べてしまわなければならない。
    「ちょっとお腹痛くなりそうだな……」
     いや、そんなこと言っている場合じゃないか。うーん、とぼやきながら村雲はもう一度卵焼き器に油を引いた。


    「うわっ、何やってんのこんな夜中まで」
    「か、加州」
     そうして加州が厨の暖簾を捲ってきたのは、日付を越えてちょっとした頃だった。加州は今湯上りのようだ。どうやら今しがたまで仕事をしていたらしい。
    「何してんの、えっ、卵焼き?」
    「あっ、わ、焦げる」
     ややくすぶった匂いがしたので、村雲は慌てて火から焼き器を離す。菜箸で箸を捲ったが取り返しのつかないことにはなっていなかった。ホッとしてくるくると村雲は卵を丸める。
    「よかったぁ、大丈夫そう」
    「へー、美味しそうな匂いしてんじゃん」
     後ろから加州が覗き込む。ギクッとした村雲は少し手に力が入ったけれど端まで卵焼きを寄せた。また奥まで卵焼きを移動させて、油を引き残りの溶き卵を流し込む。もう何度か卵焼きを練習したおかげで、手順に慣れが出てきた。最後にフライで取って、村雲はそれを皿に載せる。
    「上手いね。手慣れてんじゃん」
     感心した風で加州が言うので、村雲は面映ゆい気持ちになって肩を竦めた。耳のあたりが少し熱い。
    「えへへ、ありがと」
    「あ、俺水飲みに来たんだった」
     加州がコンロのあたりを離れて、冷蔵庫を開けに行く。さて、篭手切が用意してくれた卵もなくなった。もう今日はこの辺りにするべきだろう。村雲は菜箸と卵焼き器を流しに持って行く。
     その間、加州は水を飲みながらこちらを見ていた。それに気づいていたので、村雲はやや落ち着かない気持ちで洗い物をする。かちゃかちゃと調理器具が立てる音が静かな厨に響いていた。村雲がそれらをひとしきり片付けて洗い物を水切り場に置くと、やっと加州は口を開く。
    「ほんとに料理、練習してるんだ」
    「……うん」
     なんとなく振り向けずに、村雲は流し台を見つめたまま頷いた。当然、加州はどうして村雲が料理を練習しているのか知っている。彼女に認められたいから、自分を好きになってほしいからだとわかっている。
     でも、今日は楽しかったな。村雲は首を少し回して調理器具を見つめた。
    「結構、得意だったみたいで」
     篭手切が褒めてくれたのも、自信の一つになった。それに本当に、存外すんなりできたのも嬉しかった。自分にもこんなに、できることがあるのだと。
    「高いものはまだ、作れないけど。でも、思ったよりちゃんとできて、嬉しかった」
     これならもしかしたら、彼女も喜んでくれるかもしれない。もちろんまだまだ練習は必要だけれど、でも。
     そう思うと、村雲はなんだかとても嬉しく幸せな気持ちになるのだ。
    「……一口もらってい?」
     穏やかな声が聞こえたので、村雲はゆっくり振り返る。加州の赤い瞳がじっとこちらを見つめていた。その眼には今までいつもどこか浮かんでいた憐憫や心配はなかった。
    「え……、うん、温める?」
    「へーき。じゃあいただきます」
     その辺にあった箸を取って、加州は村雲が焼いた卵焼きを口に運ぶ。もくもくと何度か咀嚼した後に、盛りつけていた芋の煮転がしにも手を伸ばした。箸をつける直前に、ふと気づいて箸をひっくり返した。手を下に持って行って、落とさないようにしながら食べる。
     味は、問題ないと思う。さっき村雲も自分で味見した。一応普段食卓に並ぶようなものと同じ味がしていた。だから、たぶん。先程動揺に加州が食べる様を凝視していると、口を動かしていた加州がぽつりと呟く。
    「……うまいじゃん」
     うまい、とはつまり、美味しいということで。
     そんな当たり前のことを理解するのにも、緊張していた村雲には少々時間がかかった。それからどっと力が抜けてはぁーと長く息を吐く。どさっと椅子の上に腰を下ろした。
    「よ、よかったー」
     身内に食べてもらうのとはやっぱり話が違う。しかも相手は加州であるし。息を詰めていたせいで今更胃のあたりに痛みが来て、いててと村雲はそこを押さえた。
    「も一個もらっちゃお、芋うま。あ、直箸良くないよね、取り分ける皿出そ。思ったよりお腹減ってたんだなー俺」
     ひょいひょいと出した小皿にいくつか芋を取り、加州も座って食べ始める。細く華奢な体躯だけれど、こうしてまくまくと食べるさまを見ていると加州もやっぱり同じ刀剣男士なのだなと当たり前のことを村雲は思った。水がなくなっているのに気づいて、村雲は手を伸ばしてお代わりを注ぐ。
    「ありがと」
    「ううん。俺も一人で食べきれる気がしなかったから、ありがとう」
    「そお? どうせ呑んでるやつらいるんだし、そういうところに持って行ってやれば喜びそうな気もするけど。でも今日は俺が食べちゃお」
     二ッと加州は歯を見せて笑ったので、村雲もつられて笑う。自分ももう少し食べよう。村雲も箸を取り、卵焼きに手を伸ばした。一応篭手切から食べきれなければ明日江の皆で食べるとは聞いているが、冷めきったものを食べさせるのはなんだか申し訳がない。
    「村雲さ」
    「む、ん?」
     丁度口の中に卵焼きを入れてしまったばかりだったので、村雲は慌てて顔を上げた。もごもごと口を動かしている村雲を見て、加州がちょっと表情を崩す。それからなんとなく視線を伏せて、握り飯に手を伸ばしつつ言った。
    「……主さあ、今日も遅くまで作業しててさぁ。俺明日の出陣とか演練とかあるからって追い出されたんだけど。たぶんまだやってると思うんだよね。自分だって俺と同じ時間に起きるくせに……」
     ちらりと壁にかかっている時計を見る。日付を越えて、もうすぐ半刻。まだ働いているのか。村雲の咀嚼している口が止まる。
     どれだけ体力があり元気な彼女とはいえ、毎晩毎晩こんな夜遅くまで起きていては身が持たないだろう。ん、と村雲は卵焼きを飲み込んだ。加州が追い出されるくらいだ。頑固な彼女はまだ仕事をしているだろう。
     握り飯を一口食べ、加州は二度瞬きをして静かに言った。
    「それでさ、たぶん、頭使って疲れてるはずだから、……これ持ってってあげてくんない?」
    「え……?」
     これ、というのは間違いなく今村雲が作ったこの夜食のことであるはず。それを持って行けと、他ならぬ加州が言うのは、つまり。
     そういうことだと思っていいのだろうか。
    「あ、でも量少なめね、もう夜中だし。残りは俺が今食っちゃうからいいよ、ほんとお腹減ってるし」
    「いっ、いいの……?」
     慌てて村雲は加州に問い直したが、加州は立ち上がり、手早く自分の分の夜食をよそって盆に載せると、くるっと踵を返した。暖簾をくぐる寸前、ひらりと片手を振る。
    「主、猫舌だから。あんま熱いもの出さないでねー」
    「わかった!」
     そっか、猫舌、そうなんだ。村雲は慌てて煮物と味噌汁の器に触れる。熱くはないが、ちょっと温いような。少しだけ温め直したほうがいいかもしれない。村雲は急いでそれらを厨の機械に入れた。


     少なめ、と言われたがこのくらいでいいだろうか。というか、熱すぎないようにしたつもりだがこれで適温だろうか。色々懸念点があるので、緊張してお腹が痛い。ついでを言うと内番着で髪をぎゅっと一つにまとめただけなのも気になる。みっともなく見えないだろうか。
     だがわざわざ着替えるのも不自然な気がするし、寝巻はもっと気が抜けている気がする。髪は最初に練習するときに強めに結ってしまったので跡がついていて、結局元通り一つに結ぶしかなかったのだ。
    「そもそも、これ、何て言って出せばいいんだ……」
     いきなり料理を持ってくるのはあまりにも不自然ではないだろうか。何故持ってきたと言われたら、何と答えたらいい?
     作ったから? どうして作ったと問い直されたら答えられない。
     いや、作ったことを問われなくても、どうして持ってきたと言われたら困る。時間も時間であるし。
     湯気が立ちのぼるお盆の上を見つめ、村雲のこめかみを汗が伝う。執務室の手前まで来て今更悩んでいる場合ではない。場合ではないが襖を開く勇気が出ない。だが確かに、まだ部屋の中には誰かがいる気配があった。仕事をしている、間違いない。だったら差入れをしたい。
     しかしぐるぐると悩んだ村雲が意味もなくお盆を握り締めていると、襖のほうが先にスッと開いた。
    「あれ、雲さん、何してるの?」
    「あっ、るじ」
     襖から顔を出した彼女は、村雲の後ろ、暗い廊下の先を覗き込む。それからこちらを見上げた。
    「音がしたからそこに誰か立ってると思って、清光が帰ってきちゃったのかと」
    「あ、ううん。加州はもう寝るって言ってた。たぶん部屋に帰ったと思う」
    「そう? それで雲さんは何してるの?」
     ギクッと肩が震えた拍子に、カタンと食器がぶつかって音を立てる。こうなったらもう仕方がない。村雲は持っていた盆を前に押し出した。
    「主、これ、食べて」
     彼女の方は見られなかった。代わりに自分で盛りつけた飴色をした芋を一点集中して凝視する。
    「……どうしたのこれ」
    「いいから。食べて」
     もう一歩分前に出て再度盆を差し出す。ガチャリとまた皿が鳴る。
    「食べて、寝て」
     脈絡は全くないが必要なことはちゃんと言った。もうこれでいい。彼女が盆を受け取ったのを認めて、村雲はそれを離した。盆の上を見つめたまま下がる。
    「お皿は明日の朝取りに来るから、そのままでいいよ。じゃあ」
    「え、待って。なんで行っちゃうの」
    「えっ」
     片手で盆を持ったままで彼女が村雲の手首を掴む。そこでやっと自然に顔を正面に向けることができた。まとめた髪がちょっとほつれた彼女がそこに立っている。
    「なんでかわからないけど、作ってくれたんでしょ? ありがとう」
     ありがとう、の一言で村雲はほっと息を吐いた。よかった。少なくとも迷惑ではなかったのだ。
    「うん……」
     村雲が頷けば、彼女は掴んでいた手首を離した。お盆を持ち直して、執務室の中を示す。
    「眠くないなら、お茶飲まない? でももう夜中だから、無理しなくて」
    「のっ、飲む」
     食い気味に返事をすれば、彼女は眉を下げたまま笑った。どこか少し、疲れた顔に見える。時間も時間だ、仕方のないことだろう。
     村雲はそろそろと部屋の中に足を踏み入れ、ようとしたのだが畳の上には所狭しと書類がばらばら散らばっている。その上帳面やら何やらも開きっぱなしで置いてある。一体何をしていたのだろう。
    「ごめんね散らかってて。バーッと広げちゃった方が楽で」
    「ううん。何、してたの?」
    「んー、色々。ちょっと戦績見たりしてたところ」
     こきこきと彼女が首を鳴らす。それからよいしょと文机の上の書類を一気に退けた。お盆をそこに載せると、彼女は立ち上がろうとしたので村雲はそれを慌てて止める。
    「いいよ、座ってて。俺がお茶淹れるから」
    「え、でも」
    「お昼に淹れ方見てるから」
     いや実のところちょっと不安なのだが。村雲は内番着の袖を捲った。だが彼女は疲れているようだし、そのくらい。急須に茶葉を入れて、おっかなびっくり給湯器をいじる。少し跳ねたお湯が手にかかってピリッとした。
     それでも何とかかんとか用意をして、村雲は急須と湯呑を持って行った。お茶を注いで、彼女の前に置く。
    「ありがとう、いただきまーす」
    「ど、どうぞ、召し上がれ」
     パンと彼女が手を合わせたので村雲は緊張しながら答えた。お盆の上の箸を取った小さな音さえ、やけに大きく聞こえる。彼女は手始めに味噌汁の椀を手に取った。
    「どうして料理、作ってくれたの?」
     ふうと一度だけ息を吹きかけてから、彼女が味噌汁を啜る音が部屋に響く。適温だったらしい。温めすぎなくてよかったと村雲は思った。
    「よく夜遅くまで、主が仕事してるって聞いて、それで」
    「ああ、清光かぁ」
     いや、本当はそれだけじゃない。
     何故だか少々後ろめたい気持ちになる。村雲が頑張ったことは、確かだけれど。料理は加州や五月雨の協力で聞きだしたことで、さらに篭手切にかなり助力してもらっているのだ。
    「……本当は、主の苦手なことないかって、加州に聞いて」
     それを聞くと彼女はお椀から視線を上げて、卵焼きの方に手を伸ばす。
    「清光が素直に教えてくれたの?」
    「いや、それはちょっと、雨さん手伝ってくれて……。それで、料理って、いうかその」
    「生活能力が低いって?」
     言葉を選んでいたのにストレートで言われたので、ぎくりと村雲は肩を震わせた。だが彼女はおかしそうにくすくすと肩を揺らしている。
    「清光がいつもそう言うの。怒られてばっかりで」
    「……うん、言ってた。注意してるって」
     苦笑いをした後に彼女は箸で卵焼きを摘まむ。それにやや、村雲は緊張した。一応一番良くできたものを持ってきたつもりではある。
    「それで夜食作ってくれたんだね」
     もぐもぐと彼女が黄色のそれを咀嚼した。先程の加州のときよりも緊張する。自分では問題なく食べられたつもりだけれど、今は彼女の口に合わなければ意味がない。だって、村雲は彼女に食べてもらいたくてそれを作ったのだ。
    じっと村雲は彼女の口元だけを見つめる。一度嚥下すると、彼女はまた箸を皿に伸ばし、一つ二つ続けて食べた。それから彼女はこちらを向く。どきりと心臓が跳ねる。どうだったのだろう。砂糖の量だとか、焼き加減だとか。
     そう村雲がはらはらしていると、彼女が口を開いた。微笑んで、穏やかに言う。
    「甘くて美味しい。ありがとう」
     パチパチと二度ほど瞬きを繰り返してから、村雲ははあと短く息を吐いた。どっと血液が一気に巡って、耳と首のあたりが急激に熱くなった。心臓の音が低く早く耳元で鳴っている。
    「よ、よかったー……」
     村雲はへなへなと背を丸めたけれど、彼女はそのまま煮物にも手を付けた。
    「あ、お芋も甘くて美味しい。柔らかいしホクホク」
     嬉しそうに彼女が口を動かしているので、心底安堵して村雲は緩く膝を抱え立てる。正座にちょっと疲れてしまった。
    「卵焼きは甘い方が好きだって、篭手切が言うから……」
     やっと落ち着いて息ができる。膝の上に顎を載せて彼女を見つめていると、彼女はぱくぱくと調子よく夜食を平らげていく。お代わりもあった方がいいかなと考えたが、加州に夜だから量は少な目だと言っていたのを思い出してやめた。
    「うん、それで皆甘いの作ってくれるんだよね」
    「芋も甘いのが好きなの?」
    「うん、好きだよ。甘いお芋の煮っ転がしは昔から好き」
     ことりと、先ほどとは別な熱を持って心臓が跳ねる。
     頑張って良かった。緊張して、初めてすることばかりで、どうなることかと思ったけれど。それでもこうして、作った料理を美味しそうに食べてもらえて、「好き」だと言ってもらえたのだから。
     でも、やはり、村雲は少し自分の考えが間違っていたことに気づいた。
    「……主が苦手なことが得意になれば、主より強いことになるのかもって思ったんだ」
     立てた膝を抱えながら村雲は呟く。彼女は握り飯を頬張っていた。
    「主の話を他の誰かに聞けば聞くほど、主より強くなるのは無理かもしれないって思ったから。主が苦手なことを頑張ればいいのかなって、思って。それがたまたま料理で、俺もそんなに嫌いじゃないなって思ったんだけど」
    「……それで? 私より強くなれた?」
     握り飯を食べきって、彼女はこちらを見つめた。村雲はじっとその瞳を見つめ返して、それから笑った。
    「……ううん。やっぱりまだ、駄目みたい」
     だって、彼女が嬉しそうに自分の作った料理を食べてくれたというだけで、こんなに幸せな気持ちになる。
     強くなるどころか、完敗だ。
    「……そっか」
     彼女は静かに答えると、足を崩して文机の下に伸ばす。うーんとまた首を回した。
    「まあ、苦手なところ得意になってもトータルで強くなったわけじゃないもんねえ」
     ぎくりと村雲は肩を強張らせた。……その通りである。実はそれにも薄々気づいていた。くすくすと楽しそうにする彼女に、一応村雲は縋っておく。
    「そう、そうなんだけどちょっと褒めてくれても。俺頑張ったから」
    「うん、わかってる。美味しいよ」
     美味しい。先程の卵焼きのとき同様に言って、彼女は手を合わせる。もう一度、彼女は村雲に言った。
    「美味しかった。ごちそうさま、ありがとう」
     夜中なのに、日が昇ったような心地がした。もう眠たくて、慣れないことをたくさんして疲れ切っていたけれど。けれどそんなのこれで帳消しだ。
    「うん、うん!」
     何度も頷いて、村雲は答える。
     よかった、頑張ってよかった。五月雨にも加州にも、そして何より篭手切にもお礼をしなければ。
     空になった皿とお盆を持って、村雲は執務室を出る。もうとっぷりと夜が更けていて、廊下は静かで床もひんやりとしている。
    「お皿の片付けまでお願いしちゃっていいの?」
     同じようにもう執務室の明かりを落とし、部屋に戻ろうとしていた彼女に聞かれ、村雲は頷いた。ひそひそと二人して囁き合う。
    「うん。これだけだから」
    「ありがとう。……あ」
     ヴヴと羽音のような低い音が真っ暗な中で響いた。彼女が通信端末を取り出して見つめる。画面の青い光が下から彼女を照らしていた。
    「どうかした?」
     また仕事だろうか。それならもう寝るように念を押さなければ。
     けれど村雲の懸念とは正反対に、少し笑った彼女が首を横に振る。端末を切って、再び衣服に戻した。
    「雲さんが頑張ったの、清光が認めてくれるって」
    「え?」
     なぜ今加州の名前が。首を傾げた村雲に、彼女は告げた。
    「今連絡があって、明日から近侍交代してもいいって」
    「えっ!」
     思わず少し大きな声が出て、慌てて村雲は片手を盆から移して自分の口を押えた。彼女も焦ってシッと人差し指を唇に当てる。誰もいない廊下に、村雲の声はやたらと響いた。
    「ご、ごめん」
    「う、ううん」
    「そ、それより、近侍って」
     本当に、いいのだろうか。加州は協力しないと言っていたのに。
     だがはっきり、彼女ははっきりと今度は首を縦に振る。執務室の電気を消してしまったので、暗い中であまり彼女の表情は読み取れない。けれど穏やかな、しかし小さな声で彼女は言った。
    「明日からよろしくね、雲さん」
    「っうん!」
     ついまた大きく返事をしてしまったので、村雲は再び自分の口を押えた。彼女が微かに笑った声も聞こえる。おやすみと言って、彼女の背中が暗闇に溶けて行った。
    「明日から……明日から」
     一人きりになって、村雲は繰り返した。
     明日から、近侍を務めてもいい。そうすれば少しは、何か糸口が見えるかも。
     板間の廊下は裸足には少々冷たかったけれど、頬のあたりはなんだか温かかった。嬉しい、一つ何か結果が出た。
    「……あ、でも、それなら早く起きないと」
     残念だが村雲はあまり朝が得意ではない。村雲は慌てて踵を返した。この上はさっさと皿を片付けて眠らなければ。
    「急がないと……!」
     小さく呟き、だが足取り軽く、村雲は厨へと戻ったのだった。

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    2023/01/29 16:36:23

    ②考えることが多すぎる

    人気作品アーカイブ入り (2023/01/31)

    #刀剣乱夢 #雲さに #女審神者

    昨年完売した雲さに本のWeb再録です。

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