【通販頒布中】明日、恋をする君の話。一昨日やってきた迷子の子犬
薄々、自分は相当努力しなければ、求められているレベルには達しないのだろうなと彼女もわかっていた。
素養があると言われていても、「審神者」になるのには専門的な知識がいる。それだけではない、知識だけでどうにもならないような咄嗟の判断や、それをするだけの胆力も必要だ。それらを身に着けて、あるいは鍛えて、そうして一人前になるには自分はあまりにも凡庸である。彼女は何となくそう気づいていた。
さく、さくと芝を踏みしめる音がする。座り込んでいた彼女は僅かに顔を上げた。するとピンクのタッセルのついた少し汚れて傷もある革靴が視界に入る。それに一応彼女は首を傾げた。覚えのない靴だったからだ。それからゆるゆると視線をあげれば、ここに来てから一度も見たことのない顔がこちらを見下ろしていた。緑のジャケットと、靴のタッセルより濃いピンクのセーター。一体誰だ。淡い桜色の髪にも瞳にも覚えはない。
「……君、審神者、向いてないから。なるの、やめた方がいいよ」
なあんで、そんな泣きそうな顔してるんだろう。何よりも先に彼女はぼんやりとそう思った。彼女を見つめているその人は、唇を噛み締めて今にも涙をこぼしそうだったのだ。だから言われた内容よりも先に、彼女はそちらの方が気になった。けれどまあ、そうかもしれない。
こんな見ず知らずの誰かが侵入して来ても、声を掛けられても、何もできなかった彼女は、彼の言葉に「そうだろうなあ……」とぼんやり納得した。
昔から何かと運が悪く、同時に運がよかった。
正確に言うと、なんだかついてないことが頻繁にあるのだが、いつも寸でのところでなんとかなることが大半。だから彼女の運の良し悪しは、人によって評価が分かれるところなのだ。場合によっては「ついてないね」と言われることもあるし、「ラッキーだったね」のときもある。
だがこれはどちらだろうか。大抵の場合は事が終わってみないとわからないので、現在の彼女にはこれが良いことなのか悪いことなのか判別がつかなかった。
マニュアルにも載っていない、「迷子の刀剣男士を預かる」なんて事象がどちらに転ぶかなど、今は皆目見当もつかない。
「村雲江さーん、おはようございまーす」
襖の向こうから声を掛ける。するとゴソゴソと身動きをしたような物音の後に、静かに、そして僅かにそこが開いた。隙間から青白い顔と薄いピンク色の瞳が覗く。毎朝顔色が悪いような気もするが、低血圧なのだろうかと彼女は思った。
「……起きてる」
「おはようございますー。朝ごはん出来てますよ」
「今、行くから」
「じゃあ出しときますね。食べたら厨に下げといてください」
ぼそぼそと暗い調子で村雲が言うのに、もう慣れた彼女はテキパキと返答した。しかしそれで踵を返そうとすると、にゅっと腕が伸びてきて彼女の服の裾を掴む。ちょっと引っ張られて、彼女は僅かに後ろにバランスを崩した。
「な、なに? ……ですか?」
「今日、君は、どこにいるの」
特にコミュニケーションも取らないのに、どうして毎日それを聞くのだろう。彼女はやや肩を竦めつつ、それでもまだ部屋の中にいる村雲に答えた。
「いつも通りです。畑と庭の世話をして、昼になったらご飯を作って、執務室で政府の映像講座を見て、夕飯食べてお風呂入っておしまい」
「……わかった」
それだけ聞くと、再び村雲の腕はにゅっと引っ込んでいく。今度はすすすと襖も閉まった。伸びてきた腕は寝巻にと彼女が渡した何の変哲もない浴衣を着ていたから、着替えて身支度をするのだろう。
しかしそれにしたって、扱いに困るものだ。彼女は村雲に聞こえないように小さく息を吐いて、今度こそ廊下を離れて広間に向かった。彼女とて朝食がまだなのである。本当に、どうしたものか。彼女は歩きながら腕を組んだ。
件の「迷子の刀剣男士」である「村雲江」が彼女の本丸の庭先に突然現れたのは、ほんの数日前のことだ。
「迷子ぉ?」
「た、たぶん? わかんないけど、でも刀剣男士だと、思うし。加州君、あの子見覚えない? 知ってる子だったりしないかな」
執務室の手前で彼女と加州はわたわたと喋る。まだ物が少なくがらんとしたその部屋の隅で、本丸の庭にいつの間にか現れた「彼」は膝を抱えていた。ちらりと彼女はそちらを伺ったが、そのときの彼はそっぽを向いて大人しくしていた。見慣れぬ衣服と用紙の彼は、よく見ればふわふわのピンクの尻尾までついている。それは靴や衣服同様、少々汚れているような気がしなくもないが。
「いや、まあ刀剣男士ではあるだろうけど……でも俺も刀剣男士皆顔見知りってわけじゃないし、あいつは見たことないな……。そもそもなんで今ここに俺以外の刀がいんの?」
彼女同様に加州もこっそり室内を見て、それから声を潜めた。その日は天気もよく、縁側に面し襖を開け放った室内には気持ちのいい日差しが差し込んでいたが、彼は陰でじっとしている。そういう姿が彼女にはやはり何となく、百貨店なんかの迷子センターにいる小さな子どものように見えた。
「さ、さあ?」
「さあって!」
「でも、本当に、わからなくて。とりあえず政府に連絡は入れたから」
現在、色々事情がありこの本丸にいるのは審神者である彼女とその初めての刀である加州一振だけだ。本丸という場所はその場所の特性上厳重に守られているはずであるし、どこの誰のものだかわからない刀剣男士がフラッとやって来られるわけがない。
加えて彼女はまだ本丸に就任したてで、容姿だけではその刀が一体何という銘のそれなのかわからない状態だった。だからとにかくこういうことがあったと政府に報告して返事を待つ他にできることはなく、彼女と加州は執務室の隅に彼を座らせたままで困り果てていたのである。
しかしやはりそればかりとはいかないだろう。政府からの指示を待つ間、彼女はひとまずお茶を用意して彼に差し出した。茶菓子もつけた。迷子センターにはそういうものがあったなと思ったからである。
「あの、よかったら、食べませんか。普通のお茶とお菓子なので、変なものじゃないですよ」
それらを載せた盆を傍に置いて、何となく彼女が声を掛ければ、そっぽを向いていた彼はのろのろと彼女に視線を向けた。ハーフアップに結わえた肩までのふわふわとしたピンクの髪に、同じ色の瞳。なにより腰には刀を提げているし、おおよそ普通の人間には見えないので彼はやはり刀剣男士なのだろうなと思いつつ、彼女はもう一度お盆をそちらに押した。
すると彼はそれを一瞥した後、二度瞬きをする間だけ彼女の方を見つめていた。瞬いた瞳が綺麗だったので彼女はそれをよく覚えている。けれどその後再びそっぽを向いて、一言だけ呟いた。
「……ごうのよしひろが作刀、むらくもごう」
「あ、やっぱり刀剣男士なんですね」
生憎と聞いたことのない刀の名前だったけれど、ひとまず名乗ってくれたことに安堵して彼女はポケットから通信端末を取り出した。漢字がわからなかったので、ひらがなで検索を掛ける。
だがヒットしたのは「村雲江」という依り代になっただろう刀剣本体のみで、刀剣男士としての姿は上がってこなかった。それに首を傾げつつ、ひとまず彼女は端末をしまう。彼女が該当刀剣を所持していないのがいけないのだろうか。
「挨拶が前後してごめんなさい。初めまして、村雲江さん。えっと、私は一応、この本丸に就任している審神者です」
「……」
「それからこっちは近侍で、私の初期刀の加州君。それで、いきなりで申し訳ないんですが、村雲江さんはどこからここに」
「なんで、ここには他に刀がいないの」
彼女の問いを遮って、村雲はそう言った。それに面食らって、彼女は口を噤む。やりづらい。彼女が今まで接してきた刀剣男士は加州のみで、そして加州はかなり人当たりがいい方だったのだなと彼女は思った。
するとそれを見かねたのか、彼女の後ろで腕組みをして立っていた加州が口を開く。
「見ればわかると思うけど、ここ、できてすぐの本丸なんだよねー。だからあんたが入れるだけの穴がどっかにあったのかもしんないし、あんたもそれでどっか行く途中に引っかかっちゃったのかもしんないけど。とにかくあんた、見た感じ迷子でしょ? 今政府に連絡入れたから、連絡取れたら一旦政府に行ってくんないかな。そしたら帰れると思うし」
加州のその提案は、至極真っ当なものだと彼女でさえ思えた。今、この本丸で村雲にしてやれることはほぼないと言っていい。ならば一度政府に行ったほうが打てる対処はある。だがそれを聞いて、村雲は僅かに眉を歪めた。
「い、嫌だ」
「えっ? 嫌?」
思わず彼女は繰り返してしまった。しかしその間に村雲は抱えていた膝を更に引き寄せるようにして縮こまる。その上組んだ腕に顔を完全に伏せてしまって、村雲はまるで亀のようだった。
「嫌だっつったってさ」
「嫌だ、俺、ここにいるから」
困って加州と彼女は顔を見合わせた。ここにいるからと言われても、彼女と加州しかいないこの本丸では、迷子の村雲を受け入れるだけの余裕はもちろん知識も経験も当然ない。大体、彼女は刀の銘を言われてもピンとこなかったような本当に新米の審神者なのだ。だから慌てて彼女はもう一度村雲に声を掛けた。
「そ、そうは言っても、村雲江さん、ここじゃちょっと、あなたの面倒は見られないし」
「お腹っ、痛くなるからっ!」
突然、村雲がこれまでの倍の大きさの声を上げた。びくりとして彼女は黙る。しかし村雲はそのまま続けた。
「ここにいる、から」
唖然として彼女は視線だけ加州にやったが、加州も最早ただ首を振ることしかできなかった。そうして村雲は梃子でも動かない様子で執務室に蹲っていたのである。
結局、政府からはその日の夕方になってから「刀剣男士本刃がそう主張しているのならそれ以外の対応はできない」と遅い返答が来た。刀剣男士は曲がりなりにも刀の付喪神で、本来ならば人間より上位の存在なのである。だからたとえ政府と言えど、人間の都合で移動を望んでいない刀剣男士をおいそれと動かすことはとできないらしい。だがこの「村雲江を名乗る刀剣男士が一体どこから来たのかは調べる」と一応の通達があった。
そういうわけで、数日前から村雲江はこの本丸に居座っている。ただ村雲は「ここにいる」と主張はするものの、彼女や加州とはあまり話をしたり積極的に関わりを持とうとはしなかった。しかし身の回りのことは自分でしているため、村雲は本丸を間借りして一振で生活しているようなもので、その点あまり手はかからなかったのが何もできない彼女と加州には救いだった。
だがそれはそれとして、彼女は一つ困っていることがある。
「……あの」
執務室のパソコンで政府の映像講座を見ていた彼女は、メモを取る手を止めしびれを切らして振り返った。するとそこには、特に何をするでもなく彼女から一定の距離を保ち、壁に背を預けて膝を抱えている村雲江がいた。彼女が視線を向けると、村雲は組んだ腕の上に顎を載せたままで言う。
「……なに」
「何って、その、何か気になったり、私に用があるなら」
「何もないよ」
じゃあ何故そこにいるのだ。
彼女は居たたまれない気持ちで体勢を戻した。取り付く島もなく「何もない」と言われてしまえば、そうする他にない。しかし、本当にやりづらい。彼女は手にしていたシャープペンシルの頭でコンコンと文机の天板を叩いた。
理由はさっぱりわからないのだが、村雲は本丸に居座ってからこちら、何故だかずっと彼女の背後にいるのである。それはまるで影法師か何かのようだった。
何かを言うわけでは決してない。むしろ彼女から話しかけない限り、村雲は口を開かない。けれど毎朝必ずその日一日の予定を聞いて、彼女と同じ部屋、ないしは同じ空間にいるのである。比喩ではなく、唯一村雲がついてこないのは入浴と用を足すときくらいだ。
そしてこれが大変、しんどい。なにせ一切距離を詰めようとして来ない人間、もとい刀がずっと半歩後ろに控えているのである。それも理由がさっぱりわからない。邪険……というわけではないが、村雲側には彼女と少しでも仲良くしようという気がさらさらなさそうなのに、どうして。ただついて回られるだけと言っても、ここ数日、この村雲の行動は彼女にとってかなりのストレスになっていた。見かねた加州がそれとなく別室に行くように促しても、村雲ときたら「いい」とだけ言って座り込んでいる。そしてこうなってしまうと流石の加州も手を出せないのだ。
正直なことを言えば、村雲のこの行動には彼女もいい加減嫌気がさしており、「勘弁してくれ」と叫び出したいところではあった。しかし相手が相手なだけにそれができないのがまた苦しい。したがって、現状彼女にできる行動は再生している映像講座にひたすらに集中することだけなのだが、それにも彼女はもう限界がき始めていた。気にしないようにしても、どうにも。背中にじりじりとした視線を感じる。
「……あの」
「……なに?」
彼女は仕方なしにもう一度村雲の方を向いた。それからトントンと自分の右隣を叩く。
「もし村雲さんが嫌じゃないなら、せめてこっちに、来てほしいんですが」
視線が、とにかくつらい。背後からじっと、見つめられているだけというのは落ち着かない。自意識過剰などではなく本当にただ見られているのだ。とはいえ村雲にはこの部屋から出ていくつもりはないようだし、この際仲良くおしゃべりしてくれとは言わないので、せめて後ろから凝視するのだけでもやめてもらいたい。
それもあり彼女は自分の隣……とは言ってもやや離れた場所を示したのだが、村雲はちらりとその指先を見た後にふいとそっぽを向いた。ふわふわとしたピンクの髪が揺れる。
「そこはやだ」
ガンと頭を殴られたような気持ちになる。ストレートな拒絶に彼女はややショックを受けていた。「そこ」は「嫌だ」ということは、すなわち彼女の隣には来たくないということである。確かに彼女と村雲の間には何の関係性もないけれど、面と向かって直接そう言われるのは些か。
「い、嫌ですか」
「……嫌だ」
困った……。取り付く島もなく断られた彼女は、はあと息を吐いて再び体を正面に向けた。全く、頭の痛い。彼女はマウスを動かして動画を少々巻き戻した。集中できないため頭に入っている気は全くしないけれど、見逃している分は戻さなくては。
だがそうして手持無沙汰にカチカチと操作をしていると、不意に低い声が後ろから投げかけられた。
「……なんでそんなの、見てるの」
もしかして、今のは自分に言ったのだろうか。彼女は驚いて振り返る。するときまり悪そうに、余所を向いたままの村雲がもう一度言った。
「別に、言いたくないなら」
「う、ううん! いや、あの、いいえ。あの、これはちょっと、研修みたいなもので」
「研修?」
「はい、実は私、まだちゃんと審神者として登録されてなくて」
正直に答えてしまってから、彼女は「あ」と自分の口を押えた。これは言ってしまってよかったのだろうか。まだ村雲の素性も知れないのに。だが刀剣男士相手に嘘を吐くわけにもいかない。相手は神様なのだ。
しかし村雲の方は彼女の言葉に興味を示したのか、宝石のように綺麗な色の瞳をこちらに向けた。
「君、審神者じゃないの?」
「……えっと、説明が、難しいんですけど」
参ったな、と思いはしたものの彼女はいくらか言葉を選んで答えることにした。カチリと一度、動画をクリックしてそれを止める。それから村雲の方に体ごと向き直った。
「私、審神者になった時期が、ちょっと悪かったみたいで」
「どういうこと?」
「えーっと……召集された時期が、ちょっと忙しい頃だったみたいで。私も詳しくは知らないんですが」
審神者としての適性があると通達が来て彼女は指定された通りに時の政府に赴いたが、担当の管狐、こんのすけからは早口で現状が説明された。審神者という役割も時の政府もまだまだ発足したばかりで、色々バタバタしている。だから申し訳ないのだが彼女を正式に審神者として登録するのに時間が欲しいこと。だがせっかくなので、彼女には初期刀を顕現させて、本丸がどういう場所か慣れるのにこの期間を宛ててほしいということ。
「それで今は、加州君と二人でなんとなくここにいて、いつか刀剣男士をお迎えするために場所を整えてるところでして。本来なら色々、政府で研修も受けるはずだったんですが、その余裕もないのでこうして、研修動画を見ていてですね……」
「……そう」
ちらりと彼女が村雲の方を見てみると、村雲はやはり膝を立てて座ったまま頬杖を突くようにして手のひらを口元に当てていた。返ってきたのは興味のなさそうな返事だったが、村雲の表情は何かを考えこんでいる風ではある。その様子を見つつ、彼女もいくらか思いを巡らせた。
村雲にだって、ここに居たがる理由が何かあるはずだ。刀剣男士は刀、つまりモノの付喪神だ。だから審神者は彼らにとって「持ち主」。よっぽどのことがなければ、その審神者の傍を離れているとは考えづらい。加えて彼女と村雲との間には何の縁もゆかりもなく、ここに居たがる何かが彼女に起因するものだとも思えない。ならば村雲の「審神者」か「本丸」どちらかに問題があってここにいると考えるのが妥当なのではないのだろうか。
例えばこの本丸のように、従来の本丸の運営や活動ができない何か。そういう事情があって、村雲は帰ることを断念、あるいは避けようとしていて……。
「よかったね」
「え?」
余所を向いたまま村雲が言った。だがそれは彼女が考え事をしていたのを差し引いても、ちっとも想定していなかった言葉だったので聞き直す。今説明した事柄の中で、「良い」ことなんて一つもなかったはずだが。
「何が、よかったんでしょうか」
彼女が尋ねれば、村雲は静かな声で答える。
「だって、それなら君はまだ審神者になるの、やめられるってことだろ」
あ、と彼女はそこでやっと思い出した。そういえば村雲は初対面で、彼女に同じようなことを言っていた。
君は向いていないから、審神者になるのはやめた方がいいと。
「……あの」
「主ー」
彼女が村雲に声をかけたのと同時に、加州が執務室にやってきて室内を覗き込む。「洋装も着慣れとかないとねー」と楽な服装ではなく黒のスラックスにベスト姿をしっかり整えた加州は、片手にエプロンを引っ掛けていた。今日は加州が夕飯当番だったのだ。
「あ、うん、なに? 加州君」
「晩御飯、一応できたんだけどさ。ちょっと味噌汁の味見してくんない? 俺やっぱりまだその辺よくわかんなくて。たぶん美味しいと思うんだけど」
「あ、そっか。今行くね」
立ち上がって、彼女はそのまま執務室を出た。ちらりと村雲が自分の方を一瞥したことには彼女も気づいたけれどそのまま退出する。村雲はついてこなかった。
せっかく少しは話ができたけれど、状況はあまり何も変わらなかった。そんなことを考えながら彼女は加州の後ろを歩いていたのだが、暫く歩いて執務室を離れると加州は眉を吊り上げて言った。
「ねえ! 何あいつ、あれじゃ主は審神者にならない方がいいみたいな言いかたじゃん!」
「……加州君、ね、怒らないで。私全然気にしてないから」
聞こえていないといいなと思っていたが、あのタイミングで入室してきた加州が村雲の言葉を聞いていないはずがなかった。厨まで来ると加州は更に怒って捲くし立てる。彼女は困って両手を上げ自分の前に持ってきたけれど、加州の方の勢いは全く収まらない。
「ほんと何なんだよ、こっちだって余裕ないとこあいつ預かってんのに」
「いやでも、私が新米……っていうより独り立ちもできてない半人前なのは間違ってないから。村雲さんはもう出陣したりしてるんだろうから、私は毎日パソコン眺めてるばっかりで、頼りなく見えたんじゃない?」
事実、彼女は審神者としてはまだ何もできていない。自分の刀剣男士である加州を出陣させたこともないし、業務の一環だと聞いている刀を鍛えたり、あるいは手入れしたりなんていうこともしていない。村雲の本丸が既に一般的な任務に当たっているのなら、日がな一日動画を見ているだけの彼女はさぞや怠慢に見えるだろう。
だが彼女のその言葉にも加州は更に苛立ったようで、手にしていたエプロンを厨の大きなテーブルに投げつけた。
「主のこの状況は別に主が好きでやってるんじゃないじゃん! よく知りもしないで言うのも論外だし、政府の都合でうちはこうなのに、あんな言いかた有り得ないからっ!」
加州の剣幕に、彼女はつい、自分の爪先の辺りを見た。加州の主張は、間違っていない。そして彼女のことを庇って言ってくれているのもわかる。だがそれが理解できればできるほど、彼女にはやや俯くことしかできなかった。
「……ごめん」
すると加州はハッとし、焦って前のめりになる。
「ご、ごめん! 俺こそ、大きい声出したり、して。……ごめんね、俺、結構喧嘩っ早い、みたい、で……嫌になった?」
小さくなった加州の声に、今度は彼女が慌てる番だった。加州が村雲に怒っているのは、他ならない彼女の為だ。それを責めることはできない。それに加州だって、この状況に対してはやりきれない気持ちの方が大きいだろう。顕現してこちら、加州は一度も出陣さえもしていない。
「そ、そんなことないよ。加州君がなんで怒ってくれたのかはわかるよ、ありがとう。でも村雲さんも今はたぶん、迷子で不安だったりするだろうから……いくらか棘があってもしょうがないって私は思ってる、し……」
何故村雲がここを動こうとしないのかは相変わらずわからないけれど、迷子は心細い。それは間違いない。それもあり、彼女には多少のやりづらさは感じても村雲を邪険にしたくない気持ちもあった。まあ、村雲がここに転がり込んで張り付いている状態に困ってはいるけれど……。
しかしこれではどっちつかずで、八方美人だと彼女は思った。彼女は今、加州と村雲のどちらにもいい顔をしたのだ。加州は他でもない、彼女の初めての刀なのに。だが政府から「自発的にそうしたいという希望がない限り、村雲を動かすことはできない」と返答があった以上、他にどうするのがいいのかわからない。
他の審神者なら、こういうときどうするのだろうと彼女はぼんやり思った。今のところ、彼女には同期や先輩後輩もいない。誰も、教えてはくれない。
「刀」と、どうコミュニケーションを取ればいいのか。彼女にはわからない。
暫く二人して黙りこくっていたけれど、そのうちに加州の方が先に動いて食器棚に手を伸ばした。中には既に備品としてそれなりの量の食器が納められていたが、彼女と加州はそのほんのごく一部しか使用していない。加州は木でできた椀を一つ取り出した。
「……でも、言われたことは本当、気にしなくていいからね。主はいこれっ! 味噌汁! たぶん美味しいから、これ飲んで元気出して。それから落ち込まないよーに!」
味見にしては大きい器で量だったけれど、彼女は何も言わずにそれを受け取る。何の変哲もない普通の味噌汁の匂いがした。
「うん……ありがとう。美味しそう、あ、わかめ入ってる、嬉しいな」
彼女は加州が差し出してくれたお椀を受け取って口を付けた。ほんの少し、しょっぱい。だがそれは心の中に留めておく。今それを言うのは憚られた。とはいえ今以外にいつ言えばいいのかもわからなかったけれど。
ついでに「でも実は私も自分はたぶん審神者には向いてないと思ってるんだよね」なんてことも、彼女は味噌汁と一緒に心のうちに飲み込んでおいた。