やるときゃやるヨ!松井君!
困ったな、と私は木を見上げた。ひらり、ひらりと私のハンカチが木の中腹で揺れる。
手にしていた洗濯籠は縁側に置いてしまっていた。一緒にそれらを取り込んでいた短刀たちは、誰か呼んでくると母屋に上がっている。「主君は引っかかったのが飛ばないように見ていてください!」と言われたので、私は何もできずにただ風に揺れるハンカチを見上げていた。ひゅうとそれを攫っていったのと同じ風が音を立てて吹きすさぶ。
「困ったなあ」
どうしようもないと、それしか口にできない。私はただ阿呆のように木をの前に突っ立っていた。
「どうしたの」
落ち着いた調子の声が柔らかく背中に掛けられたので、私はやっと首を動かして顔を回す。土を踏みしめるヒールの音を立てて私の隣に立ったのは、松井江だった。
「松井君」
「遠征から帰ったよ。資材は蔵に仕舞うように、篭手切が手を回してくれている」
「ありがとう、おかえり」
「それで、貴方は何を?」
ひゅるりとまた吹いた風が松井君の髪を揺らす。ん、と小さくそれに声を上げた松井君は、綺麗に整えられた指先で乱れた髪を耳に掛けた。
「あー、それがね。洗濯物を取り込んでたら、私のハンカチが飛んでってあそこに」
「ああ、あれだね」
はたはたとひらめくハンカチを松井君が指さした。そう、と私は答える。
「それで今、一緒に取り込んでくれてた皆が梯子を持ってくるか背の高い誰かを呼んできてくれるのを待ってるの。飛んでどこに行っちゃったかわからなくなると困るから、私は待機」
「そう……」
松井君は口元に指先をやって少し考えた後、ゆらりと羽織っていた外套を揺らして踵を返した。
松井江は、まだこの本丸に来てから日が浅い。だから私もそんなに何かを話したりしたことはなく、基本的に事務的な連絡だとか、他愛もないやりとりしかしたことがなかった。だからいまいち掴みどころがなく、意味深な笑みを浮かべる彼が何を考えているのかはあまりわからない。
報告も終わったし、母屋に帰るのだろう。私はそう合点して、再びハンカチを見上げた。背の高い誰かでも、そのまま取るには厳しい高さだろうな。ともなれば今は皆、梯子を取りに行っている最中かもしれない。
しかし再びヒールの音を立てて戻ってきたのは松井君だった。しかも手には何故か野球ボールを持っている。
「え、何それ」
「今日は、風が強いからね」
会話になっていなくない? 私が頭にクエスチョンマークを浮かべていると、松井君はそれを右手で握った。
ザリと土が音を立てる。ぐんといきなり松井君の頭の位置が下がったので、私はそこでやっと松井君が思い切り足を開いて投擲の体勢に入ったことに気づいた。
「えっえっ!?」
「ふっ!」
ビュッっと風よりも鋭い音が空気を裂いた。白球はものすごい勢いで飛び、的確にハンカチのある位置にぶち当たる。
がさがさと揺れた枝が、捕まえていたハンカチをひらりひらりと落とした。何でもなかったように体を起こした松井君は、またゆらりと外套を揺らしてそれをキャッチする。ついでに葉に当たって勢いを落としたボールも取った。
「取れたよ」
「あ、あ、ありがとう」
「少し、洗い直したほうがいいかもしれない。球が当たったから。泥がついてしまったね、白いのに」
パンパンと松井君は脇の下にボールを挟み、私のハンカチを叩いた。ばたばたと縁側を前田君と平野君が二人で梯子を持って走ってくる。
「主君、主君すみません、梯子が納屋に、あっ松井さん」
「申し訳ないね、わざわざ持ってきてくれたのに。飛びそうだったから、僕が落としてしまった。これ、洗い直せる?」
松井君は別に悪くないのに謝りながら前田君と平野君にハンカチを差し出す。私は開いた口がまだ閉じられなかった。
あんな、お人形さんみたいな顔してるのに。がばりと開かれた足と、ものすごい剛速球。
「四番ピッチャー……」
まだ心臓がばくばくとしていた。
「お待ちどおさま、いつも通り送る手配をしておきましたよ」
「ありがとうございます」
「いいえぇ、これからもよろしくねえ。お兄ちゃんも、また遊びにおいで」
「ああ……、ありがとうございます」
感じのいいおばあさんの声に送り出されて、私は軽く会釈した。すると隣に立っていた松井君も、あのさらさらの髪を揺らして頭を下げる。あの長めの外套は少々目立つため、今日は松井君には濃い緑のチェスターコートを着てもらっていた。店の引き戸は閉めるときにカラカラと音がする。
なんと今日は現世の、味噌屋に用があって松井君と外出している。
「付き合ってくれてありがとう」
「ううん、僕が単価や納期を知りたかったから。主も、連れてきてくれてありがとう。申請が面倒だっただろう」
「あはは、これは私の我儘を皆に聞いてもらってることだから。気にしないで」
生まれ育ちというものが、離れてみて初めて影響すると私も審神者になってみてからわかった。具体的に言うと、政府の支給サイトで買える味噌の味が合わなかったのだ。
刀剣男士は現在、顕現を確認されているのが九四口。その全てを迎えられているなら僥倖だが、それはまあ運や縁にもよることである。とにもかくにも、本丸は審神者の就任からそれなりの年月が経つと、かなりの大所帯になる。となると切迫してくるのは食糧事情だ。
本丸はそれぞれ畑を有しているわけだが、それですべてが賄えるわけがない。なにせ刀剣男士は全員、曲がりなりにも男性の体で顕現しているのだ。米、秒でなくなる。野菜、収穫してもしても基本的に足りない。無論料理に使う鍋なんかは、給食と同等の大きさのものを使用する。
そういうわけで、一定の人数になってくるとある程度を自給自足し、足りない分や買わねばならない加工品なんかは政府から買っている。そのための通販サイトがあるのだ。
けれど私はどうにも、その支給品の味噌に舌が馴染まなかった。調べてみれば、出身地で使うものとは違う味噌が配送されていた。
「味噌が、今の店で買った貴方の故郷のものでないといけないんだね」
「いけないわけじゃないよ、でも、どうにも。慣れればいいだけの話なんだけどね」
最初はそんなの我慢すればいい話だと思っていた。しかし調味料レベルのものが合わないと、そこから派生する料理全てに違和感があった。そこでダメ元で相談してみれば、その手の相談は案外よくあるので、自分で手配でき、仕入れ先から政府を経由することで割高になるのでよければ、故郷のものを取り寄せてもいいのだと言う。
「聞いてみたら、他にも納豆がひきわりじゃないと許せない審神者さんとか、慣れてくると刀剣男士にも好みがあるみたいで。それで私はお味噌だけはさっきのお店に頼んでるの。仕入れに手間をかけてごめんね」
日本人は食に妥協しない民族だとはよく聞くが、日本で生み出された刀剣もそうらしい。正月は厨が味付けの問題で戦争じみている。
「なるほどね。仕方ないと思うよ、僕も、雑煮が薄口醤油じゃなければ、少し微妙に思うだろうから。餅が四角かったり……」
「あはは、そっか。松井君は九州の方だもんね」
「うん。それに、貴方の血を作るものだから。好きなものを食べた方がいい。それにちゃんと単価と納期がわかって良かった。これで帳簿がつけやすくなるよ」
味噌の発注のことで、と松井君が声を掛けてくれたのは昨日のことだった。最近、松井君が事務関係の仕事をしてくれているらしいというのは近侍や事務方担当の刀剣から聞いている。なんでも、松井君はそういう実務が得意なのだという。それでそろそろ本丸にも慣れてきたからと、自分から率先して手伝いに来てくれたそうだ。
そこで几帳面な松井君は妙に高い味噌単価が気になったらしい。それならせっかくだし、見てもらった方が早いかもしれないと私は現世への外出申請をした。松井君とどこかに行くのは初めてだ。
「連絡先も聞けたから、今度何かあったときは僕からさっきの女性に連絡してもいいかな」
コートの内ポケットにしまっていた店の案内を取り出して、松井君が言う。政府を経由するので滅多に納期が遅れたりすることはないだろうが、別に構わないはずだ。
「あ、うん。政府で味噌を仕入れてるって言えばたぶんわかると思う。松井君が刀剣男士だって説明するとややこしくなっちゃうから、そう名乗ってくれるかな」
「わかった。確かに刀剣男士の松井、じゃわからないだろうからね」
「ありそうな苗字だけどねえ」
そうだね、と松井君は微笑んだ。松井君の髪の色は刀剣男士にしては比較的一般向けだけれど、顔立ちの整い方が普通の町中にいるとやっぱりずば抜けているなあと私は思う。それにしても、綺麗なお人形さんみたいな人だ。
腕時計を見てみたが、申請した帰還時刻まではまだ余裕があった。せっかく現世まで来たし、本丸だと何かとバタバタして松井君一振とゆっくり話すこともできないし。私は松井君の方を見上げてみる。案外背も高いな。
「まだ時間があるから、良かったらどこか行かない? 少しお茶するくらいならできると思うよ。他に見たいものはある? 松井君も、現世なんて殆ど来ることないでしょう?」
松井君は何度か瞬きをした後に、にこりとした。
「ありがとう、それなら少し本を見た後でもいいかい?」
「うん、もちろん。向こうに大きい本屋さんあったよね。私も雑貨とか文房具見たいな」
「でも主、無駄な浪費をしたらその時は……」
低く、少しからかうような口調で松井君が言う。私がそれにびっくりして松井君を見つめ返すと、どこか楽しそうに松井君は笑った。
……なんだ、私が思っていたより、松井君はもっとずっととっつきやすい性格なのかもしれない。血がどうとか、いつも言っているからちょっと面食らったし、綺麗だけど不思議な笑みでつかみどころがないように思えるだけで。
パソコン関係の本を見たいと言う松井君に、この辺りで待ってるねと私は文具の棚を指した。すぐに戻るからと松井君は履いていたブーツのヒールを鳴らして足早に書店の奥に消える。そういえば長谷部だか長義だかが新しくパソコンに管理ソフトを入れたとか言っていたし、その本だろうか。真面目だなあ。
使うかどうかわからないけれど、見ていて楽しいパステルカラーのペンを見つつ、私は棚を移動した。これを買ったら、それこそ浪費だと松井君に言われるだろうか。でも、松井君ってどんな風に怒るのだろう。想像してみて、うまく思いつかなくてやめた。ひらりとスカートの裾に何かが当たる。考え事をしていたら他の客に近づきすぎたらしい。屈んでいた男性だった。
「あ、すみません」
「……」
棚と棚の間もそう広いわけではないし、気を付けないとな。そんな風に思って、私は移動してノートの売り場をみる。手帳は間に合っている、でもこうもたくさん並んでいるとどれかほしくなるな……。
ひら、とまたスカートが揺れて私は顔を上げた。さっきの人だ。それも距離が近い。
「あの……」
立ち上がったその人は私よりずっと背が高かった。思わず後ずさってしまう。なんでこの人、さっきも今もこんなに近くにいるんだろう。
「すいません、私、ちょっと周り見ていなかったみたいで」
一応謝ってはみるものの、明らかに様子がおかしいその男に他に何と言えばいいかわからなかった。平日の書店の文具売り場は、まだ学生の帰宅時間でもないために人が少ない。
そういえば。
書店って、通勤電車なんかを別にすると、ものすごく痴漢や盗撮が多いんだっけ。
「あの、あの」
ぬっとこちらに手が伸びてくる。何か言わなきゃ、でも何を? たすけて? いやでも、勘違いだったら。……本当に?
「主?」
ゆっくり振り返る。さらさらの髪を揺らして、本を数冊もった松井君が立っていた。青い目が交互に私と男とを見ると、ぎゅっと細められる。ガツンと普段より重く、ヒールが床に叩きつけられる音が響いた。
「わらっ! 誰ばちょちょくっとか! くらぁすっぞ!」
男だけでなく私まで跳ね上がる。お腹から声が出てる、お腹から。大きい図体に反して、男は飛び上がって逃げだした。猛然とこちらに歩み寄ってきた松井君は尚もそれを追いかける。
「こんばかが! 待たんか!」
「ま、松井君」
「お客様、どうかなさいましたか!」
騒ぎを聞きつけてきた店員が駆けつけてきて、私は慌てて松井君のコートの袖を掴む。それにハッとして、松井君は踵を返し私の腕や手首を検めた。バタバタと店員の方が店の外まで男を走って追いかけて行く。
「怪我はしていない? 血は、どこも流れていない?」
「だ、大丈夫、大丈夫だよ」
「……よかった。あ」
「あっ」
ぽたっと、松井君が手にしていた本に一滴血が垂れる。松井君は素早くポケットからタオルハンカチを出して鼻に宛てた。鼻血だ、どうして。
「少し、興奮したからかな、鼻血が」
そういうもの? 私がおろおろしていると、戻ってきた店員がその様を見て更ににぎょっとする。
「お客様、お怪我は……お客様っ?」
「あっ、これは違くて、すいません、あの本が、これ買い取りますから!」
男に殴られたと思ったらしい店員と、落ち着いた様子で本の代金を払う松井君とで、暫く店はざわざわとしていた。バックヤードで少し休んだ方がいいと言われ、やっと一息ついて紙袋に包まれた本を手にした頃に、並んで座っていた松井君が鼻からタオルハンカチを外す。
「ごめんね、貴方を一人にしたから」
「ううん、大丈夫」
「でも、怖かっただろう。とても怯えた顔をしていたよ。申し訳なかったね」
ごめんね、ともう一度言って松井君が私の手を両手で包む。ターコイズブルーに塗られた爪がきらきらとしていた。さらりと耳にかけていた髪が落ちるのが聞こえる。私より大きい手で、背も高くて、でもお人形さんみたいな綺麗な顔で。
「……松井君、あんな大きい声出せるんだねえ」
口をついて出たのはそんな言葉だった。あは、と力が抜けて笑えば同時にちょっとだけ涙が出る。
「私びっくりしちゃった。この間の、ボールもだけど、顔はお人形さんみたいに綺麗なのにねえ」
びっくりした。うそ、こわかった。
はあと息を吐けば、いくつかほろろと涙が落ちる。松井君はタオルハンカチを折って、汚れていない面を私の頬のあたりに押し当てた。
「篭手切が、腹式呼吸……教えてくれたからね」
「あはは……、そっか」
松井君に握られた手をひっくり返して時間を見る。まだお茶はできそうな時間だった。
「お礼に甘いもの奢るね。それは浪費にならないでしょう?」
「僕も貴方から給金はもらっているよ」
「いいのいいの、お礼だから。松井君何が好き? せっかくだから教えてね」
ケーキのショーケースの前に連れて行くと、松井君は赤いの、と言ったのでやっぱり血が好きだからかなあと私は笑った。