火の国のアルフ・ライラ・ワ・ライラ <四>(サスサク)
その夜サクラは思いがけない出来事にとても疲れていましたので、早めに休むことにしました。
物思いに沈み、王宮の出来事や思い出を一つ一つ思い返しては懐かしいことが次々と浮かび興奮はなかなか鎮まりません。
それでも夜の帳が王宮の奥まで垂れ下がり、濃い色のベールを重ねていくかのように暗闇が寝所を支配するころ、サクラまぶたは重力の働きにしたがい自然に閉じられました。
サクラはたくさんの夢を見ました。
王様とサスケがいます。二人は似た者同士の兄弟で、幼い頃から互いにいたずらをしたり喧嘩をしたりして成長していくのです。
大きくなった二人は片方が国王、もう片方は盗賊、いえ盗賊ではなく義賊をしているという設定はどうでしょう。表向きは大商人、だけどその実態は腕に覚えのある荒くれ共を従えた義賊で、国から国へとわたりゆく自由な稼業。そして時おり生真面目な兄弟に会いに、こっそりと故郷に戻ってくるのです。
おとぎ話の夢物語にサクラはくふくふと笑みをこぼしました。
幼い自分といの、両親の姿もありました。彼らが夢に出てくるのはずいぶんと久しぶりで、夢を見ているときからサクラはじんわりとした喜びを感じました。
夢のなかでは皆が子供で、めいめいが勝手なことをして遊んでいます。夢は便利なものです。本を読まずとも優しくて面白くて楽しい世界に連れていってくれます。
サスケがもしも本当に王様と血を分けた兄弟、それがだめでも遠い親戚でも良いから同じ一族の出身であれば、王様は一人ではなくなります。
残念ながらサスケは自分を商人と言い、王様との血縁についてはっきりと否定しました。よく似た顔の友人。それが確かなら、口下手な二人がどんな話をするのかを考えると妙な感じですが、男の友情とはそんなものかもしれません。
夢と現実は異なります。しかし昼間あった出来事は本当に現実だったのでしょうか。その違いをいったい誰が保証できるのでしょう。サクラが後宮にいることも、すべては夢なのかもしれません。
サクラは愛しいかたの姿を思い浮かべました。ひそやかに神に祈ります。
たとえ夢でもこの気持ちはとても大切で神聖なものでした。
夜の静寂に、扉の外で話し声が聞こえてきました。
抑えられた低い声は男のもので、一方は重吾のようです。その声音は不穏なものではなく、扉を開けて主人にそっと話しかけるようでもありました。
サクラの返事を待たず、小さなろうそくの火が入り口のすぐ脇にかけられました。ぼんやりとした灯りで背の高い誰かが近づいてくるのが見えます。
サクラは頭上のランプに被せてあった覆いを外し、そばの椅子にかけてあった羽織りに腕を通して、深夜の客を迎える準備を始めようとしました。
「起きなくていい」
黒い影のような王様がサクラに声をかけます。
弱い灯りにぼんやりと照らされる王宮の主に、サクラは寝台からではありますが恭しく挨拶を申し上げます。
「お慈悲に感謝いたします。このような場にわざわざおいでくださいましたのに、礼を欠きまして申し訳ございません」
王様は天涯から垂れ下がる幕のなかに入り込むと、紐を引いて幕をきれいに閉じました。こうすれば外から見られることはありません。
寝台に座ってサクラの顔をじっくり眺めると、
「起きなくていい。休んでろ」
ともう一度おっしゃいました。
「せっかく王様がわたしの部屋にいらしてくださったのに、寝たりしてはもったいないです」
「なら布団をかぶってろ」
「でしたら、王様もご一緒に」
サクラがお願いすると王様は隣に入り込んで、サクラにたっぷりかかるように布団を引き上げました。
王様のたくましい肩、麝香のような妖しく魅力的な香の匂い、久方ぶりの王様にサクラは酔いしれました。恐れ多くもうっとりと御腕に頭をもたげて、王様の感触を間近で味わいます。
「元気そうだな」
王様はサクラを優しく抱いてくださいました。あたたかくて頼もしい王様の腕です。サクラは王様にもたれながら、じわじわと覚醒していきました。
サクラが頼もしい気持ちで寄り添っているかたは、夢ではなく本物の王様です。
本当に本物のこの国の主で、正真正銘サクラの主人であられます。
夢を見ているようだったサクラはにわかに動悸がしてきました。おそるおそる王様に伺います。
「あのっ、王様……、急にどうして後宮に……」
今までただの一度も王様は後宮に興味を持たず足を踏み入れたこともなく、サクラの部屋を訪れる素振りすらなかったはずでした。
「顔が見たくなった」
本物でした。こんな風に、王様ったら急に、なんの前触れもなく深夜に突然サクラの元に現れて、サクラの胸をきゅんとさせるのです。
確かに綱手の診断は正しいようです。王様と毎日お会いしてはサクラの心は嬉しくて疲れてしまうでしょう。そして喜びに溢れさせてサクラをとてもあたたかくさせるのです。
「わたしも王様にお会いしたかったです……!」
サクラはたまらず王様に抱きつきました。王様はすり寄るサクラの顎に手をかけると、
「もっと顔を見せろ」
とおっしゃいます。
王様がサクラの顔をじっくりと眺めるので、サクラもまた王様の顔を正面から見つめました。その眼差しの鋭さ、力強いほどの美しさ、夜を練り込んだような不思議な肌の色。左眼から生まれ出たような紋様は魔力を秘めていて、王様の横顔をひとではないものに見せています。
王様は魔神のように冷たく妖しい美しさでサクラを支配します。その御方にサクラは全てを捧げています。寝起きの顔は少し恥ずかしいのですが、主に言われれば裸にだってならなくてはなりません。
王様の瞳に吸い込まれるように、サクラは夢見心地になって問いかけました。
「王様のご家族は、どんな風でいらしたんでしょう……」
がらりと場の空気が変わりました。王様の機嫌を損ねたことに気づいてサクラは我に返りました。家族の話は王様にとって禁忌なのに。
「すみません。王様によく似たかたをお見かけして、一族に縁のあるかたがいらっしゃるのかと考えたら気になってしまいまして」
王様はサクラから視線を外し、枕元のクッションにもたれて宙を眺めました。サクラはかたわらで身を縮ませています。
サクラはサスケのことを誰にも話しませんでした。いくら急だからと言って後宮に見舞い客が来るなんて、正式なものであれば知らせがないはずがありません。仮に連絡がなかったとしても、重吾が一言も、気づかってもくれないなんておかしなことです。
食事を運んでくれた侍女でさえ話題にしなかったのですから、サスケは後宮の誰にも見咎められずに現れたのかもしれません。
誰も何も言わないものを、サクラから奥の庭の侵入者について尋ねるのは気が咎めました。
夢だったのかもしれないと、サクラは一抹の不安がありました。王様にお聞きしたいのに何故だか自信がありません。
サクラのひそやかな煩悶を見て王様は大きく息を吐き、その細い背をするりと撫でました。
「休めと言ったぞ」
「……はい」
王様は寛大な帝王であられます。サクラは心から頭を垂れて、王様と同じようにクッションにもたれました。
「おまえが心配しなくていい」
「はい」
「あれは王家とは関係ない」
「では……、お見舞いにいらしたかたは、王様のご友人ですか?」
「丁度良いと思ったので見舞いに行かせただけの商人だ」
「……そうですか」
「驚いたか」
「驚きました……!」
王様の言質にようやくサクラは息を吹き返しました。あの全ては決して夢ではなかったのです。サクラの子供のころの思い出も、腕輪だって本当の現実なのです。
「最初は盗賊でも現れたのかと思って心臓が止まるかと思いました。王様のお使いのかたならもっと普通にいらしてくだされば良いのに」
「あれは表に出ないほうが良い」
「親しいかたではないのですか?」
「使い走りだぞ」
「そんな風におっしゃるらなくても……。あの……、やっぱりあのかたは、表向きは商人をされてる、王様の秘密のご兄弟ではありませんか?」
声を落として問いかけるサクラの様子に王様は少し笑ったようです。
「おまえは本の読みすぎだ」
薄い笑みを滲ませる王様の表情に、サクラはそっとため息を吐きます。
こんなに素敵なかたが二人といるなんて。追求したくて仕方がありませんが王様はサクラの言葉をすべて否定なさいます。
本当になんの関係もない、他人のそら似でしょうか。もしかしていざというときの影武者かしら。それならサクラに秘密にするのもうなずけますし、残念ですがこの話をするのも終わらせるしかありません。
力を落としたサクラを見て王様は穏やかにおっしゃいます。
「兄弟も一族もいない。残ったのは俺一人だ」
静かな声音はサクラを後悔させました。亡くなられたご家族への思いは王様にとって特別なものだとわかっていたのに、またです。
落ち込むサクラを宥めるように、王様はサクラの髪をつまみながら一人語ります。
「家族は不要だ。国を守るのが俺の務めだからな」
王様は自らの楽しみを求めず国事に力を尽くされています。口先のことではありません。王様は常に真剣に国を思っておられます。
王様の尊いお考えはサクラが初めてお仕えした夜から変わりません。間近に接していれば王様の言葉の端々に為政者たらんとする姿がよく見えました。
サクラは孤高の王様の一時の慰めになれば良いのです。なのに心配をかけてしまうことが心苦しく、お側で仕えられないことを申し訳なく思いました。
「王様、わたしの体調は近ごろ落ち着いておりますので、王様こそお体を大事になさって、よく休んでくださいませ」
サクラは王様の肩にきちんとかかるよう布団を動かしました。そして頭上のランプに覆いを被せ、王様の隣に身を寄せると小さな声で就寝の挨拶を申します。
王様はサクラを無言で見つめました。
暗くなった部屋で、サクラは一度目を閉じたのですが、王様がいつまでも自分を見ていることに気がつきました。
何か気になることがあるのか、もしや王宮に戻るおつもりだったのかとサクラがふいに目を開けたとき、王様がサクラの額に口づけをしてくださいました。
これは王様の「おやすみ」の合図の一つでした。
サクラは安心して瞳を閉じ、王様の腕のなかで朝まで眠りました。
夢も見ずに迎えた翌朝、サクラの目が覚めたとき王様の姿はすでに露とも残っておりません。
サクラは朝の挨拶にきた重吾に王様のことをそっと尋ねました。
重吾は確かに王様が訪れたと請けおいました。あのかたは朝日が昇る前に部屋を出て行かれたと。
サクラはほっとしましたが、同時に寂しさを感じました。自分はやはり王様を支えることはできないのかと思ったのです。
王様はサクラにも心の全てを見せてはくださいません。
だからまだ時間が必要なのだと思いました。
もうしばらくの間、王様にはいらぬ心配をかけないようにするつもりでした。
きっとそれが良いのです。王様にとっても、この国にとってもきっと。
それなのにサクラの体調はあまり安定しなくなってしまいました。
サクラは後宮で侍女達と賑やかに過ごします。今の後宮には様々なもの達が出入りをしていました。
いのは最近家のほうで客人をもてなす用ができたと言って、少し忙しそうです。
後宮に顔を出したと思ったらすぐに帰ってしまいますが、用事が出来たことが楽しそうなのでサクラは笑顔で見送ります。
綱手は大蛇丸のところへよく出向いているそうです。
病院や学校、サクラの容態などを話して、王様とも顔を会わせて議論をしているのです。男性にも遠慮のない会話をしていることを教えてもらい、後宮の女達は綱手のことをますます憧れの眼で見ています。
シズネは女達を教える先生です。最近では侍女の子供にも教育を始めました。
男の子は学校に行き、女の子は後宮で小さな教室を開けば良いという話になったのですが、まずはお試しです。小さな女の子の賑やかな声は楽しそうで、聞いているだけでもサクラはにこにこしています。
子供の賑やかな声が幸福なものだとサクラは知ることができました。
そして香燐が赤ん坊とサクラの様子を見に来てくれます。
赤ん坊は小さすぎて、まだ他の子供達とは一緒にできません。もう少し大きくなったら王様にお目にかけて、この後宮できちんと教育しようと皆で話しています。
王様は小さな女の子はお好きではないかもしれませんが、きっとこの子なら大丈夫ではないかとサクラは考えています。
とても可愛らしくて、満月のように美しい子供なのです。まだとても幼い赤ちゃんですが、なんとなく賢い子のような気がします。
そう思うのはサクラだけではありません。いのと香燐も赤ん坊の目鼻立ちを見てサクラに賛同してくれますし、綱手とシズネだってそうなのです。
お許しが得られたら、名前をつけていただきたい。
この赤ん坊にはまだ正式な名前がついてないので、皆は好きなように呼んでいます。
サクラも愛情を込めて、『可愛い子』、『大切な赤ちゃん』と呼んでいます。他に赤ん坊はいないので、これできちんと通じるのです。
香燐と赤ん坊と一緒にサクラはゆっくりと過ごします。後宮では心配することは何もありません。赤ん坊の姿を見て、愛らしい声を聞いていれば幸せでした。
それだというのにサクラの体調がなかなか安定しないのです。
綱手や皆がいてくれて、安心しきって食欲がないせいかもしれません。日に日に体が重くなって、あまり散歩をする気になれないせいかもしれません。
とにかく安静にするほかありません。サクラは赤ん坊と一緒に庭の休息所でお昼寝をするのを日課にしました。
ここに来ると心臓が変に早鐘を打ち出すときもあるのですが、そんなときサクラは腕輪を撫でて深呼吸をしました。この奥庭はとても素敵で大好きな場所ですから、日課から外すことはできません。
横になることもできる大きな長椅子に身を沈め、サクラは夢を見ました。大好きなひと達と笑う夢です。
夢から目覚めると自分が泣いていることが不思議でした。
「どうしてかしら、毎日こんなに幸せなのに……」
サクラの体調を診る綱手は険しい顔をしています。
「何か心配事でもあるんじゃないか?」
「いえ、みんなもいるし、本当にわたし心配なことなんて……」
「あの子を早く王に見せたいのでは?」
「今の体が落ち着いたら、と考えています」
「そのことだが、もう少し早く話してもいいんじゃないか? おまえが心配するほど、あの王は狭量じゃないぞ」
「王様はお優しいかたですから、ご迷惑をおかけしたくないんです……」
「それが考えすぎだと言うんだ。迷惑なことなどない。子供が産まれて、王としても喜ばしいことだろう」
サクラは複雑に微笑みましたが、何も言いませんでした。ただ自分が話すまでは王様にも王宮の誰にも言わないで欲しいと頼みました。
サクラは今、王様の御子を妊娠しています。そして昨年すでにサクラは王様との間に子供をもうけていました。
その子はこの後宮内で無事出産して、今もサクラのすぐそばですやすやと眠っています。満月のように美しくて可愛らしい、サスケに見つかってしまったあの黒髪の赤ん坊です。
今回は二度目の妊娠でした。出産も妊娠も、父親である王様やサクラの養父である大臣には何も伝えていません。最初の出産も含めて全ては後宮の女達だけの秘密でした。
重吾にだって本当のことは教えていないのです。
とても大切で大事な赤ん坊だとは話していますが、王様に何も伝えず、後宮にこもって香燐と侍女達だけに看てもらい、産まれてからも乳母を雇わず、香燐に手伝ってもらってこっそりと育てていました。
ようやくいのを招いて簡単なお披露目をして、綱手にも診てもらっているところだなんて話はちっともしていません。女はおしゃべりですが、男性には言えない話となると口が硬いのです。
たとえ言わなくともずっとサクラのそばにおりますし、物静かで頼りがいのある重吾のことですから、色々と察しているかもしれません。
長い間サクラは体を大事にして、ある日になってから急に産まれたばかりの黒髪の乳飲み子を抱いているのですから、普通はわかるでしょう。
その他には警備隊長のカカシにだって秘密です。
ただ宰相の大蛇丸からは一度だけ、いつも通り重吾によって王様の私室に運ばれているときに、それらしいことを訊かれたことがありました。そのときもサクラは何も話しませんでした。
以前、王様のお手がついてすぐの頃、まだサクラが後宮に戻れずに一日中王様の私室にいたころ、誰もいない部屋に宰相樣がいらしたことがありました。
彼は『王の子ができたら教えて欲しい。わるいようにはしない』と言いました。
宰相樣の進言によってサクラは王宮に来ることが決まったので、もっと恩義を感じてもいいのですが、サクラは宰相樣が苦手でした。
宰相樣は非常に賢いかたで、王様とこの国のためなら何でもやるのだと言われています。王様に逆らえば首を跳ねられるだけで済みますが、宰相樣に逆らえば生きることも死ぬことも自由にできなくなると言われています。町の子供だって知っている火の国で流行っている噂話です。
一国の宰相がそんな恐ろしいことをするなんて。
サクラは信じているわけではありませんが、見聞きした宰相樣の人となりは噂が出回るのも仕方がないように思えました。
香燐もあのかたは口先一つで国を滅ぼし、ひとを操る本物の魔術師だと言います。そのうえ変態で、幼い王様の心も体も手にいれようとしたこともあるのだと言います。サクラには理解できない部分がありますが、香燐の気持ちはわかります。宰相様は普通ではない雰囲気がありました。
しかし王様は大蛇丸よりも賢く美しく強いおかたなので、今では宰相樣も心より王様にお仕えしているというのです。
巷での噂話を聞いているうちは、サクラもいのと一緒にきゃあきゃあと喜んで聞いていたお話ですが、それが身近な人物で、大事な王様のそばにいる腹心の家来となれば話は違ってきます。
王様にそれとなく宰相樣のことを伺えば、お口ぶりはわるいものの、信頼してらっしゃることがわかりました。それでもサクラはあのかたが苦手です。口調は丁寧ですが、サクラのことを人間扱いしていないように思えるのです。
王様の子について、宰相樣は世継ぎを産めなどとは言いませんでした。宰相樣にとってはまるで決まっていることのような口ぶりで、それは時期がくれば自動的にできるものだとでも言うようでした。
サクラは宰相樣には絶対言うまいと思いました。王様にはどうしようかと迷いましたが、産まれてからでも良いかなと思いました。
王様にいらぬ心配はかけたくなかったのです。そして産まれてきた子供が女の子でサクラはほっとしました。
火の国では王位継承権を持っているのは第一王子です。他に子供ができなければ王女が女王になる可能性もあるのですが、今はまだ王様がお元気ですからそんな心配は不要です。
そしてサクラはまた王様の子を妊娠しました。今度は男の子かもしれません。そうであれば隠し通すこともできません。
いつかはお伝えしようと考えていました。そうしなくてはいけない、そうすべきだと。
ほろりとサクラの瞳から涙がこぼれます。綱手が見咎めて眉間に皺を刻みます。サクラは綱手の表情から自分の涙に気づくのですが、なぜ泣いてしまうのか自分でもわからないのです。
心配事があるから、容体が落ち着かないのではないかと綱手は思うのですが、無理強いもできません。それもまた母体のストレスになってしまいます。
大丈夫だと思いたいのですが、サクラの体は最初の妊娠時よりも少しわるくなっているというのが綱手の診断です。香燐の見立ても同じものでした。
王様は綱手を王宮まで呼び出して、早く何とかするように命じました。
綱手は仕方のないことだと言いました。女の体には色々と都合があり、この場合は下手な薬を使ってはかえって危険だと申します。
妊娠のことは言わずに、とにかくサクラは規則正しい生活をして、あまり考え過ぎないこと。できるだけリラックスして、調子の良いときは軽い運動でもするのが一番だと綱手は説明しました。
「伝説の医者がそんなことしか出来ないのか」
王様は納得できません。それでは何もできないのと同じです。
香燐にサクラを治癒させようとしましたが、怪我ならともかく、それでは一時的な処置にしかならず、体に変な負担はかけない方が良いと綱手は王を諭します。
綱手の煮え切らない返事に王様は痺れを切らしました。
「王命だ。どんな方法でもいい。一月以内にあれを完治させろ」
王様の命令にも、綱手は持論を一歩も引きません。
「医者はひとを助けることが仕事だ。そのためなら王の命令など関係なく私は力を尽くす。だがひとの生死に絶対は言えないんだ」
綱手の真剣な眼差しに、王様は自分の命令が無駄なことを悟りました。
王様は表情を変えないまま項垂れました。その様子は近臣のものだけでなく、綱手にも王の悄然とした様子は伝わりました。
「そんなに心配なら、あの子を見舞ったらどうだ? 王が来ればきっと喜ぶぞ」
「……余計なことは言うな。お前には関係ない」
女嫌いの王様は後宮には行かれません。このことはもはや慣例となっていますが綱手には馬鹿馬鹿しい限りです。王は綱手ともこうして会って話していますし、サクラをあんな体にしたのは他ならぬ王様です。
煮え切らない王の態度に綱手は苛立ちを覚えましたが、サクラの願い通りに余計なことは何も言わずに会見を終えました。
その代わりとばかりに綱手は宰相である大蛇丸に文句を言いに行くのです。
二人は古い知り合いでした。王様との会見のあとに綱手は大蛇丸のところで長々と愚痴めいた世間話をするのでした。
伝説の名医とこの国の蛇とも称される名宰相の茶飲み話を邪魔するものはおりません。年齢に合わない若さを保つ二人は揃って、魔物と契約を交わしているのではないか、いやすでに魔人そのものだとまことしやかに噂されていましたが、本人達は異なる笑い声をあげるばかり。ひとの眼に異能に映るほど有能な二人は現在の職務に忠実でした。そのことを知っているのはごく一部の者に限られておりました。
そのころサクラは赤ん坊と一緒に庭で休んでいました。心配する皆はとにかく休むようにと口を揃えます。
庭は静かで、喧騒とは異なる生き物達の気配にサクラは耳を傾けました。
草はいつもと変わりなく揺らぎ、梢は風と囁きあい、水の流れる音が絶え間なく聞こえてきます。サクラの他には鳥や小さな虫達がいるだけです。庭師さえ朝早くに仕事を終わらせ、この場所には明け方以降決して姿を見せません。
初めて訪れたときからサクラはここで過ごすことが気に入っています。サクラの可愛い赤ん坊も機嫌良く、お昼寝をしたり日向ぼっこをしたりのんびりと過ごします。
サクラは深呼吸をひとつして、赤ん坊と同じように横になりました。
赤ちゃんが可愛くて、見ているだけで眼の喜びである我が子と過ごすのはかけがえない幸せな時間です。それでついサクラは自然に涙がこぼれるのです。幸せがあまりに尊くて恐ろしいのです。
「何を泣いているんだ」
ふいにかけられた男の声にサクラは息を飲みました。
「サスケくん? びっくりした。驚かせないで」
突然あらわれた訪問者に目尻の涙を拭いて、サクラは赤ん坊を抱き寄せました。大切な王様の赤ちゃんですから、王様の知己である客人といえども我が手で抱いていなければと思いました。それにまた重吾の姿がありません。サスケが人払いをしたのでしょうか。
「答えろ。何を泣いていた」
「……自分の幸運を神に感謝していただけよ」
サクラは胸にわき起こる不安な気持ちを抑えようとしました。サスケの訪問は王様もご存知で心配することはないのです。緊張する必要はありません。サクラは冷静になろうとしました。
しかし自分の心臓の音を聞けば緊張を隠せません。柔らかな赤ん坊を抱いていても、きりきりと鼓動が速まっていくのがわかりました。サクラは大きく息を吸って、吐きました。
「サスケくん、こんにちは。今日もお見舞いに来てくれたの?」
サクラは努めて微笑みました。
「体調が良くないと聞いた」
「王様からお聞きしたの? 綱手樣がお会いするって聞いてたけど、サスケくんも一緒に会われたの? そういえばサスケくんはずっと王宮に」
「うるさい。黙れ」
「まっ」
「喋ってないで休め」
「……」
サクラは赤ん坊を元のように小さなベッドにおろしました。面につけるベールで顔を隠し、サスケに向かって礼を述べます。
「ありがとうサスケくん」
サスケは休息所の柱の前に立ち、サクラに近づきません。サクラもあえて椅子を進めませんでした。
「じゃあ少しだけ、王様はお元気でいらっしゃるの?」
サスケはこくりとうなずきました。
少しと言いながら、深呼吸をしてサクラは話を続けます。
「サスケくんもう一個、サスケくんの話を聞かせて」
サスケは黙れとは言いませんでしたが硬い表情をしています。サクラは気づかないふりをして話をせがみました。
「外国には行ったの?」
「まだ外に興味があるのか」
「……違います。わたしの両親が外の人間だったから、一体どんなものかしらって、ただの興味です。本でしか知らないんだもの」
こんなことはめったにない機会です。サクラは自分の質問の素晴らしさに気づいて、子供のように眼を輝かせました。
サクラの表情を見てサスケは嫌そうな顔でした。
「大人しくできないならオレは帰る」
「大人しくしてる! ほら、わたしちゃんと休んでるじゃない。ね、なんでもいいから話を聞かせて。外国ってどんなところ?物語に出てくるようなわるい魔法使いに会ったことはある? それともサスケくんみたいなひとには絶世の美女のほうがお似合いかしら」
サクラは急いで声を抑えましたが、我慢できないとばかりに矢継ぎ早に質問しました。サスケがそばにいると思うと緊張で胸の奥が震えるような心地です。
彼は客人に過ぎないのですが、王様でも重吾でも、カカシでも養父でもない男性と侍女もいない空間で会っているのです。重吾か侍女の一人でもいれば主人として客をもてなすことができたでしょうが、それではサスケは去ってしまうでしょう。言われなくともわかりました。
前に会ったときは早く別れたほうが良いと思いました。
夢のようなひとですから、会えたことはただ嬉しくて、それだけで良かったはずで、もう二度と会われないのだと思っていました。
なのにどうしてだか今は、サスケの話を聞かなくては耐えられないと強く思いました。少しでも良いから彼の何かを知りたいという気持ちが治まりません。何かが何であるのかはわかりませんが、もう少しだけここにいて欲しいと思いました。
サスケは外国や様々な国の商人のことを、実際に見たり聞いたりしたことがあるのです。それは物語にあるような不思議なことなんて一つもなくて、面白いことなんて現実では何もないかもしれません。
つまらなくても良いから話して欲しい。サクラは本当にそれだけを思ったのです。
サスケは呆れた顔になりましたが、仕方がないというように、ぽつりぽつりと話し始めました。
その声は流暢ではありませんし、美辞麗句などひとつもなく詩歌とは全く対極にありましたが、不思議な魅力でサクラを引き込みました。
サクラの知らない異国の話、無理難題をふっかける役人に金貨を見ると態度をひるがえす商人、サスケの剣の冴えを見て情けない声でひれ伏す野盗などなど。
サクラは驚きました。てっきり部下に任せてふんぞりかえっているのかと思っていたのですが、サスケは意外なほど波乱に満ちた生活を送っていたようです。
「サスケくん、お金持ちなのに、なんだかたいへんな生活をしてるのね……」
物語であれば胸踊る冒険譚も、身近な人物が実際に味わったことだと思うと胸が痛みます。
不安そうなサクラを見てサスケは事も無げに言いました。
「そうだな。オレの部下に人を人とも思わない非道なまじないを操る魔術師がいる」
「えっ?」
「そいつがオレに耳打ちするんだ。ひとがいかにずる賢く、醜いか。自分の眼で見てひとの本性を見極めろと言う」
思いがけない言葉にサクラはドキドキしました。
「その魔術師は昔オレの命を狙っていた」
「どういうこと?」
「兄が死んでオレ一人が残ったとき、子供なら与しやすいと思って近づき、隙を見てオレに成り代わろうとしていた」
なんて恐ろしい話でしょう。兄を亡くしたサスケはまだ子供でした。家族のいない幼いサスケがそんな恐ろしい人物に命を狙われていたなんて。
「オレは自分の身を守るために強くなる必要があった」
「それで、その魔術師はどうなったの?」
サスケがこうして無事に大きくなったのですから、きっとその悪者は成敗されたのだとサクラは思いました。
「今もオレの部下だ」
「ええっ?」
「非道なことは行わないよう命じてある。邪法も使える便利なやつだからな」
「そんなこと、大丈夫なの?」
「今はオレに忠誠を誓っている」
「さ、サスケくんの命は……?」
「オレの命を狙うことは止めたらしい」
「ほんとに……?」
サスケは自信たっぷりにうなずきました。刺激の強さにサクラはほう、とため息をつきました。予想以上の話に頭がくらくらします。
「大丈夫か」
「ええ、大丈夫。少し疲れただけ」
そんな話は物語のなかだけだとサクラは思っていました。覚悟もなく話をねだったことをサクラは後悔しました。いえ、やはり聞いて良かったです。サスケのことを知ることができたのですから。
「今の話は冗談だ」
「えっ?」
「そんな部下がいるわけないだろ。信じたのか?」
こわばる顔のサクラにサスケは淡々とした声で言いました。
「――しゃんなろーよサスケくん!」
ぷいとサクラはそっぽを向きました。まさかサスケに冗談を言われるなんて思いもしませんでした。
「おい騒ぐな。体に障るぞ」
「サスケくんのせいでしょ。へんなこと言ってからかうから」
「オレのせいか」
「そうよ。心配したのに……!」
サクラはサスケに背を向けて大きな長椅子に積まれたクッションに顔を埋めました。サスケは話をねだったサクラのリクエストに応えてくれただけなのでしょうが、自分ばかりが緊張して気が高ぶっていることを見透かされたようで、恥ずかしくなりました。サスケは口下手だと思っていたのにとんでもない話です。
憤慨するサクラの背に男の気配を感じました。
「さわらないで。だめよ」
王様がよくしてくれたように、頭を撫でられると思ったサクラは咄嗟に制止の声を上げました。
王様の寵妃として扱われる自分に触れるのはあり得ないことです。ベールの隙間から振り返り、サクラはすぐに謝りました。
「ごめんなさい……サスケくん優しいだけなのに。今の、王様が慰めてくれる感じとよく似てたから」
「……王はどうなんだ。おまえに優しいのか?」
ぱっとサクラは笑顔になりました。
「サスケくんもあのかたが優しいのは知ってるでしょ。本当に優しい、素晴らしいかたで、あんなに素敵なかたが王様だなんて信じられないぐらいよね」
サスケがなんとも言えない表情になったのでサクラは尋ねました。
「そういえば、サスケくんは外国に住んでるんだっけ?」
「オレはこの国のものだ」
「そう。王様とも仲良しだもんね」
王様との友誼を揶揄した軽口を、サスケは聞こえていないかのようにサクラをじっと見つめています。
「……どうして治らないんだ」
サスケは怖いくらい真剣な表情でした。
「後宮のものは何をしている。赤ん坊なんかにかまけていて、本当に治るのか」
赤ん坊なんかと言われてサクラはすぐに反論しました。
「皆には本当に良くしてもらってるわ。香燐も綱手様も、侍女の皆だって口を揃えて休めって、体を大事にしてくださいって言うわ。私はこの子と同じ、ただの孤児だった私に皆とても優しいのよ」
言ってからサクラはすぐにまた反省しました。サスケは王の代わりに見舞いに来てくれているのです。取り繕うように言い添えました。
「ただちょっと、時間が必要なの。この赤ちゃんが大きくなるころには、王様にきちんとご挨拶に行きます」
「本当に治るんだな」
治るというと少し語弊がありますが、サクラはうなずきました。
「サクラ、オレには正直に言ってくれ」
真摯なサスケの態度に、サクラは返答をためらいました。
「わるい病気ではないから……、きっと大丈夫……」
サクラは言葉を濁します。たとえ伝説の名医がいようとも出産は女にとって命懸けのことで、お産で女が死ぬことは珍しいことではありません。それもあって王様に黙っていることを皆理解してくれたのです。
全てが必ず元通りにうまく収まるとは神でもないサクラには確約のできないことでした。
サスケは苛立ちました。
「せめてそいつの世話を誰かに任せるべきだろう。一緒にいたらおまえが疲れるんじゃないか? どうして他のものにやらせない。子供の世話なんか誰でもいいだろ」
「もう、私が赤ちゃんと一緒にいるのがいいの。私の体のことは神様がお決めになるわ。サスケくんもご慈悲があるよう祈ってて」
後宮の女達はサクラが喜ぶだろうと赤ん坊と一緒にいさせてくれているのです。
全てを話せないのは申し訳ないのですが、ひとの身にできることは限られています。これ以上のことは言えません。
サクラの言葉にサスケは眼を見張りました。
「朝夕に、この国の平安を祈っています。王様のことも、赤ちゃんのことも、自分の体のこともね。だからきっと大丈夫」
本来、王の子の出産ともなれば国をあげて供物を捧げ母子の無事を神に祈願するところですが、サクラはただ真心を込めて日々の感謝を神に申し上げています。
サスケの辛そうな顔を見てサクラは宥めるように言いました。
「これからはサスケくんのこともお祈りします」
本心でした。王様にとっても大事な友人です。
「……わかった。もう休んでくれ」
王様に言われただけでなく、サスケ自身がサクラの身を案じているのだと感じられました。サクラはサスケにも心から感謝を伝えます。
「サスケくんも元気でね」
神の祝福があるようにとの言葉を添えて、別れの挨拶をしました。
「オレも神に祈る。おまえのことを」
サスケは庭の入り口のほうに向かいました。サクラは見送るために長椅子から起きようとしたのですが、サスケに横になるように言われてベールを被り、手を振りました。
赤ん坊を見れば穏やかに眠ったままでした。耳を澄ませば小さな寝息が聞こえてきます。
サクラは心から安心して横たわりました。久しぶりにお客に会ってかなり疲れてしまったので、サクラは今度こそ瞳を閉じました。
心配するサスケの顔、語ってくれたお話の印象的な場面がまぶたの裏に浮かびます。少し怖いところもあったけれど、楽しい物語になりました。
サクラは重大な発見をしました。サスケは容貌だけでなく、声も王様に似ていたように思います。
眼を閉じて思い返していると、サクラの唇にゆったりと微笑が広がりました。
「おうさま……」
サクラは嬉しくて、愛しいかたの名をつぶやきました
王様に会いたい。
赤ん坊と同じぐらいにたっぷりとサクラは眠りました。
この奥庭はやっぱり素敵な場所です。
それからしばらくして、王様からサクラに、養家である大臣邸に戻り体を治すようにとのお達しがありました。
さて、どうするのが良いのでしょうか。
神の御心を推し量ることなど、到底ひとの身には叶わないことなのです。