『キャンプの嘘話』再話 仔細は省くが、キャンプに行くことになった。前世の異母兄弟たちと。田舎道はとうとう山を登り始めて、前方からあふれて流れていく緑を見ながら道綱は微妙な気分で己の軽口を悔いていた。
道綱にはーーもっとも道綱というのは前世の名前で、今はもう道綱ではないのだが、とにかく、前世の記憶がある。誰でもそうだと思っていたから、そうでないと知って子供の頃ずいぶん驚いた覚えがあるが、記憶はいつからか当たり前のように存在したから、道綱は改めてそれを検討することもしなかった。異常なことだとも思わなかったし、今生と何か関連のあることだとも思わなかった。そうやって記憶に別段振り回されることもなく二十数年生きてきたところに、ある日、兄上、と街中で呼び止められた。振り向くと、道長がいた。記憶の中の人間が現れるのは初めてだったが、現れたら現れたで、まあそういうものなのかという納得があった。道長は兄を探し出そうとしているらしい。見つかるといいね、と連絡先を交換して別れたが、それが見つかったらしい。久しぶりに兄弟四人で会わないかという連絡にのこのこ出ていったところ、この有様である。
本当に軽口だったのだ。詮子や父母はどうなのかという話を出したら、見つかっていなかったらしく、場がーーというか主に道長と道兼が一気に沈んだ様子だったので、場を紛らわせようと、
「そうだせっかくだし、このまんまキャンプでも行っちゃう〜?」
と、却下されるだろうと思って軽口を叩いた。それが、
「あ、いいですね」
という道長が想定よりも乗り気な顔をしている。なんで乗ってくるんだよ。
「そう言えばここらの方面にキャンプ場があると聞いたことがあるな」
なんでそっちも乗ってくるんだよ。兄を見る。
「うん。野営を試してみるのも一興かも知れないな」
どうしてなんだ、と道綱は思った。
そして道長の運転する車に乗り込み、無計画に郊外の方に走り出したわけである。どうなるんだと思って助手席でシートベルトを握っていると、ロードサイドに都合よくホームセンターがある。色々見ているうちにだんだん楽しくなってきて、一晩の突発キャンプには必要なさそうな立派なテントやら救急箱やら飯盒やらまで買い込んだが、滑らかに財布を出した兄は流石に鷹揚だった。
次は食糧だと思って車を走らせていたら、今度はまた都合よく大きめのスーパーに出くわす。運が向いている時は向いているものだと思いながら酒やら肉やらを買い、事ここに至ってはもう前向きになるしかなかったが、しかし楽しみでもあるが状況がいささか気詰まりである。それに多分誰もキャンプをしたことがない。だんだん細くなりゆく山道に、道綱はどうしても不安を拭えなかった。
到着したキャンプ場に人がいなかった時、道綱の不安は頂点に達した。管理人はかろうじているが、他に客がいない。
「ねえここ大丈夫なのかな?」
「羽を伸ばせていいんじゃないか」
と兄は鷹揚に言った。そう言われれば、まあ管理もそれなりにされているようだし、中洲のあるごく浅い川が流れているのも趣があるし、という気がしてこないこともない。誰一人としてキャンプで何をするのか知らなかったが、なんとかテントを建て、道具で火を起こしてバーベキューのようなことをするのはそれなりに楽しかった。酒を飲み、日が暮れなずみ、いつのまにか管理人が帰っていき、夜が訪れ、人里を離れ街明かりを離れて、星がざらざらと散りばめられた闇に抱かれていると、どうにも前世の記憶が疼く。平安京の夜も、このように暗かった。
「なんだか懐かしいな」
と言う道兼の声に、道綱も暗闇の中で首肯した。
「何か話をするか」
テントの中で酒杯を傾けながら兄が言う。確かにこのまま寝る空気でもない、しかしここで身の上話などが始まるのは、お互い思うところがありすぎるだろうから避けたい、気がする。
「怪談はどうですか」
「怪談……」
そう言えばこの弟、肝試しの類にめっぽう強かったなあ。特に代案もないのを同意と見て、道長は雑に話を振る。
「じゃあまずは道兼兄上から」
「は?」
いきなり指名された道兼は不意をつかれたように驚いた顔をしたが、暫し黙って考え、真面目な顔をして語り始めた。
「…………このようにして、僧を疎略に扱ったものは牛になってしまったのだ」
「その話千年ぶりに聞きましたよ! もっと今時の話をしてください」
「なっ……」
次は道隆。
「…………そして祖母が言うことには…」
「落ち着いてください道隆兄上、酔ってらっしゃる、おばあさんはさっき話の中で死にましたよ」
「ん? そうだったか」
「兄上、お水をどうぞ……道長も文句ばかりつけていないで何か話さないか」
「…………落武者の霊が……」
「落武者か〜〜」
「お前、人に文句をつけておいて落武者の話をするやつがあるか!」
「道綱兄上! あなたも話してくださいよ」
振られて、道綱は思った。俺がこの場に収拾をつけないといけない。何かピリッと怖い話をしなければ。しかし怖い話の手持ちなど……と考えて、脳裡に、悪趣味な友人に見せられた事故の映像がよぎった。増水した川の中洲に女性が一人取り残されている。レスキュー隊も手が出せない。川の水はどんどん増し、岸から家族か友人か、必死に叫んでいる。上流から大きな木が流れてきて、このままでは水に飲み込まれるか木に巻き込まれて流されるかだということが誰の目にも知れてしまう。女性はその時何かが切れたように、手をひらひらさせて踊り出す。ほんとうに必死な泣き笑いを浮かべて……そう言えば、中洲、あったな。
「……これ、言っちゃ悪いかと思って言わなかったんだけど」
そういうことが、あったことにしよう。
「ここ、人が死んでるんだって」
道兼と道隆は露骨に身を引き、道長は反対に目を眇める。よし、掴みは大丈夫。
「中洲あったじゃん。あそこ、雨が降るとすごい流れになるんだって。友達と来てた女の子が、降り始めの頃川で遊んでて、ちょっとしたタイミングで逃げそびれて、中洲に取り残されちゃったんだって」
「それでレスキュー隊も来たけど、もう流れがすごくて、手が出せない。そうこうしているうちに濁流に木が流されてきて、あれに巻き込まれちゃう、ってみんな解っちゃって。友達も泣きながら頑張れーーッって叫んで」
ここまで語って、迷った。本当にあった事故の話をそのまま語るのはさすがに気が引ける。
「その時その女の子がとった行動があまりに衝撃的で」
適当な改変が思いつかない。
「人間って追い詰められるとそうなっちゃうんだなって」
我々はたぶん、それを前世で嫌というほど見てきたけれど……と思ったとき、ある台詞がふっと頭に浮かんだ。
「叫び出したらしいんだよね。しょうがないですよねって。泣き笑いの顔で。しょうがないですよって。しょうがないですよ自分で蒔いた種なんだから……って」
「苦しそうな顔で、泣きながら、笑いながら、ごめんなさいー!って。自分で蒔いた種なんで、自分で蒔いた種なんで、しょうがないですよ……って申し訳なさそうに叫んだまま、流れに飲み込まれちゃったんだって」
おお、と道隆が息を吐いた。さすがの道長も固まっているし、道兼は顔色を失っている。よし、場は盛り上がって、あるいは盛り下がっている。よくある、それ以来その時期になるとここでは、というオチをつけたら、きれいに収まるだろう。
「それ以来このキャンプ場、毎年その時期になると――」
「その時期になると、どうなるんですか」
唐突に道兼が口を挟んだ。
「どうなるのだ!」
いきなり声を荒げる、その顔に脂汗が滲んでいる。え、なに、なに、と聞こうとして、聞こえた。聞こえてしまった。
しょうがないですよね。自分でまいた種なんで。
鈴を鳴らすような、女の声、が、する。川のほうから。浅瀬を渡る水音。湿った足音。
しょうがないですよねえ。自分でまいた種なんでえ。しょうがないですよねえ。
咄嗟には誰も何も言えなかった。
「いや、なんで……」
だって、いま、俺がいま考えた嘘なのに。声が近づいてくる。
「どうなるのだ! 川から女が来て、それで、どうなるのだ!」
道隆は酒杯を取り落として完全に固まっている。道長は恐怖に顔を歪めて、叫ぶ道兼を半ば羽交い絞めにしている。頭に、答えがさしこまれる。言わなければ話が進まない。でも、言えない。言えない。言ったら、本当に大変なことになる。「だれかがひっぱっていかれる」。
しょうがないですよねえ! 自分でまいた種なんでえしょうがないですよねえ!
声を無理に舌にはりつかせ喉に飲み下し、道綱は全身の力で抗して、叫んだ。
「朝まで! 朝まで無視してテントの中にいれば全員助かる!」
その瞬間、テントがすごい勢いで揺さぶられた。
「ちがうでしょッあたしが何人かひっぱっていっちゃうんでしょ!」
目を開けると、青空が見えた。状況が呑み込めず瞬いても、やはり見えるのは青空である。全身が軋む。関節が外的な要因で痛む。というか、全身びしょ濡れである……と気付いた瞬間、盛大なくしゃみが出た。起き上がってみれば、道綱は中州に転がっていたのだった。逃げ出してきたのか。引っ張られたのか。オバケってこんなに物理的に来るものなのか。身を捩って痛む肘を見てみれば、裏側が擦り傷と切り傷でめちゃくちゃになっていた。引っ張られたんだなあ……。川の水で土が多少流されたらしいのは、不幸中の幸いかもしれない。足の皮膚もぐちゃぐちゃだった。
「兄上! 道兼兄上、兄上、起きてください、目を覚ましてください、兄上!」
あ、そうだ、兄弟は? 岸辺に倒れていた道兼を抱き起こしてたいへんな剣幕で呼びかけているのは道長である。テントの方に目をやれば、若干崩れていて、その中から戸惑った様子で道隆が出てきた。
「何事だ……」
「兄上……!」
道兼は目を覚ましたらしい。良かったね、と思う間もなく、道兼がくしゃみをしたのを見て道長は柄にもなく狼狽している。前世の記憶があるのも大変だなあ、と他人事のように思う。川の方に歩いてきた道隆は首を傾げながら聞いた。
「お前たちはどうしてこんなところにいるんだ?」
え?
「さあ。酔っていたのでしょうか」
え? 道長と、さっと目が合う。いや、俺も何も知らないよ。結局、道隆と道兼は、昨夜の道綱の話の内容も、そして何が起こったかも、覚えていないようだった。こわい思いを覚えている上に引きずられてじゃりじゃりになったのって、だいぶ損をした気がする。手足の傷にとりあえず救急セットで応急処置をして、四人は山を下り、道長に有無を言わさず病院に連れていかれた。
その後、道綱は、そのキャンプ場で本当にそういう事故があったのか調べたが、そんな事故があるどころか、何一つそれらしい話は見つけられなかった。では、あれはなんだったのだろう。怪を語ればなにかが乗ってきたのか……
軽はずみにものを言うべきではない。怖い話を一から作ってはいけない。キャンプには救急セットを持っていくと良い。道綱は、後にそう語ったそうである。