女神の眠る島で 照りつける太陽の下、母なる島テ・フィティはいつものように眠っている。太陽の恵みを受けて彼女の体の植物たちは今日も美しく輝く。テ・フィティの周囲の波も落ち着いており、平穏そのものだ。
だが、その静寂を破るように『何か』のヒレが波を掻き分けていく。その『何か』は水平線から泳ぎのスピードを緩める様子はない。浅瀬になる前に『それ』は高く飛び跳ねて青白い光を放つ。その後、『それ』は見事に浜辺に着地した。
「よう、テ・フィティ」
浜辺からテ・フィティを親しげに呼びかける声が聞こえる。その声を聞いてテ・フィティは目を開けた。母なる島に対し、ずいぶん馴れ馴れしい態度だ。テ・フィティを知る人間なら信じられない態度だろう。そう、ただの人間なら。
「ご機嫌いかが?」
開眼早々テ・フィティは顔をしかめる。声の主の姿は上半身がサメ、下半身は人間という奇妙極まりないものだった。彼は巨大な釣り針をヒレで器用に持っている。このサメ頭の姿を見るや否や、テ・フィティの右腕に疼くような錯覚を覚えた。
「失礼」
サメ頭の生き物は短く謝ると、先ほどと同じ青白い光に包まれた。光が解け、サメ頭は強いカールのかかった髪の大男に戻っていた。
「実は頼みがあって来た」
サメ頭、もといマウイはテ・フィティに告げた。マウイの真剣な表情に対し、彼女は聞き入る体勢をとった。
「近々もう一人ここに連れて来る」
テ・フィティはマウイの言葉を聞いて難色を示した。
「……予定だ」
マウイは急いで付け加えた。
「いや、一応供物を届けに来るのは決まってるな。二、三日後にここに来る」
テ・フィティの表情に変わりはない。彼女の知りたいことはそこではなかったのだ。マウイもまたそのことに薄々感づいていた。
「相手は……海に選ばれてテ・フィティに心を返した人間だ」
マウイの言い淀んだ表情とは打って変わってテ・フィティは微笑んだ。
「ちょうど二、三日後の夜はアレが見られる。あの子を驚かせるのにちょうどいい」
マウイはテ・フィティの微笑みがさっきより生暖かく感じた。直後、彼は逃げるように鷹に姿を変えて飛び去っていった。
テ・フィティとは別のとある島。そこでは村人たちがココナッツを収穫していた。収穫後の加工も踊るように軽やかだ。
村のなかで一際目立つ橙色の衣装の少女が空を舞う巨大な鷹に気づいた。
「モアナ?」
村人が空を見つめる少女を呼びかける。
「あっちょっとごめん。すぐ戻るね」
モアナは足早に鷹の飛ぶ方向へ向かった。
モアナは人目につかない小山の頂にたどり着いた。そこには見慣れた旅の仲間の姿があった。
「マウイ」
モアナはマウイの隣に腰かけた。
「早いな」
マウイは感心したようにモアナに言った。
「ふふ、モトゥヌイで鍛えたもの」
モアナは得意げに腕を組んだ。マウイはカカモラと対峙したときのモアナの脚力を見ていない。モアナにオールを取られて舟を手で漕ぐので精一杯だったからだ。
「今日はどうしたの?」
モアナは腕組みを解いてマウイに尋ねた。モアナの記憶のかぎりでは、今日はマウイと会う約束をとりつけてないはずだ。
「そうだな……緊急の用件だ」
マウイはいかめしい表情を見せた。
「まぁ、そんなもったいぶらずに」
モアナは笑いながらマウイに話を促した。
「じゃあ手短に話そう。テ・フィティに来て欲しい」
マウイの一言にモアナは目を白黒させた。彼の真剣な面持ちが冗談じゃないことに気づき、モアナの顔も真剣になる。
「来て欲しいって……まさか、またテ・フィティの心が……」
モアナが訊く前にマウイが答えた。
「盗もうとする奴らは俺がカニのエサにしてるから大丈夫だ」
マウイの返答を聞き、モアナは肩をなでおろす。
「じゃあどうして……」
マウイは答えた。
「見せたいものがあるんだ」
「みせたいもの?」
予想外の答えにモアナは力が抜けた。
「ああ、テ・フィティへ供物を捧げるついでに見せられる。だが機会を逃すと次あの島で見られるまで長い時間がかかる」
女神テ・フィティの心が取り戻されてから初めてテ・フィティに供物を捧げる日が近づいていた。数日前の集会で供物を捧げに行くのは村長のモアナが務めることに決まったばかりだった。
「その、見せたいものって何?」
モアナは質問した。用事を済ませたあとでも見られるのに、機会を逃すと見られるまでに時間がかかるものとは何だろう。まるで頓知のようだ。
「星だ」
「星?」
モアナは彼の答えに首を傾げた。
星なんて機会も何も毎晩どこでも見られるものではないだろうか?
「まあ、ちょっと変わった星だ。だが、それ以上は言えない」
「どうして?」
「説明するより見た方が早い」
星の動きに詳しいマウイがそこまで言うのなら変わった星ではあるのだろう。しかし、わざわざ見せたくなる変わった星とはどんな星なのだろうか。
「風と海の神の誘いを断るのは失礼ね。お引き受けするわ」
冗談交じりにモアナは誘いに乗った。
「その日はどこで会う?」
「この島の浜辺で構わない。俺はこの姿でお前と一緒に舟に乗る」
「わかった、当日はよろしくね」
モアナの言葉にマウイは頷くと、トカゲから鷹へと姿を変え、島から飛び去っていった。
約束の日。供物の準備も早く終わり、出発することを村の者たちに伝えて、モアナは舟に乗った。トカゲ姿のマウイとも合流し、同じ舟に乗って出航した。
日が暮れる頃にテ・フィティに着いた。舟から降りると、マウイはトカゲの姿から元の半神半人の姿に戻った。
「久しぶりね」
ミニ・マウイは軽くジャンプしながら笑顔でモアナに手を振る。モアナも笑顔でミニ・マウイに手を振り返した。
「マウイの変身した姿も素敵だけどあなたに会えないのが残念ね」
ミニ・マウイに語りかけるモアナにマウイ本人が割り込む。
「元の姿が一番素敵だと思わないか?」
「私はサメ頭も素敵だと思うわ」
そんなやり取りをしながら二人はテ・フィティに供物を捧げに向かった。供物を捧げると、彼女のまぶたが静かに開いた。マウイは気まずそうにしていたものの、テ・フィティはモアナたちを見て優しく微笑み、再び微睡んだ。供物にゆっくりと伸びた植物の蔓や枝が絡まっていき、土に吸い込まれていった。
気づけば満天の星が夜空を埋め尽くしていた。今日は新月だからか星がより一層明るく見える。モアナは目を輝かせた。
「そろそろだ」
マウイとモアナは草原に腰かけた。
「始まるぞ」
マウイの声が聞こえたかのように流れ星が縦横無尽に瞬きだした。
流星群だ。
流星群と満天の星空が海面に映り、空と海の境界線が溶け合っていた。浜辺に夜空が打ち寄せているようにも見える。
目に映る光景にモアナは息を呑んだ。モアナの感極まった表情にマウイは満足そうな笑みを浮かべた。二人は言葉を交わさず、しばらく星空を眺めた。星の流れる音だけが聞こえる。
「ねえ、マウイ」
流れ星が少なくなった頃、モアナはマウイのほうを向いて話しかけようとした。しかしモアナの言葉が止まった。
「ん?どうした?」
「い、いえなんでもない……」
モアナは目を泳がせた。マウイは不思議に思いながらも星空に視線を戻し、再び星の流れる音だけが聞こえる状態になった。
「次にこの景色が見られるのはいつなの?」
流星群が止んだ頃、モアナはついさっき訊こうとしたことを訊いた。
「だいたい六十年後だ」
「本当に時間がかかるのね」
「……ここで見るならな」
マウイは不敵に笑みを浮かべて続けた。
「こんな光景が見られる島はたくさんある」
「本当!?」
モアナが歓声をあげた。
「ああ、島を引き上げた俺が保証する。デートスポットもお手の物さ」
マウイは冗談めかしたように言った。しかし、その言葉を聞いてモアナは少し顔を伏せた。
「……テ・フィティもデートスポットに入れるの?」
モアナの言葉にマウイの動きが止まった。
「あー……」
マウイは頭の中が真っ白になる。モアナの顔は髪とその影に隠れて見えない。マウイは顔が冷えるような熱くなるような奇妙な感覚を覚えた。
「いや、あのね、その」
モアナは髪をかきあげて慌てて話す。髪に隠れていたモアナの表情は、慌てているものの嫌悪の表情は浮かんでいないように見えた。そんな彼女の表情を見てマウイの顔の冷える感覚は治まった。だが、顔の熱さは治まらない。
「あ、や、やっぱりなんでもないわ」
モアナがここまでうろたえるのを見たのはマウイにとって初めてだった。だがさっきと違って彼女の視線がどこに向いているかわかった。左胸のミニ・マウイだ。
マウイはようやくミニ・マウイとモアナのタトゥーが寄り添い、星空を眺めていたことに気づいた。
気づいたと同時に、マウイは持っていた釣り針を光らせてサメ頭に変身した。前回変身したときと同じく胸のタトゥーは見えなくなっていた。
「えっと……」
「そろそろ帰るか」
困惑したモアナに対し、マウイは自分がサメ頭に変身したことに一切触れずに、一言そう言って立ち上がった。釣り針の持ってない左のヒレでモアナの腕を握り、彼女を軽く引き上げるように起こした。ヒレは燃えるように熱かった。彼はモアナを起こすと自分のヒレから彼女の腕をそっと離し、舟を停留させた場所へ小走りで向かった。モアナも思わず小走りでついていった。
「途中まで俺が漕ぐ」
舟を停留させた場所に着くとマウイはそう言って先に舟に乗り、ヒレでロープを持って舟の帆を調節した。
舟に乗っている間、二人の間に沈黙が流れた。流星群を見ていたときとは打って変わってかなり息が詰まりそうな沈黙であった。
重苦しい時間はゆっくりと過ぎ去り、ようやく見慣れた島が見えてきた。
「今日はこの辺りで別れるか」
帰りの舟に乗ってから初めてマウイが口を開いた。
「マウイ、大丈夫?」
マウイからロープの先とオールを渡され、モアナは訊いた。
「サメになったから泳ぎは大丈夫だ」
マウイは答えた。
「でも足が」
モアナの心配をよそに、マウイはサメ頭のまま釣り針を持って海へ勢いよく飛び込んだ。
モアナが覗き込むと海中で釣り針が光った。どうやらマウイは完全なサメの姿に変身できたようだった。
サメ姿のマウイが海面から顔を出して言った。
「……すまなかった」
「そんな。謝ることじゃ……」
「気を遣わなくていい」
「気は遣わないわ」
モアナは柔らかい表情で続けた。
「素敵な夜をありがとう。次に会えるのは三日後ぐらいかしら?」
「ああ」
マウイはそれだけ言って、遠くまで泳いでいった。
モアナはマウイの姿が見えなくなるまで見届けた。マウイの姿が見えなくなると、急に顔が火照ったように感じた。胸の鼓動がドクドクと脈打ちはじめる。ミニ・マウイとモアナ姿のタトゥーの寄り添う姿が頭から離れなかった。ミニ・マウイがモアナに好意的であることはモアナもよくわかっている。しかし、ミニ・マウイたちの行動をマウイ本人がどう思っているかはわからない。
それに変なことをマウイに質問してしまった。今思えばデートスポットというのも彼なりの冗談だったのかもしれない。それを真面目に受け取ってしまい、つい訊いてしまった。
自分が質問しなかったら、マウイはミニ・マウイの行動に気づかずお互い平和に星を見られたかもしれない。ミニ・マウイにとっても平和であっただろう。
いつか彼はあの素晴らしい景色が見える他の場所に連れていってくれるのだろうか。モアナに淡い期待がよぎる。しかし、次に会うときにこの話を蒸し返してよいものだろうか。それに彼のあの別れ際の態度では三日後会えるかもわからないというのに。
これは考えていても三日間は埒があかない。とりあえず島に戻ったら村長の役目に集中しなくては。モアナは自分の考えを振り払うように頭を横に振って島へと戻った。
一方、マウイはサメの姿のまま、どこの島に寄ることなく泳ぎ続けていた。泳いで頭を冷やすつもりだったが、頭は噴火しそうな勢いで熱くなるばかりだった。ミニ・マウイたちの行動を見てモアナはどう思っただろうか。不安は募る一方だった。
予定ではモアナへの礼をするつもりだった。流星群を見せたあと、『この光景が見られたのはモアナのおかげだ。モアナがいなかったら今の自分も海を回ることはできなかっただろう』といったことを改めて伝える計画を立てていた。そしてマウイは彼女を誘った。あとは計画を実行するだけのはずだった。
「今度やったら脇の下に寝かせるからな」
マウイはミニ・マウイに文句をこぼした。もちろん今の姿ではミニ・マウイの姿は見えない。ミニ・マウイに悪気はなかったのはマウイもわかってはいた。だがタイミングが悪かった。流星群の途中でモアナが呼びかけたときにはミニ・マウイたちは星を見ていたのだろう。なんで早く気づけなかったのだろう。
おまけに不安の種がもう一つあった。ひょっとしたらモアナは『テ・フィティは聖なる場所だから簡単にデートスポットと同じ括りにするのは良くないのではないか?』という意味で尋ねたのかもしれない。
マウイは考えれば考えるほど頭を抱えたくなった。デートスポットなんて余計な冗談を言わなければよかった。
突然別れ際のモアナの言葉と穏やかな表情が頭をよぎった。ラロタイから脱出してマウイのサメ頭姿を見たときの反応や今回のミニ・マウイの件で彼女は誤魔化すのがあまり得意ではないように見えた。もしかしたらさっきの別れ際の彼女の言葉は本当の気持ちなのかもしれないとも思った。
いや、期待しすぎかもしれない。マウイは自分の考えを振り払うように頭を横に振る。今夜の話は自分からは話さないようにしよう。もし彼女のほうから流星群が見える場所について訊いてきたら教えればいい。
次に会うのは三日後だが、いつも通り動物の姿で会えばそこまで気まずくないはずだ。マウイは心の中で自分にそう言い聞かせた。まだ彼女に見せていない姿で会いに行って彼女を驚かせようか。
マウイは、次に会うときの話題と再び礼を言う機会を考えるため、ようやく適当な島で一休みしようと思えた。夜はすでに明けて、彼女に会うのは二日後になっていた。