モトゥヌイへの帰路 モアナはマウイと別れ、テ・フィティから贈られた舟とオールで出航した。次の目的地はモアナの故郷の島、モトゥヌイである。
風が穏やかになり、モアナは帆の調整をするため、オールを舟の上に置いた。
「マウイのお話、考えなくちゃね」
帆の調整をしながらモアナは海に語りかける。すると海面が盛り上がり、頷くような動きをした。半神半人の英雄、もといマウイのことを語り継いでいこう。モアナはそう決意していた。
父や母にはこの旅の話を信じてもらえないかもしれない。マウイ以外にこの旅を共にした者はヘイヘイと海だけなのだから。だが、信じてくれる人もいるかもしれない。祖母の物語を聞いて育った自分のように。
それに。モアナは帆を見上げた。自分には彼から学んだ航海術がある。彼の話を信じない人でもこの航海術を見れば、きっと1人きりでの旅ではなかったことはわかってもらえるだろう。
帆の調整が終わり、モアナは再び漕ぎ出そうとオールを持った。そこでオールの裏側に何か刻まれていることに気づいた。てっきり新しいものだと思っていたオールにハートと釣り針のサインが入っていたのだ。
「このオールも話すときに役立つかしら?」
すると、それまでじっとしていたヘイヘイがオールをつつき出した。
「そうね、ヘイヘイの嘴が刻んだのよね。......"さえずり"だったかしら?」
ヘイヘイはオールをつつくのをやめて首を傾げた。しかし、モアナの話を理解しているかはわからない。
ヘイヘイはこの旅を覚えているのだろうか。案外オールをつつき出したのにも特に理由はないかもしれない。確認しようにも、プアと違ってヘイヘイの表情は読み取ることができない。
けれどわかることもある。旅を経て変わったのは自分だけではない。ヘイヘイが餌に向かってつつこうとする回数は旅の前より増えたし、テ・フィティの心を飲み込まずに運んできてくれるまでにはなったのだ。彼も成長しているのかもしれない。
「それと……前より海に落ちなくなった、かな?」
そう言ってモアナはヘイヘイを撫でた。その言葉に反応したように海面が盛り上がり、疑問を投げかけるかのように斜めに傾いた。
「最初の頃よりはね」
モアナは笑いながら海にそう言った。不思議とモアナの目には海がしかめたように見えた。海に表情はないはずなのに。
「さて」
ヘイヘイを撫でたあとモアナは気を引き締め、オールを海面に入れた。海を見下ろすと魚たちがいた。見慣れない魚もいれば、モトゥヌイでよく見かける魚もいた。近頃、見てなかった魚たちの姿に彼女は安堵する。
「いざ、モトゥヌイへ」
モアナは故郷を目指し、オールを漕ぎ出した。
海は勢いをつけてモアナの帰りを推し進める。順風満帆に帰りの航海は進んだ。ふと家族のことを思い出す。両親や島のみんな、そしてエイに生まれ変わった祖母……。祖母はいまどこにいるのだろう。モアナは海面を見下ろす。だがそこにエイの姿は見当たらない。海にいるのは、舟を避けながら泳ぐ魚たちだけだ。
「みんな元気かな」
モアナがぽつりと呟く。以前に見た悪夢が彼女の脳裏に蘇った。手遅れになっていないだろうか。島に戻ったあとのことを考えるばかりで、悪夢を忘れていた。ふと彼女は肩を何かにつつかれた。モアナが顔を上げると、海が頷くような仕草を見せた。
「ありがとう」
モアナは海を見てお礼を返した。そうだ。海なら知っている。もし会えなくても海で繋がっている。彼女は海の応えを見て心配を拭うことができた。
モアナは風を読みながら、太陽と海の輝きに目を細めた。眩しく光る水平線を見つめる。その先に大きな島が現れた。生まれ育った島だ。サンゴ礁の外から見たのはこれで二度目になる。彼女は出発した夜を思い出した。サンゴ礁を超えて初めてモトゥヌイを振り返ったあのときを。しかし、あのときは自然の色彩も夜と闇に包まれていた。いま、モアナの目には燦々と照らされた色鮮やかな島が映っている。
生まれ育った島はこんなに美しかったのか。島では闇に侵されていた色彩が次々と息を吹き返していく。早くみんなに会いたい。待ち遠しい。舟の尾をひくように無数の泡が連なる。それは短く儚い道だ。限りある泡の道筋を絶やさぬように、モアナは舵を取り続けた。