誰にも、あげない・2 そして一方。自己紹介の最中に取り残された一期は何とも頼りない心持ちで用意された部屋へと入っていた。粟田口の弟達の部屋の隣に、太刀ということもあり一人部屋が与えられた。
「三日月、宗近…」
その名を知らぬ者はおるまい。天下五剣のひとつにして、最も美しいと称される名物中の名物。長い長い時を経てなおその美しさは保たれたままだと言われている。
まさか自分がその天下五剣を前にするとは思いもしなかったが。刀生にもいろいろあるのだと思い知らされる。人の子の思惑が絡み合い、何とも不思議な世界が出来上がったものだ。
だが、一期一振にとって、三日月宗近とはそれだけの刀なのである。来歴も知らぬし、それまでどこにあったものかも知らない。確か厚が博物館で共に過ごしたと言っていたが、御由緒物として蔵の奥へと仕舞われていた自分には、わかりようもないではないか。
自己紹介をした感じ、嫌われるようなこともなかったようだし、これからこの本丸でゆっくりと理解できていけばいい。今はこの顕現したばかりの人の身体に慣れなければ。まずは、それからだ。
光忠が作ってくれた雑炊をゆっくりと口に入れながら、三日月は厚や薬研の来訪を受けていた。平野も一緒である。
「お方様…」
平野にそう呼ばれ、三日月の手が止まった。
「…久方ぶりに、その名で呼ばれたな」
「僕は…ずっと…本当はずっとそう呼びたかったです…」
「左様か…。なれど、もうそう呼ぶこともあるまいよ。いや、違うな。呼んではならぬ」
三日月は器を膳へと戻し、真っすぐに平野達を見据える。
「よいか。一期に、過去のことを話してはならぬ。思い出せとも言うてはならぬ。過去は過去。燃えてしもうたことは言うても詮無いことゆえな。お前達とて、大好きないちにいが炎にまかれた記憶を蘇らせることは辛かろう?」
「ですが、お方様。お方様はずっと、ずっといちにいのことを…!」
「…もう、よい。欠片でも、覚えていてくれたならとも願ったが…もうよいのだ。厚や薬研が顔色を変えるから、どうしようかと思うたぞ?平野も青ざめておったなあ」
袖を口にそっとあてて三日月は笑う。痛々しいその笑みに、誰も笑顔にはなれない。
「決して言うてはならぬ。俺も、もう一期の影を追うまい。思い切るのに時間はかかるだろう…長い長い片恋ゆえ、お前達にも見苦しいかもしれぬが…」
「やめてくんな、旦那…いや、姫さん。見苦しいとか言わねえでくれ。姫さんがどんだけいちにいを想ってたか、俺っち達は十分すぎるほどわかってんだ。俺っち達兄弟は、骨喰兄をはじめとして燃えちまって記憶をなくしたのも多い。そんな中で姫さんが覚えていてくれたことに救われてる奴だっているんだ。燃えちまったいちにいを、それでも姫さんが想い続けてくれてることに、俺っち達は感謝こそすれ、見苦しいなんてこれっぽっちも思っちゃいねえよ」
薬研の言い分に厚や平野も頷く。三日月はじっとそれを聞いていたが、やがて瞳に飼っている月を揺らして笑う。
「それだけでも、報われたと思うべきなのであろうなあ…。礼を言うぞ、お前達。そしてこれからも一期に対して秘密を抱えさせるが、よろしく頼む」
これ以上はもう歩み寄れないということなのだろう。だがこれまでどおり、粟田口と付き合うとは言ってくれた。一期のことを除けばこれまでと何も変わらない。
「姫さん。よろしくは、こっちの台詞だぜ」
「そうだぜ、三日月」
「これからもよろしくお願いします」
まだまだ沈んだ表情ではありながら、三日月はそっと微笑んで頷いた。
「…まあそりゃ、傷つくよな。当然の話だろうぜ」
三日月に雑炊を届けた後、光忠はいったん自室に戻っていた。同室の鶴丸国永が湯浴みを済ませて戻ってきたところに出くわしたので、一期が顕現したことと、三日月のことを話す。
「御由緒物として蔵に納められてた頃にも、一度も三日月の話は出なかった。俺と平野は三日月のこと知ってたし、平野からも大坂城でのことは聞いてたから本当に焼かれると記憶ってものはすっ飛ぶんだなってわかったんだよな…」
大坂城で一期と三日月の幸せそうな姿を知っているのは、あの場にいた中では平野だけである。遥か昔に三条の屋敷で姿を見たきりの兄のような存在だった三日月宗近がほんのひとときだけでも幸せな日々を過ごせたことを鶴丸は我がことのように喜んだ。ところが自分より後から御由緒物としてやってきた一期一振には全く記憶がない。聞けば大坂城焼失の際に共に焼け落ち、再刃されて記憶も失ったのだと。もちろん何かを話して記憶を取り戻せたらいいのかもしれないとも思ったのだが、平野から堅くそれを禁じられた。
『お方様…三日月様より、もしも覚えておらぬなら、ただ心安らかなれと祈るのみ。自分のことは決して話すなと…』
そこまで言われては鶴丸も口出しの仕様がない。
だがそれも蔵の中にいた頃の話。こうして人の世の事情で顕現できるなどあの時誰が考えただろうか。いつもふんわりと笑っている三日月の笑顔がほんの時たま曇ることに気付いていた鶴丸としてはどうにも何とかしてやりたい。五条の鶴と可愛がってくれた三日月には、幸せでいてほしい。
「…で、光坊。君はこれから三日月をどうするつもりだ?」
「どうって…」
「三日月を幸せにする覚悟はあるのか、と問うているんだが」
「え…鶴さん…」
鶴丸はいつになく真剣な表情で光忠を見つめている。これは話を逸らしたりごまかしたりできない空気だ。光忠は覚悟を決めた。
「うん。僕が幸せにしたいって、さっき三日月さんに告白してきた。答えはまだもらえてないけど、一期くんを思い切る時間と、僕と向き合う時間をくれって言われたよ」
「それならいいんだ。ことここに至って、三日月に何も告げなかったのなら伊達男も名ばかりかと叱咤するところだったんだが」
「厳しいなあ、鶴さん。…でも…僕、そんなにわかりやすかった?」
頬を掻いて照れくさそうに言えば、鶴丸は首を傾げた。
「気付いてるのは…多分俺と…三条の連中だけだと思うぞ?」
「三条か…三日月さんのことすっごい大事にしてるもんね」
「まさか今日に限って三日月以外の全員が遠征に行っているとはなあ…。今剣あたりが帰ってきたら噴火しそうだな」
まさか自分達の不在中に一期が顕現し、あまつさえ三日月が号泣したとあっては、三日月を溺愛している三条の面々が黙っているとは思えない。それに…。
「僕もやっぱり挨拶しといた方がいいよね、鶴さん」
「まあ…俺からも口添えはしておいてやるが…。三日月に関しては本気であることは、伝えておいた方がいいだろう。光坊のことを認めてくれるなら、助力も得やすいしな」
「鶴さんは、賛成してくれるんだね」
鶴丸は頷く。
「蔵の中で過ごしたよしみではあるが、俺としては記憶を共有できない辛さをこれからも三日月が感じて泣くようなことになるなら、一期に任せたくはない。光坊はその点、これまで三日月と接点がなかった分、共有しているのはこの本丸での日々だけだし、三日月のことを何より優先して大事にしてくれそうだからな。俺は三日月が幸せであってくれたらいいんだよ。こればっかりは驚きなんていらない。三日月は、もう幸せになっていい」
そうだよ。もう、三日月さんは幸せになっていいんだ。どこかで心に枷をしているように思えるあのひとに、想い想われる幸せを感じてほしい。
「じゃあ鶴さん、これからもよろしくね」
「ああ、わかったぞ、光坊。それから…ひとつだけ、約束してくれ」
光忠は立ち上がりかけて、止まる。
「三日月を遺して逝くようなことだけは、絶対にしてくれるな」
鶴丸の金色の瞳が光忠を射抜くように輝く。もしかしたら鶴丸も三日月に懸想しているのかと思った時期もあったが、そうではなかった。恋慕よりももっと清らかな、そんな思い。
「三日月さんに、もうとっくに約束したよ。ずっとずっと一緒にいるって」
「そうこなくっちゃな。それでこそ伊達の刀だ。三日月のこと、よろしく頼むぜ?」
「うん、もちろん」
秘していたはずの恋心を悟られていたのは少々気恥ずかしかったが、味方がいるのとそうではないのでは大違いだ。過去を知る厚や薬研がもし一期の側についたなら、三日月の心も揺さぶられるだろう。そうなる前に。周りの協力を得て少しでも早く三日月の心を手にしたい。今は、それが最優先だ。