誰にも、あげない・7 翌日。昼前にようやく起き出した三日月は、休めばいいのにと言う光忠を睨みつけながら狩衣を着付けてもらっていた。
「…今日は三条の兄達と話をせねばならぬ」
「今剣くん達?どうして?」
「そなたと契ったことは、伝えておかねばなるまいよ。まあ俺が今のあにさまの部屋に入ったら、すぐに知れてしまうだろうが…」
沈香を薫き染めた狩衣。三日月が纏うとなんでこんなに優雅に見えるのだろうといつも思う。
「え?」
「…そなたの神気と俺の神気が混ざったことはわかる者にはわかるだろう。三条は皆、その手のことには聡い。まあもともと、俺とそなたのことは兄達は知っておったのだから今更否やもあるまいがな」
「あー…」
昨夜のことを思い出して、光忠はちょっと顔を赤らめて俯いた。
「俺の方が恥ずかしいわ!早う連れて行け、真っすぐ歩けぬ」
「あ、ねえ、それなら僕も行った方がいい?」
手を繋いで廊下に出ると、三日月は首を横に振った。
「いや、部屋の前まででよい。そなたのことは兄達はもう許しておったのだろ?後は俺が始末をつけねばならぬことだ。昔のことはもうよいのだと、俺の気持ちを伝えねば」
一期のことは今剣達が一番気にしてくれていたことでもある。そこに自分がどう区切りをつけたのかも説明するつもりなのだろう。
「そなたが共にいてくれたら心強くもある。だが、きっと甘えてしまう」
三日月は眉を下げて泣きそうな顔で笑う。
「何か言葉に詰まっても、そなたが助け舟を出してくれると甘えてしまうゆえ。これでもそれなりの矜持は持ち合わせておる。…ありがとう、光忠。ここでよい」
あと数歩で今剣の部屋というところで、三日月は立ち止まった。光忠はしばらく手を握ったまま寄り添っていたが、三日月が見上げてきたので手を離した。
「話が終わったら大広間においでね。昼餉の時間になるから」
「あいわかった」
明け方まで啼かせていたせいで三日月の目許はほんのり赤い。そっと撫でて、そこにキスを落とした。
「おまじない。がんばって、三日月」
「ん」
夜が明けても呼び方が変わらなかったことに安堵した三日月は薄く笑って障子に向き直った。
「あにさま、三日月だ。入ってもよいか?」
「おはいりなさい」
とうに気配には気付いていたのだろう。三日月の問いかけから数瞬とおかず今剣の声で返答があった。
光忠の視線を感じてはいたが、三日月は振り返ることなく今剣の部屋へと消えていった。
さて今日は畑に出なければと靴を履こうとしている光忠に近づく影がひとつ。
「燭台切の旦那。畑に行くなら俺っちもついていっていいかい?」
「…やあ、薬研くん。もちろんいいよ。収穫手伝ってくれるならね」
「もちろん手伝うぜ?俺っちも何もせずに見てるだけのつもりはないさ」
光忠から籠を渡されて薬研は受け取りながら白衣を脱いだ。今日は胡瓜と茄子を収穫するつもりなので人手があるのは助かる。恐らく三日月絡みのことで何か話があるのだろうとわかっている光忠は、断ることはしなかった。
「姫さんと…三日月の旦那といい仲らしいと聞いたんだがな」
畑に行ってしばらくはお互い無言で作業をしていたのだが、どちらからも声があがらないことに焦れたのか薬研が先に口を開いた。
「うん。そうだね。誰に聞いたの?」
「怒らないでやってほしいんだが、平野から聞いた。昨日の遠征で燭台切の旦那が随分と甲斐甲斐しく三日月の旦那の世話を焼いて、手を引いていたと。…姫さんの右手は、特別だ。それを知ってて、引いたのかを聞きたくてな」
薬研はもう三日月のことを『姫さん』と呼ぶことを直しはしなかった。光忠と二人きりの場で、取り繕っても仕方がない。
「僕はね、ずっと不思議だったんだ。あの人は刀を握る右手は誰にも預けないって言い続けてたけど、決してそれだけが理由じゃないんじゃないかってね。いろんな話を聞きながら、もちろん一期くんとのことも聞いて、そこで見当をつけた。右手は、一期くんとしか繋がないって決めているんだろうと。あの人は本当に一途だ。この先一期くんが思い出せないままだったとしても、きっと右手を守り続けたんじゃないかと思う」
「だけど昨日はそうじゃなかった」
「そうだね。僕はずっとあの人の傍にいた。そして告白して、受け容れてもらった。無意識に右手を繋がせてくれたことがあって。それを伝えたら、僕の気持ちを受け容れるだけじゃなくて、心を預けるとまで言ってくれた」
光忠は手を止めて、薬研と視線を合わせた。
「告白したのは、いつだい?」
「一期くんが顕現した日だね」
「姫さんが受け容れると返事をしたのは?」
「あの人が寝込んでからしばらく経ってからだった。畑で五虎退くんと一期くんが内番をしてて。まだ熱も下がってないのに散歩に出てるのを僕が連れ戻しに行ったことがあってね。それからすぐだったな」
薬研は少し考え込んでいたが、また手を動かし始めた。
「…姫さんといちにいの話は、当然姫さんから聞いてるんだよな?」
「ああ、もちろん。夜寝る前とかに縁側でお酒飲んだりしてる時にぽつぽつと話してくれたからね。だから、あの人がどれだけ大坂城でのことを大切にしているか、どれだけ一期くんに焦がれていたか、わかってるつもりだ。だけどね…」
最後の茄子を収穫し、籠に入れると光忠は真っすぐに薬研を見つめた。
「僕は、一期くんのことを想っている三日月ごと、愛すると誓った。一期くんが記憶を取り戻そうとどうなろうと、渡すつもりはないよ」
射抜くような視線だった。いつもにこやかに本丸の皆と過ごしている光忠からはとても予想もつかない鋭い輝き。きっと戦場でも滅多にお目にはかかれないだろう。それだけ、本気ということなのだ。
「俺っちは…やっぱり姫さんにはいちにいとくっついてほしいってのがあってな。姫さんが今までどれだけいちにいのことを想い続けてきたのか知ってるから、どうしても昔みたいになってほしいってのがある。だけどな、正直な話、どうなるのが姫さんの幸せなのかってのは考えたことがなかった気がするんだよ。自分達は…粟田口は姫さんのこと大好きだし、いちにいの嫁さんになってくれるならそりゃあ大歓迎だ。でもそれはきっと、いちにいが何もかもを思い出して、そして姫さんを心から望まなきゃ始まらない話でもあるんじゃねえかなって思うんだよ」
「そうだね」
「そして今のところ、何もかもを思い出すことは、ないと思う。何か思い出しても、きっとはっきりとしたものではないだろうな。この先、いつになるかもわからないことに期待するのはよしたがいい。それもわかってる。…姫さんは、小さくても期待しちまってたから、寝込む程ショックだったんだと思うよ。…あの人はとても純粋で、傷つきやすい。俺達の中で一番年上の類いにいるのに、あまりにまっさらな刀だ」
苦笑する薬研はひどく大人びて見えた。
「だからこそ、俺っち達で守ってきた。守らなきゃいけないって思ってきたんだよ、ずっと。徳川に行ってからも、博物館に行ってからも。俺達のうち誰かが必ず姫さんの傍にいた。それはもしかしたら、姫さんにとって、鎖みたいなものだったのかなって、ちょっと思っちまうんだ」
「鎖?どういうことだい?」
収穫した胡瓜と茄子を担ぎ上げる。お互い籠に背負って、これから厨に向かう。
「いちにいのことを忘れないで、ずっと想っていてって。姫さんを、縛り付けちまってたんじゃないかって…」
「薬研くん、それは違う。それは三日月への侮辱だ」
光忠の語気が強くなる。薬研は思わず立ち止まった。
「三日月は、たとえ周りが期待しても、決してぐらつかない矜持というものをちゃんと持ってる。あの人が強く見えるのは、きちんとその身体の真ん中に芯が通ってるからだよ。…三日月は、その意志で、一期くんを想い、待ち続けた。たとえ君達粟田口が願わなくても、縛らなくても、きっと待ってたよ」
ああ、これは敵わないなと薬研は思った。自分や平野、厚がどう言おうと、光忠が一番三日月のことを理解しているではないか。
「あ、でも、三日月がお姫様みたいに世話されるのが好きなのは、君達が甘やかしたからじゃないかなって思うんだよね、僕。食事のことだってそう」
「あー…そいつは俺っち達にも責任はありそうだ。でも、一番甘やかしてんのは、燭台切の旦那だぜ?」
決して深刻になりすぎないように、光忠は配慮する。それは三日月が相手でも、他の刀が相手でもそうだ。相手がへこんだり、滅入ったりしないように。そんな優しさも、三日月が惹かれたところなのかもしれない。
「姫さんが最終的に旦那の手を取るか、いちにいの手を取るかはわかんねえが、俺は、中立とさせてもらうぜ。…姫さんの幸せを、俺っちは願ってる」
厨の入り口が見えてきたが、光忠は進もうとしない。薬研の言葉に引っかかったのだ。
「薬研くん。君、まさか…」
薬研は微笑む。決して強がりとは見せぬ笑顔で。
「…俺っちのことはほっといてくれ。大坂城で、いちにいと姫さんが夫婦になった時に、俺っちの片恋は散ってんだ。それからはただ、二人の幸せを願ってきた。今は、姫さんの幸せを願ってるよ」
薬研の言葉に嘘はないことは光忠にもわかった。向けられる好意に疎いあの美しい刀は、薬研の気持ちに気付いてはいないのだろう。そして薬研も気付かれることは望んでいないようだ。
「オーケー。僕も君の気持ちには気付かなかったことにするね」
「ありがとよ。…今日は茄子の味噌煮だと嬉しいねえ」
「…了解。じゃあ今日は特別に薬研くんのリクエストに応えるよ」
そして二人は笑顔を交わし、それぞれの場所へと別れた。
「あにさま方。三日月は、燭台切光忠と心を通わせ、昨夜契った。光忠とのこと、認めてもらえるだろうか?」
今剣を正面にして、ぐるりと自分を囲むように座っている兄刀達に向かい、三日月は真っすぐに言い放つ。それは許しを得るというよりは、宣誓のようなものだった。
「…かくごはあるのですか。一期一振をきりすてられるのですか、三日月」
「切り捨てはせぬ。一期のことを想う俺ごと愛すると光忠が言うてくれた」
「甘えるつもりか?三日月。光忠のその言葉は、あの刀の優しさ。おぬしの負担とならぬようにと気遣う言葉。まあもちろん、それでもおぬしが欲しいと願う光忠の気持ちも強かろうが…」
「狐のあにさま、そんなことはわかっておる。光忠は優しい。俺がここへ来てからずっと。誰にでも優しいけれど、俺には一等優しい。…一期のことは捨てきれぬと最初に伝えておる。それでもよいと光忠は言う。だからその想いに応えるために、俺は少しずつでも、一期のことをこの手から零していくつもりだ」
一期との想い出は、俺だけのもの。たとえ一期が忘れていても、俺が抱きしめて大切にすると決して譲らなかった三日月が、少しずつとはいえそれを手放すと言うのだ。随分と宗旨替えしたものである。
「光忠は、よきおのこであると思うぞ。我ら三条に礼儀を通し、三日月を娶りたいと言うて来たほどだ。三日月と一期のことをわかっていて、それでも妻にしたいと言ってのけた。相当な覚悟がなければ、言えぬことだ。わかっておるな?」
三日月は岩融の言葉に頷く。
「まあそれに、一期と別れてからただの一度も誰かの気持ちに耳を傾けることもしなかった三日月が誰ぞと寝たというだけでも十分か。がはははは」
「岩融、げたでのうてんかちわりますよ」
「…すまぬ」
赤い瞳が冷ややかに岩融を見据える。軽く空気が凍り付いた後、今剣は三日月の手を取った。
「おだやかなかおをしていますね、三日月。光忠がやさしくみちびいてくれたのでしょう。あれはよきおのこです。しあわせになりなさい」
「あにさま…」
「光忠とちぎったことははいってきたときにもうわかっていました。三日月のしんきにべつのもののしんきがまざっていましたから。けれどへんなまざりかたではなかったので、光忠だとわかりました。三日月がまえをむいてまたあるきはじめてくれたことを、ぼくも、みんなも、よろこんでいるのですよ」
ずっと心配していた。この三条の末の子を、愛し子を。長い歴史の中でひとりぽっちにさせていた負い目も手伝って、この兄刀達は三日月に甘い。兄達に構われるたび、『三条の屋敷にいた頃のようで嬉しい』と三日月が素直に微笑むので更に甘やかしてしまう。
それほどに愛している三日月が600年も苦しんでいた片恋からようやく一歩抜け出せたことは、三条の兄達としては喜ばしいことである。三日月の泣き顔だけは、見たくないのだ。
「あにさま方、ご心配をおかけした。あいすまぬ。…これからは光忠についていくことにした。安心してほしい」
そう言って薄く笑うと、すぐ近くにいた小狐丸が三日月の頭を撫でた。
「無理はしておらぬか?…一期を思い切るのに無理をすることはないぞ?」
「…無理では、ないのだ…」
俯いた三日月は、それでも言葉を続けた。
「光忠が俺に向けてくれる真っすぐな気持ちに、応えたいと、思ったまで。俺自身も、不思議なのだ。光忠だけでなく、他にも好意を向けてきた者はいたが、応えようと思えたのは光忠だけだった。…光忠なら、いいと思えた。だから、昨夜この身を預けたのだ」
なるほどこれは本気であるらしい。今まで一度もこんな三日月を見たことはなかったから。一期のことで頑なだった三日月の心をここまで傾けさせたのだ。これは光忠の勝利といってもいいのかもしれない。
「これでやっと三日月のえがおがはかなげにみえずにすむというもの。…光忠がしんぱいしているでしょう、はやくいってやりなさい」
「あにさま、ありがとう。行ってくる」
三日月は微笑み、光忠がいるだろう厨へと向かっていった。
「…げにおそろしきは伊達男、か…。やるねえ、燭台切光忠」
見送った石切丸の言葉に、小狐丸と岩融も同意するように頷く。
「三日月のこころがやっとかるくなりかけたところです。このまま光忠とめおとにでもなってくれたらいいですが…」
そうなるにはまだ時間がかかるだろう。今剣は心のうちで呟いた。
ようやく辿り着いて、そっと厨を覗く。昼餉の支度のために光忠と歌仙、それに堀川がばたばたと動き回っていた。膳を用意しているのは前田と秋田のようだ。
「光忠…」
人数分の食事を用意するのは大変だけど楽しいんだよ、と光忠はいつも笑っている。他の刀剣よりもずっと負担は大きいのだろうに。この本丸も顕現が確認された刀剣のほとんどが揃っている状態なので、かなりの大所帯だ。
「あ、三日月様!」
さすが偵察に優れた短刀というべきか、前田が最初に気がついた。続いて秋田も顔を上げる。
「や、やあお前達。手伝いか。感心感心」
見つかっては仕方がない。三日月は壁にかけてあった襷に手を伸ばして狩衣の袖をまとめた。
「俺は料理はできぬゆえ。膳の支度でも手伝うよ」
そう言うと慣れた手つきで次々と小鉢を並べていく。滅多に見られない厨での三日月の姿に、短刀達はしばし驚いて見ている。
「お前達、ここは俺が任されたゆえ、大広間へと運んでおいで」
「「はい!」」
昼餉は夕餉と違って数は少ない。堀川が出している箸の数を見て三日月は大体の人数を悟って並べていく。
「歌仙、味噌汁はあと5杯でよいぞ」
「あ、ああ。わかった」
そういえば最初の頃は三日月も厨にいたなと歌仙も思い出す。料理の腕はからっきしなのに、膳の用意は手早く美しく仕上げる。手伝える者が増えて、三日月も他のことに手を取られるようになってからはほとんど見られなくなったのだが。三日月が並べると同じように並べてもどこか違って美しく見えるのだ。
「ありがとう、三日月。助かったよ。歌仙くん、堀川くん、あとは僕やっておくから、先に済ませてきて。片付けはみんなそれぞれできるだろうから」
鍋を洗っていた光忠が歌仙達を振り返る。いつもなら『三日月さん、三日月さん』と三日月のことしか気にしない光忠が珍しい。しかも呼び捨てとは。歌仙はああ、と悟って堀川を促した。
「お言葉に甘えるとしようか、堀川。午後からは手合わせもあるしね」
「あ、そうですね。それじゃあ光忠さん、あとお願いします」
歌仙が堀川を連れて出て行き、残ったのは光忠と三日月のふたりだけ。
三日月は襷をはずして元の位置に戻すと、腕を広げて待っている光忠の胸に飛び込んだ。
「お手伝いありがとう。あなたの襷がけ姿なんて久しぶりで嬉しかった。歌仙くん達がいなかったら、新婚さんみたいだったよね」
「しんこんさん?」
「ほら、よくみんなが見てるドラマに出てくる、結婚したばかりの夫婦みたいな。三日月は新妻」
新妻、という言葉に三日月の顔が一瞬で赤くなる。妻と言われたことがないわけではないのに。真っ赤になって胸にぐりぐりと額を押し付けてくるのが愛らしくて、光忠はぎゅうっと抱きしめた。
「さ、あんまり遅くなると誰かが見にきちゃうかな。三条のお兄さん達はどうだった?」
三日月の分の膳と自分の分を重ねて抱えると光忠は三日月を促す。手を繋ぐことはできないから、三日月は光忠のジャージの裾を握ってぽてぽてと歩いた。
「喜んでくれていた。俺がやっと前を向いて歩き始めたと。そなたはよきおのこだと、口々に褒めておったぞ」
「え、ほんと?なんか照れちゃうな。でもよかった、三日月がそんな風に笑ってるってことは話はいい感じで終われたんだね」
「ああ。まあ兄達にしてみれば、もうしばらくは様子見ということなのだろうが…。でも、俺もこうなれて嬉しいんだ、光忠。ここでそなたに出会えたのが、俺にとっては幸運だったのだな」
「え、ちょっと、三日月、そんなに僕を喜ばせてどうするつもりなの…」
ぷるぷると振り返れば三日月が小さく首を傾げてにこ、と笑っている。
「無自覚の小悪魔か…」
「こあくま?」
「三日月がとっても愛らしいって言ってるんだよ。さ、ご飯にしようね」
大広間では鶴丸が大騒ぎをして大倶利伽羅からヘッドロックをかけられていたが、そんな喧噪は横に置いて、三日月と光忠は向かい合って手を合わせた。