誰にも、あげない・9 ずっと避けられるわけじゃない、きちんと向き合え。
宗三に言われた言葉は三日月に刃を突きつけた。宗三が言いたいこともわからないわけじゃない。はっきりさせた方がいいのだろうということも。
一期に辛い思い出まで思い出させたりはしたくない。けれど心のどこかで、どうして覚えていてくれなかったのか、欠片だけでも思い出してくれないのかと責めたいと思っている自分がいる。
人の身体を与えられ、心を持ち、触れることの叶わなかった人の子の生活を体験する。顕現した時は随分と戸惑ったが、人の生活に慣れてくると、それもまた楽しくてならなかった。
身体はいい。疲れても寝れば疲労は抜けていくし、風呂に入れば癒される。食事も楽しい。
けれど心は…。
『心ばかりは、ままならぬ…』
人の子は、こんな想いを持て余してきたのだろうか。その持て余した想いを、どう扱ってきたというのだろう。
どうして覚えていてくれなかったのか、なんで『はじめまして』と言われなければならなかったのか、どうして、なんで、どうして…。
「三日月」
立ち止まり、俯いていた背中がふっと温かくなった。
「みつただ…」
「どうしたの?こんな廊下の真ん中で。僕に抱きついてほしそうに立ってるから、つい抱きしめちゃった」
後ろから顔を覗き込んで、光忠は優しく笑う。瞳から三日月への愛情が零れ落ちてきそうなくらいに甘い視線で。
「光忠…。一期と、話をした方がいいのだろうか…」
「ん…さっき左文字の棟から出てきてたけど、何か言われた?宗三くんに」
三条の棟へ向かうところだったので、そのまま手を繋いで歩き出す。
「いつまでも避けてはいられないのだから、きちんと向き合えと…」
「なるほどね」
三日月の部屋まで来て、障子を開ける。先に三日月を入れてから自分も入った光忠は、所在無さげに立っている三日月を膝に乗せた。
「あなたは、どうしたい?」
「どう、とは…?」
「一期くんに思い出してほしい?それとも思い出してほしくない?…燃えた時のことまで思い出させるのはっていうのは、抜きにして」
髪を撫でながら問えば、三日月はしばらく考え込んでいたが、やがて答えを出した。
「半々なのだ…。どうして覚えていてくれなかったのかと詰りたい気もあるし…。あれだけ深く心を通わせておきながら、何故はじめましてと言われねばならなかったのか…。どうして…と、責めたい気持ちもある。けれど、思い出されて、もし、もし…またあの頃のようにと言われたら、この心が、壊れてしまいそうで…光忠にも、申し訳な…」
「ばかだなあ、三日月」
「…光忠…」
そのまま優しく畳に押し倒される。見上げた光忠の瞳は、ぎらぎらと獣の色をしていた。
「誰にもあげないって、何度言わせるの。この先何がどう転ぼうと、僕はあなたを手放してやるつもりなんて、これっぽっちもないんだよ。覚悟しておいて、三日月。僕の手を一度でも取ったんだ、もう放せないよ?」
「なれど…」
「揺れるのは仕方ない。でも、あっちに傾くことは許さない…あ、いや、傾かせない、かな。あなたへの気持ちは、誰にも負けないから」
頬を撫でる手は優しいのに、紡がれる言葉は熱く激しい。唇を辿る指を口で捕まえ、手袋を歯で脱がせた。
「大胆」
「…嫌いか?」
ほんの少し不安そうな色を滲ませて問えば、光忠は笑った。
「まさか。すっごく可愛い」
三日月はその言葉に目を細めて光忠の首に腕を回した。
それはそれは美しい夢だった。
満開の桜が数百本あろうかという場所で、後ろ髪をひとつに束ねた自分によく似た男が、瑠璃紺の狩衣を着た髪の長い人と並んで花見をしていた。
飲んで騒いでいるのはかの太閤・豊臣秀吉であろうか。千成瓢簞の旗印が見える。
『豪勢なことだ。人の子はまこと、花見と称して酒盛りをするのが好きだな』
『酒を飲む輩ばかりではござりますまい。あのように桜を愛でておる者もおります』
桜を見上げて楽しんでいる者を示せば狩衣の人はほう、と納得する。そして自分も桜を見上げ、微笑んだ。
『なあおまえさま。来年も共に桜を愛でられようか』
『もちろんですよ我が妻、私の月。今度はふたりきりで参りましょうな』
『まことか?やれ嬉しや。約束だぞ?きっとだぞ?おまえさま』
そう言って微笑んだ、そのあまりに美しい横顔は…。
がばりと起き上がり、一期は周りを見渡した。
「あれは恐らく書物にあった醍醐の花見。そしてあの髪の長いお方は…」
確信した。かつて大坂城で共に在ったのは、夫婦としての自分達であったと。平野も言っていたではないか、『お方様の御髪は見事で、柘植の櫛で手入れをするのが楽しみなほどだった』と。宵闇色の髪はゆらゆらと長く、金の飾り紐を揺らし、そしておっとりと笑う姿は、あれこそ平野の言っていた『お方様』三日月宗近だろう。その隣にいたのは、再刃前の一期一振…かつての自分である。
心に引っかかり、気になるのは当たり前だ。かつて妻として愛した刀なのだから。だが思い出すには至らない。たださっきまでみていた夢がかつての出来事であったのだと確信したのみ。思い出せたのであれば、その時の感情なども浮かんだはずだ。それが心のうちからわき上がって来ないということは思い出せたわけではないのだ。
思い出せないうちは、三日月には告げられない。何故かそう思った。三日月が頑なに忘れろと言う理由もわかってはいないし、思い出せてからでなければ三日月は多分相手にはしてくれないだろうとも。
だが、確かめたい。そうも思った。大坂城にいた者の中で、自分と三日月の仲を知っているのは薬研、平野、厚だ。薬研と平野にはもう訊けないだろう。それなら厚である。確か博物館でも一緒に所蔵されていたはず。
「厚なら何か話してくれるだろうか…」
今剣と小夜左文字が花を摘んでいるのを、穏やかな気持ちで三日月は見ていた。隣にいるのは光忠。ふたりのことを知っている短刀達の前では隠しもせずべったりと寄り添っている。
「あにさまは何を摘んでおられるのだろう…」
「何だろうね。でも今剣くんも小夜ちゃんも楽しそうだ」
「ああ、まことに…」
着流しで膝を崩して光忠に寄りかかっていたのだが、小夜が走ってきたので起き上がる。
「みかにいさま、はい!」
「これを俺に?ありがとう、小夜」
白と青の名前も知らない花だが、小さな手から渡される可愛らしい花束を受け取る。花が揺れて、三日月もつられるように笑った。
「みかにいさま、今日は笑ってる。よかった」
「小夜…」
「だからいったでしょう、小夜。三日月は光忠といるとき、わらっているって。さいきんはずっとそうです。…しあわせなのですね、三日月」
え…と思い、そして光忠を見遣る。光忠は今剣の指摘に真っ赤になっており、三日月と目が合うとへにゃりと笑った。
「うん、あにさま…。三日月は、幸せだ。光忠がいて、あにさま達がいて、小夜やみんながいて。これ以上の幸せは、あるまい」
そっと光忠の胸に身体をすり寄せれば、当たり前に背中に手が回り抱き寄せられる。この身を包む大きな腕に…光忠ではない大きな腕に、心当たりはあれど。今自分を包んでくれるのは燭台切光忠なのだ。想い想われるとはなんと幸せか。
「みつただ…」
「なあに、三日月」
空気を読んだ兄刀達は、いつの間にかいなくなっていた。甘えるように腕を首に回してキスを強請れば、光忠は躊躇うことなく唇を重ねてきた。何度か優しく合わせて、それからゆっくりと深くなっていく。
そろそろ内番を終えた刀達がここを通るかもしれない…。そんな考えが過ったが、光忠は三日月を離せなかった。だって幸せだと三日月が笑うから。これ以上の幸せはないと甘えてくるから。
「ん…ふっ…」
息が出来なくなった三日月が力なく胸を叩いてきた。
「ごめんね、加減できなかった」
「いや…よい…望んだのは、俺だ…」
肩で息をしながら光忠の胸に崩れ落ちる。裾から覗く脹脛に、昨夜の情事の痕がチラリ。
「こんなところまでつけたっけ…」
痕に触れるとぴくりと震える。三日月が額をぐりぐりと胸に擦り付けながら不満を漏らす。
「あんなに嫌だと言うたのに…光忠が離してくれなかったのではないか…」
言われて昨夜のことを思い出す。二度ほど情を交わした後、ぐったりとしていた三日月の足が白く浮かんでいるように見えてたまらず足首を掴んだ。そのまま持ち上げて脹脛を甘噛みしたらそんなところに痕をつけたら袴が軽く捲れただけで見えてしまうから嫌だと暴れるので、押さえつけて何度も吸い上げたのだ。
「暴れなきゃよかったじゃない」
「…触れられたら、また…浅ましいことを思うてしまうから嫌だったのに…」
「もう一回…って?」
「ば、ばかっっ」
ぽかぽかとやわく叩いてくるのがまた可愛くて、光忠はクスクスと笑いながら宥めた。そして膝に抱きかかえて、額を合わせて見つめ合う。
「ねえ、愛してるよ」
「ぅ…」
「三日月は?ねえ、教えて?」
瞳に揺れる三日月を覗き込むように優しく促せば、三日月は視線を泳がせていたがこのままでは離してもらえないこともわかっているので覚悟を決めた。
「す…好いておる…」
「三日月…」
心を預ける、傾ける、そんな言い方をしたことはあっても。閨でさえ滅多には言ってくれない。こうして素面の状態できちんと応えてくれたのは初めてだ。
「愛おしいと…思うておるぞ、光忠」
「ありがとう、三日月。…少し眠くなってきたかな?その花も活けてあげなきゃね」
「ん…」
そのまま抱き上げられて、三日月はうとうととし始める。昨夜は無理をさせた自覚のある光忠も決して責めはせずに優しく抱える。
「………」
ふと、廊下の向こうに見える棟に視線をやる。三日月が気付いているかどうかは定かではないが、光忠にはずっとわかっていた。こっちをじっと見てきている視線を。
空色の髪が揺れる。
そんなところにこそこそと隠れてないで、来ればいいのに。いくらでも睦まじいところを見せてあげるのにな?
見せつけるように三日月の髪にキスを落としてから光忠は部屋に入っていった。
心が軋む。三日月が光忠に甘えた顔を見せるたび、光忠が三日月に微笑みかけるたび、一期の心はひどい音をたてて痛んだ。記憶はなくても、何かが一期に訴えているということなのだろうか。
『この胸の痛みは、なんだというのか…』
さっきの光忠の視線は、明らかにこちらに向けられていた。ひどく挑発的な笑いを浮かべていたように思う。
そうだ、三日月と光忠は恋仲であると、鶴丸も言っていたではないか。
けれど、気になることを鶴丸は言っていた。
『三日月は、もう幸せになっていいんだ』
と…。
それがどういう意味であるのか、自分にはわからない。幸せになっていい、ということは、これまで不幸であったということなのか。ならば何故三日月は不幸であったのか。
この本丸で、三日月は常に微笑みを絶やさず、いつも誰かが彼の傍で彼の世話を焼き、そして光忠が寄り添っている。粟田口の弟達に訊いても、本丸での三日月はずっとそうであると言っていた。ならば前から幸せではあったのでは?刀の身で、幸せだの不幸せだのあるまいにとも思うが、今自分が置かれている状況は、 決して幸福な状態ではないと一期は思っている。
もちろん弟達と過ごせる日々は楽しいし、幸せであるとも思う。長らく刀としての働きができなかったことを考えれば、こうして毎日のように出陣して戦えるということは、刀剣としても幸せであると言えるだろう。
けれどこの胸の痛みは。軋むような痛みはどうやっても和らがない。三日月を見ている時だけでなく、三日月のことを考えるだけでも苦しいこともある。
「厚…。教えてくれないか。私は、三日月殿と大坂城でどのような間柄であったのか」
いつの間にか傍らに立っていた厚藤四郎に、一期は問う。
「訊いてどうすんだよ、いちにい。訊いて、思い出せるって言うなら俺も考えないじゃないけど」
「思い出せるかどうか、それはわからない。だが、この胸の痛みを、何とかしたいんだ…。三日月殿のことを見ているだけで何故こんなに苦しいのだろうか」
そこまでわかっていて、どうして見当がつかないのだろうと厚は思う。一期が見たという夢は、醍醐の花見で間違いはないだろう。おまえさまと呼びかけてくるというのだから、どう考えたってただの友人ではないに決まっているのに。
「いちにいは、俺達に訊くことで自分の予測を確かなものにして三日月に近づこうとしてるのか」
「厚?」
「言っておくけど、俺もいちにいに大坂城でのことを話すつもりはないんだ。三日月と約束したからな」
一期の苛つきは頂点に達した。何故だ。何故誰もかれも三日月の味方をする?
「何故だ。どうして皆三日月殿の味方なのだ。私が、兄である私がこんなに苦しんでいるというのに、何故それでも三日月殿につく??」
「いちにい…。あ…」
厚の視線が一期の背後に向く。つられて振り返れば、そこには光忠が立っていた。
「燭台切殿…」
「…僕の三日月が寝てるから、あんまり騒がないでほしいんだよね」
「あ、それは申し訳ないことを…」
「一期くん。…ちょっと、話をしないかい?厚くんも同席して構わないよ」
三条の棟から離れた、光忠と鶴丸の部屋を指す。三日月には聞かせたくないということなのだろうと一期も察する。正直一期も三日月には聞かれたくない。何故か、そう思った。
三日月を寝かしつけてから、気になってさっき一期が立っていた場所に近づけば、一期が厚に八つ当たりをしていた。
『ああ、これはまずいな。そろそろ僕がやらなきゃいけないって、ことだよね』
厚が困り果てた顔で一期を見ているが、ついに一期が激昂する。そこで一期の背後から現れて、厚にまず気付かせた。気配を消さずに近づいたというのに気付かないとは、一期はよほど自分のことで手一杯だったらしい。
「僕の三日月が寝てるから、あんまり騒がないでほしいんだよね」
そうして『僕の』を強調すれば、一期は一気に顔色を変えた。口調は意気消沈してはいるが、光忠を見る瞳はゆらゆらと炎が揺れている。
「ちょっと話をしないかい?」
誘いをかければ一期は頷いた。教えてくれるなら、もう誰でもいいのだろう。厚を同席させたのは、決して光忠に都合のいいことばかりを並べてはいないという証明のためでもある。
『僕に都合のいいことを話すつもりはないよ。ただ、三日月が僕のものだってことを話すだけ。さあ、始めようか、一期くん』
鶴丸と光忠が住まう部屋へと一期を招き入れる。厚もついてきた。
座布団を勧めて、それから正面に座る。
「えっと、何から話そうか。…ああ、いや…。一期くんは、何を知りたいの?」
片方きりの望月の瞳は、ひどく楽しそうに歪んでいた。