【ニコユキ】君の名前を呼んでみる 夜のアオタケの台所はしんとしていた。二階から漏れ聞こえる楽しそうなざわめきが、余計に静寂を際立たせる。五月の連休も終わり、住人は皆アオタケにも大学生活にも慣れたようだ。
それはユキとて例外ではなかった。
勉強を中心とした、日々の暮らしのリズムが確立してきている。もちろん最終目的地は司法試験合格。そのためにやるべき勉強を自分に与えられている時間で割り算して、ノルマを着々とこなしていく生活だ。
今はまだ地味な基礎学習の繰り返しで模擬試験にはとても歯が立たないけれど、基礎がひととおり身に着いたら成績は飛躍的に向上するというのが、ユキの読みだった。
昼間はだいぶあたたかくなってきたが、この時間はまだ空気がひんやりしている。ひと月もすれば梅雨になり、あっという間に暑い夏が来るだろう。
食卓はすっかり片付けられ、鍋もすでに洗って水切り籠に伏せられていた。ユキは空腹をさすりながら冷蔵庫を開けた。中に、ラップをかけた食器が入っている。ユキは無言のまま、それを取り出した。
それはもちろん、ハイジの仕業だった。住人たちは、ハイジの飯は薄味だの物足りないだのとブーブー文句を言いながら、鍋が空っぽになるまでおかわりする。
ハイジは、ユキの夕食が遅くなることを見越して、ユキの分をあらかじめよけておいてくれるのだった。放っておけばいくらでも食べる住人たちから、ハイジはユキのおかずを死守してくれているのだ。二食付きが条件なのだから食事の確保は当然の権利と思いつつ、ユキなりにハイジには感謝している。
今夜のおかずは肉じゃがだった。ユキは炊飯器からごはんをつぎ、肉じゃがの器をレンジで温めた。
いただきますを言うのは一人で食べる夕食の3日目あたりから面倒くさくなった。なにも言わずに食べ始める。
レンジが古いせいか、温めた肉じゃがは外側は唇をやけどするほど熱いのに中のほうは冷たい。もう一度レンジにかけるのもしゃくで、そのままかきこんだ。
ユキはあっという間に食べ終えると、空になった食器を流しに持っていった。面倒な気持ちを抑え込みながら洗うせいか、ついつい手つきも乱暴になる。
今日は思ったより勉強が進まなかった。法曹を目指す同級生たちの多くは、司法試験用の受験予備校にダブルスクールで通って勉強するらしい。ユキは、大学と予備校の両方に学費を払うなんて信じられなかった。
せっかく法学部に入ったのに、授業そっちのけで司法試験予備校だなんて、そんなのはバカのすることだ、とユキは自分に言い聞かせた。
俺は絶対に自力で合格してみせる。親の金を湯水のように使う、甘えたお子ちゃま学生とは違うんだ。
「あっ」
いらいらしているせいで手が滑り、あやうく茶碗を割りそうになった。すんでのところでキャッチして、ひやっとした自分にますますいらいらする。食器なんて消耗品で割れるときは割れるんだから、割っておけばいいのだ。それなのに、反射的に「割るまい」と背筋に冷や汗をかいて阻止した自分に、なぜだか猛烈に腹が立った。
「ちくしょう」
思わず独り言が出た。ぶら下げてある薄汚れたタオルで手を拭くのがなんとなく嫌で、濡れた手をズボンの太ももにパンパンとはたきながら振り返ったら、台所の入り口にニコチャンが寄りかかってこちらを見ていた。にやにやしている。独り言を聞かれていたに違いない。
「……ッス」
横をすり抜けて出ていこうとしたら「まあまあまあ」とやんわり腕をつかまれた。
「コーヒーでも飲もうぜ」
「俺は結構です」
「おっ、先輩のいれるコーヒーが飲めねえってのか?」
笑いまじりにそんなことを言われ、自分の部屋に帰ることができなくなった。
この人のこういうところが本当に苦手だ。「飲め」と命令されたら拒否する選択肢はないのだし、「飲みたきゃ飲め」なら堂々と断れる。そのあたりをうやむやにしながら、結局圧力をかけて自分の思いに従わせてしまうやり口が、汚い大人のやり方そのもののように思えた。
ニコチャンは「ダバダ~」などと小さく口ずさみながらインスタントコーヒーをいれている。ずいぶん古いCMソングだ。オッサン臭さに年齢差以上のものを感じ、ユキは半笑いになった。
ニコチャンが出してくれたのは泥水色のコーヒー牛乳だった。カフェオレなんていうしゃれた代物では断じてなかった。
「ハイジが買ってくるのはとにかく一番安いインスタントコーヒーだからな。衝撃的にまずい。そのままじゃとても飲めねえけど、こうして牛乳でごまかすとなんとかなる」
「……ありがとうございます」
濁った水面から湯気が立つ。雨の日のアオタケの、玄関を出たところにできる水たまりとそっくり同じ色だった。
「あいつ、栄養バランス栄養バランスって給食のおばちゃんみたいなことばっかり言ってるわりに、こういう嗜好品はコスパのことしか考えてねえよな。実はこっそり節約術ブログでもやってんじゃねえか? いっちょ探してみるか」
「……はぁ」
「ま、もう少しすりゃ大家さんからお中元の横流しでアイスコーヒーが来るから、それまではこれで我慢しとけ」
帰りたい。部屋で暗記ノルマをこなしたい。寝る前に頭に詰め込んで、睡眠中に記憶に定着させて、朝飯前に成果を確認する。記憶からこぼれていたものは通学中に歩きながら覚えなおす。自分で決めたルーティンだ。
このところ眠りが浅い上に、追いかけられる夢ばかり見る。だが、覚えなくてはならないことは膨大で、暗記ごときで手間取っていたら本格的な試験対策にすら入れないのだ。基礎をさっさと固めたい。時間がないのだ。
これを飲み干したら部屋に帰れる。それなのに、コーヒー牛乳はバカみたいに熱くて、本格的に嫌がらせなのではないかと思う。ユキはこっそり袖口を伸ばしてあつあつのカップをつかんでいるのに、ニコチャンは素手でゆうゆうとしている。面の皮が厚い人間は、手の皮膚も頑丈なんだろうか。きっとそうだ。体の中から外からずうずうしくできているんだ。
「……ユキって何時に寝てんの?」
不意に問いかけられて、びくっとした。ニコチャンがじっとこちらを見ている。
「1時……とか、遅くても2時までには寝るようにしてますけど」
「おまえ、朝も早いよなあ」
「まあ、はい」
なんでこの人に生活指導を受けないといけないんだ。夜遅くまで電気がついているのはお互い様だ。監視されているようで気分が悪かった。
不愉快きわまりないのに、ニコチャンの誘導尋問でユキは一日のスケジュールを白状する羽目になった。
朝は7時過ぎに起きてハイジが作った朝飯を食べ、1限があってもなくても大学へ行く。さっそく法学部図書館にこもって司法試験の勉強を始め、授業の時間になったら講義を受けに行き、終わったらまた図書館に戻って勉強する。図書館が閉まって追い出されるのが午後8時。アオタケに帰って夕飯を温めて食べて一休み。大家さんの風呂が閉まる直前に駆け込み入浴し、湯冷めに気を付けながら暗記ものをこなして、日付が変わったらキリのいいところで就寝。
ひゅう、とニコチャンが口笛を吹いたので、キッとにらんだ。こういうところが嫌いなのだ。あんたが聞くから答えてやったんじゃないか。
「悪い、からかってるわけじゃねえよ」
ユキは返事をしないことを不服の意思表示とした。
「おまえ、ストイックボーイだなあ」
しみじみした口調だった。ニコチャンはコーヒー牛乳を飲み干して、「ちょっと抜いたほうがいいよ」と言った。
「俺は時間がないんです。一発で合格するって決めてんですよ。息抜きなんかしてるヒマはありません」
ニコチャンの考えに従っていたらどうなるかは彼自身が身をもって証明しているではないか。想像するだに恐ろしい。自分が堕落していくのは勝手だが、道連れにされるのはまっぴらだ。
「いや、息じゃなくて」
ニコチャンが笑う。息じゃない? 息ではなくて、抜くものってなんだ。
一瞬の沈黙ののち、ぱっと答えが浮かび、一気にユキの頭には血が上った。そのあまりのくだらなさに、脳みそが煮えくり返ったのだ。
「失礼します!」
断固、という決意で立ち上がったが「おーうおうおう」とまたさえぎられる。
「おまえ、ちょっと怖えよ。目なんか吊り上がっちまってさ」
「もともとです」
「そうすねるなって。疲れてんだろ? さっき、手元危うかったもんな。一発抜いてすっきりすれば、朝までぐっすり、お目目パッチリ。またお勉強も頑張れるってもんよ」
ニコチャンのその言葉に、ぐらり、と心が傾いた。
ぐっすり。ぐっすり眠れる。眠りたい。気味の悪い夢にうなされて、寝たのか寝ていないのか分からないような睡眠はもういやだ。泥のように、なにも考えず眠りたかった。
「えぇっと……」
「来いよ。俺のパソコン貸してやる」
「えっ、いいですよそんな」
ユキは耳を疑った。
他人の部屋でオナニーしろっていうのか。
ユキだって、お気に入りの動画のひとつやふたつはスマホに入っている。最近は疲れ切ってそんなことをする気がなかっただけだ。
「ちっちぇー画面覗き込んでたら余計疲れんぞ」
「でも、」
迷うユキの背中をニコチャンはぐいぐいと押し、一〇四に向けて歩を進めさせていく。
「洋モノでよけりゃ、裏サイトもブクマに入れてっから」
悪魔のささやき。さらに心がぐらりとした。
「裏、って……」
「モザイクなしのナマ本番。外人はすげえぞー」
ユキはついに陥落した。「お願いします」と蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「おーおー、来たれ青少年」
ニコチャンは笑ってユキの肩を抱き、部屋へと導いていった。
ひどいヤニ臭さも、今日は気にならなかった。
「あっ、タバコ臭えか?」
ユキが突っ立っているのを部屋の臭いのせいだと勘違いしたのか、ニコチャンが窓を開ける。
他人の部屋で、窓全開でオナニー。しかもここは一階だ。我に返ったら負けだ、とユキは自分に言い聞かせた。
「じゃ、俺はタバコ買いに行ってくるわ。気が済んだら適当に帰っていいから」
ユキは強引にパソコンの前に座らされて、お邪魔します、と口の中でもごもご言った。
「パンツは履いて寝ろよ。風邪ひくからな。あなたの風邪はどこから? ワタシは金玉から……ってな」
アオタケ史上最低と思われる言葉を残してニコチャンがいなくなると、部屋は静けさに包まれた。
ハイジも二階の住人も眠っているのだろう。開け放した窓から、風の音がする。
マウスに手を置き、無為にカーソルを動かしてみる。ブックマークにずらりと並ぶリンクから裏サイトとやらを探してみようかと思ったが、モニターはひどくまぶしくて、目に突き刺さるような光に視界がにじむ。
やけに冷たい右手をマウスから離して、両手を組んで股間に置いた。
「……なにやってんだろ俺」
熱をもった性器が、冷たい手で冷えていく。いや、性器の熱で手があたたかくなっているのだろうか。なんだか頭の芯がぼうっとする。
先輩が帰ってくるまでに、さっさとコトを終えて、後始末をして、空気を入れ替えて、万事なにごともなかったようにして部屋に戻らなければ。そう思うのに、体が動かなかった。
「ユキ! ……ユキ、起きろ!」
肩を強く揺さぶられて、目が覚めた。寝ぼけ眼に次第に焦点が合ってくると、目の前でニコチャンが心配そうな顔をしていた。
「え? あ……」
目をこすろうとしたら眼鏡に思いきり手がぶつかった。
「おい、大丈夫かよ」
眼鏡をかけていることすら把握できていないユキに、ニコチャンはさらに不安になったようだった。
「いえ、あの……すんません」
「死んでんのかと思ってびびったぜ」
「……はは……」
なんと言っていいか分からなくてとりあえず「死んでないです」と申告すると「黙れ」と一喝された。
「電気つけっぱなし、窓開けっぱなしで突っ伏して爆睡。おまえ本当にもっと寝たほうがいい。ほら、机拭くからどけ」
パソコン机にはよだれが広がっていた。ニコチャンは、あーあーもう、と言いながらそれを手早くティッシュで拭いていく。
ユキの意識がだんだんはっきりしてきた。時計を見ると、30分ほどしか経っていなかった。もっともっと長い時間が経っているような気がした。頭がすっきり澄んでいる。
「ったく、息子を昇天させろっつったのに、テメエが昇天してどうすんだ」
「俺、抜いてないです」
オヤジギャグにあわててつっこむ。これは名誉の問題だ。
「……分かってるよ! 分かった上でごまかしてやってんの!」
すいません、とユキは頭を下げた。確かに、据え膳食わぬは男の恥、という。エロ動画を前にしてすやすや寝ていたとあっては、男として不名誉なことには違いなかった。
もしかしたら先輩は俺をインポだと思ったかもしれない。違うんだ、と否定したくて、もう一度「すいません」と頭を下げた。
「いいよ謝んなくて」
ニコチャンはどっかと万年床に腰を下ろしてタバコに火をつけた。煙が窓のほうへ引っ張られるように細く流れ出していく。窓が開いているのだから当たり前のことなのだが、ユキには窓の外で女神かなにかが煙を吸い込んでいるように思えた。
「ま、とにかくもう少し気をゆるめてさ、ちゃんと寝てくれよ。向かいの部屋で突然死でもされたら怖えからな。事故物件になるし」
口は悪いが、ニコチャンがユキを心配してくれていることは伝わってきた。
「なんか、頭がすっきりしました。ありがとうございます」
「そりゃあおまえ、寝たからだろ」
にやにやしながら見られても、前のようにいらつくことはなかった。同じようににやついて「そうっすね」と返す。
「今度改めて、サイト見せてもらっていいですか」
「え~、どうしよっかなあ。大体おまえ、違法サイトとか見ちゃっていいわけ? 未来の法律家なんだろ?」
「それはそれ、これはこれでしょ!」
痛いところをつかれたユキが口をとがらせて抗議すると、ニコチャンは楽しそうに笑った。
「いいよ、いいよ。いつでも来い」
「あと、」
ニコチャンに、あん? と見つめられて、一瞬口ごもる。
「時々ここ来ていいですか」
「……俺の部屋は個室ビデオ屋じゃないんだけど」
「そういう意味じゃなくて、普通に、しゃべったり……昼寝、したり……」
「タバコ嫌いなんじゃなかったの?」
ニコチャンが、新しいタバコに火をつける。自分の部屋に流れ込んでくる副流煙はあんなに臭くて不愉快なのに、目の前で吸われる白煙はそれほど嫌でもないのが不思議だった。
だけど、それを言うのもしゃくだった。
「嫌いですよ、大っ嫌いですけど!」
「けど?」
ニコチャンがユキを見つめる。
この人がこんなやさしい瞳をしているなんて、知らなかった。
「……あんたの部屋、よく眠れたんでっ……」
「あーそう。じゃあどうぞ、ご自由に」
ふーっと煙を吐く。
「あの……」
「ん?」
「よろしく、お願いします……ニコチャン先輩」
ニコチャンは一瞬きょとんとした顔でユキを見つめた後、あっはっはと大きな声で笑った。
「今さらかよ! はいはい、こちらこそよろしく、ユキ」
タバコを持ったままの手で頭をわしわしとなでられ、ユキは「ちょっと、火! 灰が落ちる!」と思いきりニコチャンの肩を押しやった。
「あははは」
ユキが初めて彼のことを「ニコチャン先輩」と呼んだ、記念すべき夜だった。