春待つ二人 医療器具や製薬会社が多く集まるフロントの総合病院の精神科の病室は、最新の心理学に基づいた設計らしく、いるだけで心が安らかになる空間であった。そのせいか、声をかけてくる職員や患者たちの顔も穏やかで朗らかだ。
楽園、というのはこういうものかもしれないな。グエルは豪奢で重苦しい実家とも、出奔先で就職した会社の、ところどころガタのきた素朴な社宅とも違うこの病室の雰囲気を、そう評した。
入り口近くでドタバタと人の走る音がした。
「はあ〜よかったあ! 間にあった!」
若い女の声である。この時間にこの部屋に来るには珍しい人種である。しかも、その声は片時も忘れたことのないそれとよく似ていた。
職員に案内されてその女性がやってきた。男子に混ぜても遜色ない背丈だが、やや自信なさげに丸まっている。鮮やかな空色のGジャンの背中に流れる緋色の髪は炎のように渦巻いていて、同じ色の眉は丸く、愛嬌があった。室内から彼女に注目しているガタイのいい男の群れに怯えているらしく、幼気な可愛らしい顔は若干恐怖に歪んでいる。彼女のピーコックグリーンの瞳がグエルに合ったとき、わずかに和らいだのは気のせいだろうか。
「え、えーと、グエル、さん」
「スレッタ・マーキュリー」
グエルの母校、アスティカシア高等専門学園時代の後輩であり、初恋の相手であり、プラント・クエタ事件以降、悲惨な戦争に巻き込まれた仲間であった。
職員から説明を受けた後、お隣、失礼しますね。とグエルの隣に座ったスレッタは、多少やつれてた顔をしていたが、最後にあったときより元気そうであった。
「グエル、さんはなぜここに」
「お前と同じだ。たぶん」
車座に設置されたパイプ椅子の向かい側をぼんやり眺めながら、グエルはわざと素っ気なく会話のボールを打ち返した。あの戦争を生き抜く中で幸か不幸か、意思疎通をするなかでスレッタがグエル相手にどもることは無くなっていた。
「そういうわけじゃなくて……」
膨れるスレッタがおかしくてかわいくて、グエルはつい笑みをこぼした。
「停戦条約が結ばれた後、眠れなくて医者にかかったらPTSDの疑いがあるって言われてな。それでここの集団セラピーを紹介された」
グエルとスレッタが今から参加しようとしているのはプラント・クエタ事件以降の戦闘に関わった者向けの集団セラピーである。一連の事件で精神に後遺症を負った患者が増加しており、速やかな社会復帰を促すため、宇宙議会連合が各精神病院に要請と出資を行い開いているものだった。
「そうだったんですね……」
スレッタもグエルのこれまでの戦闘について聞いていた。止むを得ず迎えてしまった初陣で誤って大事な父親を殺めてしまったことを。その後の戦闘のいくつかは実際にそばにいたこともあった。今となっては思い出すのも辛い記憶も含まれている。
「……実は知り合いに会うとは思ってませんでした。学校からもベネリットグループからも離れたフロントだし」
スレッタはこの話題を続けると戦時中のことに行き着くだろうと思ったので、話題を変えた。
「奇遇だな。俺もだ」
考えていることは同じだってことだろ。グエルは小さくスレッタに問うた。そうですね。とスレッタは笑った。
パイプ椅子が埋まり、時計が開始時刻を表示させたと同時に、車座の中にいた進行役の職員が立ち上がった。
「おはようございます、みなさん。時間になりましたので始めましょう」
その挨拶で今日のプログラムが始まった。
今日のプログラムはアイスブレイクの後、希望者が自分の戦時中の体験を話すというものだった。
アイスブレイクのお題は『睡眠薬を使用せずに眠る方法』であった。
「朝、決まった時間に光を浴びると夜眠れるって聞いたんで、俺は朝イチでカーテン開けてボーッとしてます」
「俺は夜、電子じゃなくて紙の本読むようにしてます。寝る直前に目に光入れるのは良くないらしいので」
お題に沿って挙げられる入眠方法は、グエルには新鮮で、手元のタブレットのメモアプリへの入力が追いつかないほどだった。
「俺は夜眠れなかったら諦めて、眠れるまでゲームしてます。おすすめは牧場作るゲームです!」
この方法には一同皆大笑いで、グエルも例外ではなかった。久しぶりに何も考えずに笑ったなあと、解放感に浸った。ふと思い立って隣のスレッタに目を向けると、ちゃんと笑っていた。彼女が大口を開けて屈託なく笑っているのを見たのは、初めてだと気づいた。
視線に気づいたスレッタがグエルの方を向いた。目があった途端驚いて顔を恥じらうように俯かせた。楽しさに水をさした申し訳なさと、仕草の初々しさにグエルの心は翻弄された。
いくつか入眠方法が上がった後、本題の、戦時中の体験を語る段になった。
少し躊躇した後、一人の壮年の男が手を上げた。指名された彼は、静かに訥々と話し始めた。
「俺はMS小隊の隊長をしていた。部下の一人にピートって奴がいたんだ。
学校を卒業して訓練を終えたばかりの新兵だった。これが手のつけられないクソガキでな。同期の女子に手を出すわ、先輩には喧嘩を売るわで何回あいつのために頭下げたか」
不満をぶちまけながらも、優しくて、暖かな眼差しをしていた。
「これで首席で訓練終えてりゃ面白いんだがせいぜい中の上だ。中途半端だよなあ。だが初陣の時、あいつのおかげで敵の陽動に気づいてフロントの防衛ができたんだ。今思えば目と勘がよかったんだろうな」
隊長は持ち込んでいた水筒の中身を飲んだ。一息入れると表情が陰った。
「その一月後のフロント襲撃の時だった。襲撃犯に応戦してるときだった。敵の弾切れを小惑星の影で待っていた。敵の射撃が止んだから俺はピートに『行け!』って言ったんだ。だが敵が撃ったビームライフルがコックピットに直撃して死んだ。敵は武器を持ち替えてたらしい」
隊長は勢いよく流れる水のように一気に語った。これまで人に何度か同じ内容を話したのだろう、淀みのない、いっそ機械的と言ってもよい口調だった。語り終えた後の隊長は、命が削られたかのような顔をしていた。
「あのとき合図を出さなかったら……ずっとそれが頭の中をぐるぐる回ってる……。
これで俺の話は終わりだ。聞いてくれてありがとう」
室内の空気がしんみりとしたようにグエルは感じた。隣のスレッタも丸眉を下げているように見える。集まった患者達には実際経験していなくても身に覚えのある出来事であった。
次は彼の話に対してコメントをする段である。出来事の違う側面を探し出し、別の見方や捉え方をできるようにするのが目的だ。
グエルは聞いた話の内容を整理し、隊長にかける言葉を探した。だが浮かんだ言葉はどれも彼を落ち込ませてしまう気がして言えなかった。
一人の男が挙手した。目元に笑い皺が刻まれた、柔和な男だった。
「俺も、指揮官として現場にいて、自分の命令で何度か部下を亡くしたことがあります。だから、俺も頭の中で『もしあの時こうしてれば』ってよく考えます」
一筋のか細い光がさしたように、隊長の表情がほんの少し明るくなった。
さきほどのコメントが呼び水になったらしく、手が一つ上がった。
「俺も部下を率いて戦ったことがある。やはり、部下を亡くしたことがあって。最初に部下を亡くしたとき、食事できないくらい気が滅入ったんだ。そのとき上官に言われたのが、『お前はよくやった。任務なのだからあいつを死なせたことで非難する奴はいない』それで少し気が楽になった。
だから、俺もあなたに言いたい。よく戦いましたね。あなたは自分の任務を全うしただけで、その部下の方の死を非難する人はいません、と」
グエルは思わず彼の言葉を端末にメモをした。自分に置き換えると、父を手にかけたとき、相手が父だとはわからなかった。攻撃されたから攻撃して、それが致命傷になったとも言えるのではないか……? そう考えるとずっと肩にのしかかっていた罪悪感が、少し消えたような気がした。
数個コメントが続いたあと、もう一人体験を語った。そのときもハッとするような言葉が生まれ、グエルは天上から降りた細い細い糸を掴むように、懸命にタブレットのメモアプリに記した。
今日のプログラムを全て終え、職員と軽く話した後、残っていた最後の一人になったグエルは、安らかな気持ちでプログラムを受けていた部屋を出た。生まれてから一度もなかった絶対に否定されないという安心感は、直情的で荒々しい気性だと言われる自分も、穏やかで誠実な人格者になれたような気分になると、グエルは一人でどこか満足げに笑った。
会計を済ますため、会計窓口に向かっていたグエルは、燃えるような赤毛の背中を見つけた。スレッタ・マーキュリーである。時折立ち止まりながら彼女が向かっている先は別の診療科の方向だった。挙動から判断するに迷ったらしい。グエル達が通院するこの病院は総合病院で規模が大きい。
「スレッタ・マーキュリー」
いきなり呼びかけたからか、スレッタはビクリと肩を震わせた。
「グ、グエルさん」
「会計ならそっちじゃないぞ」
「え?」
グエルの見立て通り、スレッタは迷子になっていたようだ。
「俺も会計に行くところだ……一緒に行くか?」
「ぜひお願いします」
照れが優ったグエルはスレッタの方を振り返らず会計窓口へ方向転換した。
「ありがとうございます、グエルさん。この病院初めてで、迷っちゃって」
今日のプログラムの時もそうだったんです。十分前に着く予定だったのに、着いたの三分前でした。スレッタはポツポツと続けた。照れと情けなさが混じった声色だった。
「実は俺も最初に行った時迷った」
グエルがこぼすと、スレッタが笑ったのが気配でわかった。
会計窓口に着くと、二人はそのまま列に並んで受付の順番を待った。会計の受付を済ませると今度は番号札を渡された。治療費の精算の準備ができるとその番号で呼ばれるが、現在の番号の数字は手元にあるそれより随分若い数だった。
「三十分くらいかかりそうだな。スレッタ・マーキュリー……この後予定は?」
「特にはない、です」
「……じゃあ、どうだ。その、昼食でも」
予定より早く社会に出て、そこらの同年代よりいろいろ経験しているのに、惚れた女一人誘うのにこうも格好がつかないとはな。グエルは自分が滑稽に思えて口の端を上げた。
「……私お弁当で……それでもよければ」
「大丈夫だ。俺も弁当なんだ」
それを聞いたスレッタはふわりと笑った。
グエル達が通院する総合病院には、立派な中庭がある。広葉樹が植えられ、どの季節にも花が楽しめるよう、四季折々の草花が計算された場所に植えられていた。その中にガーデンチェアやテーブルが何セットか島のように配置され、患者や職員が食事を摂ったり、あるいは本を読んだり思い思いに過ごしていた。
「ハムのサンドイッチと……これなんですか?」
テーブルの一つに陣取り、それぞれの昼食を広げていると、スレッタが向かいのグエルが持ってきていたスープに興味を示した。
「アイントプフ。野菜と豆とベーコンのスープだな……お前のは」
スレッタの手元には豆の煮込み料理があった。
「フェジョアーダです。豆と切り落とし肉で作ってます」
その他には丸パンが二つだけである。
「それだけで足りるのか?」
「学生時代より動いていないんで……これで足りるんです」
「……今、何してるか聞いても平気か?」
グエルは慎重に口を開いた。同じプログラムに参加している元パイロットが、仕事をしていないから肩身が狭いと笑い混じりに話していたのを思い出したのだ。
「休学扱いになってます。学校もベネリットグループも再建中で授業できる状態じゃないですし」
そう答えるスレッタはあっけらかんとしている。だが、彼の懸念ではなく、別のところに心配すべきことが転がっていたことに、グエルの心に嵐が吹き荒れた。
CEOに就任したラウダは、学校に残ったカミルや後輩達は。テロや戦闘の中心にあったのだ。無事とは言い切れないはずだ。
重い沈黙を破ったのは、スレッタであった。
「あの、グエルさんは今何してるか聞いても?」
「サルース三十二区の金持ち向けのスポーツジムでバイトしてる」
「高級住宅地近いですもんね。あそこらへん」
どうですか? 仕事。とスレッタは窺うようにグエルに尋ねた。
「機嫌の悪い客とか嫌な上司とかはいないからまあ、悪くはないな。だがロッカールームとか掃除するが、正直ジェターク寮の方が綺麗だった」
どういう躾されてんだ奴ら。グエルは疲れたような目でぼやいた。良く表現すれば頼もしい印象の方が大きいグエルの様子に、スレッタは思わず小さく笑ってしまった。
昼食に手をつけた二人は鳥のさえずりと、ときどき聞こえる他の客の声で構成されたざわめきに身を浸した。無音ではない、だが意味のある音としてとらえられないそれは、不思議と心がほぐれるような心地がする。
「あのプログラムって、いつもあんな感じなんですか」
スレッタのつぶやきは、ポトリと落ちるしずくのようだった。
「そうだな」
ぽつり、とグエルはこぼすように応えた。
「いいです、ね。他の人の体験とか聞くだけでも、自分だけがおかしいんじゃないと思えるから」
サンドイッチを頬張っていたグエルは頷いた。
「俺も、ずっと自分は父さんを殺めた、殺す気でMSのコックピットを攻撃したなんて言ったらどこにもいられないと思ってた……でも、同じような人がいて、言い方が悪いかも知れんが、気は楽になった」
それでも、今は人前で話せそうにないがな。グエルは自嘲するようにわらった。
「私も、まだ話せそうにないですけど」
スレッタの目は暗い沼のようだった。だが、どこか優しい表情をしていた。こういうときの彼女は、自分の母親のことを考えているのだということを、グエルは短くも濃い付き合いの中で知っていた。
「いつか、誰かに話せるくらいになったら、いいな」
柔らかなスレッタの声が、少し肌寒い温度の空気に溶けていった。
いつの間にか中庭にはグエルとスレッタの二人きりになっていた。
フェジョアーダとパン二つを完食したスレッタは、水筒のお茶を片手にくつろいでいた。
プラント・クエタ事件以降凪のようなといっていいほど平穏な暮らしをしたのはいつ以来だろうか。そもそも平穏なんて物心ついた頃からあっただろうか。
そんな時間を偶然共有することになった向かいのグエルに視線を向ける。
恐い人だと思っていた。婚約者だったミオリネの温室で暴れるし、いつも眉間にシワを寄せていた。
でも、父親を愛し、弟や同輩、後輩達には家柄関係なく愛されている人だった。面倒見が良くて、身内が困っていると衝動的に飛び出してしまう人だからだろう。これは戦場で共闘するうちに知った。
なんでいいことなんて何も起こらないのに、私とこんな穏やかな時間を過ごしてくれるのだろう。戦友だったから? それとも私にプロポーズしたことと関係あるのだろうか? スレッタの頭の中に、疑問が炭酸の泡のように湧き出す。
知りたい。その理由を。この人自身を。誰かに背中を押されるように、その衝動は、スレッタの口を開かせた。
「あの、……そういえばウカノ食堂って、知ってます?」
唐突な話題の提供に、グエルは片方の眉を上げた。
「いや。知らんな」
「安くて美味しくてヘルシーだってメディアで見たんですけど……一緒に行ってみませんか? 興味があれば、ですけど」
グエルはスレッタをまじまじと見つめた。全身をガチガチに固まらせて、声が上擦っていた。いつか決闘の助っ人を頼まれたときのことを思い出す。そのときの彼女も、こんな顔をしていたのだろうか。
「オフの日ならいいぞ」
気取らない、穏やかな声だった。少なくとも負担に思われていない。スレッタは胸を撫で下ろした。
「で、お前はいつ空いているんだ」
グエルが端末を手に取り、スケジュールアプリを立ち上げてスレッタの方へ傾ける。その声は、心なしか弾んでいるようにも聞こえた。
次の約束をする、友人にしてはよそよそしく、単なる知人にしては結びつきの強く見える二人を、地球でいう春の花だけが見守っていた。