愛する者への祈り 生温い夜風がそよそよと、谷を渡ってグエルとオルコットの方へ吹いていた。湿気を含んでいてあまり気持ち良くないが、あらゆる物体を焼け焦がすかのような昼間に比べればマシだった。
地球の夏の暑さを避けたため、日暮れギリギリまで軌道エレベーターまでの行程を進めたグエルと案内役のオルコットは、足元が宵闇に飲まれる寸前になってようやく、整備をされなくなって久しい山道から少し離れた森の中の平地を今夜の寝場所に定めた。
寝場所から少し離れたひらけた空き地で、グエルは苔むした倒木に腰掛けて固形のレーションをゆっくりと口に運んだ。人一人分空けた隣ではオルコットがレーションを水で流し込んで食べている。二人がいる場所の少し下方に小さな集落があるらしく、瓦礫の間に作った小屋のような家屋からは優しい光が漏れていた。
二人が食事を終えるころ、眼下の家屋から、次々に人が出てきた。村人たちは瓦礫をどかして作ったような広場の方に向かっていく。子供だろうか。小さな影が飛び跳ね、駆け回っているのが微笑ましい。先導の何人かは手元に明かりを持っており、色からして炎のようだった。
彼らは広場の中央にある構造物の周りに集まった。明かりを持った者が構造物に進み出て何か作業をした。途端に構造物の端に火が燃え移り、あっという間に炎に覆われた。
「オルコット、あの人たちはキャンプファイアーをしているのか?」
地球は物資が少ない。加えてフォルドの夜明けのような武装組織を壊滅させるための掃討戦で、無辜の民まで被害が出ているという。それなのにこんな目立つことをしていいのか。グエルは首を傾げた。
「いや違う。これは送り火といって、この世に来ていた死者たちをあの世へ送り出すためのものだ」
「死者が、この世に来る?」
「この地域のアーシアンは、毎年夏の盛りの一週間くらいに、死者が黄泉の国から胡瓜の馬に乗って家族や子孫のもとに帰ってくると信じている」
「……そうなのか」
初めて聞く風習ということと、どこか荒唐無稽な移動方法に、グエルは戸惑いを隠せなかった。
「こんなに大きく火を燃やしたら、駐留部隊に見つかるんじゃないのか?」
「駐留部隊の探索は暗視装置を使うから意味がない。それに、物資の節約よりも死者を弔いたいという気持ちの方が大きいんだろう」
集落の方からグエルたちの方へ吹いてくる風に、節のついた抑揚のない歌のような音が乗ってきている。
「この音は何なんだ?」
「お経というものを読んでいるらしい」
「お経?」
「地元のアーシアンが信じる教えをまとめたものだ。唱えることで死者の供養につながるんだそうだ」
「……くわしいな。あんた」
グエルの声には、驚きと、疑わしさをなんとか軽くしようとしているような調子があった。死後の世界など興味がなさそうなこの男が、このような風習に詳しい理由がグエルには見当がつかなかった。
「活動拠点の風習を知っていた方が、任務の遂行にしろ生活するにしろ、地元住民の理解を得やすくなる」
「そういうことかよ」
ある意味オルコットらしい返答に、落胆に似た安心感をグエルは感じた。そういえばこの人はテロリストだった。
影絵のような木々の間から見える頭上の紺碧の空には、銀の粒を撒いたような星が、慎まやかに光っている。この星々のどこかに、たった一人にしてしまったグエルの家族がいるはずだった。
「あの世からこの世に帰ってくるってことは、父さんもラウダのところに帰って来ていたのかな」
そう、問いとも独り言もつかない呟きをこぼしたグエルの声は、諦念に満ちていた。真っ当な思考で考えたら、下手人のところにわざわざ殺された者が、帰ってくるはずはない。
だが、かつて父親だったオルコットは思う。もし自分が息子の代わりに死んでいたとしても、息子が生きてさえいれば、いい最期だと思って死ねただろう。ろくでなしのスペーシアンの筆頭であるヴィム・ジェタークも一人の父親だ。きっと同じことを考えていただろう。
オイルランプの明かりに照らされたグエルの顔は、親の帰りをひたすら待つ子どものように幼く心細げにも、生きるのを諦めた実験動物ようにも見えた。オルコットの胸に訳のわからない憤りが湧いた。今のグエルくらいの自分は、もっと無鉄砲で、無邪気で、自由だった。かつての自分と同じくらいはのびのびしても許されるだろうと、自分たちがグエルの父親を殺す原因を作ったくせに思った。
「……お前のところにも来ていたかもしれないぞ。心配で」
「……あんなことがあったのに?」
グエルはハハッと乾いた笑い声を上げた。本当に自分のもとに帰っているとしたら、呪い殺すためとしか思えない。そう信じてやまないグエルにとって、オルコットの意見は冗談だと言われた方がいっそマシだった。
「親っていうのは自分の子どもってだけで死ぬまで気にかけるもんなんだよ……っていうのを聞いたことがある」
オルコットの声には、揺るぎない太い柱のような芯があった。彼の持論は罪悪感と自罰意識の荒野と化したグエルの心に恵みの雨となってじわりと染み込んでいった。
あんな、実の息子の手にかかって死ぬなんていう忌々しい最期でも、俺を愛してくれているだろうか。もし、本当にあの世からこの世に帰ってくるというなら、俺の元にも帰ってきてくれるだろうか。呪うためではなく、様子を見るとか、優しい理由で。
いつの間にか眼下の集落の送り火は小さくなっていた。
死後のヴィム・ジェタークが、息子で下手人であるグエルの元に帰ってくるかということは、いくら考えてもヴィムではないグエルにはわからないことである。そもそも、死者があの世から帰ってくるということ自体、根拠のない考えだ。
それでも、今のグエルには、もし、本当に死者がこの世に来るとしたら、父は自分のもとに帰っていたのかもしれないと思えていた。
すぅ、とグエルは息を深く吸った。
夏の最後の薔薇が
一輪咲き残る
愛する仲間はすでに
散って枯れ果てた
グエルの声帯から、歌がこぼれ出た。集落のアーシアンのように信仰をもたないグエルには、読むべき経典もない。なら、帰ってきているであろう父を送るには、歌がいいだろうと思った。
青年の少しかすれた歌声は、木々の間に優しく響き、夏の生温い空気に溶けて消えていく。世間から隠れて行動しなければならない身なのに、歌を歌うなどその方針に逆らう行為ではないかと、オルコットは懸念したが、風向きが山頂へ向かっているということ、山中に人の気配がないということ、なにより歌の心地よさに、静止することを止めた。
やつれた君を一人
残しはしないさ
眠る愛する者の
元へ行き、眠れ
大切な家族を亡くした二人には、心の柔らかいところにしみる歌詞である。
だが、安らかに眠ってくれ、俺もすぐに行くから。グエルがそう亡き父に語りかけているように思えたオルコットは眉を潜めた。冗談じゃない。後を追うなんて考えるな。お前は自分のための幸せを掴みに行く歳だろう?
ああ、独りで住めるか
侘しい世界で
グエルは口を閉じた。その横顔は、どこか遠いところに焦がれているようで、オルコットの胸の内に嫌な感触を生んだ。
「歌い終わったんだったらリクエストしたいんだが」
オルコットは平静を装って歌い終わったグエルに依頼した。
「いいよ、俺の知ってる歌なら」
なんて曲だ? そうきき返すグエルの声は弾んでいる。頼られて嬉しいのだろう。歌い終わったときにあった影のようなものは薄まっていた。
「ユー・レイズ・ミー・アップ」
「わかった……いい曲だよな、それ」
グエルは息を整えると歌い始めた。頭上の木の枝が歌に合わせているかのように夜風に揺れている。青年らしい暖かい歌声の主は、先ほどの歌のときとは違い、穏やかな顔をしている。
そんな彼に満足したオルコットは、ゆっくりと体の力を抜いて歌に聞き入った。
いつになく穏やかな様子のオルコットを視界の端に捉えたグエルは、この人にも、この歌を送りたい誰かがいたんだろうかと考えた。軌道エレベーターへの道行きを通して、グエルにとってオルコットは、ただのアーシアンではなくなっていた。
俺が祈る筋合いはないかもしれないけれど、この人の大切な人が、安らかでありますように。
祈りの乗ったグエルの歌声は、あらゆるものに滲み入るような深みが増した。
集落の送り火は小さくなったが燃え続けており、読経も風に乗って登ってきている。
愛する者への祈りを、天上の星が瞬きながら聴いていた。