コウノトリ、続き 次第に明けてきた視界に何度か目を瞬かせた。見覚えのあるそこは、暮らし慣れた自分の部屋。お気に入りの絵本が読みっぱなしで置かれているし、昨日抱いて寝た黄色の体の鯛のぬいぐるみがまだ枕の横で寝ていた。時計が示しているのは『出掛けて』から五分ほどが過ぎた時間。
身体に異変はない。何もかも問題はない。指輪はもらえなかったけれど、謝る勇気は若かりし頃の母からもらった。よし、とひっそり気合を入れた時、部屋のドアがノックされる。母だ。直感して、一度深呼吸をした。
「はい」
「おかえりなさい」
思わず、えっと声が漏れる。母からしたらずっと部屋にいたはずなのに。いや、そうか、お手洗いだ。着地点の座標を間違えた。母の監視から逃れてお手洗いから時間を跳んだんだった。失敗した、と言うのが空気に出てしまったらしい。気付いたらしい母がドアの向こうでふと笑った。
「開けてもいいですか」
「はい……」
ああ、もう言い逃れはできない。いや、そもそも言い逃れなんてできるはずがないのだ。だって、さっきまで一緒にいた母はここにいる母の過去だ。何が起こったのかも総て知っている。よく考えたら、過去の母から指輪をもらっていたとしたって、その事も現在の母にはバレてしまうのに。自分の浅慮を呪いながらドアを開けた母を見上げた。
「まったく。お転婆なんだから」
「あ、あの、おかさま、ごめんなさい、わたし。大事な指輪を、なくしました。ごめんなさい……」
焦って言い募った言葉は勢いを失って言葉尻が小さくなる。黙って聞いていた母は最後まで聞き終えると少しだけ眉を寄せた。
「指輪なんていいんです。あなたが無事なら」
言いながら伸びてきた指先にじんわりと視界が歪んで、たまらなくなってその胸に飛び込む。大好きな母の匂いを思い切り吸い込んで、もう一度ごめんなさいと謝った。
さて。ここでハッピーエンドであるならばどれほどよかったことか。イデアは手にしたソファに座って、組んだ手に額をよせて冷や汗をかいていた。
娘がなくした(と思っている)指輪はすぐに見つかった。それはそうだ。だってあれはアズールにあげるためにイデアが自ら錬成した特別製の魔法石だ。イデアの魔力が多く込められている。いついかなる時も彼の力になれるように。そんなもの家の中でなくそうが遠い地でなくそうがすぐに見付かるのだ。とは言え、幼い娘はそれを知らない。
焦って過去に跳ぶなど、我が子ながら天才でしかないな、などと。感慨に耽っている場合ではないのだ。一通りの騒動を終え、訪れた夜の中で寝室のドアが開くのがこれほどに怖いとは。いっそ過去に逃げてしまいたいと現実逃避をしかけた時。
「イデアさん」
怒りを湛えた低い声と共にドアが開く。思わずひっと喉の奥が引きつった音を立てた。静かなこの空気は激怒レベルのそれ。もう何年も連れ添う中で何度か見た表情にたじろいだ。
「ああああの、ごごごめんそのわざとじゃ」
「まず」
先手必勝とばかりに差し出した謝罪が一刀両断で切り捨てられる。
「時間演算装置の件。トラブルの元になるから造るなと言ったはずです」
「い、いやあの、違うもの造ってたらその、できちゃったと……言うか……」
確か、最初は仕掛け時計を造っていたのだ。娘曰く、海でも動く仕掛け時計を祖父母にプレゼントしたい。ならばと造り始めたはずだったのが、単なる仕掛けではつまらない、じゃああれもこれも、と搭載している間に、気付いたら出来ていた。これだから天才は。今これを言ったらマジギレされるだろうから寸前で飲み込んで、すみません、と小さく呟く。
「それから。部屋のドア」
来た。今回の激怒ポイントはどちらかと言ったらこちらが本命だ。
夜のベッドでやめてと泣いていた母の姿と言うものを目撃してしまった娘の衝撃たるや。そしてそれを突き付けられた過去のイデア達の羞恥たるや。あの悲劇を二度と起こさないように、ドアの鍵は絶対にちゃんとかけてから、行為に及ぼうと約束をしたのに。あの日だけ、本当にあの日だけピンポイントで鍵をしなかったのだ。
だって、直前まで怖い夢を見ていたと泣いていたから。もしかしたら夜中にまた目を覚ましてしまうかも知れない。そんな親心で開けておいたドアのことを、その日珍しく、本当に珍しく乗り気になったアズールが、滅多にないようなお誘いをしてくるものだから。
「鍵忘れました……」
煽られてその気になって、何ならとても盛り上がって、鍵のことなんてすっかり頭のどこかに飛んでいってしまった。そんな時に限って、イデアの心配の通りに目を覚ましてしまった娘が部屋を訪問していただなんて。
深い溜息を吐いたアズールの様子をちらと伺ってみる。思ったよりも怒ってはいないようだ。どちらかと言うと、呆れている方が近かった。
「鍵がかかっているかどうかは僕も確認しなかったのが悪いので責めるつもりはありません」
「あ……そうなの」
「装置の件は怒ってます」
「それは本当にすまんかった」
少しだけ茶化してみれば、ふと笑った横顔が思いのほか柔らかかったものだから。ふー、と肩の力を抜いてソファに凭れた。隣に腰を下ろすアズールを広げた右腕の中に受け入れる。
「緊張してました?」
「してた。めっちゃキレられるかと思って」
「まあ……いつか起こるであろう事は分かっていましたからね。イデアさんが演算装置を造らずとも、あの子が勝手に造っていたかも知れませんし」
「あー……有り得るんだよなあ……」
完成はしないだろうけれど、有り得ない話ではない。未完のものを父の元に持って来て、これはすごいここをこうしてそうしたら完成するに違いないとか何とか言って、結局造ってしまう風景が見えた気がした。
「もう緊張とけました?」
「まあね」
「そうですか。それはよかった」
「何? 何か含みのある言い方だね」
どこか不自然な口調に首を傾げる。嫌な話、と言う感じではないけれど。遠回しな雰囲気に眉を寄せた。ふふと笑った唇がイデアに寄せられる。柔らかなそれを素直に受け入れて、アズールの体温を抱き締めた。
耳元に近付いたその唇が悪戯に告げた一言に、思わず抱きしめる腕に力を込めてしまったのはどうか、許して欲しい。
「ふたりめができました」