本当の願いはたったひとつ 嬉しくなかったといえば、嘘になる。
「好きよ。貴方が好き」
そう切実な声で告げられた瞬間、大きく心が揺さぶられたのは、違えようのない現実だった。
喜びに胸が満ちる。それと同時に、張り裂けそうなほど痛かったのもまた事実。
その想いに応えたかった。けれど、応えるわけにはいかなかった。
きっと、父は喜んだだろう。ようやっと厄介者に使い道ができた、と。これまで臭いものに蓋をするように扱ってきた息子を、さも昔から可愛がってきたといわんばかりに胸を張ってみせたことだろう。
そう容易く想像できてしまったことが、きっとなにより許せなかった。
認めて貰いたい。そんな風に思っていた過去を否定はしない。
認めて貰いたかった。その目に映してもらいたかった。必要とされたかった。
されど幼い想いは今に至るまで果たされることはなく。弟が生まれたその日に、そいつは憎しみと憤り。それからやるせなさへと姿を変えた。
駒になんかなってやるものか。煌びやかな屋敷の隅の隅。使用人の部屋とそう変わらぬ小さな一室で固めた決意は、ひどく頑是ないものであっただろう。
されど、それがあの頃の自分を支える一つの信念だった。
貧しくとも幸福ではあった母親のもとから引きはがされ、下賤だとさげすまれ。それでもあの場で生きていかなければならない己を、奮い立たせるただひとつの決意だった。
駒になんてなってやらない。
利用してやるんだ。
あの男が、自分をそうしたように。
利用して、かつての生活では手に入らなかった知識を得、そうして最後にはこちらからその手を払い捨ててやればいい。
これは、復讐だ。
すべては、本来であれば叶わなかった夢をかなえるため。ひいては、いまもまだ貧しいあの家で、ひとり自分の帰りを待つ母のため。
心に決めたことだった。
どれほど辛くとも、苦しくとも。揺らがぬ決心が踏みしめる地盤を固くした。生きていけた。
そうやって、夢かなうその瞬間まで、生きていく――その、つもりだった。
「ねぇ、貴方はどう?」
私のこと、ほんの少しでも好き?
重ね問われる言の葉に喉が引き攣る。
ああ、好きだ。俺も、お前が好きだよ。
そういって、小さく震える華奢なその肩を、できることなら抱きしめてしまいたかった。
――そんなこと、できるはずもないけれど。
浅ましい自分を戒めるよう爪を立てたはずの手のひらは、たいして役に立ちやしない。
いまだうまく吐くことのできない息を呑み、唇を噛み締める。うるさいほど脈打つ心音を上辺だけ宥めて、静かに一歩足を後に引いた。
形だけの深呼吸をひとつ。
「楠葉様なら、幸せにしてくださいます」
紡ぎ出した言葉に偽りはなかった。
そうだ。あいつなら――楠葉なら、彼女を幸福にしてくれる。
彼女と共に幸福になることができる。
ずっと、傍らで二人をみてきたのだ。
あの不器用なまなざしがいったい誰に向けられているか、なんて。いわれるまでもなく、わかっている。
似合いの二人だ。身分だって申し分ない。
異分子なのは自分だけ。もとから、居るべき場所ではなかった。それだけの話だ。
もとより、そのつもりだったじゃないか。予定通りじゃないか。
誰よりも信頼のおける相棒と、何よりも愛しい彼女が結ばれる。それを誰よりも近い場所から祝福することを許される。
願ったり叶ったりだ。その傍らにできることなら自分も一歩引いたところで立たせてもらいたかったけれど。
残念ながら、現実はそううまく回らない。
仕方のないことだ。
不相応。身の程をわきまえろ。卑しい子。
母のもとから引きはがされ、この場に否応なしに立たされてから、幾度となく浴び去られてきた言葉が、いまようやっとその実をなす。
ああ、その通りだ。
卑しい子さ。身の程はわきまえている。
だから、いくらその肩を抱きしめてやりたくとも――想いに、応えたくとも。その道を選びはしないのだ。
別に、悪意を持って囁いていたどこの馬の骨とも知らぬ他人のためじゃない。
すべて、彼女のために。彼のために。
きっと、あいつは怒るだろう。余計なお節介だと憤るに違いない。
でも、それでいい。それで、いいのだ。
怒りをぶつける先をなくしたあいつの傍に、彼女がいてくれれば。
震える彼女の身体を、そっと抱きしめて慰めるあいつがいれば。
ただ、それで。
「――そう」
生まれた距離に追いすがる手はない。
力なく宙をこぐ白い手が妙に目についた。
俯いたかんばせが、ゆったりと持ち上がる。いつだって意志の強い色を携えた眼はそこにはなく。ただ寄る辺なく揺れた眼差しが、涙を湛えてこちらを見ていた。
「わかったわ。とても、よく」
鈴の鳴る音に似た声が、ささやかに鼓膜を振るう。
口端を不器用に持ち上げながらもほろりほろりと頬を流れる雫を拭いもせずに目を細めた彼女は、ただそのひとことだけ告げて、こちらに背を向けた。
「リシャ」
足早に扉へ駆ける彼女の名を、久方ぶりに口にする。
呼びかけに足を止めた彼女は、それでも振り返ることはしなかった。
息を吸う。
肺が痛む。
いつのころからか、ずいぶんと華奢に見えるその後ろ姿を網膜へ焼き付けて。
「幸せに、なってほしいんだ」
そうしてひとこと。在りし日の口調のまま、言葉を紡いだ。