切り落としたもの
長かった髪を切り落とすと、少しだけ肩の荷がおりた気がした。
錯覚だ。
実際、そんなことあるはずもない。
ただ、自分を構成する一部を切り離したことで、頭が軽くなった。それだけ。
そこに他意はない。けれど、いつだったか。失恋したら髪を切るのが市井でははやっているらしい――と、いつだったか茶会の片隅で囁かれていた言葉を思い出すには十分すぎる実感だった。
まことしやかに囁かれていた流行が、果たして嘘か、誠か。事実を知るすべはない。
それでも、あぁ確かに、と。安堵とほのかな焦燥感が喉を昇り吐息となって静寂に落ちた。
「イリーシャ様」
丁寧に三度響くノック音とともに届けられた呼びかけに、知らず下げていた視線をもたげる。
扉越しに聞こえてくる声は、聞きなれた響きよりも幾分と硬いままだけれど。きっとそれもいつかはこの耳に馴染んでいくのだろう。この軽い頭と共に。時間の流れとは、多分。そういうものだ。
「どうぞ」
「失礼いたします」
入室の許可を渡せば、重々しい音を立てた扉の向こうから見慣れた緑が顔を覗かせる。
恭しく下げられた頭が扉の閉じる音に遅れて顔をあげれば、ガーネット色の双眸が微かに見開かれた。
ちいさく息を呑むんだのは、きっとお互い様。
「似合うかしら」
ごまかす様にお道化て問えば、わずかに虚空を彷徨った眸がひとつ瞬きを落とした。
感情の読めない眼差しが、それでもわずかばかり眦をさげるのを見止める。
きっと、問う必要などどこにもなかった。
ただ、長く伸びた髪を切った。単なる気まぐれ。それだけの行為に、驚く必要などどこにもないのだ、と。そう示そうとして――切り出し方を、間違えた。
一歩。二歩。ひどく緩慢な足取りで距離をつめた彼が、手を伸ばす。優しい指先が触れるか触れないかの距離で短く切りそろえた毛先を撫ぜて。されど結局指に絡めることなく宙をこいだ。
「……えぇ、似合っています」
とても、似合っている。噛み締めるように繰り返された賛辞は、どこか懐かしい。
まっすぐで。偽りのない。彼らしい言葉だ。
ほぅと微かに安堵を含めた息を吐く。またひとつ肩の荷がおりる心地を覚えながら身を翻せば、ふわりとドレスの裾が空気を含んだ。
追随する毛先はない。代わりに首筋を擽るそれを煩わしく払う。
『似合っている』
望んでいた通りの返答だ。
それ以外の言葉を受け入れるつもりは、てんでなかった。
それでも――だからこそ。
似合っていない、と言ってほしかった。
慰みに似た愚かな行為を、どうか咎めてほしかった。
長く、長く。髪を伸ばしていた。その理由を、知っているのはもう彼だけだから。
どれほど、手をかけて整えていたのかを知るのは、あとにも、先にも。彼しかいないのだから。なんて、ひどいわがまま。
「そう。なら、よかったわ」
なんてことのないように。努めて明るい抑揚をつけて言い放つ。
今度は、返る言葉もなかった――返せるような、言葉を思いつかなかっただけかもしれない。ただ、光を取り込む大きな窓に身を寄せた私を追う足音はなかった。
そのことに少し胸を痛めながら、口端を誰に見せるでもなく持ち上げる。
手を伸ばし、窓に浮かんだ己に指を這わせた。
肩のあたりで切り切りそろえられた毛先。ただ、短くなっただけだ。色も、髪質も。なにも変わらないはずなのに、胸へ宿らせた感情と共に切り捨てた『それ』はすっかり変わってしまったように見えて仕方がなかった。
綺麗な髪だな。そう、褒めてくれた言葉を、彼はきっと覚えていないだろう。
日に透けて煌めく様子が好きだ、と。そう言ってくれたことすら。
けれど、もう。ここに彼は居ないのだ。
残されたのは、草臥れた団服と。それから、短い拒絶の言葉。
それが、すべてだった。
それしか、残してくれはしなかった。
ほぅとひとつ。吐いた息が窓を白く染める。
冷たく変わった『それ』を指の背で拭い窓越しにみた二人きりの部屋は、やっぱり随分と歪で――どうしたって慣れそうになくて。とても見れたものじゃなかった。