優等生と問題児
はじめてその男と相まみえたときに覚えた感情は、いまでも胸に残っている。
月のない夜だった。
ほぅほぅと鳴く夜鳥に見守られながら、夜回りの任にいそしんでいたところ、風が押し殺したような笑い声を運んできた。ついで、侮蔑と苛立ちを含んだ声も。
ままあることだ。
年頃の男が、親元から離れ。ひとところに押し込まれ。日夜厳しい訓練と決まりに戒められてしまえば、ストレスなんてものは溜まる一方で。それが、気位ばかりが高い家のものであれば、尚のこと。
その捌け口を求め、暴力に堕ちる。そんな輩はここで過ごすまだ短い間にも数人みてきた。
それが、双方から震うものなら、まだいい。
喧嘩両成敗。懲罰は一週間の清掃。それから、行動の制限。話はそれだけで終いだ。
けれど、狡猾な奴らは懲罰を避けるために、弱者に拳を震う。それも一方的に。抵抗など、できぬよう複数人で取り囲んで。
今しがた耳に触れた風の知らせも、おそらくその一環だ。
で、あるのならば、夜回りを任されたものとして。否、自分自身を支える信念に背かぬよう、見逃すことはできない。
息を吹く。
宵の闇に色なく消えてゆくその尾を掻き開き、どうやら隠す気はもっとうなさげな声のする方へと足を向けた。
角をいくつか曲がった先。
宿舎の狭間。ちょうど影にあるその場所に広がる光景は、想像していた通りのものだ。
随分と、暴力に慣れている奴、と。まずそう思った。
振るい手でなく。矛先を向けられる相手の方が。それは随分と貴族らしくない姿であった。
主に貴族の令息――一部の例外を除いた次男坊や、三男坊。いわゆる跡取り以外の令息が落ち着く場所である騎士団に、長男でありながら放り込まれた男。
礼儀作法を身に着け、それから鍛錬を積むために、と名目上並べられた言葉は、所詮紙面の上だけのもの。噂など、いくら気を配ったって簡単に触れ回る。それが、雇人の多い屋敷なら尚のこと。
だから当然。その男に関する噂を耳にしたことがあった。
社交の場で。身を置く学び舎の片隅で。
もちろん。先刻までしきりに男を罵倒し、殴り。ぬくぬくと育てられてきただろう屋敷とは異なる環境で溜まるフラストレーションの捌け口にしていた輩のように、噂だけで男の人となりを判じるような愚かな行いをするつもりはなかったけれど。
「多勢に無勢は確かに実践的ではあるが、無抵抗の相手に拳を震うのはいささか騎士道に反するのではないか」
努めて平坦に。胸の内に沸いた感情を理性だけで喉元に押し殺して言えば、あっけなく散ってゆく同僚の背を目に焼き付ける。
爵位を持たぬ家のものだ。
どうせ、噂の男――庶子でありながら、伯爵家に迎えられたこの男が。自分よりも身分が低いはずの存在が、己のよりも高い位置にいることが、気に食わない。本来、庶民であるのなら、身分の高い自分がいくら彼を殴ろうと。憤りの捌け口にしようと。咎められることはないだろう。
そう、考えたに違いない。
それも、ひとりではなく。複数人。
まったく。くだらない。
本来、騎士とはだれかを守るべき立場の基盤であるべきだというのに。嘆かわしいことだ。
短く嘆息を吹く。微かな呻き声に彼方へ向けた視線を男へ戻せば、ゆらりと深紅の髪が夜に揺れた。
「慈善活動とは、優等生サマはお忙しいな」
吐き捨てられた声は、どうにも自嘲めいていた。
まるで、余計なお世話なと言わんばかりの声音に、押し殺したはずの苛立ちが募る。
残念ながらその激情に似た感情を、再び飲み下せるほど自分は大人びても、できた子供でもなかった。
優等生サマ。今しがた言われたはずの仮面はあっけなく剝がれ落ちる。
見せつけるような大仰なため息をひとつ。苛立ちに混ぜて夜に吹く。
訝しげに顰められた眉がいっそう深く眉間に皺を刻むより先に、その胸倉を掴んだ。
はた、と光を宿さぬ眼が瞬く。ついで、見えたのは諦観の色で。それがまた胸に沸いた怒りを増幅させた。
「一言目が皮肉とは。どうやら貴様も騎士団の教えが行き届いていないらしいな」
「ハッ! 誰も助けてくれなんて言ってねぇだろうが」
先までおとなしく暴力に甘んじていた姿はどこへいったのやら。
それを余計なお節介と言わずしてどうする。吐き捨てられた台詞が間近で悪意を爆ぜさせる。
男の憤りは、もっともだった。彼からしてみれば、理不尽な暴力を振るう輩と自分はきっとそう違わない。
一方的で。利己的で。押しつけがましい。お貴族サマだ。優等生サマだ。それこそ。
そう、自覚があるからいっそう怒りは、増幅の一途をたどる。
「いいだろう。なら、その腐った性根、叩き直してやる」
その憤りの捌け口を探すように、胸倉を掴んだ手を押し離す。よろめいた男の身体は、されど壁に触れるより先に芯を持った。
ペッと吐き捨てられた痰は多分、彼が胸に宿した憤りの一片だ。なんだ。騎士の風上にも置けないだなんだいいながら、アンタもあいつらと同じかよ、と。続く言葉がそれを証明している。
聞き捨てならない台詞だった。
でも、仕方のないレッテルであるとも思った。
ふつふつと沸き立つ感情を、今度こそ努めて深くした呼吸で均す。
剣呑な眼差しに同じ色を持って応えれば、どことなく楽しげにその口端が持ち上げられた。
「それで? アンタはどう俺を叩き直してくれるって?」
剣も持たず。抵抗もしない相手をタコ殴りにするか。それとも、部屋に戻さずここで過ごすことを強要するか。ああ、訓練と称して食事でも制限させるか。家畜以下の分際にやる餌は勿体ないらしいからな。
並べたてられた案はすべて、彼自身が身をもって味わっていた『躾け』なのだろう。実に、嘆かわしいことだった。
皮肉めいて吐き捨てる男の姿も。彼にそんなことを強要した輩の存在も。
三度腹を煮やす感情に口を噤んだまま首を振る。それは、不思議と、先ほどまで胸に掬っていた激情とは別の色をしていた。
同情。哀れみ。おそらく彼が望んでいないだろう感情が一瞬思考を霞め、されど実を結ぶことないまま、腹とは相反してどこか冷静になっていく脳が結論を叩きだす。
腰に差した見回り用の木刀を抜き取り、男に放って渡した。明かりも差さぬ闇の中にいてもなお、憎悪を帯び続けていた眼差しが僅かに揺らぐ。それでも難なく木刀を手にした男に背を向けその場にしゃがみ込めば、一呼吸で彼の纏う空気の剣呑さが鋭さを増した。
馬鹿にしているのか。そう言わんばかりの殺気に、嘆息を落とす。
「怪我人をいたぶる趣味はない。貴様の性根を叩き直すのは、その傷を癒してからだ」
「は?」
「大体、貴様は気にして止めていないだろうが、俺は今日の模擬試合で散々お前にしてやられたんだ。その再戦――もとい、仕返しくらいは許されて然るべきだろう」
大方、彼に暴力を振るっていた輩も皆、昼間に行われた模擬試合での鬱憤を晴らしていたのだ。たとい、それが褒められた行いではないとはいえ、気持ちは多少なりともわかる気がした。
圧倒的な力を持つ彼の視界に、自分はひとかけらも存在していない。歯牙にもかけない。そんな存在に思われている。そう思うと腹の煮える思いがする。腹立たしくて。憎らしくて。仕方がない。
「おい、まて。なに言って」
「いいから乗れ。立ててはいるが、どうせ肋骨の一本や二本折れてるんだろう」
焦れて振り向く。肩を怒らせた男は、けれどすぐに息を詰め、わずかに眉を顰めた。
細く。長く。吹かれた呼気に指摘はあながち間違っていなかったと人知れず安堵を落とす。
と、思えばふつりと空気中に張りつめていた何かが切れ、弛んだ。怪我人にしては雑な足音が数歩聞こえ、ついで背に感じた衝撃が視界を微かに揺らす。
「アンタ、融通の利かない生真面目なタイプかと思えば、随分と馬が合いそうだ」
アンタみたいなやつは嫌いじゃない。なんて、賛辞にもならない言葉。打って変わって随分と楽しげな声がくつくつと耳朶を叩く。ずっしりと預けられた体重に、少しは遠慮を持てだなんだ零したところで、所詮は自分が蒔いた種だ。機嫌よく響いた笑い声が、結局またすぐに苦悶の息を絞り出すのに、ほらみたものかと鼻先で笑って、反省文はしっかりかけよ、と。お望み通り、初めに張られたレッテルに相応しい台詞を解いてやった。