手放したくて、手放したくないもの 自慢の息子ですよ。
そう男が言うのを頭の隅でききながら、浮かべた柔和な笑みの内側でしらじらしいと嘲笑う。
なにが、自慢の息子だ。
なにが、できた息子だ。
そんなこと、微塵も思っていないくせに。
そんなこと、考えたこともないくせに。
お前が認める息子はただひとり。正妻が産み落とした弟だけだろう、と。吐き捨ててやりたい気持ちを飲み下すことには、すっかり慣れきっていた。
その自慢の息子とやらを、使用人よりもひどい部屋に――物置小屋同然の部屋に住まわせているのは、どこのどいつだ。よくもまぁのうのうと思ってもないことを言えたものだと思う。一体全体、男の面の皮はどれほど厚いものなのか。一枚一枚剥ぎ取って確認してみたいくらいだ。
並びたてられた賛辞のうち、どれかひとつでも直接言われたことはあっただろうか。そんなことを考えようとして、やめた。
思い返さずとも、答えは明白だ。
いくら勉学に励もうと優秀な成績を収めようと。なれない礼儀作法を身に着け、披露しようと。
最年少で騎士団長の座に上り詰めたって。それらはすべて、当然のこと。むしろ、責務であるとでもいうように。男から褒められた試しなど、ただの一度だってない。
ずっと、そうだった。
いまさら、期待などしてやらない。
認めてほしいと思う気持ちすら、とうの昔になくしてしまった。
しきりに耳朶を叩くざらついた男の声に、ほんの少し息苦しさを覚える。
それを表に出さず。ただ静かに微笑む術を身に着けた自分は、果たして成長したといえるだろうか。
きっと、友らはくだらないと鼻で笑うに違いない。
もしかしたら、怒りをあらわにしない自分の代わりに、憤ってくれるかもしれない。
ああ、それだけは、ここに――こんな、歪で汚らわしい世界に連れてこられてよかったと言える。
唯一無二の、友を得た。
守りたいと、そう思える相手ができた。
だから、きっと。男に認められたいだなんて愚かな考えを持たなくもなったのだ。
男に連れられた時には、考えもしなかったな、と心の内だけで幼い自分を嘲け笑った。
気づかれぬよう、細く息を吐く。
相も変わらず、賛辞が耳を滑った。微塵も心に響かぬ上っ面だけの言葉に、果たして意味があるのだろうか。
きっと、あるんだろうな。自分が、わからぬだけで。道具には理解する必要などないのだと暗に言われているだけで。
まったく。どこまでも都合よく『息子』という存在を使ってくれるものだ。
――最初から、ゴミを見る目でしか、見なかったくせに。
今すぐにでも吐き捨ててやりたい言葉を、唾と共に喉へ流し込む。
気を紛らわせるように少しばかり、思考を明後日にやったはずなのに。ふと脳裏をよぎる記憶は、どうにも思い出したくもない過去のはじまりだった。
薄汚れた下町の一角。母と貧しいながらも幸福に暮らしていた、あのボロ屋に土足で踏み入ってきたかと思えば、有無も言わさず母のもとから引き剥がされたのは、もう随分と昔のことだ。
父と名乗る男は、その場にいなかった。
ただ姿も見たことのない父の使いだという、小綺麗な見た目をしていた初老の男は、これは大変光栄なことなのだ、と。まるで自分事のように朗々と母と幼い自分に語って見せた。
優雅なしぐさは、下町のどこにいたってなじまない。
それはとても高貴なものに思えた。
物珍しさもあっただろう。少しだけ、期待していたのもある。
ほかでもない。父だという人が、よこした者だ。
迎えに来てくれたのだ。ずっと待っていた。自らの足ではなかったけれど。
仕方のないことなのかもしれない。偉い人なのだ。自分なんかが想像もできないほど、やらなければならないに違いない。
でもこれで、母が苦労せずに済むと思った。
女手ひとつ。こんな薄汚れた下町で子を育てる苦労は、幼い自分が計り知れたものではなかっただろう。
それが、ようやっと。報われる日が来たのだ。
迎えによこした者の身なりから、これからの暮らしを夢想するのは易いこと。
だのに、つま先から、手先までさも貴族然とした男は、朗々と語りを終えたかと思えば、先までの丁寧な振る舞いが嘘のように粗雑にこちらの腕を引いた。
いまの今まで浮かべていた恍惚と酔いしれた表情が、まるで嘘のように。心底汚いものを見る、侮蔑した眼差しで。
肩の骨が抜けんばかりに腕を引かれて、息が止まる。
くしゃりと痛みに顔をゆがめた自分に、いち早く動いたのは母だった。
迎えの男から自分を庇い立ち、腕を広げては、すぐに頭を下げる。土足で踏み荒らされた床に額を擦り付ける勢いで頭を下げた母の声を、自分はこの先忘れることはないだろう、と。どこか他人事のようにそう思った。
事実。いまでもあの日の母の声が。言葉が。耳にこびりついている。
やめてください。連れて行かないでください。私には、もうこの子しかいないのです。この子だけが、宝なのです。
発せられたその悲痛な叫びが持つ意味を、正直言って一から十まであの頃の自分は理解することはできなかった。ただ、いつだって気丈で。優しく、どんな時も背筋を伸ばし立つ。たくましいはずの母が見せるその姿が、なんだかとんでもなく恐ろしく感じた。
ああ、そうか。母を連れていってはくれないのだ。この男は。
遅れてそう気づいたのは、迎えにきたという男が懇願する母を乱雑に足蹴にしてからだった。
ガラガラと部屋の隅に積まれた薪が音を立てて崩れる。反射的に視線が音の元を追いかけて、埋もれた母の姿にひゅっと喉が鳴いた。
慌てて駆け寄ろうにも、腕を掴んだ男がそれを許さない。
それどころか、母を放って家の外へ歩き出すものだから、渾身の力を振り絞って暴れるしか抗う術はなく。そのなけなしの抵抗すら、男には痛くもかゆくもないようだった。
ひょいっと首根っこを掴まれ、雑に馬車の中に放り込まれる。
背と後頭部に衝撃が走り、くらりと眩暈がした。
息が一呼吸分とまり、顰めた眉の所為で狭まった視界に、母が懸命にこちらへ手を伸ばすのが見える。
応え、腕を伸ばしたところで、無慈悲に扉は閉ざされて。男が母を罵倒する声を残し、馬車は走り出した。
母の姿をみたのは、それが最後だ。あれから、もう数年。いまではあんな初老の男など片手で捻り上げられるほどの腕力を手に入れたというのに、自分はいまも父という血が半分繋がった他人の腕の中から、逃れられずにいる。
母は、知っていたのだろう。
父という男が、どういう者なのか。
そりゃそうだ。
主人と下働き。愛し合った末、身分がふたりを隔てた――なんて、おとぎ話のようなことなどなく。
母は、あの男に無体を働かれ、その夜のうちに屋敷の外へ捨てられたのだから。
本妻の怒りを買わぬように。噂を立てられぬように。
さも、使い捨ての道具かのように。
そのくせ、昔、まいた種が発芽していてよかったなどと、下町で聞くよりもよっぽど下卑た笑い声が、どことなく自慢げに口にしていたのを聞いたことがある。
そんな醜い男を、父などと、思いたくなかった。
でも、お前が役に立つうちは、母に苦労させないといわれてしまえば、抗うことなどできやしなかった。
母のために、男のお眼鏡に叶う存在でなくてはならない。
その一心で生きてきた。母のため。母にできるせめてもの償いとして。気に食わぬ男にも。侮蔑の眼差しでしか、己を見やしない、本妻にだって。認められるように。『息子』という存在に、なれるように。
だのに、結末はなんとも無残なものだ。
偽りの息子は、ほんの数年で終わりを迎えた。
なにも、変わったことがあったわけではない。子を成せぬと思ってた本妻に、子供が――自分にとっては異母弟といえる存在が、生まれたのだ。
跡取り息子としてまがいなりにも教育を受けていた自分の役目は、その時点であっけなく終幕を迎えた。
で、あるのならば、元居た場所にそれこそ文字通り放り捨ててくれたってよかったのに。
けれど外聞を気にする男は、その手段をとることをどうにも憚られたらしい。
ただ本妻の手前――というより、小汚い下町のガキなどもとから傍に置きたくなかったのだろう。
彼が認める『本当の息子』が寝返りをうてるようになるよりも早く、『急ごしらえの息子』は下町ではなく騎士団へ放り込まれた。
まったく。勝手なものだ。
でも、いまとなってはそうやって放り込んでくれたのが、この場所でよかったと思う。
感謝なんて、死んでもしてやらないけれども。
「伯爵」
りん、と聞こえた声に過去を漂っていた意識を引き戻す。
声のした方へ振り返れば、見慣れた少女が普段よりもいくらか作り物めいた笑みを浮かべていた。
ああ、似合わない。下手な笑顔だ、なんて。心に独り言ち、男たちに続いて胸に手を当て軽く腰を折る。
「これはこれは姫様」
「少し外の空気を吸いに行こうと思うの。私の騎士を返していただいてもいいかしら」
もちろんです、と。男が言うより先に腕を引かれ、零れそうな呆れを肩を竦めて隠す。
淑女を演じているつもりであれば減点だ。けれど彼女はなんら気にした様子なく。男の許可を待たずに軽やかにドレスの裾を躍らせ、ヒールを鳴らした。
姫様に失礼のないように。背に触れたそんな小言には辟易としながら、頷き返す。
ちらりと最後に絡んだ男の眼差しが、強欲なヤツの思惑をわかりやすくこちらへ伝えて。まったく。どっちが失礼なんだか、と吐き捨てた呟きは、ホールに響くワルツの音色にかき消えた。
***
一歩。外へ踏み出れば、音楽に満ち満ちていた空間が嘘のように静まり返る。
吹く風に揺れる木の葉に目を向けると、不意に同じ髪色をした幼馴染が夜の中に姿を浮かべた。
軽く手をあげ、お前も一緒かと言葉もなく肩を竦める。
それもそうか。基本、彼女の護衛は自分とそれからこの男の役目だ。
宴の主役たる主が、それでも外の空気を吸いたいと駄々をこねるのなら、二人そろって応じぬわけにはいかない。会場の見回りはもとより、警備の方は後輩たちがあくせく働いてくれるおかげで、団長と副団長がそろって席を外したとてなんら問題はないだろう。
「ねぇちょっと! 聞いてちょうだい楠葉! さっきの焔火そりゃもうひどい顔だったんだから!!」
「それ、人のこと棚にあげてお前が言えたことか?」
「あなたねぇ!」
さっきまでの半端な淑女の仮面はどこへ行ってしまったのやら。
けれど、三人肩を並べ、夜の庭に踏み入れたところであげられた声に揶揄いで応じれば、すぐに返る憤りに胸が軽くなる心地がした。
上辺だけ取り繕って華々しい空間と比べれば、いくらもマシだ。
あの似合わない淑女面をしているより、よっぽど彼女らしい。
大きく数歩。前に出て、身を翻す。恭しく腰を折って見せれば、頭部に落ちてくるのは引き攣った喉音だけだ。
ほら、お前もそうだろう。なんて呟きは、肩を弾ませる苦笑に乗せる。
「焔火」
「へーへー。この辺でしまいにしますよ」
咎める声に、顔をあげる。
呆れた眼差しを向けてくる楠葉は、されどそれ以上憤るわけでもなく。ただご丁寧に眉間にしわを寄せながら、小ぶりのバスケットをひとつ差し出してみせた。
「……どうせ、たいして食べてないだろう」
「それは他のやつらも同じだろ」
会場の警備。要人の警護。それから、護衛。
騎士団の役目を考えれば、おいそれ会場の食事に手を出してなんていられない。
「ほかの奴らは仕事前に済ませるかしているが、お前は違うだろう」
だから、適当に見繕ってもらった、と。静かに続く台詞に、らしくもなく胸が熱くなる。
ああ、これだから嫌なのだ。このふたりの傍は。
心地よくて。優しくて。なによりも、いとおしくて。大切で。
どうにも、気持ちが和らぐ。心が温かくなる。満たされる。
そんなこと、望んでもなかったのに。
ずっと。この先も。このふたりと共にいる未来をみていたくなる。
呪ったはずの境遇を。疎ましく思った立場を。それから、男に抱いた憎しみも。
感謝はせずとも、いつか許容してしまいそうで。そのことがいっとう恐ろしい。
「お、気が利くな。そろそろ腹が減って限界だったんだ。さすが俺の副団長!」
それでも、心の内は晒さずに。押し殺す術は、重ねた年月の分だけうまくなった。
お道化て肩を組めば、鬱陶しいと言わんばかりに手を払われる。
「だれがお前のだ」
「そうよ。ふたりとも私の騎士団の団長と副団長なんだから」
ふわり。ドレスの裾が夜に躍る。
くすくす楽しげに笑う彼女は、至極当然の顔をして胸を張った。
確かに。なにも間違っちゃいない。
彼女は唯一この国の王位を継ぐに値する立場にあって。そんな彼女の護衛が自分たちに課せられた役目。それでも――それでも。
「まぁ、細かいことなんてどうでもいいだろ。俺らには」
あっけらかんと言ってしまえば、呆れと照れが入り混じった吐息が空気を震う。
そうだ。それが、本心なのだ。
結局、いくらあがこうと。もがこうと。見て見ぬフリを続けようと。
そんなことなしに。ふたりとは友でいたいと相反した気持ちが胸に沸く。
このまま、ずっと。今の関係のまま。あんな汚い男の企みなど、無視をして。
出会ったころから、なにひとつ変わらずに。生真面目な男と。ちゃらんぽらんな自分と。それから、お転婆な彼女と。
この立場に見合わぬのは、自分ひとりだけなのだと詰る心は、やっぱり誰に気づかれないまま。彼女の求めた星空の下で、ひどく懐かしく思える穏やかな時に身を委ねた。