それはふたり選んだ道 はじめて『ソレ』を目にした日。
胸に抱いたのは安堵と、それからいまにも張り裂けそうなひどい痛みだった。
それは、混沌を具現化した日々が、ようやっと日常を取り戻してしばらく。傷は癒えきらずとも、薄いかさぶたが皆が少しずつ平生を歩みはじめた頃のことだ。
無理をしなければ、日常生活を送るには問題はないだろう、と。長い間病室で暮らすことを余儀なくされていた彼が、退院を許可されたのも、同じくらいの頃だった。
ほとんど毎日といったペースで顔を合わせていながら、アタシにそれを知らせてくれたのは、同期であり、親友でもある、救護班の子だった。
どうせ知らせてないでしょうから。とは、さすが。彼のことをよくわかっているだけはある。
まぁ、当然と言えば当然だろうか。アタシと、それからもうひとりがそろえば、話題の中心はいつだって彼に関することだったのだから。
否が応でも知識が入ってくるわ。そう言って朗らかに笑う彼女に、うすら背筋を震わせ、今は亡き彼とふたり肩を寄せ合い笑ったのが、もう遠い過去のように思えた。
――まったく。あとで説教しなきゃ。
いったい誰が退屈な入院生活に華を添えたと思ってるの。なんていえば、きっと返されるのは嘲笑だろう。否、もしかしたら右から左に聞き流されるかもしれない。反応があるだけで御の字だと思うようになったのは、きっと『あの日』からだ。
いまもまだ腕に残った細い身体を思い出す。冷えた四肢の頼りなさが蘇る。震えた声で紡がれた微かな謝罪は聞かぬフリをしたけれど。それでも、耳について離れてくれそうになかった。
ややして白く無機質な――清潔を体現した扉の前にたどり着く。
息を吸い、吐いた。軽く握りしめた手で、ノックしようとしてやめる。
代わりに引き扉の取っ手に指をかけ、開いた。
滑らかにレールを滑る。開けた視界に映るだろう彼の辟易とした表情を思い浮かべて。それから、飛び込んできた現実に双眸を開いた。
「あぁ、光輝」
アタシの姿を確かに映した眸が柔らかく弧を描く。
きてくれるとは思わなかった、とは。どの口が言えたものか。
言うつもりなんて、なかったくせに。来てほしいなんて、思ってもいなかったくせに。
ああ、いや。いまはそんな小言より――
「り、つめいくん……?」
だよね。なんて、本来確かめるまでもない。
未だ痛々しい傷を覆う包帯やガーゼが目に付くものの、形はよく知る彼のままだ。呼び方だって。なにもかわっちゃいやしない。
けれど、こちらを見つめる眼差しが。ほどかれた言の葉の柔らかさが。優しい声音が。なにもかも違っていた。
「あぁ、もちろん。僕だよ」
「……ど、して」
細められたまなざしに、困惑した己の姿が宿る。
肩を竦めていう。その姿には覚えがあった。
これは、彼の――律命くんの話し方じゃない。
彼の話し方はもっと粗雑で。ぶっきらぼうで。とげとげしい外郭に優しい内面を隠した。そんな、声で。こんな風に話す子では、なかった。むしろ、この話し方は――
――あぁ、そういうこと。
途端に、合点がいく。
わかった。わかって、しまった。
なんで。どうして。そう問いはしたけれど。応えをもらうよりも先に、その立ち居振る舞いがすべてを物語っている。
息が詰まった。胸が締め付けられたように痛む。
無意識に足を引きかけて、けれどなけなしの理性が懸命にその場へとどめた。
逃げるな。自分自身に言い聞かせるよう、心の内で繰り返す。
「光輝?」
どうかした? そう尋ねてくる柔らかな声音に、目を閉ざし頭を軽く振った。ううん。ごめん。なんでもない。行こっか。そう三度交わった眼差しに、同じ笑みを返して見せる。
そんな私の態度に、金色の双眸は少しだけ安堵したようだった。そのことに気づきながら、臆病なアタシは見て見ぬフリを選ぶ。長期間入院していたにしては、頼りない量の荷物をさらい踵を返し病室の外へと歩き出したところで、背に触れる抗議の声はなく。ただまだ少し引きずった足音だけが静かに後に続いた。
――ずるい子。
そう、音にするでもなくくちびるが言の葉を形作る。
短く鼻先を鳴らしたそれは、果たして誰に向けたものか。
いつもよりも随分と重い足取りは、きっと怪我だけの所為じゃなかった。
***
「アタシはあの時、どうすることが『正しかった』のか、いまでも考えます」
手にしたカップをソーサーに戻し、ささやきを吐息に乗せる。
応接室の中央。ローテーブルをはさんで向かいに座った上官は、そんな部下の言葉にわずかばかり手を止めて。けれどすぐに緩慢な動作でティーカップに口をつけた。
柔らかな陽射しに暖められた空気が、静寂を漂う。
弱音にも似た吐露を零す相手を違えている自覚はあった。けれど、彼以上の適任者は、ほかのどこを探してもいないことも、わかっていた。
だって、あの子が――律命くんが。影人くんの『真似』をはじめて見せた日。彼もまた、何も言わぬ道を選んだ同志であるのだ。同じ罪を背負う、唯一のひと。
だから、きっとこれは互いの贖罪の場だ。ただただ傷を舐めあうだけの、卑しき茶会。
陶器が打ち合う音に、無意識に下げた視線を擡げる。目が絡み合うことはなかった。
琥珀色の液面に注がれた眼差しが、吐息で揺れたそこを静かに見つめる。
「……ああするしか、なかったでしょう」
ようやっと静かに紡がれた応えを、アタシは本当はずっとわかっていたのだと思う。
選んだ道が正しいとは、言わなかった。きっと、言えなかった。
でも、そうだ。ああするしか、なかった。それは、慰めでもなんでもない。事実として、ああすることでしか、律命くんは『生きる』ことを選べなかったし。アタシも、上官にもそれは言えることだった。
それほどまでに、『彼』の消失はアタシたちの胸に大きな影を落としていた。
「そう、ですね」
陶器に目をそらし、小さくうなずく。
確かに『最善』ではなかったかもしれない。
けれど、これからのことを考えれば、あの時きちんと否定してやるべきだったのだ。
誰にも、誰かの代わりなんてできやしない。そう言ってやることができれば、なによりよかったことも。本当はずっとわかっていた。わかっていて、それでも『ああ』するしか道はなかったのだと、今でも心の底からそう思う。結局いつも、おなじ結論にたどり着く。
変わりようなんてないのだ。変われやしないのだ。
いまも、むかしも。変われないのは――あの頃のまま、時を止め違っているのは、なにもかれだけの話じゃない。
手を伸ばし、傍らに飾られた焼き菓子を取ろうとして、やめた。
代わりに、置いたばかりのティーカップの縁を撫ぜてから、手のひらで包み持つ。
じんわりと伝わるぬくもりに吐いた息は、少しだけ嘆息じみた。
そうだ。わかっている。あの時の選択に悔いがないと言えば、嘘になるだろうけれど。それでも、何度同じ決断を迫られたとて、私も彼も、道を違えることなどできやしない。
「ここも、随分とかわりました」
「ええ」
あれから、どれほど時が過ぎただろう。
怪我で退役していったもの。戦場で命を散らすもの。自らの意思で、新たな道を選ぶもの。
そうして、去るものと同じだけ初々しい顔がやってきて。いまではもうすっかり、かつての『彼』を覚えるものは、片手で数える程度に変わった。
一匹狼で。ぶっきらぼうで。愛想が悪い、だなんて。いまいる子たちにいくら語って聞かせたところで、信じるものなどもうどこにもいないだろう。
にこやかで。人当たりがよく。面倒見のいい。それが、後輩たちがいまの『彼』を評する言葉だった。
呼吸で肺を膨らませる。
芳醇な香りが鼻腔を抜けて、少しだけ肩の力が抜ける心地がした。
「アタシ、あの子が軍を抜けることを知って、正直ほっとしました」
彼が命をすり減らすことはない。自分の知らぬところで、命を散らしてしまうことはないのだ、と。彼の身をただ案じたから――そんな、できた理由なんかじゃない。
もっと利己的で、自分勝手な安堵だ。
接点を減らせる。顔を合わせなくてもいい。もう、あの姿を無理に見なくて済む。心の底から、そう安堵した。安堵、してしまった。
「……私もですよ」
そうして、きっと。彼自身も。
静かに返された同調に、わずかばかり眉を顰める。
勝手な憶測だ。けれど、多分。それが事実だとアタシも思う。
関りは、昔ほどじゃない。それでもこれまで共に過ごしてきた時間が、憶測を証明するにはあまりあるものだった。
「限界だったのだと、思います。私も、貴方も。律命くんも」
「……はい」
薄く噛んだ唇を開く。同じでよかった、とは言わずに口をつけた紅茶と共に言葉を飲み込んだ。ぬるくなった液体が喉を滑り、臓腑に落ちる。
『軍を辞めようと思うんだ』
そう告げられたのは、あの日より幾分も狭い病室の一角でのことだった。
自分の口から報告できるようになったなんて、やっぱりあの時の説教が功を奏したんだろうか。そんなことを言って茶化せる雰囲気ではなかった。
見上げてくる金色の眼差しはひとつになり、痛々しいガーゼと包帯がもう片方を覆い隠している。もとより、視覚に頼らず剣を振るっているから、戦闘面に支障はない。まだまだやれるよ。つい前日に聞かされていた言葉を覆す発言に、嘘つきと糾弾する気になれるはずもなかった。
結局のところ、アタシはあの頃からなにもかわっちゃいないのだ。変われてなど、いないのだ。かわりたくなど、なかったのだ。
立ち止まったまま。前に進めず。過去にも戻れず。無為に時を過ごした。
愚か者と誰かにののしってもらえたらよかった。
なりたいのは、悲劇のヒロインなんかじゃなかった。そのはずだった。
なのにこれじゃあ、まるきりいつかの彼女らが期待した通りのシナリオだ。
はじまりはふたり。それが三人になって。ひとり亡くして。真ん中をぽっかり開いたままふたりになって。たったひとり、取り残される。絵にかいたような『悲劇』だ。
それでも、引き留めることなんてできなかった。
置いていかないで、と縋ることなどできるはずもなかった。
だから聞き分けのいい『姉』の皮をうまくかぶったまま、共に抱いた安堵を覆い隠して、静かに現実を受け入れる。
軍をやめて、どうするのか。
これから、どうやって生きていくのか。
そんなことすら、問えぬまま。言えぬまま。見えぬまま。
「さて、そろそろ時間ですね」
「っ」
ボーン、ボーンと鳴り出した古時計が時を告げて、それは同時にこの愚かな茶会の終わりを示した。
ハッとなり前を向けば、結局、最後まで手を付けられることのなかった焼き菓子が見える。それを、せっかくだから後輩たちに包んであげなさいという上官の言葉に甘えることにした。
いつのまにか夕暮れに影を伸ばした窓に近づく上官の背に、明日の予定だけをつらりと並べる。そうして、短い返答を受け取ってから、きちんと背筋をのばしアタシはアタシの日常へと踵を返した。