高嶺の花偶然ふらりと立ち寄ったとある島。
船の整備の間、特にすることもなく手持無沙汰だったから、気まぐれに島内を散歩していた。
とおりすがりの村人に聞けば、程よい活気が心地よい港町といくつかの小さな村ぐらいしかこの辺りには無く、目ぼしい観光地や歓楽街は無いとのこと。
普段は農業と漁業を営むだけの気の良い島民たちは、貿易船であろうと海賊船であろうと、立ち寄る船とその乗組員には分け隔てなく温かい対応をしてくれた。
けれど、そんなのどかな地にも無法地帯というものは存在するらしい。
『お客さん、島の北側にあるゴミ山にゃあ近づかねぇ方がいいですよ』
港町の酒場で店主から聞いた噂。
『この辺には小さな村と港町ぐらいしかないと聞いたが?』
細々と暮らすこの島にゴミ山というものがあることに疑問が湧いて聞き返すと、店主は眉をひそめて続けた。
『あそこのゴミはこの島から出たもんじゃないんですよ。隣の島に大きな街があるんですけどね、そこのゴミがこの島に運ばれてくるんですよ』
全く、迷惑してるんですよ…ウチはゴミ捨て場じゃないっての、と吐き捨てる店主の様子からすると、非正規のゴミ処理業者か何かが勝手に運び込んでは捨てていくのだろう。
そりゃあ迷惑だな、せっかく綺麗な島なのに、と相槌を打つと店主は小さく耳打ちをしてきた。
『あそこのゴミ山にはどこから流れてきたのか分からない何百人もの無法者が棲み付いてますから、よっぽどのモノ好きじゃない限り近寄りませんよ』
あれはそこらの海賊さんよりも性質が悪ぃ、と忠告されたが、どうせすることもないし腕には多少自信もある。
(島の北側、とか言ってたな…)
どこにだってそういう場所はあるもんだ。人目に付かない場所でひっそりと生きる人間はいくらでもいる。
もともと海賊というのはそういう奴らが海に出た姿だから、中身に違いはほぼ無い。生きる場所の違いだ。
「ここか…」
朽ちた金網で囲われたそこは正しく「ゴミ山」。
金属ゴミやら木材、ありとあらゆるゴミが集まって、うず高く積み重なっている。
一体どれほどの広さがあるのだろうか、少なくとも先ほど訪れた港町よりは遥かに広い範囲がゴミ山と化している。
ゴミ山のあちこちから何かを燃やしているような煙が立ち上り、風向きによっては鼻を突くような悪臭が漂ってくる。
KeepOut、と申し訳程度に進入禁止の張り紙やらテープやらが貼られているが、金網にはあちこちに穴や隙間が空いていて大柄な自分でも容易く通り抜けられるだろう。
(吐き気がするほど懐かしいぜ、全く)
自分が生まれ育った場所もこんな汚ぇゴミ山だった。何とも言えず血が騒ぎ、自然と金網の向こうへ足を踏み入れていた。
力さえありゃあこの世ではどうにでも生きていける。そう気づいたのはいつ頃だったか。
弱肉強食の狭苦しいゴミ山を生き抜いて、欲しいものは力ずくで手に入れた。
負ければ奪われ何も手に入らないが、勝てば生きることが出来た。そうやって何でも手に入れられると思った。
でも、それは違った。力ずくで手に入るものには限りがある。
勝ち続ければ勝ち続けるほど、自分に媚びへつらう輩は増えたが、満たされることは無かった。
急に何もかも虚しくなって、狭い世界から飛び出した。
海に出れば何か見つけられると思った。
思っていた以上に世界は広くて、何度も命の危機を感じた。
デカい波を乗り越えると、そこに新しい島があるのが嬉しかった。
けれど世界の本質は、生まれ育ったゴミ山と何の変哲もなかった。
だから俺は、人の心が欲しかった。仲間が、家族が、欲しかった。
(…どいつもこいつも荒んだ目ぇしやがって)
物陰から向けられるのは好奇と敵意の視線。突き刺さるもの、絡み付くもの。
あからさまな態度を敢えて無視して歩みを進める。
大股で瓦礫の間を歩いていると、色々と懐かしいものが沢山見られた。
赤子を何人も抱いた女、眼窩がぽっかりと空洞になっている盲目の老爺、骨と皮だけの痩せ細った少女、虚空を見つめてぶつぶつと何かを呟き続ける青年…
ゴミの中でその日を生きる人間たち。
野良犬の群れ、片足の無い猫、蚤だらけでボロボロの牛、年老いて瞳が白濁した馬…
どこにも行き場のない動物たち。
ここにいるのは、ここでしか生きられない者たちだ。
(だが、おれもこいつらと同じだった)
同じようにゴミの中で生きていた。ゴミの中でしか生きられないと思っていた。
無視し続けていると、やがて興味が失せたのか向けられる視線の数は徐々に減っていった。
身にならない、自分の得にならないことに割く時間と労力は無い、と言わんばかりに各々がさっさと自分の生活へ戻っていく。現金なものだ。
自分は海へ出た。狭い世界に飽き飽きして、自分の求めるものを探すために。
そのくせ、訪れた島にこんなゴミ山があれば必ず足を運ぶ。
ゴミ山でしか生きていけない奴等と、海に生きる自分は違うのだと再確認するために。
あぁ、家族が欲しい。人の心が、帰るべき場所が欲しい。
物心ついたころから独りだった。家なんてなくて、雨ざらしの瓦礫の下で眠る夜もあった。
それでも他のガキよりは恵まれていた。力があったからだ。
奪ってぶんどってその日を食いつないで生きた。いくつもの命を踏みつぶして、踏み越えて生き残った。
そんな自分が「家族」が欲しいなんざ、バカらしくて笑える。
こんな所でもそれなりの活気はある。
トタンや廃材が組み合わさっただけの簡易バラックが立ち並ぶ、開けた場所。
そこは腐臭を放つ食材や、捌かれたばかりで血の滴る獣の肉、ゴミ山から拾い集めてきたような生活雑貨など、ありとあらゆるものが取引される市場のようだった。
目ぼしいものが無いか一通り目を通しては見たものの、興味を引くようなものは特に見当たらなかった。
つまらねぇな、船に戻るか。そう思って踵を返そうとしたとき、声が聞こえた。
小さな、いつもなら聞き逃すか無視する程度の声だった。至近距離から聞こえたわけでもないのに、つい立ち止まってしまった。
「……?」
ガキ同士が争うようなその声は、積み重なるゴミの山の向こうからおれの鼓膜をつついていった。
掘っ立て小屋が並んで建っている、その隙間に声の主はいた。
四、五人の少年たちに囲まれて、尻もちをついたように蹲っている痩せこけた一匹のガキだった。
おれの姿を見るなり少年たちは「邪魔が入った」だの「次は覚えとけ」だの捨て台詞を吐き捨てて散らばって行った。
残されたのは地べたに座り込んだそいつだけ。
服に着いた泥や血、体のあちこちに散らばった痣から、何をされていたかは一目瞭然だが、確認と挨拶を兼ねて声をかけた。
「おいおめェ…何されてたんだ?」
「………」
「…口がきけねぇのか、そんなわけは無ぇだろ」
「……何も」
ぼそりと発せられた声に、ああさっきの声はこいつのだと分かった。
「何もされちょらんわい」
面白れぇガキだ。年のころは十かそこらだろうか。
「グララララ、嘘をつけ 今さっきの奴らに好き勝手されてたじゃねぇか」
「………」
ぎっと悔しそうに睨み付けてくる様は、怖いというよりもどこか滑稽だ。
「…おどりゃあ何者じゃ」
「あぁ?」
おどりゃあ、とは何だ? からかっているのかと思い、ガキの顔を覗き込むもふざけた様な色は無い。
「おめェそりゃあどこの言葉だ? それとも口癖か?」
問いかけるとガキはしまった、という顔をして目を見開いた。
「っ!! ……お、お前は何者だ」
慌てて言いなおすのが奇妙でおかしかった。
「おれァエドワード・ニューゲートだ」
えどわーど、にゅーげーと…と繰り返すガキに、今度はおれから質問した。
「おめェ、どこの生まれだ? 何でさっきの奴らに殴られてた?」
「…お前、なんぞに答える筋合いは、無い」
「おれは質問に答えたのに、おめェは答えねぇのか? そりゃあちっとばかし不公平じゃねぇか?」
そう言うとぐっ…と言葉に詰まり、渋々喋りだした。
「故郷は…知ら、ない……。あいつらは、わしの飯を盗ったけぇ、あ、盗った、から、殴ったら、やりかえされた」
ぎくしゃくした言葉遣いで話す様子を見ると、どうやらその珍妙な口調は生まれつきの様だ。
「そうか」
大勢の強者で一人の弱者を殴る。それ自体は卑怯ではない。寧ろこの世界では利口だ。
弱肉強食。弱い奴は碌に飯も食えず野垂れ死ぬ。
「で、飯は取り返せたのか?」
そう聞くと、ガキは不思議そうな顔をした。
「飯?」
「盗られたモンを取り返すために殴ったんじゃねぇのか?」
するとガキはさも当然のように答えた。
「飯を盗られたんは三日前じゃあ。食われてしもうて取り返せるわけがないわい」
偶然見かけたけぇ殴っただけじゃ、と吐き捨てた。
「グララララ!! こりゃあ傑作だぁ!!!!」
突然笑い出したのに吃驚したのか、ぎょっとした顔で見上げてくるガキ。
「おめェ、返ってくるはずのねぇ三日前に盗られた飯のために複数の、しかも年上に殴りかかったのか!!」
笑われたのが癪に障ったのか、むっとした顔でガキは怒鳴った。
「取り返せんでも落とし前はつけにゃあ、そういう奴らが付け上がるじゃろうが!!!」
どこまでも透き通った目で、ガキははっきりと言った。
「損得は関係なぁわい! 許せんものは許せん、じゃけえ殴った! 何が可笑しい!!」
ああ、なんて真っ直ぐなガキだろうか。この上なく純粋で、愚かだ。
吐き気がするほど汚くて狭いゴミ山の中で、こんなにも美しく無垢なものを見つけられるとは。
磨けば恐ろしいほどの美しさで輝く原石だ。研げば何億もの命を屠れる刃だ。
「おめェ親はいるのか?」
「…おらん。ずっと前に死んだ」
おらん、という単語の意味は分からないが、死んだということからして「いない」という意味なのだろう。
「友達や家族は? 仲間はいねぇのか?」
「おらん」
こんな逸材をここで終わらせるわけにはいくまい。全く今日の自分は運がいい。
「……名前は?」
キョトンとした顔で首をかしげ、わしのか? と尋ねるので頷いた。
「…サカズキ」
サカズキか、良い名前だ。
「サカズキ、おれの息子になれ」
突然目の前に現れて、おかしなことばかり聞いてくる大男は、唐突に意味の分からないことを言い出した。
(息子…?)
自分より倍以上も年上に見える、エドワード・ニューゲートと名乗ったその男は豪快に笑って手を差し伸べてきた。
「…断る」
はっきりと拒否を告げると、男はさも驚いたように目を丸くした。まるで自分の誘いを断るはずがないとでも思っていたかのように。
「何故だ?」
「見た限り…お前は海賊じゃろうが。わしゃあ海賊は大嫌いじゃ。たとえ死んでも海賊なんぞにはならん」
海を、国を、島を、我が物顔で荒らし回るバカな悪党に成り下がるなんて真っ平だ。
よしんば海賊ではなかったにせよ、こんな奇妙なことを言うやつは人攫いか人買いのどちらかだろう。
こいつも、『悪』だ。
「そうか。なら仕方ねぇ」
思っていたよりあっさりと手を引っ込めたので、こちらが拍子抜けしてしまった。
海賊と言う輩は欲しいものは力尽くで手に入れる、そういう考え方しかしない奴等だと思っていた。
呆気に取られている間に男はくるりと背を向け、歩き去って行ってしまった。
「何なんじゃあ、アイツは…」
男の姿が見えなくなった瞬間、体中からどっと汗が噴き出してきて、忘れていた痛みが再び戻ってきた。
理不尽に殴られ、蹴られてできたあちこちの痣が痛みを訴えるがそれよりも、あの男の発する威圧感にすっかり委縮し、緊張していた自分が悔しかった。
ゴミ山を抜け出し、船へ帰る道すがら、ニューゲートは街中でなければ大声で笑いだしてしまうほどに、どうしようもなく愉快で仕方がなかった。
こんなに面白いと思ったのはいつぶりだろうか。
偶然見つけたたった一人のガキに、自分がこんなにも執着するようになるとは。ああ運命は不思議で奇妙で、いつも予想外だ。
自分にゴミ山のことを教えてくれた酒場の店主に、そして自分をあのガキと巡り会わせてくれた名も知らぬ少年たちに、今ならいくらでも望むだけ褒美をくれてやりたい気分だ。
サカズキ、サカズキか。
真っ直ぐで純粋で、どこまでも愚かなあのガキを、どうしても自分のモノにしてやりたい。いや、してみせる。
たとえ何年、何十年経っても、必ず手に入れてやる。
幸い、まだ数日この島に滞在する予定だと船長が言っていた。
手に入れるのが難しければ難しい宝ほど価値が高く美しい。女だって何だってそうだ。
明日も、その次も、あれがおれのものになるまで、何度でもあの穴だらけの囲いを潜ろう。幾度でもあそこの空気を吸おう。
ああ、今日はなんて幸運な日だろうか。
* * *
「っ!!? ……何じゃ、お前か」
突然目の前に現れた大きな人影に身構えたが、顔を見れば昨日の男だった。
「怪我の具合はどうだ?」
…暇なのか、こいつは。
「こんな怪我なんぞいちいち治療しとる暇は無いわい」
皮肉を込めて言ってやったのに、男はどこ吹く風で、ぽんと傷薬を投げて寄越した。
「グラララ、なら丁度いい。余っちまったから使ってくれ」
「…いらん」
「人の厚意は素直に受け取っておくもんだぜ」
「…どこの馬の骨か分からん奴に貰った薬なんぞ恐ろしゅうて使えんわい」
こいつのような輩を信じたせいで、何度痛い目に遭ったか。人の厚意ほど信じ難いものは無い。
「わしなんぞに構っとらんで、さっさと失せんか」
「どこに行こうとおれの勝手だろう」
何なんだ、全く。
「サカズキ、おれの息子にならねぇか」
「ならんと言うちょろうが」
しつこい。
「海賊の手下になんぞ絶対にならん」
「おいおい、手下じゃねぇよ、息子だ」
「息子にもならん!!!」
いつまで経っても平行線な会話に嫌気がさして、男の目から逃れるように瓦礫の山を飛び越え、そのまま振り返らずに走った。
ああいう輩が一番嫌いだ。しつこくて自分勝手な偽善者には吐き気がする。
あっという間に小僧は瓦礫の向こうへ消えてしまった。
「あー…ちっとばかし近づきすぎたか」
置き去りにされた傷薬を拾って、再び懐に戻す。
まるで頑なな野良犬を手なずけるようだ、と苦笑する。
とりあえず、今日のところは退散だ。これ以上追いかけても警戒心むき出しで威嚇されて逃げられるだけだろう。
さて、明日は何を持ってきてやろうか。
次の日も、またその次の日も、男はここにやって来た。
なぜ自分のいる場所がピンポイントで分かるのか、なぜいつもいつも息子になれ、としつこく言うのか、理由は分からないがとにかく不気味だ。
それに毎回何かしらを手土産に持ってきては投げて寄越す。昨日は見たこともない異国の菓子、一昨日は真っ赤に熟れた果物を三つ。
食い物で釣る気なのか、それとも何か毒物でも入っているのか…信じる気はさらさらないので決して受け取りはしなかったが。
そしてまた今日も今日とてそいつは現れた。
「…また来たんか」
もういい加減うんざりだ。嫌悪感を思いっきり顔に出して言ってやったにもかかわらず、男はズカズカと近づいてきた。
「いい加減諦めんかい。しつこい奴じゃのう」
「悪かったな、おれァ諦めが悪いんだ」
「何度ここに来ても、わしはお前の息子にはならんぞ」
「グララララ、そりゃあ分からねぇぞ。お前の気持ちがいつか変わるかもしれねぇ」
「絶対に変わらんわい」
「ほらよ、今日のは落とすなよ。乱暴にすると壊れちまう」
「はぁ?」
男が差し出したのは小さな紙袋。いつものように投げて寄越さないところを見ると、どうやら本当に壊れやすいものが入っているらしい。
「…いらん」
「んなこと言わねぇで、ほら」
「いらん」
ふい、とそっぽを向いていると、男は紙袋を地面に置いて、くるりと踵を返した。
「今日は帰る。それを渡したかっただけだからな」
「だからいらんと言うとろうが!」
「いらねぇなら放っときゃいいさ。売っちまって金にしてもいい」
後ろ手でひらひらと手を振りながら、男はそのまま振り返らずに去って行った。だから何なんだ、あいつは……
残されたのは小さな紙袋一つだけ。
「………」
近寄ってつまみあげてみる。何の変哲もないただの紙袋だ。中に何か入っているのか、少し重たい。
中身が気にならないと言えば嘘になる。けれど開けて中を見るのもなんだか癪だ。
………結局、好奇心には抗えず袋を開けた。
剃刀でも出てくるんじゃないかとヒヤヒヤしたが、中に入っていたのはブローチだった。
「…?」
大きな紅い石があしらわれた大ぶりのブローチ。きらきらと掌の上で輝くそれに、サカズキは首を傾げた。
次の日は数日ぶりの雨だった。
ゴミ山で生きる者たちにとっては恵みの雨だ。あちこちにバケツや器が置かれ、飲み水の確保が始まる。
瓦礫の下で、止まない雨音を聞きながらサカズキはブローチを見つめていた。
メインとなる大きな石の周りを繊細な金細工と細々とした石で飾ったそれは、素人目でも随分値の張るものだろうと容易く想像できた。
ギラギラと豪華さを主張するのではなく、丁寧にカットされて綺麗に光を反射する石はきっと腕のいい職人が磨き上げたものなのだろう。
(渡す相手を間違えたんか…?)
どう考えてもそうとしか思えない。こんな立派なものを何故自分に渡すのか。そもそもブローチとかいう装飾品は自分には無縁だ。
今日、あいつが来たら返そう。きっと渡す品物か相手を間違えたに違いない。
自分のような者が持っているよりどこぞの婦人の胸を飾ったほうがこのブローチも本望だろう。
だから返そうと、思っていたのに。いつまで経っても男は来ない。
今日は来ないのだろうか。瓦礫の下からでは、相変わらず重たげな雲に覆われた空しか見えない。
足場が悪いからか、雨が降り続くからか。
その日、男は終ぞ姿を見せなかった。
その次の日も雨は止むことなく降り続き、男は現れなかった。
そしてまたその次の日も、男は現れず、雨は止まなかった。
海賊だから、もうこの島を出港してしまったのだろうか。それとも自分を息子にするのを諦めたのか。
ブローチはこんな雨空の下で瓦礫に囲まれていても相変わらず綺麗に輝いているし、一体全体どうしろというのだ。
今日もまた、雨は止まない。
『押してダメなら引いてみろ』どこかの国の言葉だ、そう教えてくれたのは船医だった。
「何だ、そりゃあ」
「扉の話さ。押して開かない扉なら引いてみろ、そんな感じの意味だ」
恋の駆け引きにも通じるぞ、と笑っていた。聞いたときはあまり意味が分からなかったが、これがどうやらかなり効果のあるものらしい。
船員の中にはこの言葉を実践して、町娘を見事手中に落とした奴も何人かいた。
押してダメなら引いてみろ、か。
半信半疑で実践してみることにした。さて効果はいかほどか。
三日ぶりにゴミ山へ向かう。小雨が降り続いていて鬱陶しいが、港町は変わらず活気がある。
立ち寄った雑貨屋で傘を購入し、そのまま足を進めていると、道端から声を掛けられた。
「おっとそこの旦那!」
「あ?」
「おうおう、おっかねぇ顔しないでおくれよ、あっしですよ」
誰かと思えば先日世話になった宝石商だ。もうこの町を出て次の島へ移ると言っていたが、まだいたのか。
「何か用か」
「へい、先日買って頂いた品なんですが」
「あのブローチがどうかしたのか」
いまさら返品を頼まれても、もう手元にないが…と答えれば、商人は滅相もない! と首を振った。
「いえいえ、そうですか。誰かさんにプレゼントしたんですかい?」
ニヤニヤと面白がるように笑う商人に、揶揄われているのだと気づいた。
「…ああ。しかしアンタは何故まだこの島にいる? 次の島へ行くんじゃなかったのか」
「この雨のせいで身動きが取れねぇんですよ……全く、商売あがったりだ! で、喜んでもらえたんですかい?」
がっくりと肩を落としたと思えば、キラキラと興味津々に瞳を光らせたり、表情の忙しい奴だ。
「ありゃあかなり良い品ですから…女性なら貰って嫌がる人はいないでしょう?」
「確かに良い品だったが、どうだろうな」
「ひぇ~そんなに目の肥えた御婦人なんですかい!?」
「グララララ、喜んでくれたかどうか、今から確かめに行くところだ」
商人の真ん丸に見開かれていた目が、きゅっと細められる。
「あぁ、そうだったんですか。そりゃあ失礼しやした。ご健闘を祈っております」
ニコニコと笑う商人に見送られ、大通りを抜ける。
傘の布地を叩く雨の勢いが強まってきたころ、ゴミ山の入り口が見えてきた。
雨が強くなったのが、頭上の瓦礫をうつ雨音で分かった。
あいつが来なくなってもう三日になる。
ブローチを見つめるのにも飽きてきたし、何より貯め込んだ食料が尽きそうだ。
以前、雨の中で食料を探していて風邪をひいたことがあるので、雨天時に出歩くのはなるべく避けたかったのだが、雨なんかで飢え死にしては洒落にならない。
背に腹は代えられない。仕方なく瓦礫の下から這い出て食料を探すことにした。
段々と強まっていく雨のせいでびしょびしょになってしまったが、収穫はあった。
いつもより質の良い食材を多めに入手することが出来た。今日は運がいい。
腐ってもいないし、これならしばらく困らないな、と食材を抱えて寝床へ戻ろうとしたサカズキの前に人影が立ちふさがった。
「また来たんか……」
この三日間何をしていた、と続けようとした言葉は相手の顔を見た瞬間喉の奥へ引っ込んでしまった。
「よぉ、クソガキ。いいもん持ってんじゃねぇか」
「それ俺らにも分けてくれよ」
ニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべて立っていたのはニューゲートではなく、いつぞやの悪ガキ共だった。
勝ち目がない、そう悟ったサカズキは彼らの間を縫って逃げようとした、が。
「おいおい逃げんじゃねぇよ」
複数に囲まれてしまえば逃げ道は閉ざされる。まずい状況だ。
「今日はあのデケェ奴は連れてねぇのか」
「あぁ、あのいつもここに来る余所者の大男か」
こいつらの言っているのは、ニューゲートのことだろうか。
(まずい…)
そういえばあのブローチをポケットに入れたままだ。もし見つかれば奪われてしまうに違いない。
それだけは避けなければ…!
「……っ!!!!」
周りを囲む奴らの中で一番ひ弱そうな一人に渾身の体当たりをかまして押しのける。
道が開けた。
一目散に駆けだそうとした、のに。
「ぅっ…!!?」
三日間降り続いた雨は、舗装されていない地面をぬかるませるのに十分だったらしい。
踏み出した片足が泥にとられ、ずる、と滑った。
しまった、と思った時にはもう立て直せないぐらい体が傾いていて、そのまま地面に倒れ込んだ。
「逃がさねぇよ」
無防備な襟首を思いっきり掴まれ、引っ張りあげられる。
「ちっ、何してんだよ。俺らの飯を泥だらけにしやがって…」
転んだ拍子に地面に散らばった食料を見てリーダー格の少年が苛立ったように顔を歪めた。
「雨が強くなってきやがった…おいお前ら、さっさと拾ってずらかるぞ!」
散らばった食料に他の少年たちが蟻のように群がる。
その様子にちらりと視線を走らせたサカズキは、密かに安堵した。転んだ衝撃でブローチも一緒に投げ出されたかと思ったが、食料の中にブローチは見えなかった。
食料はまた集めればいい。ブローチが盗まれなければそれでいい。
「今日はこの辺にしといてやるよ。文句があるならまた殴りかかって来いよ」
「どうせ返り討ちに遭うだけだろうけどな。ひひひっ!」
胸糞悪い下卑た笑みを浮かべるリーダー格の顔に思いっきり唾を吐きかける。
「早う放さんかい、下衆が」
「ってめぇ!!」
瓦礫の山に背中から叩きつけられ、背後でガラガラと瓦礫が崩れた。
「ちょっと優しくしてやりゃあ調子に乗りやがって!!」
腹部に重たい蹴りが一発。
「ぐ、ふっ…」
「どうせこのガキ、親もいねぇんだろ? 殺しちまおうぜ」
「前からムカついてたんだ。なあ、ちょうどいい機会じゃねぇか」
散々殴られ、蹴られたが、雨で体温を奪われた体はもう痛みすら碌に感じない。
「げほっ、…う、ぇ…」
泥、血、涎やら何やらであちこちがドロドロだ。今ここに、この手に、何か得物があればこいつらの喉笛を掻っ切ってやれるのに。
「…まだ死なねぇのかよ」
横っ面を引っ叩かれた衝撃で、帽子が跳ね飛んで水溜りへ転がる。
脇に避けていた一人が、唐突にヒュウと口笛を吹いた。
「こいつ、スゲェもん隠し持ってるぜ!」
「あ? 何だ。何か見つけたのか」
口笛を吹いた奴の視線の先にあったのは、あのブローチだった。
(いつの間に……ポケットから転げ落ちたか…!)
気づかないうちに零れ落ちたそれは、色のないゴミ山の中ではあまりに目立ち過ぎた。
「いいモン持ってんじゃねぇか! 何で最初っから言わねぇんだよ!」
一瞬でリーダー格の目が欲望にぎらぎらと光り出す。
口笛を吹いた奴が拾い上げる寸前に、どうにかブローチをかじかんだ左手で捉えることが出来た。
「これは、やれん…!!」
軋む身体を動かして、ブローチを胸に抱き込む。
「お前らなんぞに、渡して、たまるか…っ!」
これはあいつに、ニューゲートに返すべきものだ。こんな奴らに渡してたまるか。触らせてやるものか。
別にあの男に何の義理もない。このブローチを守る義理もない。そんなことは分かっているのに、何故か守らなければいけないと思った。
無防備な背中や脇腹を何度も蹴られて、目の前が真っ赤に点滅した。
ふっ、と意識が遠のきかけた時、唐突に攻撃が止んだ。
続いてドサドサと何かが複数倒れるような音。そして耳に届くのは降り続く雨の音だけになった。
不自然な静寂を疑問に思うも、暴力と雨にうたれ続けた体は思うように動かず、濁った咳を吐き出すぐらいしかできなかった。
「ぇ…げほっ…、」
焦点がうまく合わない目を叱咤してどうにか周囲を窺うと、驚いたことにさっきまで自分の周りを囲んでいた少年たちが一人残らず地面に倒れ伏していた。
奇妙に思って視線を動かすと、ぼやけた視界に一人、大きな人影が立っていた。
見覚えのあるガキどもの背中越しに見えたのは、取り囲まれて無抵抗に暴力を受け続けるサカズキの姿だった。
何かを庇うように地面に蹲るサカズキを容赦なく蹴りつけるガキどもが口々に言う言葉が「それを寄越せ」「それを渡せ」というのが気になって様子を窺っていたのだが…
ガキどもの言う「それ」が、自分が贈ったブローチのことを指しているのだと気づいた瞬間、頭にカッと血が上った。
無意識のうちに覇気を使ってしまったようで、気づいたときにはガキどもは泡を吹いて倒れていた。
蹲ったままのサカズキが水っぽい咳をして身じろぐ。
億劫そうに持ち上げられた頭がゆっくりと周囲を見回し、やがて視線がこちらへ向く。
近づいていくと、訝しげだった表情がだんだん呆れたような顔になっていった。
「……なん、じゃあ…お前か…」
心底呆れたような、安堵したようなよく分からない表情でそう言ったサカズキは、そのまま糸が切れたように地面に突っ伏した。
「っ、おいっ!?」
慌てて駆け寄って抱き上げると、あまりの小ささと軽さ、冷たさに驚愕した。
ぐったりと弛緩した身体で、唯一固く握りしめた手の中には、確かに自分がサカズキに贈ったブローチがしっかりと握りしめられていた。
目が覚めた時、一番に目に飛び込んできたのは見知らぬ天井だった。
数秒遅れて聞こえてきたのは波の音とカモメの声。
…ここはどこだ…?
身じろぎするとギシ、と軋む音と、身体にかけられた毛布から自分がベットに寝かされていることが分かった。
「目が覚めたか」
聞いたことのない声に飛び起きる。
「そんなに焦らなくても取って食いやしねぇよ」
のんびりと間延びした口調で喋る壮年の男は、自分はこの船の船医だと名乗った。どうやらここは海賊船の医務室らしい。
「ニューゲートが血相変えて運び込んできたからビックリしたが……低体温と打撲ぐらいで命に別状はねぇよ」
船医はカルテを眺めながら言ったあと、机に備え付けてある電伝虫で誰かに連絡していた。
程なくして部屋の扉から入ってきたのは見覚えのある大男だった。
「…生きてたか」
どこか安堵したように息を吐き、ニューゲートはベットの脇に立った。
「世話掛けたな」
「このぐらいは大したことねぇさ。それよりこのガキんちょ、どこで拾って来たんだ?」
まさか隠し子じゃあねぇだろうな、と軽口を叩く船医と一緒に笑い合うニューゲートを見て、ふとあのブローチの存在を思い出した。
しっかりと握りしめていたはずなのに、目覚めた時には掌に無かった。まさかと思ってズボンのポケットを探ってみるが、やはり無い。
「…すまねぇ、少し席をはずしてくれるか?」
「え? ああ、別に構わねぇよ」
ニューゲートに促されて船医がひらひらと手を振りながら部屋を出ていった。
医務室の中には二人だけが残された。
「サカズキ、お前どういうつもりだ?」
「……?」
ぼすっ…とベットに腰かけたニューゲートが懐から取り出したのは、あの紅いブローチだった。
「何でこいつを売っちまわなかった? 何であのガキどもからこいつを守った?」
納得がいかない、とでも言いたげに眉間に皺を寄せたニューゲートは、答えを求めるようにサカズキを真っ直ぐに見つめた。
「…返さにゃあいけんと…思った」
「………」
「それは…わしに渡すべきモンじゃなかろうが。じゃけえ、返そうと思っとった」
お前の好いとる女にでも贈ればええじゃろう、わしには似合わんし必要ないけぇ返す。サカズキは俯いてぼそぼそと言った。
「…そうか」
「助けてくれたことには感謝しとるが、わしはお前の息子になるつもりはないし、この船で海賊になるつもりもない」
じゃけぇ、もうわしに関わらんでくれ。お互いに迷惑じゃろう。きっぱりと目を見つめて言われてしまえば、咄嗟に返す言葉が出てこなかった。
こんな逸材をみすみす手放すのは惜しいが、本人にその気が無いのなら仕方ない。諦めるか……………という選択肢はやはりニューゲートの中には無かった。
ただ、今はまだその時ではない。だから今は一旦手を引こう。
「分かった。じゃあこいつは…こいつの似合う極上のオンナに贈ることにするさ」
紅いブローチは武骨なニューゲートの掌に包まれ、そのまま彼と一緒に部屋を出て行った。
扉の向こうへ消えた大きな背中を見送って、サカズキは自分の怪我の程度を確かめた。大丈夫だ、動ける。
ニューゲートが部屋を後にして数時間後、サカズキの様子を見に戻ってきた船医は空っぽになったベットを見て驚くが、まぁあの程度の怪我なら動いても大丈夫だろう、とのんびり思っただけだった。
* * *
それから時は流れ、サカズキは海軍を志願した。悪魔の実の能力を得て、海賊狩りに精を出し、異例の速さで昇格していった。
そんなある日、差出人不明の小さな包みがサカズキ宛に届いた。
(…誰からだ…?)
自分には親兄弟はいないし、知り合いも友人も多いほうではない。それにこんな包みを送ってくるような人間には全く心当たりがない。
不審に思いつつも開封してみると、中に入っていたのはビロードの小箱と電伝虫番号が書かれた一枚の紙きれだった。
「…?」
ますます奇妙だ。イタズラだろうか。
送り主の名前も、番号の相手も、思い当たる相手は一人もいないのに不思議な胸騒ぎに駆られて小箱を開ける。
「!!!」
小箱の中で燦然と咲き誇っていたのは、真っ赤な一輪の薔薇だった。
巨大な一つの紅い宝石を削って作られたと思しきそのブローチに、サカズキはある男の顔を思い出して慌てて電伝虫を手元に引き寄せた。
紙切れに書かれた番号に発信すると、数回のコール音の後、繋がった。
「グララララ! どうだ、気に入ったか?」
懐かしい忌々しい声が受話器越しに豪快に笑った。してやったり、と笑うアイツの顔が目に浮かぶ。
「今のお前にはあのブローチじゃあ役不足だろう」
きっと似合うぜ、大事にしろよ。そう言いたいことだけ一方的に言って、通話はあっという間に切られた。
その後は何度コールしても相手が受話器を取ることは無かった。
手元に残ったのは紅いブローチだけ。あぁなんて自分勝手で身勝手な男だ。
「…バカたれが……」
箱の中で輝く薔薇を手に取って眺める。あの男がどうしてこんな上等なものを持っているのか、どうやって手に入れたのかは分からないが、きっと目が飛び出るほどの高値だったに違いない。あの時のブローチの何倍もしただろう。
…あの野蛮で豪快な男の中の、一体どこにこんなセンスのいいものを選んで、さらに贈るという発想が潜んでいるのかは全くもって謎だ。
ブローチに罪は無い。
そう自分に言い聞かせ、ピンを外す。こんなところまで凝っているんだな、と感心しながら針を通し、留める。
薔薇は、まるでずっと以前からそこに留められていたかのようにしっくりと馴染み、胸元で一片の曇りもなく誇らしげに煌めいた。
(サカズキィ~、この間の出陣のことなんだけどォ~……おぉ~?)
(何じゃあ)
(それ、どうしたんだァい?)
(…貰った)
(へぇ~。凄く似合ってるよォ~)
自分の贈ったブローチをつけて自分の首を取りに来るサカズキの姿を見て、ニューゲートが嬉しげに目を細めるのはもう少しだけ後のこと――