六月の花嫁彗星の如くヒーロー界に現れ、鮮烈なデビューを飾り、オールマイトの再来と讃えられた若手ヒーローがいる。
『デク』
たった二文字の彼のヒーローネームは今や世界中に知れ渡り、ファンは星の数ほどいる。
そんな彼は私の恋人だ。
「オールマイト!!」
彼の声に、背中越しに振り返ると、転びそうになりながらこちらへ駆け寄ってくる緑谷少年の姿。
そんな名で呼ばれるのも随分久しいな、っていうか私はもう "オールマイト" ではないんだけど。
「えっ!? オールマイト!!?」
「嘘でしょ!?」
「引退したはずだろ!? この近くにいるの!?」
途端に周囲の人々がざわつき始める。引退を公表したのはもう何年も前だというのに、有名になり過ぎた "名前" はそう簡単に人々の記憶からは消えない。
自分の間違い(いや、間違ってはいないのだけれど)に気づいたのか、緑谷少年は慌て、どうにか訂正をしようと逡巡したのち、
「…っ、のインタビューDVDってあそこのレンタルビデオ屋さんに置いてましたっけ!!?」
と、いささか苦しい言い訳じみた言葉を付け加えながら私のもとへ走り寄って来た。
どうです!? 上手く誤魔化せたでしょう!! と言いたげに満足そうな顔をする緑谷少年。んー、ちょっと微妙だけど、うん! 何とか誤魔化せたんじゃないかな!
「あったと思うよ。行ってみようか。」
周りの人の不審そうな視線が少し痛いけれど、とりあえずこの場から離れようと、少年が訂正に使ったレンタルビデオ店へ向かう。
私の隣を嬉しそうに歩く彼の正体に、誰も気づかなかったことに少しだけ安堵しながら。
「さっきはすみませんでした…」
所狭しとDVDやCDが詰め込まれた背の高い棚に囲まれた店の片隅で、ここなら落ち着いて話せるかな、と思って立ち止まる。
「HAHAHA、気にしてないよ! しかし、誤魔化すのが上手くなったな緑谷少年!」
最初の頃は逃げるようにその場を後にするので精いっぱいだったのに。
HAHA…と自分の体を見下ろして、笑い声がうっすらとため息になって消える。
「まぁ、こんな格好じゃ誰も私がオールマイトだなんて気づかないだろうけどね…」
骨と皮だけの枯れ木のような醜い姿。ワンフォーオールはもう完全に緑谷少年に譲渡されてしまったから、今の私は何の個性もない、ただの八木俊典でしかない。
「しかし…」
雄英高校に在籍していたころから、お互いの呼び方は変わっていない。私たちはあの頃と変わらず緑谷少年、オールマイト、と呼び合う。
いい加減緑谷少年も "少年" とは言えない歳になりつつあるし、私はもう "オールマイト" じゃない。
「緑谷少年」
「はい?」
「私たち、お互いの呼び方そろそろ変えてみ
ガシャ――ンッ!!!!
「「っ……!!?」」
硝子か何かが割れる音と共に、悲鳴が響く。
慌てて店外に走り出ると、道路を隔てた向かい側の銀行から、何人もの人が転がるように飛び出てきていた。
「敵…!?」
「銀行強盗か…!」
出入り口の扉から、モクモクと黒煙が溢れている。火炎系の個性だろうか。
周辺にヒーローはまだ駆けつけていないようだ。
「オールマイト…」
隣に立つ彼は、ヒーローだから。私の恋人、という肩書と、平和の象徴、という肩書は天秤にかけるまでもなく。
申し訳なさそうに眉を下げる緑谷少年は、今この瞬間、この場の全員に到着を待たれている。
だから。
「私は大丈夫だから、行ってきなさい」
だから、私はこう言うしかない。言うしかないじゃないか。
「…ごめんなさい、折角のお休みなのに」
「いいから、一仕事しておいで」
ほら、沢山の人が君の助けを待っている。
「ごめんなさい…行ってきます」
そっと私の額に口づけて、彼は颯爽と人混みの中へ消えていった。その横顔は、もう平和の象徴、プロヒーロー『デク』の顔だった。
『デク』の登場にごったがえす現場に背を向けて、もと来た道を引き返す。
ヒーローの顔になった緑谷少年は、すごくカッコイイ。正直、さっきキスされたときはおじさんドキドキしちゃったよ! HAHAHA! 恥ずかしいな!
きっと今頃彼は多くの人を助けているんだろう。あの頼もしい笑顔で、多くの人に安心を与えているんだろうな。
緑谷少年は、とても忙しいから、オフの日は少ない。そんな数少ないオフでも、今日のように敵が現れれば出動せざるを得ない。
出動すれば敵を捕らえた後のインタビューやら何やらで、プライベートの時間は無くなってしまう。
仕方のないことだというのも分かってる。だって私も似たようなものだったからね。
でもやっぱり、背中を見送るだけっていうのは少し寂しい。
緑谷少年から告白されて付き合うようになってからはかなり時間が経ったけど、こういう時やふとした瞬間に不安になってしまう。
(本当に私なんかで良いんだろうか)
だって私、もうマッスルフォームになれないし、ヒーローでもないし、かなりのおじさんだし…
同性だし、見た目だってお世辞にも良いとは言えないし。
彼のように前途ある若者の隣にいていい人間ではないはずなんだけどな。
あれ、おかしいな、自分で考えてて悲しくなってきたぞ!?
(弱気なおじさんなんて面倒くさい生き物、嫌われちゃうぞ! 前向きになれ、私!!)
(そうだ、確か冷蔵庫に材料あったから、今夜は緑谷少年の好物のカツ丼を作ってあげようかな)
緑谷少年は、すごく美味しそうに食べてくれるから作り甲斐がある。毎回毎回褒めてくれるし、こっちも嬉しくなる。
角のお肉屋さんでトンカツ買って帰らなきゃ。今日は奮発しちゃおうかな~、なんて考えていると、いつの間にか足取りが軽くなる。我ながら単純だな、私!
通り道の電気屋の店先、据えられた幾多の画面に高画質で映る『デク』のインタビュー。
はにかみながらも記者の質問に答える姿は、様になってるなぁ、なんて。
思わず立ち止まって見惚れていると下校途中らしき女子高生たちが画面を見るなり黄色い声を上げて駆け寄ってきた。
「あー! デクだー!!」
「ホントだ! かっこいい~!」
笑顔が素敵だよねー、強くて優しいのがいいよねー、と言いながら『デク』を見つめる彼女たち。
あー、うんうん、分かるよ!
ヒーロー活動時の笑顔とか、右腕から放たれる強烈な攻撃とか、ね!!!
「デクって、彼女とかいるのかな?」
ガツン、と頭を殴られたような気がした。いやまぁ気がしただけで実際その女子高生たちに殴られたわけじゃないんだけど。
高校生たちの話題は秋の空のように移り変わりが早い。明日の授業のことだとか宿題のことだとか、その年代の子に特有の話をしながら、彼女たちは歩いて行ってしまった。
でも私は、そのままテレビを見つめていた。彼女が言った言葉が、頭の中で反響し続ける。
彼女。ガールフレンド。
そうだよね、だって彼は誰もが憧れるヒーローで、誰もが認める平和の象徴。そして何より、男だ。
私も男で、彼も男で。
普通は、彼女の一人や二人いたっておかしくない。寧ろそうでなきゃおかしい。
何で彼は私を選んだんだろう。どうして、私なんだろう。
憧れを恋愛と履き違えているだけじゃないのか、とか、勘違いじゃないのか、とか、告白されたときに何度も確認した。
けれど緑谷少年は真っ赤な顔で、緊張からなのか目尻に涙を浮かべて、あなたが好きなんです、あなたを、オールマイトを愛してるんです、と言ってくれた。
だからその純粋な気持ちに応えたいと思った。少なくとも彼の瞳は真っ直ぐで、嘘をついているようには見えなかったから。
正直、その時の私にはソッチの気は無かったし、緑谷少年を恋愛対象としてなんて見ていなかったからすごく驚いて、戸惑った。
ワンフォーオールも譲渡して、ヒーローからの引退を表明して、やるべきことは全て終え、もう私には何も残っていなかったから、彼に何度も確認した。
本当に私でいいのか、と。この先遠くない未来、私は老いて死ぬ。君と共に在れる時間はそんなに長くないよ、と。
おじさんだし、男だし、本当にいいの? と。
けれど彼は、それでもいいと言った。あなたの残りの人生を、僕にください、と。
そんな口説き文句、どこで覚えてきたの!!? とビックリしたけど、同時に嬉しかった。
私が持っていた輝かしいモノの数々は、受け継がれたり、奪われたり、手放したりして、どれも手元に残ってないのに。
空っぽの残りの人生を、彼は欲しいと言ってくれた。
まだ私を、私の持っているものを必要としてくれる人がいるのなら。
相澤君あたりが聞けば、それはあなたの自己満足でしょう、と鼻で笑うかもしれない。
実際そうだと思う。私は、明るい未来を歩む彼の足枷になっている。マスコミに関係が知れれば大事だ。
テレビの画面はとっくに別の番組に変わり、賑やかに喋るタレント達が映されていた。
(帰らなきゃ…せっかく熱々のトンカツ買ったのに、冷めちゃったかな……)
お肉屋の店長さんが揚げたてを入れてくれた茶褐色の紙袋を胸に抱きかかえると、まだほんの少しだけ温かかった。
緑谷少年がいつも褒めてくれるカツ丼。甘めに味付けした玉ねぎをふわとろの卵でとじて、ご飯にかける。その上にトンカツを乗せて(今日は奮発してちょっと多めに!)、グリンピースで彩る。
料理するのは楽しいから昔から好きだった。こんな体になってからは、作っても量が食べられないから作り甲斐が無くて……でも今は、食べてくれる人がいる。美味しいと褒めてくれる人が、いる。
料理を作って、掃除をして。
緑谷少年の為に私ができることなら何でもした。彼に必要とされたくて。彼に捨てられるのが怖くて。
あぁ私はなんて卑怯な大人なんだろう。
付き合い始めたころは、緑谷少年に彼女が出来たら、彼の幸せの為にも潔く身を引こうと思っていたのに。
気づけば、みっともなくダラダラと関係を続けている。面倒くさい女のように、彼に縋っている。
あぁもうホント…私って……
またネガティブに沈みそうになった私の耳に、玄関のドアが開く音が飛び込む。
「ただいま~」
一拍遅れて彼の声。慌ててエプロン姿のまま玄関まで走る。
「おかえり!」
キッチンから玄関までの、決して長い距離とはいえない廊下を少し走っただけで、このポンコツな体は悲鳴を上げる。
Shit! 疲れて帰宅しただろう彼に心配をかける訳にはいかない。喉元にこみ上げるもはやお馴染みの液体をぐっと堪えて、どうにか笑顔で彼を迎える。
「すみません、料理中でしたか! わざわざ出迎えていただかなくても良かったのに…」
私のエプロンを見て、申し訳なさそうに眉を下げるので慌てて訂正する。
「あぁ、いやこれは…丁度出来上がったところだったからNoProblemさ! ブフォッ!」
「うわあぁ!!?」
あーやっちゃった。緑谷少年の服を血で汚してしまうという最悪の事態は避けられたけれど…
「だ、大丈夫ですか!?」
「平気だよ、心配かけてごめんね」
口の周りの血を、彼が差し出してくれたハンカチで拭う。後で綺麗に洗わなきゃ…シミになりませんように!
すん、と鼻をひくつかせた緑谷少年の顔がパァッと綻ぶ。
「もしかして、今日はカツ丼ですか!!」
そうだよ、と言うとさらにもう一段階彼の顔が嬉しさに染まる。やったー! と無邪気に笑う緑谷少年に、私の心は少しだけ痛くなる。
……卑怯な大人でごめんね。私は私が思っていたよりずっと汚かったみたいだ。
「オールマイト、」
優しく抱きしめられて、緑谷少年の腕に包まれる。
「み、み緑谷少年!!?」
「好きです。大好きです。オールマイト…」
ぎゅう、と腕に力が込められて、苦しい。
愛してます、と繰り返される言葉に安堵してしまう自分がどうしようもなく嫌だった。
ぼろぼろと理由の分からない涙が零れだして、緑谷少年の肩を濡らす。歳をとると涙もろくなっちゃってやだなーもう…止まんないし……
「オ、オールマイト!? どうしたんですか!? あ! もしかして傷がっ!?」
「、ちがう、しょうねん、ちが…っ、」
「突然抱きしめたのが嫌、でしたか…?」
「そ、じゃない…みどりやしょ、ねんは…悪くなくて…」
途方に暮れたような顔で覗き込んでくる少年。ああ、そんな顔をさせたかったわけじゃないのに……
涙腺までバカになっちゃったみたいで、涙がとめどなく流れ落ちていく。
「あぁ…泣かないで、オールマイト…」
HAHAHA、おかしいな、どうして緑谷少年が泣きそうな顔をするんだい。
「笑ってください、オールマイト」
彼が困っている。笑ってあげなければ、と思うのに、忌々しい表情筋はぴくりとも動こうとしない。
「何か辛いことでもあったんですか…?」
僕が、あなたを傷つけることをしてしまいましたか…? 不安そうに尋ねる彼の指先が、私の涙を拭っていく。その仕草はどこまでも優しくて。
「ぐす、みどりやしょうねんは…なんで、わたしっ、なんかを、えらんだの…?」
言ってから、後悔。私は何を言ってるんだ。これじゃあホントにめんどくさい女性のようじゃないか。
いい年したおじさんがメソメソ泣いて、きっと今、私の顔は涙やら鼻水やら血やらで酷い有様なんだろうな。
あぁ、でも、一度口に出した言葉は取り消せないし、さらに止まることなく私の唇から溢れ出す。
「わたし、もうなにももってない、し、…こっ、こんな、からだだしっ……」
みっともない、醜い言葉が次々と吐き出されていく。緑谷少年の顔を真っ直ぐ見られなくて俯く。
「顔を、上げてください…オールマイト」
ぐず、ずずっ、と鼻をすすりながら、緑谷少年の顔を見上げる。
彼の目には未だうっすらと涙の膜が張っていたけれど、とても優しい笑顔を浮かべていた。
「ごめんなさい。僕の言葉が足りないばっかりに、あなたを不安にさせてしまった…あなたを、泣かせてしまった」
壊れた蛇口のようにぼたぼたと涙を零し続ける私の目尻を何度も何度も拭いながら、彼が笑う。
「僕は、あなたが好きなんです。あなたじゃなきゃ、駄目なんです」
一粒零れ落ちるたびに、その度彼の指先が頬を撫でる。
「あなただから、選んだんです。勿論ヒーローだった頃のあなたも素敵でしたけど、今のこの姿だって僕は大好きですし、あの、僕は、その、」
今の姿の方が素敵だと思います…と、最後の方は尻すぼみになりながら、緑谷少年は言った。
「だから、お願いですから泣き止んでください…」
する、と彼の親指が目尻をなぞり、軽いリップ音と共に口づけが降ってくる。
「せっかく作ってくれたカツ丼が冷めちゃいますから、ね?」
宥めるように背中を撫でられ、ちゅ、ちゅ、と目元の薄い皮膚を啄まれる。
緑谷少年の言葉が嬉しくて、何度も落とされる口づけがくすぐったくて、気づけば涙は止まっていた。
二人でテーブルについて、一緒にいただきますを言う。
まだうっすらと温もりの残るカツ丼を一口食べた途端、緑谷少年の目が真ん丸になる。
「どう? 美味しい?」
ぶんぶんと音がしそうなほど首を上下に振って、目を輝かせながら食べる少年。
好物だからかもしれないけれど、こんなに美味しそうに食べてくれるとやっぱり嬉しいな。
「…緑谷少年」
「ふぁい?」
口いっぱいに頬張っていたのを慌てて飲み込む様子が微笑ましい。
「さっきは、その、突然泣いちゃったりして、ごめんね…?」
「っ、それは僕の言葉が足りなか」
手のひらで彼の言葉を遮って、続ける。
「でも、本当に私でいいのかい? さっきも言ったけど私は男だし、こんな体だし、君に教えてあげられることも無い」
少年が何か言おうとしているのは分かったけれど、あえて気づかないふりをする。
「それに、さっきみたいに君を困らせてばかりだし、もし今後君にふさわしい女性が現れた時、潔く身を引ける自信もない」
付き合い始めたころから胸の奥に絡み付いていたどす黒い感情を、一つずつ解いて晒す。
「それでも、君は…こんな、こんなみっともないおじさんでも、いいのかい…?」
「オールマイトはおじさんじゃないです」
眉間に皺を寄せて、幾分むっとした顔で言う少年。それからハの字に眉を下げて、寂しそうに言った。
「僕は、僕はあなたが好きなんです…もうこれ以上、どうやってあなたにこの気持ちを、想いを伝えればいいんですか……」
今日だって、折角のお休みなのにあなたと一緒に過ごせないことがとても残念で悔しかった。でも、あなたが家で待っていてくれると思えば敵退治も頑張れた。その後のインタビューだって、遅くなったら申し訳ないから、早めに切り上げてもらった。
家のドアを開けた時、あなたが迎えに出てきてくれたのが凄く嬉しかった。夕食を作って待っていてくれたのが、どうしようもなく幸せだった。
あなたがいなければ、この世界は何の価値もない。あなたでなければ、こんなに愛せない。
「好きです、オールマイト。どんなあなたでも僕は愛せる自信があります。だからどうか、そんな悲しいことを言わないで…」
ありったけの想いを渡された。私は今まで、一体何を見ていたんだろう。何を恐れていたんだろう。
こんなに、こんなにも少年は私のことを。あぁ、そうだったんだ。
「緑谷、少年…」
なーんだ、遠ざかっていたのは私の方だったんじゃないか。
勝手に思い悩んで、不安になって。
HAHA、と思わず笑いが零れた。嬉しい。嬉しくて、幸せで、心臓の辺りがぽかぽかする。
「ありがとう…!」
彼は、私を必要としてくれている。こんな私が必要なんだと。ならば私もその想いに答えてあげたい、なんて。
「あの、オールマイト…」
「…俊典」
「へ?」
「俊典、でいいよ。…出久、くん」
ぼふっ! と音がするんじゃないかってぐらいの勢いで顔を赤くした緑谷少ね…出久くんが、はあぁぁ~~~~と長い長い溜息をついて、テーブルに突っ伏した。
あ、あれ? 下の名前で呼ばれるの、嫌だったかな!!? ていうかコレ結構恥ずかしい! 恥ずかしいな!!
「ごごごごめんね!? やっぱり急に下の名前で呼び合うのってオカシイよね! うん!!」
顔中が熱い。やっぱり今まで通りのままで、と言いかけたら、突っ伏していた出久くんが跳ね起きて、ガシッと私の手首をつかんできた。
その拍子に彼の手にはじかれた丼がゴトゴトッと重たい音を立てて揺れるのが見えた。
「俊典、さん」
響きを噛み締めるように囁かれて、脳みそが沸騰しそうになる。
出久くんの顔が近づいてきて、お互いの額がこつん、とぶつかる。鼻と鼻が触れ合いそうな至近距離で見つめ合う。
「これから先、ずっとずっといつまでも、僕の恋人でいてくれますか?」
真っ直ぐ、純粋な彼の瞳を見つめ返す。
「…もちろんさ」
へにゃり、という擬音がぴったりな、酷く幸せそうな笑顔を浮かべた彼に口づけられる。
時間にすればほんの数秒。優しく触れるだけの口づけから解放され、閉じていた目を開けると。
「…っ!」
左手の薬指に、リング。
おいおい、これってまさか……
「サイズ、ちゃんと合ってますか?」
シンプルだけれど美しく輝く銀色。測られた覚えは全くないのに、絶妙にフィットするサイズ。
「うん…ぴったりだよ…」
呆然とリングを見つめるしかできない私を満足そうに見つめながら、彼は良かった、と息を吐いた。
「ごめんなさい、盛大な結婚式とかは挙げてあげられないんですけど…どうしても渡したくて」
気に入ってくれましたか? と悪戯に成功した子供のように彼は笑っていた。
本当は今日、二人で出かける予定だったから、その時に渡すつもりだった。
でも敵が現れたことでその計画は崩れてしまったから。
渡すのが遅くなってしまったけれど、何とか彼の薬指に嵌めてあげることが出来た。
とてつもなく大きなダイヤとか、凝った彫刻とか、色とりどりの宝石とか、お店の人に随分薦められたけど、僕はこのリングが相応しいと思った。
どんな宝石だって彼の瞳には到底敵わないし、美しい金細工も彼の太陽色の髪の前ではくすんでしまうだろうから。
それなら、と選んだのが、決して色あせず永遠に形の変わらないという特殊な金属を用いたこのリングだった。
オールマイ、じゃなかった、俊典さんは意外と心配性で、ちょっとしたことですぐ不安になるっていうのに気づいたのはいつ頃だったか。
雨がしとしと降り続けて、洗濯物が乾かないとき。料理に失敗して、ほんの少し焦がしてしまったとき。胸の古傷が酷く痛んだとき。血を吐いて、僕の服を汚してしまったとき。
そんな些細なことでも彼は落ち込んだり、焦ったり、悲しんだりする。そんな姿さえ愛おしくて、僕は好きだけれど。
でもその小さな不安が降り積もり、折り重なって、とうとう今日、彼の中でその山が崩れてしまったんだろう。
「俊典さん」
未だにまじまじとリングを見つめている俊典さん。可愛い。
「…大好きです」
彼の不安が少しでも軽くなりますように。せめて形あるものを。
そう思って贈ったリング。これからもずっとずっと彼の左手で輝いていますように。
「みど、あ、出久くん!」
俊典さんがあたふたと視線を彷徨わせて、ぽつり。
「…わ、私もっ、大好き、だよ…」
言ってから、じわじわと赤くなっていく顔。この人は…本当に……なんて可愛い人なんだろう…!!
うわー、恥ずかしい…っ! と顔を覆ってしまったけれど、髪の隙間から見える耳は真っ赤で。
そっと左手で彼の左手をとる。
「お揃い、ですね」
僕の薬指にも、彼と同じ銀色。
ヒーロー活動の時はグローブをつけるから、メディアには多分、バレない。…多分。
チェーンを通してネックレスにしても良かったけれど、やっぱり相応しい場所に嵌めるべきだと思ったから。
俊典さんの細い指とは違って、僕の傷だらけでゴツゴツした指にこんなリングは似合わないと笑われてしまいそうだけど。
「HAHAHA、なんだか私、お嫁さんみたいだね」
「およっ!?」
そっか~、じゃあ出久くんは私の旦那さんか~、HAHA、嬉しいなぁ…なんて言いながら、くすぐったそうにリングを見つめる俊典さん。こ、この人はっ…!!!!!
「~~~~っ!!!!」
一生、この人を愛し続けよう。一生、この人の "旦那さん" で居よう。
テーブルの下で、僕は密かに右手をぐっと握りしめた。