【brmy】as modest as a glass of wine ──今夜は、どうか今夜だけは、早めに帰ってきてくださいね。
出掛けにそんな言葉を彼から告げられ、その理由や意味を深く考えず、「善処はするが約束はしない」と、そんな返事をしてしまったことを後悔したのは、夜の随分と遅い時間になってからの話だ。
それが、しかもよもや──。
「え、ちょっとアイアイなにしてんの!?」
須王芦佳が深夜のこの時間に事務所に現れたことはさておき、こんな時間に素っ頓狂な大声を上げたことには、流石に非難の視線を向けざるを得なかった。
「その言葉、そっくりお前に返してやろう。あとそれで言うなら何時だと思っている、大声を出すな」
皇坂逢のそんなドがつくほどの正論に、芦佳はオーバーリアクション気味な動作で両手で自身の口を塞いだかと思えば、「くぅ〜〜〜正しくその通りだネッ!」などと彼なりの極限まで声を潜めながら叫んだ。声のボリュームこそ確かに許容できるレベルまでは落とされたものの、その圧は全く変わっておらず、逢は心底呆れた顔で溜め息を吐いた。
「それで、俺がこの時間に事務所にいることがそんなに驚くことなのか」
「えっ……ああっそうだよアイアイっ!なんでこんな時間まで残ってるんだい!今日は外での打ち合わせが終わったら直帰するって」
我に返ったらしい芦佳が呈した疑問に、寧ろ逢の方がどこか不思議そうな顔を返す。
「そんなの、仕事があるからに──」
「そんなの!僕とゆづくんとで終わらせてあるのに気付いていなかったのかい!?」
「……は?」
百歩譲って、「ゆづくん」──由鶴がそういった気を回したということなら合点は行くが、芦佳も仕事をしたなどとは、正直信じ難い話だった。しかも、残っていた──と認識していた──仕事の内容的に、芦佳が手を付けたともなればそれはそれで別の意味で信じ難いというより、ある意味度し難い話だ。ようやく今のこの状況を飲み込めた逢は、弾かれたように自席のPCのスリープを解除した。仕事を片付けるどころか増やすようなことなど、芦佳はさておき、由鶴に限ってそんなことをさせはしないだろうが、それでも一刻も早く確認しなければという焦りが逢の中で込み上げ、そして──。
「ああ、やっぱり逢さん戻ってきてましたか」
非の打ち所のない完璧な仕事ぶりに、それを先導したであろう彼への感謝よりも、懸念が杞憂で済んだことへの安堵の方が先に浮かんだ矢先、ちょうど確認し終えたぐらいのタイミングで逢に声を掛けたのは、此度の功労者その人──城瀬由鶴だった。
「やっぱり、というのは」
「俺、逢さんにチャッタスでお知らせしてたと思うんですが……あ、やっぱり既読付いてないですね」
苦笑する由鶴を見遣りつつチャッタスを開いてみれば、確かに彼からのメッセージに未読のマークが付いたままだった。
「まあ、こんなことだろうと思ったんで俺もここに来たんですけど、芦佳さんもいらしたんですね」
「トーゼン!だって僕らは以心伝心だからねッ!ゆづゆづが思いつくことは僕にだって分かっていたよ」
えっへん、と胸を張る芦佳に胡乱げな視線を投げつつ、逢は敢えて由鶴に問いかけた。
「さっきから、二人共何の話だ。俺が直帰せずに戻ってくるだろうと思ったからといって、お前たちがわざわざ事務所に来る理由は」
「逢さん、今日って何月何日でしたっけ」
由鶴の言葉に、逢は深く考えることなくごく自然に口を開く。
「四月十……おい、お前たち──」
「アイアイのアピールが少なすぎて、まさか忘れちゃってたりするんじゃないかと思って心配したけど、そういうことじゃないみたいだね」
「芦佳さん、逢さんはそもそもあんまりご自身の誕生日をそこまで盛大に祝われる方ではないでしょう」
「盛大かどうか以前に、そもそも積極的に祝われたいとも思っていない。生まれた日だからといってそれを記念日だなんだと過剰に特別視する必要性など無いだろう」
なんとなく、謎が解けたところで逢は嘆息した。人の誕生日を祝っている暇があったら仕事をしろ、それが何よりのプレゼントだ、などと言って憚らない逢からすれば、由鶴と芦佳の行動は一歩間違えれば有難迷惑だったが、とはいえ。
「まあ、普段余計なことしかしない芦佳が珍しく役に立った、ということなら、俺の誕生日も役に立ったんだろうがな」
「もう!アイアイ言い方!」
皮肉めいた顔で薄く笑ってみせた逢に、そしてどこか拗ねたような芦佳の言葉に、由鶴は少し笑いながら手に提げていた袋を持ち上げてみせた。
「その様子だと、碌にお祝いもされていないんじゃないかと思って、逢さんお気に入りのワインを持ってきました」
「僕はケーキとおつまみ!」
「だから、別に俺は──」
「これぐらいささやかなお祝いすらさせてくれないんですか」
そういえば、由鶴は時折思いの外頑固になる時があったな、などと思いつつ、逢はどこか観念したような顔で溜め息を吐いた。
「そこまで言うなら、付き合ってやる」
グラスを貸せ、いや主賓は注がれる側だよ、二人共落ち着いてください、と三者三様の動きをしつつ、気がつけばいつの間にやら三人の手にはワイングラスがあった。
「ハッピーバースデー、アイアイ!」
「おめでとうございます、逢さん」
「ああ、まあ、礼は言っておこうか──有難う」
こうして、本部の三人だけで過ごすバースデーナイトは、静かとは言い難い雰囲気のまま、それでも穏やかに過ぎていったのだった。