その偶像に愛を込めて ふと触れた肌はガラスのようだった。
オレに触られたのが嫌なのか嬉しいのかよく分からない紫の瞳だけが人間みたいで、それすらも作り物のようにも見える。
「ジュンくん?」
静かに問う声にそっと手を離す。さっきまで確かに触れていて、今も目の前に居るのに。
幻の中にいる心地ではいと、いつものように返事を返した。
偶におひいさんの境界線が曖昧になる。飯食った後出した紅茶を飲む時、オレとのレッスンがうまくいった時、メアリと遊んでる時。場合は様々だがふとおひいさんの境目が溶ける時がある。
おひいさんは尊大で、我儘で自由な貴族様で天性のアイドルだ。愛と笑顔を振りまく眩しい太陽にぴったりな人。そんな人が偶に本当に偶に曖昧になる。オレの知ってるアイドル巴 日和でも、我儘貴族のおひいさんでもない、知らないのに知ってるおひいさんになる。
知らないおひいさんは同じ場所に居るのに、何かを噛み締め一歩外に居るみたいになる。何かを躊躇ってる臆病で繊細な指先がそっと伸ばされ決まってオレの薬指に絡む。切なくて幸せそうな不思議な顔してガラスを映す。そんなおひいさんが偶に居る。
「おひいさん」
「なぁに、ジュンくん」
だからこっちから触れてみようといつからか思った。何度触れてもひんやりした頬はガラスみたいで、作り物みたいに美しい。嵌め込まれた紫のガラス玉も透き通ったきらきらで何を思っているかはよく分からない。
「ジュンくん」
おひいさんは笑わない。可笑しそうな微笑みも浮かべず、ぼくに触るなんてジュンくんったら寂しがりさん! とかふざけたことも言わない。ただ静かに名前を呼ばれる。体温が移って温くなってきた。そっと手を離してじっと見つめる。氷が溶け切ればオレの知ってるおひいさんだ。だから今だけ、この時間だけがオレがこの人に近付ける唯一の時間だ。
「紅茶飲みます?」
「要らないね」
「キッシュもありますよ」
「きみはそればかりだね」
とろり、と紫が溶ける。愛おしそうな呆れた瞳がかえってきた。
「好きなものの話はいつしたって弾むもんでしょうが」
「今終わったのにね?」
「じゃあ何が好きなんすか」
「お喋り下手くそだねジュンくん」
くすくすと笑う口元がゆっくりと弧を描く。
「あんたがお喋りずきるんすよ」
「そんな事ないね。ぼくが喋らないと寂しいってしょんぼりするのにね! ジュンくんったら、ワ・ガ・マ・マ!」
「あんたに言われたくないっす」
部屋いっぱいに明るい声が響く。あぁ、もうすぐ終わってしまう。
「おひいさん」
もう一度頬に手を伸ばす。溶け切るガラスに触れる寸前ゆっくり動いた口に指が止まった。
「ぼくの事知りたいの?」
きらきらのアメジストが静かにオレを見る。
はいと一つ頷き返す。それだけで下手くそな会話は正解を得るだろう。
黙って静かに手を下ろす。
「そう」
きゅっと指が絡まる。じんわりとあたたかい温度が肌を伝う。
「ジュンくん今日はバスボムを使うね! 薔薇の香り!」
「……はいはい」
ぱっと離されたいつも通りの指を追う気にはなれず、にこにこ笑うおひいさんを横目にソファから離れた。
溶けて溶けて、戻った線の縁はなぞっても柔らかいだけだ。幻のように消え、ガラスの人の手は掴めない。
それでも数回繰り返して気付いた事がある。
「オレおひいさんの事好きだと思うんすよ」
紫のガラスが丸くなる。おひいさんそんな顔も出来たのか。
普段のおひいさんは表情豊かだ。素直だから誰にだって明るく不遜にフラットに接してる。でもこのおひいさんはどこか儚いから同じところがあるとほっとしてしまう。
「……ジュンくんはぼくの事大好きだね」
「そっすね」
「素直だね。お熱でもあるの?」
ひんやりした肌が額にぶつかる。照明の影になってもおひいさんは綺麗だ。
「酷いっすねぇ。告白? したってのに」
「分かってないなら言うべきではないね」
「オレに好きって言われて嬉しかったっすか?」
「話聞かないね」
少し下がった眉が可愛い。戸惑い困惑しているおひいさんはレア、いや、もしかしたらオレに対しては初めてかも知れない。へへっとつい出た笑みに離れた額が温い。
「下手くそなんで聞くしか出来ないんすよ」
「ジュンくんは思考放棄する子じゃないね」
「してませんよ? ただあんたが幻みたいだから」
「幻?」
「居るのに居ないから」
5本の指を絡めてみる。こうして握るとしっかりとした手だ。こんな所もオレよりデカい。おひいさんに敵う所ってあるんだろうか。ぴくりと震えた冷たい指を何度も緩く握りしめる。
「不思議だったんすよ。うるさくないし泣きそうな顔で指握ってくるくせに幸せそうで」
「……」
「あんた寂しがりっすもんねぇ」
きゅっと握る力を強め笑ってやる。
出会った時の恐ろしく遠い人とは違う、そばにいるのに遠いおひいさん。今オレはこの人の心の柔らかい部分に触れている。
「怖がんなくてもオレはあんたの事好きっすよぉ〜。一緒に死ねるくらいあんたが大事です」
「ジュンくん!」
「特別な気持ちも、恋愛感情もないっすか? それならそれでいいっすよ。オレはあんたを愛してるだけなんで。恋人じゃなくてもあんたのそばに居続けます」
このおひいさんは大きな我儘を言わないからオレが我儘になってやる。あんたが泥だらけのオレの手を取って隣においでって誘ったんだ、オレからもガラスのあんたに触れたっていいでしょう?
「おひいさん、紅茶飲みますか?」
「……いただくね」
「キッシュも作りましょうか」
「きみはいつもそれだね」
「あんたはオレの手作り好きっすもんね?」
「自信家だね、ジュンくん」
ふわりと微笑んだおひいさんの頬が赤い。そろそろ終わりかと少しだけ名残惜しくなる。腰を上げ立ち上がる。次はいつこのおひいさんに会えますかねぇ。
「ねぇジュンくん」
「うぉ」
ぼすんっとソファに逆戻りしてしまった。腰に腕を回されすり、すり。と柔らかい横髪を擦り付け甘えてくるおひいさんがくすぐったくて、胸がどきどきと速くなる。
「おひいさん?」
「言い逃げは良くないね。ぼくの気持ちを聞かないなんて狡いね」
「狡い?」
「一方通行は成立しないね、ジュンくん」
そうだろうか? おひいさん割といつも一方的だ。
「きみだけがぼくを好きだなんてそんなの嫌だね」
「オレだけじゃ足りませんか? ナギ先輩も」
「お馬鹿!!」
「いってぇ!」
ごちんと横から頭をぶつけられた。おまけに力いっぱい抱きしめられる。ひりひりとした痛みの残る頭を振って顔を見ればきらきらの紫は砕け、星のようになっていた。
「ぼくは、きみの愛を享受するだけの男じゃないね! ぼくだってジュンくんを愛しているね!!」
「知ってますよぉ? おひいさんオレの事そこそこ気に入ってますし」
「気に入ってるなんて可愛い事言うね。その程度な訳がないでしょう」
呆れた愛おしそうな声で頬を撫でられる。撫でるなら頭にしてくれませんかね。あんたのせいでひりひりしてんすよ。無言で目を訴えれば温かい指は仕方なさそうに離れ、腹に戻った。
「ぼくが思っていたよりジュンくんはぼくの事だぁいすきでびっくりしちゃったね」
「はぁ? とっくの昔に知ってたでしょうが」
「ジュンくんはぼくを愛してるって事は知らなかったね?」
くすくすと悪戯っ子の笑みを浮かべたおひいさんにだんだん顔が熱くなってきた。
「あんたもしかしてわざとっすか」
「わざと?」
「さっきまでのおひいさん」
不思議そうな星が一瞬だけ過ぎる。すぐに満面の笑みに変えたのは、多分照れ隠しだ。
「そうかもね? ぼくは寂しがりなおひいさんだから」
ぎゅうっ! ともう一度強くなった腕に力を抜く。重いねの文句は無視だ。
「だったら、愛してあげないとですねぇ」
「義務なの?」
「いいえ? オレがしたいんです」
「そう」
もぞもぞと動いて正面に収まる。すっかりオレの知ってるおひいさんだ。そろりと腕を回してみる。あったけ。家の中も少し違って見える。
「ねぇジュンくん」
「はい」
「きみも、愛されてるんだからね。ぼくはきみが大好きだって分かっていてね」
柔らかい輪郭に溶けた水が重なる。やっとおひいさんが見えた気がした。
「おひいさん」
柔らかさに目を閉じて、ゆっくりと腕から抜け出す。愛おしいと微笑むおひいさんは、知っていて知らなくて、今は近い。
ガラスを破り戻った時間に湯を沸かす。他愛無い話を響かすおひいさんはどこまでも底がない。
触れた一部よりずっと深くを知れるまで。何度だってオレはあんたの手を取る。
「おひいさん、紅茶出来ました」
愛してるなんて、可愛いかもしれませんね。