はろー、はろー、ばらのあなた 昔教えてもらった事がある。
この世界のどこかに赤い薔薇が咲いていて、それを手にすれば静かな月の光ではなく、温かい太陽の光が照らす世界に行けるのだと。あたし達は知らない何処かと、惹かれ合う運命だとか。
でもそれは迷信だ。深い青と銀の月、星が瞬くこの世界で他の色何て見たことがない。薔薇だって透明で細かいプリズムの星のものしか咲かないのだ。誰かが魔法をミスって、幻を見ただけだろうと昨日までのあたしは思っていたのだ、いたのだけれど。
「きみは誰?」
「あんたが誰ですか、不審者」
ひらりと足元に落ちた花びらに、まっすぐ前を見つめる綺麗な人にあたしは目を奪われてしまった。
月と星以外この世界を照らすものは存在しない。深い青が空も地も彩るここはぴかぴかと光る星が軽くぶつかりしゃらしゃらと星屑に変わる音が響いている。地に降り積もる星屑を空へ放てば天の川に変わり、長い時間をかけて一つの星に、そのまま地でぼんやりと輝く星屑は海へ変わったり、プリズムの花になったりと月の光に導かれるまま自由に姿を変えまた空へと還っていく。
何もない、ただ長い時間と星が廻るだけの世界。
だったが、最近は少し、いやかなり騒がしい。
「ジュンくん、あっちには何があるのかな? 行ってみようね!」
かつんとぶつかり、大きな声に驚いた星が星屑になる。きらきらと星の雨の中振り返った鮮やかな人があたしの手を握った。
「何もないっすよ」
「見る前から決めつけるなんてよくないね!」
ぷくりと頬を膨らませ歩き出す。ついていけば月よりも輝く笑みを浮かべ楽しそうに喋り出したこの人は不審者、もといおひいさん。本名は日和さん。「おひさま、太陽って意味だね!」と幻の名前を堂々と名乗ったこの人は、知らない色で彩られている。あたしは空色の髪と、月色の目と此処にあるものと同じ色だが、ふわふわした髪も瞳もそれぞれ違う色で、花びらと同じ色をした服とも違う。とても綺麗な色をしているのに、造形からは信じられないほど我儘で自由だ。ここには迷い込んだくせに物怖じせず、案内してね! と行きたいところにあたしを振り回す。
「あの辺りは暗いっすよ」
「ふふ、とっておきがあるね!」
上機嫌に微笑むおひいさんについていく。星が少なくなってきた。のんびり屋の星が心配そうにあたしの周りでぴかぴか輝く。
「おひいさん、暗くてもいいって。ちゃんと見えてないってのに、危ないっすよね」
「危ないのについて来てくれるもんね、ジュンくんは」
「いや、あたしは平気なんで」
暗闇にも慣れっこで星と話せるあたしは別に怖くも何ともないが、暗いところは碌に見えないおひいさんには厳しいだろう。
「とっておき、使わないんすか?」
空より明るい瞳を覗き込む。神秘的な瞳は透き通っていて星を透かしたようだ。
「もう少し暗いところで見せてあげるね」
さく、さくと星屑の砂を踏む。ぼんやりとした光は闇にすぐ溶けてしまう。さらさらと落ちていく音も聞こえないここはとても静かだ。
「おひいさん、これ以上は」
「うんうん、そろそろ見せてあげるね!」
ぱっと離れた手に置いていかれる。あたしの正面に立ったおひいさんがにっこりと微笑み、小さく呪文を唱えた。
「わっ……!」
ぽぅと現れた薔薇が明るく輝く。星明かりでも月明かりでもない不思議な光が空を踊ってゆっくりと花びらが落ちて来た。肩にあたるとほんのりと温かい。息をするのも忘れて魅入っているとくすくすと笑い声にはっとする。
「お、おひいさん、これ」
「綺麗でしょう? この薔薇はね、太陽の熱で出来ているね」
「たいようの」
「ぼくの国では雨の代わりに太陽の熱を持った花が降るの。花や花びらをランタンに入れて持ち歩いたり、コースターに敷いて熱を保ったり色んな使い方をしているね」
「すごいっすねぇ……」
「今日は赤薔薇が降ったからね。ジュンくんにもあげるね!」
降って来たのと同じ薔薇を閉じ込めたランタンを渡される。ぽうっとランタンの中で咲く薔薇は鮮やかなおひいさん色をしている。これが赤。太陽の色。
「赤色ってこんな色なんすねぇ…」
ランタン越しにそっとなぞる。赤い光は無色の星屑にも温かな色を宿してきらりと輝く。これがあれば、あたしは太陽の元に行けるのだろうか? そんなわけないか。
「さぁってお散歩の続きだね! 一面変わりないけれど、こんなに砂があるなら海があるかもしれないね!」
「海はここじゃないっすね」
「あるんだね」
「はい。結構綺麗っすよ」
ランタンには負けますけど、と続ける前に手を引かれ、行こうね! と高らかに告げたおひいさんについて行く。楽しそうに喋り続けるおひいさんに相槌を打てば、からん、からんと星のような音で揺れたランタンが青い世界を明るく照らす。 ひらひらと生き物のように舞う花びらが砂の上に落ちたのに気付かないまま、あたし達は海に向かって歩き続ける。
「また明日ね、ジュンくん」
「……あれ?」
しゃらしゃらと流れる音に目を覚ます。星の砂の上で天の川の海がしゃらりと波を寄せては返している。月色の光を頼りにゆっくりと辺りを見渡す。
おひいさんがいない。
あの人急に現れて急に消えるもんなぁ。
そばにあったランタンを抱え起き上がる。昨日の記憶を思い出そうとしたが、赤薔薇の光ばかり思い出してしまう。今も淡く輝く赤薔薇はやっぱり綺麗だ。
そうじゃなくて、えっと。反対側の道をひたすら歩いて、それで、うーん。ここにいつ着いたかも曖昧だ。曖昧だけれど……まあいいか、家に帰ろう。
「らー、らー、らら」
星屑がふわりと浮かび上がる。魔法陣を描いた星たちに、家に帰りますよぉと心の中で告げ目を閉じる。
ぱふんと軽い音に目を開ければベッドの上に帰ってきた。星の糸で編んだシーツが冷たい。
貰ったランタンをテーブルに置いてみる。閉ざされた青い部屋に赤が眩しい。
「明日か」
無意識に出た言葉に瞬きをする。ふわりとあたたかいような気分と気恥ずかしさを見つめるように柔らかな光があたしを照らしていた。
この前一緒に来たと思っていたが来てなかったみたいだ。
綺麗! と海に目を輝かせはしゃいだおひいさんに自慢げに星達がぴかぴか輝き、調子に乗りぶつかった星がしゃらりと海に落ちていく。
海を蹴って飛沫が星に還れるようにそっと歌を唱える。きらきらととんがりが戻ってぶつかった星がよかったね〜と輝き合うのは憎めなくて、ちょっとだけ羨ましい。
「ジュンくんって歌が好きなの?」
空を眺めていると、地上のぴかぴかがさくさくと星の砂を踏み、こっちへ来た。
「好きっつうか、詠唱が歌なんっす、よ!」
「わぁっ!? 冷たいね!」
しゃらりと星波をかける。赤い服に星屑がきらきら滑っていく。文句を言う口にさらにかければ星波達もはしゃいで波を大きくする。やべ、逃げねぇと。
「のまれちまいますよー!」
「置いていくなんて酷いね!?」
「ちょ、掴まないでくださ、うわぁ!?」
しゃらんっ! と大きな波を二人で被る。びしょ濡れで目を丸くしてるおひいさんがおもしろくて思わず吹き出してしまう。全身を滑り落ちる星屑が砂に染み込んでいく。
「あはは、レアなもん見れましたねぇ」
「こんな沖で全身濡れるとは思ってなかったね。悪い日和! ほら乾かそうね、おいで」
「え、遊ばないんすか」
掴まれた手をつい引いてしまった。海って遊ぶもんだと思ってたんすけど、おひいさんの世界では違うのか? だったら教えた方が楽しい? 濡れるの嫌だった?
ぐるぐると考えだしたあたしに笑ったおひいさんの手がぽんと乗り、くしゃりとかき混ぜられる。
「勿論遊ぶね。でもその前に乾かそうねジュンくん」
「また濡れるのに」
「うん、乾かすね」
素早く呪文を唱え、温かい風が吹く。すげぇ、風もあったかいんだ。
「ジュンくんは女の子なんだからね。冷やしちゃいけないね」
「そういうの気にするんすね」
「気遣いのできるおひいさんだからね! わ。いっぱい来たね。なになに、独り占めして怒っているの?」
「ありがとうって言ってます。おひいさんありがとうございます」
慌ててお礼を言えばまたくしゃりと撫でられる。せっかく乾かして貰ったんだ、もう一度濡れる気は起きなくて砂の上に腰を下ろす。
「ここの夜は綺麗だね」
「夜?」
「今の時間の事だね。太陽が昇れば朝来て、やがて昼になって月が昇って夜になるね」
「おひいさんの世界は忙しいっすね」
一日中月が照らすこの世界だけでも長いのに、まだ他の時間があるなんて上手く想像出来ない。
「そうでもないね! 歌って踊って笑っていたらすぐだね!」
「早いのはおひいさんがそういうのが得意だからじゃないんすか? どこでも楽しめますもんねぇ」
「そうなんだよねぇ。だからこの時間も早くて物足りないね」
あたしは持て余しているのに、さらっとそんな事を言う。だから迷子でも怖くないんすかねこの人。
「そうだ! 歌を教えてあげるね!」
「はい?」
「ジュンくんの歌声は綺麗だからね、呪文以外でも聞きたいね!」
ご機嫌にそんな事を言い立ち上がったおひいさんは明朗な声で歌い始めた。すご、上手っ。唐突でぽかんとしていたあたしも歌が終わる頃には楽しくなって、星達も次の曲をわくわくと待っている。
「ジュンくんも歌おうね!」
「え、わっ」
手を取られ立ち上がる。同じ曲を口ずさんだおひいさんにおずおずとついていくと、ぱあっと輝く笑顔に一瞬瞳の中で星が弾ける。
あたしの歌に合わせて星の砂に魔力が宿る。プリズムの光が足元を照らして、踊るように回ったおひいさんを柔らな空色が追いかける。
「うんうん、及第点!」
「そこは満点でしょうが」
軽口を言い合って歌声が月の元に飛んでいく。楽しい? と問う目に頷くよりも早く声を合わせた。
おひいさんと何だかんだ毎日あっている気がする。偶に会わない日も明後日ね! と当然のように告げられ会いに来るから、あたしは案内出来るところは全て終わってしまって、おひいさんと居る口実もなくなってしまった。
「おひいさん」
「なぁに」
真っ直ぐ前を向くおひいさんがあたしの方を向く。どうしたのと続けた穏やかな声に言い淀み、結局ストレートに言葉が出た。
「あの……案内出来るところ終わっちまって、教えれるとこ何もないんすけど」
きょとんとした瞳にあたしが映る。我ながら不安そうな顔で呆れてしまう。
「……明日からは、どうしますか?」
変な事聞いてる自覚はある。あるけれど、他に何て言えばいいか分からない。ここは何にもなくて、会えた人もすぐに居なくなっていたのにおひいさんは違うから、どうしたらいいか分からない。
また明日が無くなるのは、何だかすごく、嫌だ。
「どうって、会いに来るね。なぁにジュンくん寂しくなっちゃった?……ジュンくん」
そうですか。
そう返したつもりがうまく声が出ない。あれ、なんでだ。胸もいっぱいで息も少し苦しい。安心したのに。終わりじゃないって、それなのに。
ジュンくんと凄く優しい声で呼ばれた。目の前に居るのにしっかり見えた。そんな顔もするんですねおひいさんって。混乱して惚けて、ぼーっと何も言えずただおひいさんを眺め続ける。
「望んでくれていいのに」
「……」
苦笑し、くしゃりと頭をかき混ぜられる。まだぼんやりした頭が言葉を上手く飲み込む前にぱっと手は離れた。
「ジュンくんのお家に行きたいね!」
「……家?」
「そう、ジュンくんのお家! 方向転換だね、右向いてね!」
はいっ! と腰を掴まれくるりと右を向く。そのままくっついて歩き出したおひいさんは明るい笑みを浮かべあたしを見下ろす。
「ジュンくんはぼくと居るの嫌?」
「そんな事ないです」
「そうだよね! だってぼくの隣に居るもんね!」
「すげぇ自信」
「ジュンくんも自信持つといいね。じゃないと攫っちゃうかもね?」
「何すかそれ」
「ふふ、何だろうね?」
弧を描く唇に少し心臓が騒ぐ。おひいさんと会ってからあたしの心臓はうるさくなった。おひいさんは世界の違う人だからあたしの心には刺激が強かったのかもしれない。しょーがないっすよね、おひいさんだから。
いつも通り他愛ない話を続け、家に着く頃にはすっかり心拍も落ち着ついた。
ドアを開け中に入る。赤薔薇のランタンの明かりがテーブルを照らし、星に還ったようでカーテンの丈が少しだけ短くなっている。後で星屑かけて丈戻さないと。
「何にもないっすけどどーぞ」
「お邪魔するね!」
テーブルに水を置いて、イスではなくベットで寛ぐおひいさんの隣に座る。あたししか住む人が居ないから座る場所がここしかないんだよな。やっぱ申し訳ないな、今度新しいイス用意しとこう。
「ん?」
ぐいっと急に引っ張ってきたおひいさんの肩に収まる。見上げると柔らかい瞳が返ってきた。
「ランタン大事にしてくれているんだね」
嬉しそうに言われると照れるな。いや、いただいた物を無下に扱うような事しないし、綺麗だし、第一。
「あんたがくれたんで」
使うのは勿体無くて飾っていたが、そんなに嬉しそうにされるなら外でも使った方がいいか。
「あれ、花びら減っているね? 外でも使ったの?」
「いや、貰った時だけっす」
「そう、そっか」
「ずっと明るくてすごいっすねぇ」
おひいさんから貰ってもう数ヶ月は経っている。枯れもせず同じ姿であり続けるなんて、ここでは考えられない。
「ちょっとした仕組みがあってね」
「魔法っすか?」
「ううん。と言いたいけれど、今回には合っているかもね。ねぇジュンくん」
「何すか?」
「太陽の光を見せてあげるって言ったらこっちに来る?」
瞬きをしたあたしに問うおひいさんは真面目な顔をしてあたしを見る。月とは違う光をした迷信でランタンの明かりよりずっと明るくて、あの薔薇も降るきっと鮮やかなおひいさんの住む世界の象徴。興味がないわけがない。
「そりゃ見たいっすけど」
「うんうん、そうだよね! 見たいよね! ぼくの世界に来たいよね!」
「行けたらまあ、そっすね。そん時はおひいさんに案内してもらいます」
「当然だね! ジュンくんと行きたいところ沢山あるね!」
すりすりと頬を寄せ抱きつかれる。落ち着いた心拍数がぎゅんと上がって、慌てて身を捻るが上手く抜け出せない。あたしが暴れているのが可笑しいのかにこにこ笑って腕に力を込められる。どくどくと心音は激しいままだが諦めて胸に額を当てれば歌うような声で髪を撫でられた。
「朝が待ち遠しくなったのは久しぶりだね! 完璧にエスコートしてあげるから、期待して待っているといいね!」
「明日には行くみたいに言いますね」
「うん? そうだよ。月になんか返してあげないね」
おひいさんが言うなら本当にいつか行けるような気がして笑ってしまう。本当だね、と念押しするように言われ腕の力が強くなる。
「分かりました、分かりましたからそろそろ離してくださいおひいさん」
「嫌だね! 大人しくぼくの腕に居るといいね!」
「いい加減限界なんすよ!」
「あはは、お耳真っ赤だもんね〜! もっとぎゅうぎゅうってしてあげるね!」
ぎゅ〜! とふざけた声でまじで締めてきた。押し返してもびくともしない。そんなに身長も変わらない筈なのにすっぽり収まっている事に気付いてさらにドギマギしてしまう。どうしたらいいんだ。固まったあたしにくすくす笑うおひいさんが額を擦り合わせあたしの目を覗くのに思わず背を叩けば痛いねとしぶしぶ離れる。
もー、ジュンくんの照れ屋さんとか何とか言っているのを無視してグラスに手を伸ばし一気に飲み干す。からからの喉を冷たい水が滑り落ちてほっと息をつく。爆音が鳴っていた心臓も穏やかになってきた。
「明日ね、ジュンくん!」
「はい?」
やばい何にも聞いてなかった。立ち上がったおひいさんがドアに向かうの追いかける。
「おひいさ」
「おやすみ、ジュンくん」
額に触れ、離れたと同時にぱたんとドアが閉まる。
「……え?」
額に手を触れ、目を瞬く。今のって、え?
数回瞬きを繰り返せば視界が暗くなって、気付けばあたしはベッドの上でぽかりと口を開いていた。
さくさくと砂を踏んで歌を歌う。短くなったカーテンのついでにワンピースの丈も直してしまう。家に帰ってカーテンを掛けたいのに家に帰ると思い出して、あーダメだ散歩しよう。
からんからんと持ち出したランタンを持って星の少ない道を歩く。この先でおひいさんからランタンを貰ったんだよな。まだ明るい花は相変わらず綺麗だ。
「きーらーきーらひーかーるー」
星の歌を歌ってひたすら歩く。今日もおひいさんは会いに来る。どんな顔して会えばいいのか分からない。何も考えず会えばこの薔薇に負けないくらい赤くなってしまう自信がある。本当何でキスなんか。あー! もう、頭から離れねぇ!
ぽんぽん! と咲いた星の花があたしの足跡みたいにきらきら落ちる。いいな、あたしも記憶から落としたい。
「おーそーらの」
「ジュンくーん!」
「……おひいさん」
大声に振り返れば、さくさくと砂を踏み右手を大きく振ったおひいさんと目が合い咄嗟に下を向く。やばいやばいどうしよう。あたしの前にすぐやってきたおひいさんにそっと手を取られきゅっと握られる。いつもの事なのにびくりと指が跳ねた。
「ジュンくんどうしたの?」
心配そうに覗き込まれ目を逸らす。ジュンくん? ともう一度呼ばれ恐る恐る目を合わせればほっとしたように口元が綻んだ。
「ジュンくん、緊張してるの?」
「は、はい、もうそれでいいです」
「なぁにそれ?」
「もういいですから! えっと、ほら、あんた昨日なんか言ってましたよね!」
ばくばくと心臓がうるさいが無視して話を逸らす。まだ不思議そうな顔をしていたおひいさんも乗ってくれたようでぱっと笑みを咲かせた。
「うん! 行こうねジュンくん!」
歩き出したおひいさんに星達がちかちかと言葉を交わして遠ざかって行く。またねー、とか元気でねーとか、遊びに行くねーとか何だそれ?
ひたすら歩いて、居なくなった星の代わりにランタンが辺りを照らす。赤い光がだんだんと強くなって、眩しさに目を細める。
「ねぇジュンくん」
するりと手を離され数歩前をあるいたおひいさんと真正面から向き合う。
「ぼく今日が来るのをずーっと楽しみにしていたね」
ちょっと照れたような笑みを浮かべたおひいさんにきゅーと胸が高鳴る。
何も言えずただ見続ければそっと右手を伸ばしたおひいさんにまた手を包まれる。
「ジュンくん。ぼくね、きみともっと話がしたい。きみを一人きりの夜に閉じ込めておきたくない。ぼくと一緒が一番楽しいって思ってほしい。色々あるのだけれど、きみが喜ぶ姿を隣でね、どうしても見たくて」
重なった左手に息を呑む。握らされた一輪は、ここにはないはずで、迷信、のはずで。
「ジュンくん。きみを太陽の元へ連れて行くね」
真っ赤な薔薇が赤く輝く。ふわりと吹いた暖かい風に運ばれた花びらが、星屑を浮かせ、一輪だけだと思っていた赤薔薇はいつの間にか足元に、おひいさんのそばに、まるで海のように咲き乱れあたし達を飲み込む。
「おひいさん」
「ジュンくん」
大丈夫と囁き、にこりと星より明るい笑みを浮かべたおひいさんに抱きしめられる。赤薔薇を握ったままふわりと浮いた体は花びらを残して空へと落ちていった。
ぱふんっ! と柔らかい音に目を開ける。ここは何処だ? 開けたはずなのに何だか眩しくて上手く見れない。目を擦ろうとして違和感を感じ手元を見れば真っ赤な薔薇が星屑のようにさらさらと消え、視界の端に映る真っ赤な服は見覚えのあるおひいさんの服。服? ばっと勢いよく顔を上げると、きらきらした満面の笑みを浮かべぎゅうぎゅう抱きしめられた。
「おはようジュンくん!」
「お、おはよう……?」
「うんうん! 朝の挨拶もばっちりだね!」
ちゅっと軽い音と共に額に知ってる感触がしてすぐに離れる。
「な、な、な」
「あはは、真っ赤だねジュンくん! 可愛いね!」
「あんたのせいでしょうが!!」
暴れて逃げれば笑いを堪えながら首を傾げられた。
「キス嫌なの?」
「嫌とかじゃなくて」
「恥ずかしいの? なら慣れたら問題ないね!」
「いやちが! ちょっ来ないでくださいおひいさん!」
するするとシーツに滑りながら後退しても大した距離は稼げず、あっさり捕まってしまった。じたばた暴れるあたしが可笑しくてたまらないらしいおひいさんの大声に負けじと文句を返す。
「挨拶みたいなものだね、恥ずかしがってもいいけれど逃げられるのは嫌だね!」
「おひいさんの世界では挨拶なんすか!? キスは好きな人にしてください!」
「分かったね! するね!」
「仲良しだね」
知らない声にぴたりと動きを止める。銀の月と同じ豊かな髪に赤薔薇と同じくらい濃い瞳を持った怖いくらい綺麗な人がじっとあたしを、おひいさんを見つめる。
ぱたんとドアを閉め、分厚い本をテーブルに置いた人がゆっくりとこっちにやってきた。
「おかえり日和くん。その子?」
「そう、ジュンくんだね! 彼は凪砂くん! ぼくの親友で家族!」
「へ? あ、ジュンです」
「よろしくねジュン」
しゃらりと星の音が鳴りそうな髪を揺らし、ぎしりと音を立てこっちに乗り上げてきた。
「私も生まれは向こうだから分かる。月の世界は静かで、こっちはとても賑やか。慣れない事も多いと思うけれど気に入ってくれると嬉しいな」
「は、はい」
「そうだ日和くん、そろそろ茨が起こしに来ると思う」
「ありがとう凪砂くん! 昼食は一緒に食べようね!」
「うん。ジュンも一緒に食べよう」
「うん! じゃあ後でね!」
さっと抱えられベッドから降りる。またねと手を振る凪砂さんに明るい光が差しこんできた。
「掴まっていてね」
眩しい窓を開け、一歩を踏み込む。素早く唱えた呪文が暖かい風になり、空を歩くおひいさんがにこりと微笑む。
「……きれい」
「そうでしょう? 今は朝焼けと言ってね、太陽が登ってきて赤色がだんだん青色に変わるね」
ほらと向こう側を向いたおひいさんの先には星空より明るい青色がゆっくりと広がっていく。少し先にはまあるくて赤くて、どこか銀に似た温かい光があって目を細める。もしかしてあれが。
「太陽の世界へようこそ、ジュンくん」
ひらひらと赤い花びらが空から舞い降りる。ぽんぽんと天空で咲く薔薇が陽を浴び鮮やかに輝く。下を見れば赤や白、青、まだまだたくさんの知らない色で溢れ、街中に咲く花の香りがふわりと漂う。ここが、おひいさんの、太陽の世界。
「今日からきみの世界だね。喜んでくれて嬉しいね」
甘く微笑むおひいさんに小さく頷く。本当にこんな世界があるんだ。感動でじーんとしてしまう。
「おひいさん、ありがとうございます。本当に連れて来てくれて」
「ふふ、どういたしまして。さあって、ジュンくん、デートに行こうね! 約束通り完璧にエスコートしてあげるね!」
まずはねと続けるおひいさんの肩を叩く。なぁに? と問う瞳がすぐに煌めく。そっと降ろされ、そのまま手を握る。風にはためくワンピースがしゃらりと響く。
「行こうね、ジュンくん」
「はい、おひいさん」
いつもの手に引かれ知らない世界に踏み出す。わくわくと胸が躍って、ドキドキと早い心音が心地いい。
頬を撫でた花びらが歓迎するようにあたたかな温もりを残して、街へとゆっくり降りていった。