きみは花がいらない「うん?」
急いでいても気になってしまったのは、きっとぼくがジュンくんの事が大好きだからだ。
開きっぱなしのクローゼットの前で首を傾げる。ハンガーはいつもの位置よりズレているだけで衣類は一つも減っていない。いつもごっそりなくなるのにね、おかしいね。
疑問に思いながら数着見繕って部屋を出る。星奏館にはヒート専用の部屋がある。番が星奏館に住んで居なくても利用可能なこの部屋はアイドルのプライベート及びスキャンダル防止の為、利用するよう決められているのだ。いつもと違う部屋で待っているジュンくんを思って足が早くなる。長い廊下を渡りガラスの扉に手を伸ばす。わぁ、重たいね。両手で開き中へ滑り込んだ先は数十の重たそうな黒色の扉が続いている。横を通っても音は聞こえず、廊下を歩く足音だけがよく響いていた。
一番奥の部屋で足を止め、ホールハンズに入った暗証番号を押し開く。ぶわりと広がった甘い香りにくらりと視界が揺れ心拍が耳の奥で大きな音を立てた。自動でかかったロック音にハッとする。おかしいね、アルファ用の抑制剤は飲んで来たのに。違和感を感じながら乱雑に落ちているシューズをついでに揃て部屋に上がる。白色のダブルベッドに簡易テーブルとソファ、窓のない部屋に息を吐く。
「ジュンくん」べたりと飴玉の溶けた声が出た。あぁ、もう、呑まれないで欲しいね。
「ぁ、ぅ」
ぼくの声にシーツがもぞもぞと動く。お顔を出そうとしてやめた彼は持ち出していたぼくの枕に顔を埋め、赤い耳がちらりと見えた。
「ジュンくん、お顔見せて?」
そっとベッドに近寄り、優しい声を特段意識して話しかける。服を置いてゆっくりとシーツをめくれば潤んだ金の瞳に咎められた。
「て、はなしてください」
ふるりと首を振ってまた枕に戻ってしまった。拗ねた子供のようで可愛らしい仕草は普段のジュンくんなら決してしない仕草でもある。ゆっくりとベッドに乗り上がる。
「ジュンくん」
そっと手を伸ばして抱き締めると、すぐにぼくのセーターを掴んだ。震えた手は指先まで真っ赤で弱々しい。縋るような手と反対に首を振り続けるジュンくんに頬を寄せる。焼けそうなくらい熱いね。こんなヒート今までなかったよね、ジュンくん。
「おひーさん」
一瞬、手に力が籠った。
「かえってください」
「え?」
もう一度帰れとうわごとのように呟くジュンくんの瞳からぽろぽろと涙が伝っていくのにぎょっとする。拒絶されるなんて思っていなくて呆然とした脳が何故? と問うのに本能は許さないと無意識に腕を強めていた。ひっと悲鳴を上げたジュンくんに慌てて緩めるも触れ合った肌の熱がさらに上がって甘い匂いが濃くなっていく。
「帰らないね、そばに居るね」
どうしてそんな事言うんだろうね。うるうるとまた涙を溜めはじめたジュンくんの目尻に口付ける。とにかく安心させたかった。
そっとジュンくんの唇に触れ、離れてを繰り返す。ジュンくんはキスが好きだ。いつだって幸せだと告げる表情で、力が抜けると嫌がられる時も照れ隠しだって知っている。不安げに揺れる金色もゆっくりと蕩け始めた。
「ん、んぅ……うー…おひぃさん」
薄く開いた唇に舌を入れかき混ぜる。歯列をなぞればちろりと重なった舌同士を触れ合わせる。くちゅりと響く水音にぽとりとまた頬が濡れた。
「ぉひ、さん……おひーさん」
すり、すりとぼくの肩口に頬を寄せすんすんと鼻をすすり、伏せたまつ毛がとろりとした瞳を隠して影ができる。蕩けたはずの瞳も不安な子供のような目に戻り、ぎゅと胸が痛む。どうしてそんな顔をするのジュンくん。
「おひいさん」
「うん、ぼくだよ。ジュンくん」
「おひーさん……」
ぼんやりとしたジュンくんの頬を撫で続ける。柔らかな熱はさっきより高くなっている。
「おひいさん」
「わっ! なぁに、お洋服欲しいの?」
求められた事にほっとする。いつもは巣作りをするからね、何故か今日は出来なかったみたいだけれど。するりと侵入してきた指がはやくと拙くボタンを弾く。
「はい……ジュンくん?」
全て脱いで差し出せば服には目もくれずぼくの胸に思いっきり抱きついてきた。抱きしめ返せば嬉しそうにへにゃりと目尻を下げ甘い吐息に脳が揺れる。
「ジュンくん、巣はいいの?」
愛らしい顔を見れば聞かなくていいかと思ったのだけれど、ぼくは彼の番だ。このまま知らないでおくのは良くないね。
「……」
「これは嫌? いつも使っているのも持ってきてるね」
「いや、です。いーにおいだから……」
ぼくはいつもいい匂いだね! と開いた口を塞がれ、すぐに離れたジュンくんが不服そうに口を開く。
「なんでいーにおいにつけたんすか」
「今日は香水付けていないね?」
「……ふく、おひーさんとちがいます」
すんとメアリみたいに首筋の匂いを嗅いで、じとりと金の瞳で責めるジュンくんに頬が赤くなるのを自覚する。
ジュンくんが、拗ねているね……! 我が儘を言えないジュンくんが! 可愛い。可愛いね、素直なジュンくん!
でもそっか、うんうんジュンくんの気持ち、ちゃんと分かったね。
ドキドキとうるさい心臓とにやけそうな顔を押さえ込んで満面の笑みを見せる。ぼくの笑みが大好きなジュンくんは一瞬見惚れて、すぐに思い出したように小さな口がへの字に曲がる。もー、本当に可愛いね!
「柔軟剤も嫌なんだね」
「うぅ……まえのがいーです」
「分かったね。次はそうするね」
前の、つまり玲明寮の時のだね。当時はジュンくんと洗濯が一緒でジュンくんは無香料の柔軟剤を使っていたから、ぼくの匂いで巣を作るのに慣れちゃったんだね。ヒートは精神的に揺れやすいものだし、慣れ親しんだ匂いが変わって戸惑ってしまうのは当然の事だ。
「でも普段は使うからね」
「なんでっすか」
話は終わったと顔を埋め、甘噛みしていたジュンくんが顔を上げる。そんな不満な顔をしても可愛いだけだね。
「ジュンくんあの匂いも本当は好きでしょう? ふふ。真っ赤」
星奏館に来て柔らかいブーケの香りに変えてから、ジュンくんはぼくのスキンシップを拒否する手を緩めている。ぼくのフェロモンと相性がいいからね、気に入っている事、ちゃんと知ってるね。勿論、もう一つの理由も。
「ちが」
「可愛いねージュンくん。ぼくの事だぁいすきだもんねぇ」
「ひっ! あぅ…んぁ、ぁ……」
キスを降らせ、肌をなぞる。少し触れただけでひくりと震える身体は扇状的で、いつもより濃い香りが部屋にゆっくりと満ちていく。
「おひ、さっ」
「いーっぱい、愛してあげる。溶けて泣いてもそばに居るからね」
唇にキスをすれば、金がとろとろ溶けていく。
ん、と無意識だろう笑ったジュンくんがぼくに手を伸ばすのを握り込む。
知らない部屋、いつもと違う匂い。数ヶ月前と違っていてもきみを置いてなんか行かないのにね。甘い熱に溺れなくても、寂しいのだと無い巣に教えられなくても。
「ぼくがきみの事だぁいすきなのは、変わらないね。ジュンくん」
だからね、ぼくが好きって気持ち事全部ぼくが抱くから、新しい好きもぼくに頂戴ね、ジュンくん。