すべてきみにあげる かちゃんと音が響いた。
止まっていた時間が動き出す。歯車を通って魔力が巡り出し、やがて幕を開くように瞼が上がってく。
オレを起こした旦那様は誰だ?
開いた瞳には花が映った。大輪の薔薇だ、真っ赤な薔薇。愛してると伝えるにはぴったりな、見事な姿だ。
暗闇から差し込んだ光が星に刺されたみたいにちかちかして痛い。ない筈の心臓もどきどきして変な感じだ。
「ジュンくん!」
ふわっと薔薇の香りが胸を満たす。ぎゅっと力いっぱいに抱きしめてきた旦那様にどきどきがさらに加速する。今なら拒否出来るのに背中に隠していた短剣を放って無意識に腕が回っていた。何かがずっと叫んでうるさい。オレはこの花が好きで好きでずっと愛してると、必死に訴えてくる。なんなんだ、この気持ちは。
ぼんやりとしている間に首元に刺された鍵が回って、南京錠が閉じた。契約完了。オレは今から、この人の花嫁。
「ジュンくん」
見惚れちまうほど綺麗な顔が近くなる。芽生えたての花の芽の髪、朝露に濡れた紫の薔薇の瞳、甘い蜜のような香り。
オレはジュンと言うのか。せっかく名を呼ばれたのに上手く口が動かせない。何も出来ず見つめていると真っ赤な花びらみたいな唇がふんわりと重なった。
「だんな、さま?」
「おはよう、ぼくの花嫁」
腰に手を回され抱き上げられる。ダンスを踊るようにくるりと回れば腰元のレースが広がって破れたステンドグラスの多角的な影が蝶みたいに揺れた。足を踏む毎にひび破れた床に赤薔薇の花びらが鱗粉みたいに落ちて行く。
「ジュンくんぼくの名前を呼んで欲しいね」
「旦那様」
「違うね! ぼくのな・ま・え!」
名前なんて知らない。オレはこの人と初対面だ。なのに。
「おひいさん」
動いた口に首を傾げる。きゅるりと回った歯車が嬉しそうな音を立てている。
名を呼んだだけなのに随分と幸せそうだ。オレを抱く旦那様……おひいさんの周りでひらひら花びらが踊っている。
「お家に帰ろうね、ジュンくん」
ぶわりと風が吹いた。カラフルな薔薇の花びらに包まれ、微笑むおひいさんを中心に踊る花びらが一斉に降ってくる。星の痛みより優しい花びらがステンドグラスの光にひらひらと影を作り、枯れたように消えてしまった。
おひいさんの家、すげぇ広い。おひいさんの魔力で出来てるにしても、広すぎる。
花畑の道を通って、薔薇のアーチを潜れば蔦に囲われたドアがあって、その先には豊かな緑と薔薇の庭が広がっていた。外も凄いが中も広すぎて訳が分からない。リビングに行くまでに扉を3回は開けた。廊下に敷かれた絨毯はベッドの幅くらいある。庭を見渡せる専用のテラスまであった。キッチンも多分魔女がパイとスープとでっかいお菓子のケーキでもてなした子供を5人ほど同時に焼いてもこんがり美味しく焼き上がるでかさだ。ここまででも充分なのに、おひいさんとオレの部屋になるらしい部屋は、ダンスホールなのかと聞きたくなる広さだった。ダンスホールが欲しいの? 何て言葉が聞こえた気がして必死に首を振った。おひいさんなら作りかねない。こんなに広いのに、高そうでなんか綺麗で可愛くて品のいい、おひいさんが好きなんだろうなぁって物が並んである部屋には丁度良くも見えて目が変になりそうだ。
広いしか言えない家で、今日からオレとおひいさんの2人暮らしが始まる。
信じられない事に使用人も居らず、おひいさんの本当のお嫁さんも居ないだだっ広い家で2人っきりだ。
疲れた。ないはずの心が疲れた。ぐったりしたオレと違い、けろりとしているおひいさんは、今も庭で楽しそうに歌っている。おひいさんの歌に合わせて、少し元気のなかったピンクの薔薇がつやつやと瑞々しくなっていく。白い薔薇は香りを広げ、赤い薔薇は蕾を開いてく。くるくると踊ったおひいさんから、黄色い花びらが落ちていく。花びらと同じ黄色い華やかな服に変わったおひいさんは、花の妖精らしく、花びらにあった姿に変ってく。
赤と色違いではないみたいだ。衣装もちなのか、気分なのか。歯車がきゅるりと音を立てる。さっきのあの熱烈な星の輝きを思い返して、ほんの少し惜しい気になってしまう。
「どうしたのジュンくん。寂しくなっちゃった?」
テラスで頬杖をついていれば、黄色い花びらがオレの頬を撫でた。窓を開けっぱなしにするのは良くないと一つ学習する。
「掃除しねぇと」
「も〜ぼくの愛情をなんだと思ってるの!」
「積もってんなぁ」
「情緒がないね!!」
「人形なんで」
酷いと騒ぐおひいさんに頬をぐにぐにと弄られる。ただ事実を述べただけなのに、横髪がぐしゃぐしゃだ。
「お人形の前にきみはぼくのお嫁さんだね。このぼくに愛されているお嫁さん!」
くしゃくしゃと弄るのをやめた手が頬を包む。こつんと触れ合った額がじん……と体温を伝え、伏せた長いまつ毛と落ち着いた声に心臓のあたりがきゅるきゅると高い音を立て擦れる。
「そうですけど、花嫁人形としては違和感っつーか……」
オレは花嫁人形。契約者の花嫁。病める時も健やかなる時もそばに仕え、契約者の危険に身を挺して守る、本当のお嫁様に危害が及ぶのを避けるために生まれた身代わり人形。首元の南京錠がオレにとっての薬指の指輪だ。オレは代わりの物だから愛情とか別に要らない。つーか守る人がおひいさんしか居ない事がイレギュラーというか。初めて起こされたが、こんなもんなんだろうか?
「きみのちっぽけなお悩みは、ぼくの愛情を無視していい理由にならないね!」
「そっすか?」
「そうだね!!」
ぷっくりと膨らんだ頬に便乗して咎めるように舞う花びらがオレを叩く。真っ白なテーブルに黄色が積もってく。
「人形として違和感があるなら花嫁の意識を強く持てばいい話だね! ほぉら旦那さまがハグしてあげるね、ぎゅうぎゅっ!」
「ぐぇ」
潰れるってくらい強く抱きしめられる。さっきまで怒ってたのに、ひらひらと降るのが優しくなった。なんか、これ苦手だ。お沸騰した水みたいに魔力回路がヒートして軋み始める歯車はかちゃかちゃうるさい。
「お顔赤いね〜照れてるんだね!」
「おひいさん離してください」
「んー、もうちょっと」
「ならせめて緩めてくれません? 壊れる」
「壊れないね! きみはぼくのお嫁さんだから!」
「なんすかそれ」
ふふ、と笑うだけで答えてくれない。べらべら喋ってたさっきまでの勢いはどこいったんだ。
「可愛いね」
「は? ぅ」
ちゅっと頬にキスされた。スキンシップが過剰すぎる。
「ゆ〜っくり慣れて、馴染んでいこうね。ぼくたち今日から新婚さんなんだから!」
おひいさんの腕が緩んで、やっと離れた。皮膚が熱い。鱗粉の跡のようについた花びらのかけらを払えばまたテーブルに積もっていく。
「うーすっ」
「わぁっ!? 意地悪だねジュンくん!」
むかつく、であってるだろ多分。テーブルの花びらを掴んでおひいさんに降らす。ひらひらと舞い散るのが綺麗だ。おひいさんの元へ帰った花びらが一枚ずつ消えていく。
「きみにあげたのに返品だなんていい度胸だね」
「これを?」
「ぼくの愛情って言ったね!」
「花びらだけ貰っても」
「生意気! もう、おねだり下手だねぇ」
仕方ないね。と黄色の薔薇をぽんっと生み出したおひいさんに差し出される。
瞬間、ばちんと目の奥で星が光った。
ひんやりとした風が甘い香りを運ぶ。目の前にはさっきの赤い服をきたおひいさんが居て、真っ赤な薔薇を差し出される。胸が熱い、薔薇と同じ赤い頬をしてるおひいさんの唇がゆっくりと開いて。
「ジュンくん?」
「……ぁ」
星が消えた。
不思議そうな顔で覗き込まれる。慌てて受け取ればちくっと棘が刺さった。そうだ、こっちが現実だ。美しく眩しい黄色い薔薇を優しく握る。
「ありがとう、ございます」
ふわりと黄色が揺れる。微笑んだおひいさんにじんと鈍く指が痛んだ。
気に入ったのか毎日かかずおひいさんは薔薇をくれる。
黄薔薇を挿しているガラスの花瓶に紫の薔薇を挿す。昨日はピンクで、一昨日はオレンジとどんどん増えていく。今も艶々と美しい薔薇は甘い蜜のような香りがする。
「おひいさん、疲れてませんか?」
「うん? どうして?」
ぱらりと本を捲ったおひいさんが顔を上げた。ベッドに寝転んで本を読んでるだけなのに絵画みたいだ。
「おひいさんの一部じゃないっすか、この薔薇って」
花の輪郭をなぞる。しっとりとした花独特の柔らかさを感じる前に手を離す。
おひいさんの魔力で出来た美しい薔薇は主人の言いつけ通り綺麗な姿でオレの前に佇んでいる。
立派な家に住める魔力があるのだ、余計な事かもしれないが、気になってしまう。
「ぼくの魔力は花のエネルギーだからね。無くなればまた作ればいいね」
「しんどくないんすね」
「心配してくれているの? 優しいねジュンくん」
嬉しそうに笑うおひいさんの隣に腰を下ろす。幸運の鳥の羽で出来たベッドはふかふかで快適でいつも微睡んでしまう、気持ちいいベッドだ。
「エネルギーってどうやって作るんすか」
「んー、花を愛でてくれたら十分だね」
「信仰って事っすか?」
「きみが愛してくれたらいいの」
うっとりと蕩けた紫に魔力がヒートする。残念ながら起きてから今日までこれに慣れた事はない。
「……オレが」
「そう。ぼくの事だぁいすきって素直に言ってくれたらいいね」
「大好き」
「そう。愛してるって気持ちを込めて、ぼくの事い〜っぱい考えて」
蕩けた瞳の真ん中を陣取るオレは困った顔をしている。愛してるって考えたらオレもあの顔になるだろうか。
太陽みたいに明るく、妖精らしく我儘で、びっくりするくらい優しい目をして、なのにちょっと怖いくらいオレをおかしくするおひいさんはいつもオレが好きだと笑ってる。
オレにはまだ早いから、せめて。そっと手を伸ばして腹に腕を巻いてみた。ぎゅうぎゅうと痛いのはおひいさんに悪いから、少しだけほんの少しだけ力を込めて体重をかける。
「すきです……」
オレもぽんって花が出せたらよかった。がちゃがちゃと体内がうるさい、あつい、うるさい。
「……ふふ」
ぽすんって羽が舞った。ぎゅうぎゅうって抱き返してきたおひいさんの顔はまだ見れない。
「 上手。そうやってぼくの事愛してね、ジュンくん」
「……っす」
くしゃくしゃと頭を撫でる手が無性に恥ずかしくて、胸に顔をうずめる。こんな体たらくでこれから愛とか、好きとかあげれんすかね、オレ。ダメだダメだ、弱気になるな気持ちで負けんな。好きなんだこの人が。どうしようもないほど。オレはずっとおひいさんが大好きなんだ。
「……すき、好きですおひいさん」
もう一度言ってみる。たった二文字でおかしくなる。当たり前だろ。ずっとずっと言いたかったんだ。
「ぼくもだぁいすき」
「好き、すき、おひいさん好き」
「……」
好き、好き、大好き。ぽろぽろと溢れて、うわごとみたいに繰り返す。はぁって熱い息が漏れた。必死すぎて呼吸も上手く出来ない。
「すき、すき」
「うん」
そっと背をさすられる。胸がじんわりしてきた。オレもこれをあげたかったのに、いつもオレは貰ってばかりで。
「大好きです」
悔しくて、うれしくて、体の底に動かされて唇にキスをする。まぁるくなったおひいさんの瞳がゆらゆら揺れる。
「すき」
同じ顔に近くなった。ほんのりとピンクに色づいた頬を包んでこつんと額を擦り合わす。
ぽかぽかでふわふわして、夢みたいな気分だ。重なった指先がおんなじ色で好きってまた思って。
「おひーさん」
すき。
今日も白い薔薇を貰った。これで10本目になる。白い薔薇をくるりと回せば、ひらひらと1枚溶けてまた手の中に戻っていた。
「おひいさん」
「うん?」
テラスの真っ白なテーブルに頬杖ついたおひいさんを映す。くるり、くるりと落ちた花びらがオレのティーカップに落ちて、砂糖みたいに崩れていく。
「オレ、赤薔薇を貰った事ってありますか」
目覚めた日の赤い薔薇の姿と同じくらい美しい薔薇をオレは貰った事がある、と思う。
「どうして?」
優しく問うおひいさんに体の奥がそわそわする。おひいさんがオレを試してる。静かな声はそう言う時だって、オレは知っている。
「あんたがずっと薔薇をくれるから」
愛してねってずっとくれるから。同じものをちょうだいと静かに願われるから。願って好きと思うたび歯車が狂っていくから。初めて見たぱちぱちと光った星の先をオレは知らないいけない。思い出さないといけない。
「おひいさん」
かたんと椅子が倒れた。
真っ白な花びらがひらひらとテーブルに積もってく。何か、怖い顔をしている。でもこの圧に負けるつもりはない。
「全部オレのものだから、1輪残らずちゃんとください」
ばたんと窓が開いた。カラフルな花々が舞ってぐるりと旋回する。きんっと高い音を立て響いた足元から金の光を放つ魔法陣が描かれ術式が組み上がっていく。
「おひいさん」
ぎゅっと白薔薇を握って目を閉じる。星が弾けると同時にかちゃんと首元から鍵の回った音が響いた。
ぼんやりした視界を瞬かせ眠気を飛ばす。
何してたんだっけ?
ゆっくりと辺りを見渡せば黄金の十字架、藍色に幻想的な影を落とすステンドグラス、真っ赤な絨毯、大理石の床、その上に真っ赤な薔薇の花びらが足跡のように落ちている。拾おうと屈めば、手のひらから1枚、同じ花びらが落ちた。そうだ、オレはこの花びらの主に文句をおうとしてたんだ。1枚ずつきちんと拾って、重い扉を開く。眩しい外の光に目を細めれば、光をかき消すように花びらが一気に降ってきた。
「あ、んたねぇ!」
「ジュンくん遅いね!」
いいご身分だね! と大声を反響させ花を撒き続ける妖精の手を掴む。わぁっ大胆! 何てふざけた事言う妖精を連れ込めば、ばたんと重い音を立て扉が閉まった。
「神様の前にぼくを連れてくるなんて、ついにジュンくんの心が決まったんだね! うんうん、ぼくが見初めたんだから当然だよね!」
「違います」
いつの間にか掴んだ手を絡めぎゅっと握る妖精がにこにこ楽しそうに笑ってぶんぶん振り回す。今日も元気だな。大輪の花のような眩しい笑顔に怒りが萎んで絆されそうだ。
「痛いんすけど」
「ジュンくんったら貧弱だね! 何のために毎日花の水やりをしているのかね?」
「花が枯れない為っすね」
ぷくりと頬を膨らませ拗ねたおひいさんが手を離す。
「おひいさん、今日は何しに来たんすか」
「うん? きみに会いに来たんだね」
何言ってるの? と不思議そうに首を傾げる。
人間にとって妖精は、何か褒美があったり、妖精の気まぐれでお願い事を告げられる時にしか出会えない存在だ。友達みたいな距離感では決してない。
それなのにおひいさんはオレの前に姿を現す。丁寧な水やりに褒美とか、命令だね、讃美歌を聞かせてとか適当な理由からずるずると半年以上。オレを気に入ったらしい物好きで人間好きなおひいさんはひらひらとカラフルな薔薇を従え、我儘に尊大にオレを振り回す。
「約束してないです」
「したね? ほら、この前言っていた百合の花だね。丁度咲いたから連れてきてあげたね!」
ふふんっと胸を張って見せてきた百合の花がぽんっと現れる。真っ白な花びらは薔薇よりでかくて、葉っぱのようだ。おひいさんの薔薇の香りと全然違う。
「綺麗っすね」
「気に入ったの?」
ぽんと音を立て芳醇な香りだけ残して消えてしまった。花の妖精にも相性があるらしい。おひいさんは薔薇の花に特に愛されているから、いつも薔薇と共に居る。そのせいか他の花は姿をあまり見せない。だからちょっと気になったのだ、他の花は仲良くないのかと。
「あんたの友達も綺麗だなーって」
「当然だね。もっと尊敬するといいね!」
「わざわざありがとうございます」
きちんと頭を下げて礼を言う。感謝の気持ちをたっぷり込めれば、妖精は命を、人間は小さな祝福が約束されるらしい。そんな受け入りなくてもお礼はちゃんとするべきだとオレは思う。
「ジュンくん。もっと愛情を込めて」
すらりと長い指先がとんとんと頬を叩く。はぁとついたため息はおひいさんと出会って何度目だろうか。
「神様がいる前で求愛何て示せるわけねぇでしょうが」
「ジュンくんはぼくが大好きなのにね!」
つまらなさそうに鼻を鳴らしたおひいさんがふわりと浮いて、ステンドグラスより薄くて儚い光の羽を羽ばたかす。可憐な花の妖精は見た目に反して素行の悪さが悪魔並みだ。十字架に座って恨めしそうにこんこんと拳で叩き始めた。ぞくりと背が震え、顔が青くなる。
「こんなの信仰しなくていいね! ジュンくんの歌声を数多の1つにしている愚か者なんか!」
「おひいさん! 罰当たりっすよ!!」
「罰なんて当たらないね! こんな品性のないエセ者なんかよりぼくに愛を捧げるといいね!」
酷い酷いね!! と大声が響く。妖精だからオレしか聞こえないとは言え遠慮がなさすぎる。
慌てて手を広げておひいさんを待てば、拗ねた顔で数秒悩み、元気よく飛び降りてきた。ぎゅうっ! と無遠慮に首に抱きついたおひいさんがくるくる回る。図体がオレよりデカいのに、羽のお陰か花のように軽い。自由なおひいさんにつられてオレも回れば気分が良くなったようでぶわりと花びらを撒き散らす。
「ジュンくんジュンくん!」
「うるせぇ」
うりうりと頬をくっつけたおひいさんが羽を消せば重みが帰ってきた。支えきれず床に崩れる。重い。大きな犬に乗っかられたみたいだ。おひいさんは犬って感じあんまりしないか。馬鹿な事考えながらふわふわの新芽の髪を撫でる。……やっぱりするかもしれない。
「ジュンくん失礼な事考えてるね」
「考えてないです」
「ドキドキしてるね、説得力ないね」
ぴとりと頬をくっつけ、ここもあったかいね。と笑うおひいさんに目を逸らす。嘘をつくのも、この距離も苦手だ。
しん……と静かになった空間で体温だけをやけに感じる。ふんわりと甘い蜜のような香りも漂い始めた。この匂いは嫌いじゃない。
「ねぇジュンくん」
「なんすか」
「好きだね」
「……はぁ!?」
勢い良く見返せばとろりとジャムを煮詰めた瞳が甘く細まる。急に何言ってんだおひいさん。
「好きって、好きって事っすか!?」
「うん。混乱しているね、ジュンくん」
ふふ。とやけに艶っぽく笑われる。至近距離でそんな声出すんじゃねぇ!
「いーい、ジュンくん。幾らきみがぼくを好いていても、人間は信仰ある限り神様の奴隷で、使い捨ての養分だね。でも、ぼくは妖精! 自然の理、愛から出来た完璧な存在だね! ぼくに施されたら愛を込めて返さないとジュンくんは自然に反したとして消えちゃうね?」
ぺらぺらとよくわらかない言葉を並べるおひいさんに頭がくらりとする。オレは頭がそこまで良くないけど、多分これはそういうのじゃない。ノイズがかかったみたいな思考に強制的に入ってきた大声の部分だけでも聞こうとしても余計にわからなくなる。
「ぼくがきみを愛してあげる。組み込まれた信仰なんか思い出せないくらいね。そうすればジュンくんもぼくを愛せるね! ほぉら、ハッピーエンドの完成だね! 完璧だね!」
「うー?」
「……結構深刻だね、ジュンくん」
ぺらぺら動いていた口が止まった。悔しそうな顔だ。そんな顔は見たくなくて、胸がぎゅってなる。おひいさんは笑っている方がいい。どうしたらいいか分からないまま、頬に手を伸ばして、大丈夫と上手く言えない代わりに精一杯微笑む。
まだぼんやりした思考にぽんっ! と軽快な音が響く。ノイズが霧散してびくりと肩が跳ねた。
ふわりと眼前に赤が映る。真っ赤な薔薇を差し出したおひいさんはきらきらしたステンドグラスの光に負けない綺麗な瞳で真っ直ぐこっちを見て、真っ赤な薔薇に負けないくらい赤く頬を染め、とろりと蕩けそうなくらい甘い香りを放ち、花が開くように微笑んだ。な、んだ。目の奥で、ちかちかと細やかな星が光ってる。
「ジュンくん。大好き」
艶めく花びらの唇がオレに重なる。呼吸も時間も全部止まったのに、おひいさんだけがゆっくりと離れ、艶やかな唇が柔らかな弧を描く。
蔦のように細い指先がオレの頬を撫でる。
「同じ気持ちならその薔薇を持って会いにきてね、ジュンくん」
待ってるね。
ふわりと花びらが舞って、風と共に消えてしまった。呆然と座ったままのオレの手に、真っ赤な薔薇が1輪、天に向かって咲き誇っていた。
かちり、と鍵の回った音に強制的に意識が戻る。
オレの首元から金の鍵を引き抜いたおひいさんは真っ白な薔薇の服を着て、ひらひらと白薔薇を降らせている。
「おひいさん」
「おはようジュンくん」
ちゅっと瞼にキスをし、ゆっくり離れてく。オレを見下ろすおひいさんに手を伸ばせばすっぽりと収まってくれた。
「オレ、花嫁人形じゃなかったんすか」
「そこなの?」
えぇ……と残念そうな声でぐりぐりと肩に額を擦り付けられる。ドキドキが伝わらなくなった体はおひいさんに嘘がつけるようになったみたいだ。
「照れてるって分かってるね」
「あぅ」
ぷすりと頬を突かれ、情けない声が出る。分かってるなら乗ってくれ。
「……薔薇、ちゃんと受け取りましたよ」
「うん、知ってるね」
とろとろの紫薔薇のジャムの目がオレをゆったりと見上げる。
「誇っていいね。ジュンくんは人間の未来をぜーんぶ捨ててぼくを愛する事を選んだんだからね」
「そう、なんでしょうね」
真っ白な薔薇を握り込む。全く覚えていないが、あの後オレはおひいさんを追いかけたんだろう。そうじゃなきゃオレはここに居ない。
「ジュンくん」
ぎゅうといつもの強さで抱きしめられる。おひいさんの温度がする。はっと無意識に止まっていた呼吸を再開し、肺に花の香りを送り込む。
「あのね、ジュンくん。忘れたままで構わないね」
「なんで」
「ぜーんぶ思い出したら、ぼくの薔薇に囲まれて窒息しちゃうかもねしれないね!」
「急に物騒っすね」
「ぼくは薔薇の妖精だからね」
「……オレは窒息させないんすか?」
「お馬鹿さん。きみに毎日あげているでしょう?」
握ったままの薔薇を肩口から見つめる。そっと離れ、おひいさんの手が重なれば、白い花びらは先から赤く染まり始めた。
「ジュンくん。ぼくの事、好き?」
ふわりと溶けるように真っ赤な服を纏ったおひいさんがこてんと首を傾げる。
きらきらと期待に輝く瞳に、薔薇と同じくらい赤く染まったオレが映った。
「好きです」
かちゃんと勝手に鍵の開いた音がする。それを追いかけるより早く、目の前で細かな星がちかちかと瞬く。
花が咲いたように微笑むこの妖精がオレは好きで、愛おしくて。いつだって赤い薔薇を手渡す事に躊躇いなんて1つもなかった。
「ジュンくーん」
かちゃかちゃと首元を弄られ、ふわふわと頭をなでられる。今日は早起きっすねぇ、おひいさん。起き上がるより先に体を起こされる。
「起きて〜ジュンくん〜」
左の薬指が冷たい。起きろというのに起こす気のない声でぎゅうぎゅう抱きつかれる。
「お寝坊さーん」
「前が見えねぇ……」
「えー? なんでだろうねぇ」
「あんたねぇ」
開いているはずなのに、さっきから無遠慮に花びらが降ってくるせいで何も見えない。白、赤、黄色、青にピンク。無数の色に視界を閉ざされ、撫でられ朝から溜息をついてしまう。
「せめてベッド降りてからにしてください。掃除大変なんすよ」
「そんなの気にしなくていいね!」
もう! とぷっくりと頬が膨らんでるだろうおひいさんに抱かれ、ふわりと体が浮く。うわっ見えないとちょっと足場がないだけですげぇ怖ぇ。
「おろしてください!!」
「ぼくってばジュンくん思いだから、きらきらしたステンドグラスの光も好きだろうな〜ってどっちがいいかなーってちょーっぴり悩んじゃったね!」
「無視すか!?」
「でもきみに愛を誓ったのはぼくだから、やっぱりダンスホールは花びらがよく見える青空がいいよね! お日様燦々いい日和!」
「おひいさん!!」
ぴたりと足が止まった。同時に降り続けた花びらの雨もやんだ。やっとおひいさんが見える。
「あはっ見惚れちゃった?」
太陽燦々いい日和。にぴったりな透き通った青い空、光のカーテンのように柔らかな朝の光を浴びてきらきらと咲くおひいさんは光を秘めた真っ黒な姿をしていた。
「黒も似合うんすね」
「当然だね、ぼくは何でも似合うからね!」
にこにこと機嫌がいいおひいさんに下ろされる。かつんと硬い音が鳴った先を見れば、鏡のようなぴかぴかの床がオレ達を映した。
オレの服もいつもと違って黒い。お揃いだね! と胸を張ったおひいさんの薬指には紺色の宝石のついた指輪が、オレの薬指は黄緑の宝石がついた指輪がはまっている。
「これもお揃いっすか」
「うん! 結婚指輪だね!」
似合うね! と手を合わせにこにこ笑うおひいさんにぽかんと口が開く。
……結婚指輪だね?
「人間の結婚にはこれだよね。ぼくに愛されてるって証! あは、嬉しすぎて言葉も出ないんだね。ジュンくんは幸せ者だね!」
「ありがとうございます……?」
そろりと手を翳せば伸びた影の上で黄緑の光と宝石のプリズムがぼんやりと輝いている。
「そっちばかり見ないでね」
あんたがくれたくせに。きゅっと指を絡めたおひいさんにそのまま腰を取られた。リードされるまま足を動かせば、赤いレースがふわりと揺れて、おひいさんの腰元の深緑を追いかける。青い空からカラフルな花びらがひらりひらりと優しく舞い降りて、鏡のようなフローリングにつく前に消えていく。
「あの、ここどこっすか」
「え? お家だね」
「こんなのいつ…」
「これくらい簡単だね! 結婚指輪は人間式だからね、妖精の祝福も挙げないといけないね!」
抱えられほんの少し宙に浮いた。ニコニコと笑うおひいさんの背の羽は透き通っていてとても綺麗だ。
「本当は羽を手折って、それぞれの羽を与え合うんだけれど」
「物騒」
「そんな事ないね! 溶け合って新しい羽になるんだね。まあ、ジュンくんもぼくの魔力で出来ているし、一緒だね!」
ぽんっといつもの音が鳴った。手の中で真っ黒な薔薇が艶めく。
「覚えてなくても、羽がなくても、ずーっときみだけだね」
ふわりと柔らかな香りが広がる。
「ぼくのジュンくん。ずっとずっと一緒に居ようね」
蕩けそうな笑みにちかちかと細かい星が輝く。太陽、大輪の薔薇、どんな綺麗なものより眩しいおひいさん。
「あんたがオレをこんなにしたんです。今更離れるわけないでしょうが」
嬉しいと素直に輝く瞳にキスをする。
結婚のやり方とか、好きとか花とか色んな愛し方があるみたいだが、オレにあんたが初めてくれたのはこれでしたよ、おひいさん。
「〜〜っ! ずるいねずるいね! ぼくもするね!!」
「うわっ、ちょっおひいさん!」
ぱっと羽が消え、崩れた背は積もっていた花びらに迎え入れられる。何度も触れ重なった唇を受け入れれば、とろりと幸せそう笑った。
ほんと、仕方ないですね。おひいさんは。
オレは花嫁人形。あんたに起こされたお嫁さん。誰の代わりでもなくあんたからの薔薇を貰うために、あんたを愛してやりますよ。これからも、ずっと。