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    大多良山にて「何なのよォォォッ!」
     茶々は叫んだ。こんな大声を出したのは久し振りだった。叫び切ってからも上手く息が吸えない。足が宙を掻いているようにふわふわしている。山の斜面を駆け下りるにはあまりに危険な恐慌状態だ。茶々の理性はそのように耳元で助言していたが、肉体は全力疾走を続けて止まらない。
     一刻も早く逃れなければならない。たとえここが山中だろうと、わかりやすい道から離れようとも、とにかくあれから逃れなければ。あれは地響きと共に現れて、同行者たちを内部に閉じ込めてしまった。否、閉じ込めたのではない。山の斜面を横に引き裂いて現れたあれは、大きさこそ異常だが見覚えのあるものだった。土から直接生えた黄みがかったあれは、歯。男たちを迎えるように突き出された赤いあれは、舌。
     あれは口だった。山が大きな口を開いて、人間ふたりを飲み込んでしまったのだ。
    「…あ」
     数分前の事態を正確に認識した途端、茶々の足から力が抜けた。崩れ落ちた上半身を笹薮が受け止める。勢い余って地面に突いた手のひらの、鈍い痛みが茶々の理性と肉体の距離を縮めた。
     茶々は地面に崩れながらも、背後を振り返った。笹で視界は悪い。ようやく戻ってきた呼吸で胸が苦しい。だが駆けてきた道を、誰かが、或いは何かが追ってくる気配はない。音もない。登山日和とも呼べる爽やかな風が、瑞々しい木の葉を打ち鳴らすばかりだ。
    「…何なのよ、あれ」
     木漏れ日を頬に受けながら、茶々は呆然と呟いた。声が震えるのはどうしようもなかった。

    「小松くん、うちの依頼をひとつ引き受けてくれない?」
     かつて所属していた探偵事務所から連絡が入ったのは、小松茶々が独立して一年経とうという時だった。普段ならば絶対に出ない電話だ。着信拒否しておけばよかった。しかし茶々はつい出てしまった。平日の昼過ぎに、仕事も何もなかったせいだ。
    「地方の仕事でさあ。浦川くんもそんなに遠くまで行けないって言うんだよ。腰の重い子はやっぱり駄目だな。君のフットワークの軽さが恋しいよ、僕は」
     退職時に恫喝してきた元上司の所長は、全て忘れたような猫撫で声だ。耳元で響く声の気色悪さに、茶々はさっさとスピーカーに切り替えながら「あーそうですか」と合槌を打った。浦川と自分を競わせる物言いは、一年前と全く変わっていない。
    「断ろうかとも思ったけど、知り合い経由の話なんだよ。代わりの人を紹介しなくちゃ悪くって。仲介料とか取らないからさあ、どう?」
    「そうですね…どんなご依頼なんです?」
    「行方不明者の所在確認。報酬は二百万円出すって」
    「捜索ではないんですか?」
     いわゆる人探しは探偵によくある依頼だ。しかし所在確認はどういう事かと、つい聞きとがめた茶々に、所長が電話の向こうで笑った気がした。鼻から息の抜ける音が苛立たしい。もっと女の武器を使えと、そうして笑われながら言われた事が思い出される。あの時に鼻を潰してやればよかった。
    「アタリは付けてるそうなんだよね。ただ警戒されてて、なかなか近付けないらしい。監視カメラをあちこち置いて、二日三日で終わる楽な仕事だよ。それで二百万なら破格だろ?」
    「そうですね…詳細を聞いてみなければ、楽とは言えませんが…」
     最後の合槌は焦らすためのものだった。あまり気乗りしないような声を意識しつつ、茶々は結局、所長のその依頼を「話を聞くだけは聞く」という態度で受けた。
    「…よし!」
     電話を切ってから茶々はぐっと拳を握りしめた。あの所長の仲介は気に入らないが、報酬のあては何よりありがたい。茶々は背後を見やる。そこには自分が一年前ようやく開いた小松探偵事務所が、黒焦げの室内を晒していた。
     当初は順調だった。洒落たサロンや画廊の入った新築ビルで、小松探偵事務所は多少浮いていたが、それだけに金払いのいい客が来てくれた。半年も経てばコンスタントに依頼が続き、口コミも某検索サイトの評価も上々。星四つ以上は堅かった。
     しかしある日、茶々が出勤してみれば、ビルは燃えていた。放火である。事務所の入っていたフロアが丸々焼けた。しかしどうも、出火元は小松探偵事務所のドア近辺らしい。放火犯はまだ見つからないが、調べに来た警察はこう言った。
    「探偵だったら色んな客がいるんでしょ。あなたお若い女性なんだし、恨みを買ったんじゃないですか?」
     怨恨か、偶然か。同じフロアの借主たちも、ビルのオーナーも前者と解釈した。以前、小松探偵事務所の周りを、ストーカーめいた元依頼主がうろついていた事も災いした。保険会社は免責云々と支払いを渋り始め、借主たちは保証金で補填し切れないものがあると騒々しい。オーナーは安全とビルの品格を繰り返し話すようになり、賃貸契約の打ち切りも時間の問題だった。
     粘ろうと思えば粘れたかもしれない。しかし客たちへの対処で、茶々は限界だった。顧客データはバックアップで救われた。それでも複数のカメラ、諸々の探知機、ドローンに到るまで、茶々が揃えた最新機器は丸焼けである。やって来る依頼も断るしかない。現行の仕事をどうにか全て解決し終えた時には、閑古鳥が鳴いていた。
     移転や、もしかしたら法的手段に訴える事を思えば、二百万円などあっと言う間である。しかし収入がないまま預金を切り崩し続ける生活よりはましだ。これで運が向いてきたならいいのだが。相手先に伝えておくから夕方にでも電話してくれと、教えられた番号のメモを茶々はもどかしく見つめていた。

     特急で二時間、駅で下りてから更に車で一時間半。茶々がやって来たのは自然豊かな、と言うよりも山に囲まれた町だった。大きな市の隣らしいが、山ひとつふたつを越えるのが「隣」と呼べるのか、都会育ちの茶々にはぴんとこない。
    「あれが大(だい)多良(だら)山です」
     依頼主の大山は、窓の向こうに広がる大多良山を示しながら言う。なだらかで、絵に描いたようなお椀型だ。山と言っても周囲の山岳に比べればずっと低い。
    「古くから山の神様を祀っとるんです。あれを越えれば隣の市なんですが、何せ御神域だ。町民も普段は入れない、禁足地ってやつです」
    「ところがその山を崩して、高速道路を通す事になったんですね?」
     茶々の確認に大山は頷く。青年会会長という肩書きに反して還暦近い男だ。人口千人単位の町にはよくある事なのかもしれない。茶々が案内されたこの青年会議所本部も、町の公民館の一室である。敷かれた赤い絨毯や雉の剥製は、昭和の時代の応接間じみていた。
    「大事にされてきた山ですが、それでも開発しなきゃ町はいつまでもこのまんまだ。だから道を通そう、神様をお移ししよう、と決めたのを、副会長の守部(もりべ)が大反対をしてね。契約印を盗んで消えたって訳です。まあ守部の家は昔から頑固者揃いで…」
    「その守部さんが、大多良山にいるとお考えですね?」
     長くなりそうな喋りに茶々は口を挟んだ。向かいのソファでふんぞり返っていた大山は、黙って肉付きのいい顎を引いた。身長は頭ひとつ分、年齢なら干支みっつ分は下回る小娘が偉そうに、という顔である。茶々が依頼主との会談でしばしば見かけるものだ。この部屋に入った時の見下した視線といい、適当な敬語といい、財政難の時でなければ帰っている。
    「考えじゃない。いるんですよ、守部の奴は」
    「どなたか目撃者が? 立ち入り禁止の御神域なんでしょう?」
    「見てますよ、うちの部下がね! わざわざ金庫を壊してまで契約印を盗っていったんだ! あの馬鹿が相手先に迷惑かけないか、こっちは夜も眠れませんよ!」
     テーブルを叩いて大山は怒鳴る。しかし益々怒るだろうとは思いながらも、茶々は別の提案をつい持ち出していた。
    「警察や役所に紛失届を出されましたか? 印鑑登録をし直してはいかがです?」
    「できたらあんた方に頼みませんよ! こっちはね、長年町の意見を調整して、向こうの市や業者とも汗水流して話を進めたんだ。それが印鑑を盗まれましただなんて言えませんよ!」
     要するに面子の問題なのだろう。大山は単なる青年会の会長だけではなく、町長や県議会とも繋がりのある土建屋だ。開発事業の中心人物のひとりである。そんな失態が明るみに出ては面目丸潰れだ。開発で利権を得ようにも強く出られない。
     しかしそんな地位の人間が、少しつついただけでこうまで激昂するとは。茶々は鼻白んでいた。依頼の電話では、「ご高名な先生に是非お願いしたく」と卑屈なほどの態度だった。もっとも相手がホームで豹変するのも、茶々には珍しくない。黙って目線で続きを促すと、流石に声を荒げ過ぎたと思ったのか、ぶつぶつと大山は続けた。
    「…山のてっぺんに、祠があるそうなんですよ。狭い洞窟のようなもんらしいが、雨風はしのげます。警察の捜索っても署長の女房は反対派の一味だ。青年会の山狩りも、守部のスパイで筒抜けですよ、筒抜け!」
     地方ならではのしがらみだ。茶々が駅からここまで乗ってきた車も、反対派に知られないようにと、大山の親戚が運転手をしていた。溜め息を押し殺して、茶々は口を開いた。大山の興奮を乱すようにあえてゆっくりと喋る。
    「わかりました。しかし大山さん、改めて確認させてください」
    「確認ったって、何を?」
    「私への依頼は守部さんの拘束や契約印の奪還ではない。彼が本当に山の祠にいるのかという所在確認ですね。そして彼の生活パターンや、協力者の有無の把握」
    「そりゃそうだ。女性にとっ掴まえてくれとは頼みませんよ!」
     わざとらしく太い腕を叩いて大山は言う。肉の袖がぶるんと揺れた。
    「我々が奴を捕らえる、その隙を見付けてくれりゃいいんです。何せまあ、何人もね、今まで失敗しとりますからね」
    言いながら一瞬、大山の目が泳いだ。青年会の失敗は彼の面子に直結するからだろうか。
    「…わかりました。では契約締結を進めて」
    「ああ、それとね、言い忘れてましたが、応援を呼んでまして」
     大山はそう言って立ち上がり、部屋を出て行ってしまう。無作法と怪訝な言葉に、茶々は眉をひそめながら彼を追った。でこぼこした廊下がスリッパ履きでは歩きにくい。
    「うちから若いのを付けようにも安心ならんが、女性ひとりで山には行かせられませんからな。数も多い方がいいでしょう。他にも探偵さんを雇わせてもらってます」
    「他の探偵? 協力して事に当たれと? ちょっと、そんなの初耳ですよ」
     険しい声で茶々が言うのを無視して、大山は廊下に面している襖を開けた。畳敷きの和室だ。普段は地域の茶道教室にでも使われているのだろう。こちらに背中を向け、座布団にあぐらをかいている若い男がふたり。そして大山と茶々が入っても、彼らの視線を集め続けている、中年男がひとり。
    「右藤さん、佐村さん、こちらが例の…八木さん?」
     喪服のような黒いスーツを着た中年男は、膝立ちで拳を握っていた。耳にイヤホンを付けているあたり、音楽かラジオでも聞いているのだろう。中空にあらぬ目を向けている。たまに「来い」とか「まだいける」とか呟いているのが不気味な限りだ。重ねて呼びかける大山も腰が引けている。
    「八木さん、すみませんが…」
    「イヤアアアーッ!」
     大山も、若い男ふたりも、当然ながら茶々も、絹裂くような男の叫びに飛び上がった。仰天する四人の視線を受けながら、男はへなへなと座布団に尻を乗せる。手から落ちた鉛筆が、茶々の足元まで転がってきた。よく見れば男の前には新聞らしきものもある。茶々は思い切り眉を寄せた。こいつ、競馬をやってやがる!
    「…あの、八木さん」
    「ああ…大山さん…どうも…」
     ぽろんと外れたイヤホンをぶら下げながら、男はようやく顔を上げた。どことなく薄汚れた気配が漂っているのは、無精ひげのせいか、生気を失った顔色のせいか。しかしそればかりではない、昼の道を堂々と歩く人間とは少し違ったものを、茶々は嗅ぎ取っていた。
    「どうも、ええ、ご紹介します。こちらが八木さん。探偵です」
     だから八木の反応を諦めたらしい大山がそう言った時、茶々が吐いた深い溜め息は、やっぱりなという諦めのものであった。
    「あ、どうも、右藤明です」
    「佐村淳也っす。よろしく」
    「…小松茶々です」
     軽く頭を下げる若い男ふたりに、茶々は挨拶を返した。どちらもまだ二十代だろう。眼鏡をかけた右藤はやや大人しげだ。うつろな顔の八木を横目で気にしている。そんな右藤を置いて、佐村の方は初対面にしては親し気な笑顔を向けてきた。
    「へえー、探偵さんって八木さんみたいな人ばっかだと思ってました。小松さんいくつ? 俺と変わんないっすよね? 髪型もかっけえし」
    「どうも。…大山さん、協力の話は聞いていませんが」
    「そりゃあ、何も競わせるって訳じゃないんだ。さっきも言ったように女性ひとりじゃ物騒でしょうよ」
     しれっと大山は言う。茶々はこめかみが引き攣るのを感じながらも、あえて微笑みながらビヤダルのような彼を見上げた。
    「お気遣いありがたいですが、私は危険は承知の上です。確認させて頂きますが、例えばこれ…この…こちらの八木さんが守部氏の所在を確認したとしても、私の報酬金額に変わりはありませんね?」
    「勿論。約束通りお支払いしましょう」
     意外にもすんなりと大山は頷いた。「かっけえ」と佐村がまた呟いたようだが、茶々は無視した。第三者がいる時でも、口ばかりなら何とでも言える。大事なのは書面の契約だ。改めて書類を取り出そうとした茶々を、今度は弱々しい声が遮った。
    「小松…茶々と言えば、あの弁天堂脅迫事件を解決した?」
     まさしく前の探偵事務所にいた時、茶々が解決した事件だった。あの所長が己の手柄のように吹聴したせいで、自分の名が出されるのは珍しい。思わず勢いよく振り返った茶々は、土気色した顔の八木と目を合わせた。幻の万馬券から現実に帰ってきたのか。
    「え、ま、まあ、そうですけど、ご存じなんですか?」
    「有名な事件だからね。それに名前も覚えやすい。確か飛鳥野家誘拐事件にも関わって、早期解決に繋げたと聞いたが…」
    「え、ええ、あの事件は犯人の痕跡がかなり残されていましたからね。依頼を受けた探偵としては当然の働きですよ、当然」
     茶々は胸を反らした。警察も見落としていた証拠を集め、二日で子供を確保できた自慢の事件だ。やはり見ている者は見ているのだ。しかし相手はところ構わぬ競馬狂い。茶々は天まで伸びそうになった鼻を抑え、改めて八木に向き直った。有能な探偵たちの名前は大体頭に入れてあるが、八木という名字は聞いた事がない。
    「ところで八木さんの、下のお名前は?」
    「八木琢磨です、どうも」
    「ベテランの探偵さんなんですよ。こういう地方での捜索にも慣れてらっしゃる」
     やはり聞き覚えのない名前だ。これまでの経歴を聞きたくなったが、横合いから大山からくちばしを挟んでくる。
    「右藤さんと佐村さんは八木さんの助手さんだ。これだけ人数がいれば、あの通り小さな山です。守部の場所も様子もすぐわかるでしょう。明日にでも取り掛かっていただきたい。今日の宿は用意させましたんでね。さ、どうぞ、どうぞ!」
     言いたいだけ言うと大山は全員を立たせ、二手に分けて車に押し込んだ。彼と八木たち三人が同じ車に乗ったせいで、茶々は契約書を出す暇もなかった。この町で唯一だというホテルの部屋に送り届けられた後も、あっと言う間に大山は帰ってしまった。
    「明日は朝九時に迎えにあがります。大多良山へ案内しますから、早めに休んだ方がいいですよ。ああ、あと、反対派に知られないよう、外出は控えといてください」

    「失礼な奴、何様だと思ってんのよ」
     登山用リュックサックに改めて荷物を詰めながら、茶々はぼやいた。何から何まで自分のペースで進めようとする手合いには我慢がならない。しかし本当に苛立つのは、そんな相手の依頼を断れない自分自身だ。「金欠」の二文字がともすれば脳内をちらついてしまう。
     舌打ちして茶々はリュックから背中を向けた。バブル期を引きずった大きなドレッサーが自分を映す。しばらく美容室に行けていないせいで、髪のメッシュの根元は黒っぽい。登山のためにネイルを落としたから、爪も手もくすんで見える。加えて夕食後の楽なTシャツ姿は、探偵事務所よりも夜のコンビニ前の方が似合うだろう。名探偵、凄腕探偵と誇って来た自分がどこかへ行ってしまったようで、茶々は肩を落とす。
    「…二百万よ、茶々、二百万のためなんだから」
     少し乾燥した親指の爪をかじり、茶々は脳内の帳簿へと意識を向けた。必要な機器はいくつもある。だがまずは、美容室に行こう。ついでに涙を呑んで見送った限定のネイルポリッシュも買おう。緑にも紫にも見える玉虫色は、きっと整えた髪に映える筈だ。
     スマートフォンでネイルの公式サイトを確認すると、画像表示が随分と遅い。山に近いせいか。茶々は窓の外を見やった。もう時刻は二十一時近い。都会なら賑やかな時間帯なのに、外は車が一台、また一台と走っていくだけだ。隣の生協のライトばかりが白く輝いている。その向こうにぼんやり浮かぶお椀型の影は、明日から登る大多良山だろう。
     よくあんな山で何日も生活できるものだ、と守部について茶々は思った。町中のホテルもこんなに侘しい。山で心細くはないのだろうか。もしかしたら夜間は山を下りて、家に帰っているのではないか。夜に移動すれば目立ちそうな町ではあるが…
    「ん?」
     大多良山のお椀型が一瞬揺らいだように見えて、茶々は目を凝らした。だが直後、生協のライトが消える。時計は二十一時。閉店の時間という事か。蛍の光のような街灯だけでは、大多良山は輪郭も曖昧だった。
     茶々は改めて明日の装備を確認した。最重要は監視カメラだ。山という地形上、視野の広さとバッテリーの持ち時間は必要。となればそれなりの大きさになるが、木陰に隠せなければ意味がない。茶々が持ってきたのは三台だけだった。火災での損失が痛い。大山が報酬の前払いに承知していれば、もっと多く投入できた。
     監視カメラの画面はスマートフォンで確認できる。一度仕掛けてしまえば、山中の滞在は不要だ。ただ、誰も立ち入らない大多良山の登山時間は、大山も正確には答えられなかった。ペットボトルの水は用意していたが、念のためもう一本増やそうかと茶々は悩んだ。最寄りコンビニは徒歩二十分、生協は閉店中である。ホテルロビーに自販機があった筈と、財布を片手に茶々は部屋を出ていった。
     まだ二十一時を回ったばかりなのに、ロビーの明かりも落とされていた。フロントからも職員は引っ込んでいる。そこだけ明るい自販機に向かうと、先客がいた。
    「やあ茶々君。こんばんは!」
    「…どうも、こんばんは」
     八木は大負けのショックから立ち直っていた。食堂での夕食時にも、イヤホンと競馬新聞を離さなかった男だ。恐らくナイターで勝ったのだろう。声にも目付きにも張りがある。
    「こっちの自販機は二十一時半に終わるそうだよ。間に合ってよかった」
    「まるで病院ね。…八木さんも明日の準備は済んだの?」
     下の名前で呼んできて敬語も使わない同業者だ。年上だろうとこちらも敬語は使わなくていいだろう。そう判断した茶々の口調に、八木は何の屈託もなさそうに頷いた。
    「ああ、私は登らないよ」
    「は?」
    「そのために若いふたりを雇ったからね」
     茶々は眉を歪めた。右藤と佐村をこのためだけに雇ったとしたら、経費を差っ引いて残る金額はどれくらいか。自分と同じ二百万円の報酬としてもいまいち割に合わない。嫌な違和感と共に、つい率直な声が出た。
    「足が出ない? 確かに人手があればあるだけ安心だけど、そう大がかりな捜索でもないでしょ?」
    「あの山は監視カメラが使えないんだ」
    「はぁ?」
    「電子機器類はまるで駄目らしい。携帯も調子が悪いだろう?」
     言われてみればと、画像表示の遅さを茶々は思い出す。ただ、山間で電波が届きにくいというだけではないのか。たとえリアルタイムでの通信が難しくても、監視カメラの録画機能くらいは使える筈だ。しかし八木は見透かしたように首を振る。
    「磁気を帯びた鉱物のせいだと大山氏は話していたがね。つまり我々はあの大多良山では、自分の目と耳に頼るしかないという訳だ。そうなると数は多い方がいい」
    「アナタそれ、大山さんから説明を受けたのね?」
     つい問い詰めるような声になった茶々に、八木の目が右に左にと揺れる。まずい事を言ったと思ってでもいるのだろう。しっかりこっちを見ろと平手のひとつも飛ばしてやりたい。それでも茶々はにっこりと笑顔を作った。
    「いいわ、気にしないで。でも私たちはライバルじゃなくて協力関係でしょう? だから教えて。大山氏からの依頼は、守部氏の所在と、動向と、彼の協力者を確認する事。他に何かある?」
    「お客様ぁ」
     フロントから職員らしい人間の呼び声がする。だが茶々は八木から目を逸らさなかった。笑顔のまま、睨み上げる。大山にはなるほど、自分はなめられた。だがこの八木には、そんな真似は許したくなかった。
    「お客様、あの、二十一時半を過ぎましたら、エレベータも停止しますので…」
    「ないな」
     こちらもフロントへ目も向けず、八木は茶々の問いかけをきっぱりと否定した。
    「私も君と同じ内容の依頼だ。電子機器類の話はされたが、それだけだろう」
    「山の地図を渡されたりは?」
    「ないね。彼らには神様のおわす山だ。そんな物は存在しないと言われたよ」
    「まさかと思うけど、大山さんの昔からの知り合い? それとも地元民?」
    「私は都会っ子だとも! 恐らくは君と同じだ」
    「そう。…ならいいわ。明日は右藤さんと佐村さんにお世話になるので、よろしく」
    「お客様ぁ」
     八木の横をすり抜けて茶々は水を買った。エレベータは諦めて、最初から階段を昇った。最上階の部屋とは言え、たかが七階建ての田舎ホテルだ。はらわたが煮えくり返っている時には丁度いい運動だった。
     あのクソ親父の大山。自分と八木に差をつけた。あんな馬狂い中年には説明をして、自分には何もなしとは。しかも電子機器が使えないという最重要事項を!
     いっそ守部を掴まえてやったらどうか。階段を踏みしだきながら茶々は想像した。大山は女に男の相手は難しいと思っているようだ。青年会が失敗した山狩りに、こんな小娘が成功したらどんな面をするだろう。だが、ひとりで、山中である。危険だ、と耳元でサイレンが鳴る。
     五階の途中で茶々は足を止めた。はあっと溜め息を吐く。こうして頭に血を上らせて、守部を捕獲させようとする作戦かもしれない。だが大山はそこまで女に期待する人種ではなさそうだ。捕獲の確実性を高めるためなら、八木を挑発しようとするだろう。
     もしかして自分はそのために依頼されたのではないか。若い女に負けていいのか、大手柄を欲しくはないのかと、八木を挑発するために。
    「…だとしたら失敗ね」
     ふんと鼻でせせら笑って、再び茶々は階段を昇り始めた。八木は若い女に負けてたまるかと発奮するタイプではなさそうだ。敬語を使われなくても平然としていた。そして茶々自身もまた、下らない挑発の道具になっておくタイプではないのだ。
    捕獲はともかく、八木たちよりも確実に成果を出してやる。奥歯を噛み締めて茶々は最後の階段を昇り切った。

     朝食は食堂でのビュッフェ形式だった。右藤と佐村はいたが、八木の姿は見当たらない。
    「コンビニにでも行ったんじゃないすかね。朝下りて来たら、フロントで競馬新聞がないって言われてたから」
    「病気ね」
    「そうですね…」
     若いふたりとテーブルを隔てて向き合いながら、八木の不在は好都合だとも茶々は思った。右藤は口数少なく緊張している様子だ。しかし佐村は昨日と変わらず、親しみを通り越して馴れ馴れしい。これなら雑談を装って話を聞けそうだ。
    「ふたりは八木さんとは長いの?」
    「いや、今回求人を見かけて、たまたますよ。右藤もだろ?」
    「あ、うん。僕は登山部で、経験を活かせると思って」
    「俺はキャンプ好きなんだよね。サークル仲間と焚火でチルったりしてさあ。茶々さん、アウトドア得意? 力仕事も多いよ? 手伝うから何でも言ってよ」
    「ありがとう。…探偵業って結構特殊だと思うけど、ふたりともこういうバイトは初めて?」
     コーヒーの雫がソーサーにつたう。その短い刹那に、右藤と佐村が視線を交わしたように茶々には感じられた。
    「そっ、初めて初めて! どきどきするよな。右藤もだろ?」
    「あ、うん。緊張するね」
     笑顔を返しながら、このふたりも奇妙だ、と茶々は思う。軽い若者と真面目な学生風と対照的だ。出会ったばかりのバイト仲間以上の関係はないように見える。しかしどこか共通したものを感じるのは、あの八木と関わっているせいだろうか。
     電子機器類が使えない話は彼らも聞いていた。山の地図もない。八木の事務所も、ついでに言えば彼らの出身地や住所も、こちらとは遠い大都会だった。その他の情報は茶々も聞いているものばかりだ。クマや猪や毒蛇は生息していない。祠の洞窟までは一本道。あまり整備はされていないが、迷う恐れのない低く小さな山だ。逆に言えばこちらが身を隠せる場所は、木々の中くらいになる。
     朝食を終え、ロビーでの再会を約束し、茶々は一足先に食堂を出た。昨日の自販機の傍らに、見慣れた黒い人影がある。片手の競馬新聞につい眉をひそめてしまったが、茶々は八木に招かれるまま寄っていった。
    「また競馬ね?」
    「今日も外せないレースがあるんだよ、ハハハ!」
     胸のポケットからイヤホンのコードをぶらぶらさせたまま、八木は胡散臭いくらい快活に笑った。このレースのために右藤や佐村を雇ったのではないか。やはりこんな男よりも下に見られたと思うと腹立たしい。さっさと離れようとする茶々に、「ところで」と八木は言う。
    「今日の登山だが、よければここに残らないか?」
    「…どういう意味?」
    「小さいとは言え山だ。地図もない。右藤君たちには、今日は情報収集だけで構わないと伝えてある。一度下山してもらって、その情報を元に次の作戦を練ろうと思ってね」
    「つまり、私が報酬を払えばそれを共有させてくれる、って訳ね」
     黙って八木は頷く。監視カメラを使えない手間を思えば、悪くはない話だ。だが値段による。茶々は少し考えてから尋ねた。
    「いくら?」
    「二百万」
    「交渉決裂ね」
    「その価値はあると思うが」
    「馬鹿にしないでよ。自分の足で稼ぐのが嫌なら、こんな商売してません」
     そこまで吹っ掛けられては値切る余地もない。そして八木が報酬と同額を提示してきたという事は、彼は大山により高額な報酬を約束されているのではなかろうか。余計に腹が立つ。憤然と茶々は踵を返したが、八木はしつこかった。大股でエレベータへ向かう茶々を、小走りに追いかけてくる。
    「じゃあ茶々君、情報はともかく、投資に興味はないかな? 五万円が六・二倍になって返ってくるあてが」
    「その倍率、どうせ投資じゃなくて馬でしょ! たかるなら右藤さんたちにしてよね」
    「右藤くんも佐村くんももう貸してくれないんだよぉ」
    「既遂なの⁉ アルバイト相手に雇い主が借金してるんじゃないわよ! 恥さらし探偵!」
     つくづく情けない男だ。茶々は思わず声を荒げた。なおも「一万でもいいから」とねだる八木を置いて、開いたエレベータに乗り込む。八木はそこまで追いかけてこなかった。即座に茶々は閉扉ボタンを押した。競馬新聞を片手に振りながら、八木は笑顔で言った。
    「致し方ない。それじゃあ今日は気を付けてくれたまえ。山ではくれぐれも腰を低く――」
     エレベータのドアが閉じられる。茶々は妙に疲れた体を、エレベータの壁にもたれかけた。しかし今日は、これからが本番だ。
     登山用ジャケットに歩きやすいパンツと靴、あまり好みではないが帽子も買っておいた。監視カメラは諦めたから、多少軽くなりはしたが、代わりの備蓄でリュックサックはずしりと重い。右藤や佐村が一度山を下りるならば、逆にこちらは一泊するくらいの気概だった。
     茶々がホテルのホールへ下りると、八木の姿はもうなかった。右藤と佐村もまだいない。周囲を見渡した茶々は、ふとある事に気付いた。
    「…『大多良山の恵み』?」
     八木が立っていた、自販機横の壁である。町の郷土史コーナーと銘打って、いくつかの写真が飾られている。昨夜は暗さと、八木に隠れて見えなかったのだろう。写真はどれも白黒だ。最も古そうな一枚には、鬱蒼とした森と、その手前に立つ大きな鳥居が写っている。これから登る大多良山の入り口かもしれない。茶々は写真の下に貼られている説明書きを読み上げた。
    「『大多良山は神の山として崇められ、町民たちは足を踏み入れず、大切にしていました。一方で山菜や茸などの恵みも豊富であり、飢饉の時だけは採取が許されていました。山に入る時は、神の許しを得るために、まず子供たちが祠にお参りし』、…んっ?」
     写真に再び目を向けて、茶々はぎょっとした。当初は鳥居の足元に石が三つ転がっているように見えた。だがよく目を凝らせば石ではない。人間が三人、山に向かってひれ伏しているのだ。説明書きが正しければ子供だろう。土下座どころか正座の機会も乏しい茶々には、写真の粗さも手伝って異様な風景に見えた。
    「これ、私もやらされるのかな…」
     できれば御免被りたい。茶々が苦虫を噛み潰して程なく、右藤と佐村は下りてきた。大山も現れて、三人は彼の車に乗り込み、大多良山を目指した。

    「あ、あの、この囲いって何ですか?」
     大多良山の入り口に、写真のような鳥居はなかった。崩れ落ちてしまったのだろう。そして代わりにあるのが、右藤が指さしている鉄条網だった。高さ三メートル近くあるそれは、見える限りぐるりと続いている。
    「聖なる山と言っても、罰当たりな人間がいるもんですからな。それと狸や狐なんかが畑を駄目にするんで、獣避けですよ」
    「はあ。すごいですね」
     おざなりな右藤の合槌だったが、茶々には気持ちがわかった。尖った金属はそれだけで物々しい。出入りできるようドアが付けられてはいたが、鎖と大きな南京錠が三つセットになっている。入ったら出られないぞ、と無言で訴えかけてくるようだ。
    「私たちも鍵を持てませんか?」
     南京錠をがちゃがちゃ言わせている大山に、茶々は聞いてみた。案の定、大山は太い首を左右に振ってみせる。
    「町の外の人間には渡せませんよ。それに万が一でも守部にこの鍵が渡ったら、出入り自由にされてしまうでしょう。夕方には迎えに来ますんでね」
     ならば守部が夜は町に戻っているという、茶々の推測は外れだ。協力者もこれでは骨が折れる事だろう。茶々はスマートフォンに目を落とす。まだ待ち受け画面は表示されているが、電波表示は既に圏外だ。八木の話が正しいならば、山中では起動もできなくなるだろう。
    「ではお気を付けて」
     軋んだ音を立てて鉄条網のドアが開かれる。刑務所のようだ、と脳裏に浮かんだ言葉を強いて無視して、茶々は真っ先に大多良山へと足を踏み入れた。登山経験者の右藤が反発するかと思ったが、彼も佐村も何も言わなかった。
     整備はされていないとの話だったが、地面は意外にも踏み慣らされて歩きやすかった。茶色い土が露呈して、これが一本道とわかるほどだ。木々は高く、葉が生い茂っていても、道の邪魔にはなっていない。守部の捜索のため手を入れたのかもしれない。
     ただ、上り坂になるにつれ、見えていた土は草に覆われていった。木の枝も道を侵食し始める。茶々は一度帽子を枝に奪われそうになった。すぐ後ろの右藤と佐原からも、たまに服やリュックサックを引っかけたらしい声が聞こえる。道が獣道めいてきたあたりで茶々は足を止めた。周囲に生い茂った笹薮は、茶々の胸くらいの高さになっている。この先はもっと視界が利かないだろう。
    「…祠まではまだ距離がありそうだけど、隠れて見張りでもされていたら厄介ね。一度ここで止まって慎重に、…え?」
     およそ二十分ぶりに振り返り、茶々は絶句した。右藤も佐村も茶々の後ろを歩いてきていた。ただし、どちらも腰を九十度近く屈めながら。
    「あなたたち、何やってるの?」
     上り坂の勾配はまだ緩やかだ。それなのに急な坂道を登っているようなふたりの体勢に、茶々は鼻に皺寄せる。既に顔にぐっしょり汗している彼らは、問いかけに一瞬互いに視線を交わした。まただ、と茶々は思った。朝の食堂でもそうだった。彼らは何か、茶々に知らせたくないものを共有している。
    「これがね、最新の、登山スタイルなんすよ! な、右藤?」
    「あ、うん。余分なカロリー消費を、防げるから…」
    「そんなに汗掻いて息切れしといて? おかしいでしょ」
    「そんなマジに突っ込まなくてもいいじゃないですかあ。茶々さん、カタいなあ」
     つい冷たい声を出した茶々に、肩で息しながらも佐村は笑顔を向けてくる。あくまで腰を屈めたままだ。茶々はぞっとした。同時に、出会った頃からの違和感の正体を、ようやく把握した気がした。
     佐村も、彼と茶々の会話をうかがっている右藤も、探偵業が初めてと言う癖に妙に物慣れているのだ。彼らの視線には値踏みが付きまとっている。それは茶々がたまにぶち当たる「女」に対するものでもなければ、「探偵」に対するものでもない。存在そのものが、命がどこまで利用できるかという冷たさを孕んでいる。
    「八木も胡散臭いけど、アンタたちも一緒みたいね。一体何を隠してるの? そんな格好をする必要がどこにあるのよ?」
     すぐ移動できるよう、重心を踵にかけながら茶々は詰問した。だが右藤と佐村はまだお辞儀の体勢を確保したまま、へらへらと茶々を見上げてくる。
    「茶々さんもそんなに怒らなくたって。隠してる事なんてないすよ。な、右藤?」
    「あ、うん、そうですよ。気にしないで、茶々さん」
    「アンタがたに下の名前で呼ばれる覚えはないわ。何も話せないって言うなら、私も信用しない。ここから先は別行動ね」
    「そんな、一緒に行きましょうよぉ。一本道なんだから、ね?」
    ね、と佐村が言い終わるより早く、茶々は踵を返した。そのまま一気に道を駆け上がる。
    「ちょっと、待って! 待てって! おい右藤、追いかけるぞ!」
    「あ、えっ、で、でも…」
     戸惑う右藤を佐村が引っ張る声がする。茶々がちらりと振り返ると、ふたりともちゃんと上体を起こして走っていた。できるじゃないの、と茶々は少し笑いたくなった。
     しかし右藤はともかく、佐村の追う速さはなかなかだった。一本道ではすぐ掴まる。茶々は思い切って、左手側の笹薮に飛び込んだ。がさがさと笹が擦れる音と、どこかで蜂でも驚いたのか、ぶんと重い羽音が鳴った。
    「おい! くそ、どこ行った!」
     元より丈の高い笹薮だ。しかも茶々の登山用ジャケットはカーキ色である。小柄な茶々が藪の中に入り、地面にほぼ這ってしまえば、道から目を凝らしてもすぐはわからない。佐村は地団太踏んでいたが、笹薮に突っ込んでまで茶々を追おうとしなかった。少し遅れてきた右藤に悪態つくだけだ。
    「遅ぇんだよ! お前さあ、何であいつの腕でも掴んでやらなかったんだよ!」
    「あ、ご、ごめん…でもやっぱり、最初から伝えておいた方が…」
    「馬鹿! お前だって黙っとこうって言っただろ! あーくそ、やっぱり誰かと組むとろくな事になんねえわ」
     何を自分に伝えていなかったのか、と茶々は笹薮に伏せながら息を詰める。しかし佐村は道を蹴り飛ばすばかりだ。これ以上の情報は望み薄だろう。
     諦めた茶々の耳にまた、ぶうんと重い羽音が聞こえた。近くに大型の蜂がいるのかと茶々は身を強張らせた。だがその羽音はもっと遠く、右藤や佐村たちのいる道の、更に奥から響いていた。
    「あ、」
     右藤が何かを言いかけたが、がさりと笹薮を割る音が声を遮った。そのすぐ後に、佐村の悲鳴が響いた。笹薮に隔てられた茶々にも、佐村の派手なスニーカーがばたつくのが見えた。
    「う、わああああっ! 何だこれ、な、わあああああ!」
     悲壮な声に茶々は笹薮からそっと顔を出した。この山に熊はいない、毒蛇の類もいない。とすれば狐でも現れたか。しかし茶々が見たのは、肌色をした蛇か芋虫のようなものに絡み付かれ、佐村がずるずると引きずられていく光景だった。
     佐村は両手両足を振り回している。だがその物体は彼から離れない。芋虫のようなものは全てで五本。指だと茶々が認識したのは、ぐるりとそれが半回転してからだった。二メートルはあるだろう手。手首から先が、独立して動いている。
    自分の目と脳を疑う茶々の前で、佐村は巨大な手に握り締められ、ゆっくりと道の向こうへと運ばれていく。膝立ちになっていた茶々は、再び倒れ伏した。地面が大きく揺れたのだ。
     山の斜面が横に裂けていく。茶々はニュースで土砂崩れを見た事があったが、生えている樹や笹はそのままに、黒い地面ばかりが盛り上がって割れていく風景は異常だ。深い横一文字に割れた山肌には、黄みがかった四角いものが横一列上下に生えていた。歯のように、否、歯そのものだ。何故ならばその奥から、赤くぬめる舌が現れている。
    「ちゃーちゃん、迎え舌はお行儀が悪いよ」
     そう叱る祖母の声を茶々が思い出した瞬間、突き出された舌の上に、手は佐村を放り出した。舌が引っ込む。歯が閉ざされ、上下に動いていく。
    「あ、あ、あああああ!」
     咀嚼音を掻き消そうとばかりに、右藤が大声を上げた。口の方を向いて立ち尽くしたまま、彼は「あああああ」と母音を叫び続けている。茶々も地面に伏せたまま、体が動かないのは一緒だった。
     ぶん、と再びあの羽音が鳴った気がして、茶々は視線を上げる。丸いものが笹薮の上を飛んでいた。茶々の頭よりはひと回り小さい何かが、右藤の周りをぶん、ぶうんと。
     佐村を掴んでいた巨大な手が、ばさりと飛び上がる。掴まれた右藤はまだ叫んでいたようだが、指の一本が顔にかかったせいで聞こえない。くぐもった悲鳴を引きながら、彼は佐村と同じく口の元へ運ばれ、放り込まれた。
     数秒の後、地面が再び振動する。口が、山が閉じる。先程と寸分違わぬ山の風景が、茶々の前に広がる。若者ふたりを掴んだ手はがさごそとどこかへ消え、丸いものはぶんぶんと、まだ周囲を飛んでいる。
    「……」
     茶々はふらりと立ち上がった。丸いものがこちらを向く。黒い瞳孔に白目、二重のまぶたさえも備えた眼球は、睫毛を羽のように震わせた。ぶん、と鳴る音はあの睫毛から発されているらしい。茶々は納得し、くるりと百八十度回転した。
    「…何なのよォォォッ!」
     そして叫び、駆けた。

     かちかちと奥歯が鳴り続けている。心臓もひどく波打っているが、周囲の音は障子一枚隔てたように遠い。初めて死体を見た時もこんな感覚がした。恐怖と焦りと動揺をどうにかするため、脳がアドレナリンを大量に分泌しているのだ。だから冷静に考えられないのだと、茶々は座り込みながら思う。
    「落ち着け、落ち着け、よく考えて、落ち着け…」
     半ば無意識に呟いて、茶々は親指の爪を噛んだ。歯の震えが少し収まる。爪を噛み千切る寸前で顎の力を抜いて、水を取り出した。手の震えでうまく傾けられず、顔と胸元がずぶ濡れになったが、逆にその冷たさが意識と肉体を繋ぎ止めてくれた。
     茶々は顔を上げて、走ってきた方向を振り返る。あの羽音は聞こえない。走っていこうとした方向を見やる。数歩先から一気に斜面は急になり、崖のような段差を作っていた。パニックのまま走り続けていたら、と思うとぞっとしない。しかも段差の下には、あの鉄条網が敷かれている。
     下山には先程の道しかない。鉄条網のドアまで行って、大山を待つ。笹薮の中は身を隠せるが、茶々は一刻も早く離れたかった。口、手、そして目から。
     覚悟を決めて茶々は立ち上がる。とは言え直立した訳ではなく、身を屈め、笹薮の中を歩いていった。笹を踏む音は響くが、遮蔽物のない道を歩くよりは多少ましだ。時折足を止めて、あの羽音が聞こえないか耳を澄ます。風が梢を揺らす度に心臓が止まりそうになった。茶々はそれでも笹薮が低く、身を隠せなくなるあたりまで下りて来られた。
     思い切って茶々は道に戻ったが、つい上半身を屈めてしまう。右藤と佐村たちの不思議な歩き格好は、今の自分のように身を隠すためだったのではないか。この推測が正しければ、彼らは、あれを知っていた事になる。
    「……!」
     茶々の思考を遮るように、麓から鋭い音が響いた。打ち上げ花火に似ているが、もっと高く澄んだ音だ。銃声だ。荒っぽい依頼の時に、茶々も聞いた事がある。
    「何が起こってるのよ、一体…!」
     まさか麓にあれが現れたのか。茶々は足を速めた。もうすぐあの鉄条網のドアに辿り着ける安心感と焦りが、身を隠すのも忘れさせる。道はどんどんなだらかになり、ここを曲がればというところで、
    「やあ、茶々君!」
    黒い背広に革の靴。この上なく登山に不釣り合いな服装をした八木と、茶々は出くわした。
    「…や」
    「ひどい目に合ったよ。君は下山かい? 右藤くんと佐村くんは? …ふむ」
     八木は茶々を上から下まで見つめた後、誰もいない背後へと目をやる。垂れた細い目の奥が光った気がしたが、茶々にはどうでもいい事だった。形容しがたい衝動が腹の中を渦巻いている。これをぶちまけたらもう自分は止まらない気がする。唇が震えた。
    「や……」
    「その様子だと、あれに食われたか」
     事情を全て呑み込んでいるような八木の言葉に、茶々の衝動は爆発した。
    「八木ィィィィッ!」
    「うおっとお!」
     胸倉掴んで八木を揺さぶると、呆気なく彼はされるがままになった。背広のポケットからイヤホンがぽろりと飛び出て、持ち主に合わせてぶらぶら揺れる。間の抜けた様子に背中を押されて、茶々は猛然と吠えた。
    「あれって何よ! 何なのよあれってぇぇぇ! 訳わかんないわよおぉぉぉッ! 何でこうなるのよぉぉぉぉぉ! アンタ全部知ってたんでしょ! もうやだあぁぁぁぁ!」
     ここまで抑えたアドレナリンと感情とストレス諸々が、ダムの放水よろしく溢れていく。吠え、罵り、八木を振り回しながらついでに拳で胸を叩き殴り、茶々は号泣した。
    「ちゃ、茶々君、待ってくれたま、苦し…」
     パンッ、と銃声が再び鳴ったのは、八木のシャツとネクタイがぼろ雑巾じみてきた頃だった。流石に茶々も身を強張らせる。麓の、鉄条網のドアのあたりから、誰かが怒鳴っている声も聞こえた。恐らく大山だ。手の甲で涙と鼻水を拭いて、茶々は八木を睨み上げた。
    「アンタ何をしたの? 何をしようって言うの? 何を知ってるのよ?」
    「もう少し登ってから話そう。流れ弾に当たりたくはないからね」
    「でもこの先は…」
    「座ったままなら大丈夫だろう」
     八木の口調に、こいつも何かを隠していると茶々は確信した。しかし三度目の銃声が、躊躇う足を追い立てた。
     笹薮が再び茶々の胸を隠し始める頃、八木は足を止めた。道を少し外れたあたりに、大きな木の根が盛り上がっている。「よっこいしょ」と言いながら八木はそこに腰掛け、茶々もその隣に座った。頭が少し藪から覗けてしまうのが落ち着かない。自然、声も低くなった。
    「ここには来ない筈だったでしょ? しかも何よあの銃声」
    「あちこち調べていたら大山氏にもうひとつの依頼を知られてしまってね。この通り追い上げられたのさ。現地の情報は有意義だが、やはりあまり近付くべきではなかったな」
    「もうひとつの依頼?」
    「依頼人は明かせないが、守部氏の関係者とだけ言っておこう。彼が『本当に亡くなったのか』を調べる事が、私のもうひとつの依頼だ」
     茶々はぎゅっと眉根を寄せた。確かにあんなものが跳梁跋扈するこの大多良山で、人間ひとりが生きていけるとは思えない。だがそれを、八木が知って動いていたとは。
    「…詳しく話して。アンタの知ってる事、洗いざらい」
    「そうだな、こうなったからにはお互い協力しないと」
     まるで他人事のような語調に、いっそう茶々は目を尖らせた。だが知らぬ顔で八木は続ける。皺くちゃになったネクタイをきゅっと結び直すのは、改めての自己紹介のつもりだろうか。山の中では馬鹿げた限りだが、日常的な仕草がいくらか茶々の呼吸を抑えた。
    「私はこういった、奇怪な『裏』の事件専門の探偵なんだ。守部氏の死因は異様過ぎる。到底普通の探偵には任せられないからと、ある仲介人を通して依頼が来たのさ」
    「死因って、誰か目撃者でもいたの? …もしかして」
    「そう、大山氏たちだ」
     つまり大山はあの怪物の存在も知っていたのだ。その上で自分たちを山へと送り込んだ。色々な依頼人と出会ってきたが、ここまで悪質な人間はいない。茶々の湧き上がる怒りを後目に、八木は滔々と述べていく。
    「細かく言うと開発賛成派たちだな。大山氏はあの通りだが、青年会のひとりが打ち明けてくれたよ。『守部は山に食われたんだ』と」
     先程自分の目で見たとは言え、衝撃的な言葉に茶々は頭を振る。思い出したくない。代わりに引っ掛かった疑問点を茶々は口にした。
    「そもそもアンタ、対立する依頼人たちから同時に依頼を受けたの? 探偵の倫理に悖る行為よ、それ」
    「ふむ、大山氏に黙っていたのはフェアじゃないかもしれないな。しかし利害関係にはない依頼だよ。大山氏からは守部氏の所在確認、守部氏の関係者からは彼の死因の調査。対立はしないだろう?」
    「…屁理屈ね」
    「こういう仕事をしていると、もっととんでもない理論に行き合うものさ。君もそうだったろう? 山が人間を食べるなど、常識では考えられない出来事だ」
     こちらをうかがう八木の視線に、茶々はがぱりと開いた山の斜面を思い出した。どんなロジックでもあれを説明できない。微かに震えている手を八木に見られないよう、拳を作って茶々は顎を反らした。
    「ええ、そうね。それで『裏』の専門家さんは、どこまで調査されているのかしら?」
    「まず大多良山の正体からいこう。この町には古くから言い伝えがあってね。…茶々君、もののけ姫を見た事は?」
     急に何だと思いながらも、茶々は頷いた。テレビ放送が中心で、ところどころ記憶は抜けているが、「話が早い」と八木は嬉しそうである。
    「あれに登場するデイダラボッチのような巨人伝説が、この町にもあるんだよ。山から産まれた大多良坊という巨人が、あちこちを切り崩し人間の住む里を作った。しかし人間の頓智にやり込められて、大多良坊はまた山に戻ってしまった、という伝説だ」
     この大多良山がその大多良坊だというのか。牧歌的な伝説と、生々しい死の風景が結び付かない。茶々は黙って首を振った。
    「信じられない? だが君は信じられる証拠をその目で見たんだろう?」
    「思い出させないでよ!」
     つい鋭い声を出してしまった。茶々ははっとして口を閉ざす。羽音は、しない。肩から力が抜けた。八木は目を細めている。動揺を見透かすプロの目だった。
    「見たなら情報提供してくれたまえ。どんな姿だった?」
    「…姿を見たんじゃないわ。口だけよ。山の、そっちのあたりに切れ目が走って、口が出てきて、…あと手と、目」
    「なるほど。巨人丸ごとではなく、パーツごとに独立して動いているのか」
     あの巨大な人間の部位を話すだけでも茶々は気が遠くなる。だが八木は熱心だった。自分も重大な証拠を見付けると活き活きしてしまうが、こんな有様でいいものか。口にしたくはなかったが、茶々は言わざるを得なかった。
    「右藤さんと佐村さんは、その手に掴まって、…食べられたのよ」
    「気の毒な事をした。しかし対策は伝えておいたんだが、役に立たなかったのかな?」
    「対策って、あの屈んで歩くやつ?」
     八木は頷いた。背広の懐に手を入れると、一枚の写真を取り出す。茶々がホテルの自販機横で見たような白黒写真だ。ただしこちらは、三人の子供たちが、鳥居の足元に立っている。よく見れば鳥居の足を支える台石は随分と大きい。高さでは子供たちの背丈よりも上回っている。
    「このあたりの土地は痩せていて、昔は飢饉続きだったそうだ。対照的にこの山はいつでも豊かだったらしくてね」
     写真の説明書きを茶々は思い出す。茸だの野草だの、現代の食事に比べれば貧しいが、餓死が迫る時なら話は別だ。例え怪物が住んでいるとわかっていても。
    「山に立ち入らざるを得ない時は、まず三人の子供か女性が祠に参る仕来たりだった。まあ女性や子供を神が好むのはよくある事だが、入山前にはこの鳥居の横に並ぶのもお約束だったそうなんだよ」
     子供か女性。屈み続けていた右藤と佐村。宙を浮遊していた眼球。見逃された自分。鳥居。思い浮かんだものを茶々は口にしていた。
    「身長ね。一定の身長以下なら、あの眼球に見付からずに済む。鳥居の横に並ぶのは、台座の高さが安全基準にでもなっていたんじゃないの」
    「災害で壊れてしまったのが惜しまれるな。だが右藤君たちは…」
    「立っていたのよ。逃げた私を、捕まえようとしてね」
    「逃げた?」
     首を傾げる八木に茶々は溜め息を吐いた。
    「ちょっと自分の立場で考えてみたら? 後ろのふたりがお辞儀しながら登山して、理由聞いてもへらへら笑って言わないのよ? 気色悪いに決まってるでしょ」
    「そうか、何も言わなかったのか。残念だが彼らの用心深さが首を絞めたかな」
    「…アンタが私にさっさと話していたら、こんな事にならなかったと思わない?」
    「情報提供をお断りしたのは君じゃあないか、ハハハ!」
    「ハハハじゃないわよ!」
     これ以上この男を追及しても意味がない気がする。それに金を払わず情報提供しろという自分の論理にも多少の無理はある。しかしこんな化け物がいるとだけでも話してくれたら、と思ったが、きっと自分は八木が狂っているとしか思わなかっただろう。
    「…でも子供たちが祠にお参りにした後、大人たちも山菜取りとかで登ったんでしょ? その時はどうしてたのか…」
    「そのお参りで、祠で一時的に山を鎮める儀式を行ったらしい。大山氏たちは単純に生贄を捧げればいいと思っているようだがね。女子供が選ばれるのは、飢饉の口減らしも兼ねているからだ、と」
     生贄。ぞっとしない言葉だ。唇を噛んだ茶々に、八木はうっすら微笑んだまま続ける。
    「恐らくは的外れだ。誰も戻ってこなかった時、新たな三人を向かわせて、帰ってきたのはひとりだけという記録もある。しかし飢饉の口減らしを兼ねているというのは、現代人らしい合理的な発想だと思わないか? 神域の開発に踏み切っただけはある」
    「やめてよ。金の亡者なだけでしょ」
    「そうかもしれないな。しかし対する守部氏は、元々この大多良山の神主のような家の生まれで、信心深かったそうだ。山自体も法律的には守部家の所有だったんだよ」
     意外な話だった。これだけ崇められていた山なのだ。てっきり公有地か何かだと茶々は思っていた。
    「飢饉が減り、鳥居が崩れ、信仰が薄れてもなお、彼らの家は山を神聖視していたらしい。入山の儀式や手順も不完全ながら受け継がれていてね。私が話した知識は主に、守部家からの資料によるものなんだ」
     数十年前、守部家は商売に失敗した。対照的に好景気で力を付けていた大山家は、山の権利を二束三文で買った。大多良山の開発が持ち上がったのもこの頃である。しかし当時は大山家も町民を主導し切れなかった。彼が成功したのは、過疎化で尻に火がついた最近だ。
     しかし反対派は未だに根強かった。代替わりした守部家を中心に、大山家が山を買い取った際の契約不備を持ち出した。訴訟になれば勝敗はともかく時間がかかる。加えて隣市では収入増加が見込めるのかと、開発事業に厳しい声が上がっていた。町が揉めれば、これ幸いと手を引く可能性もあった。
    「…業を煮やした大山氏は、守部氏を袋叩きにしようとしたらしい。よりによってこの山でね。まあ幾らでも埋める場所はありそうだからな」
    「じゃあ、契約印の持ち逃げはでまかせって事?」
    「恐らくは。それどころではなかったろう」
     顔合わせの話で激昂していた大山を茶々は思い出す。あの怒りは本物に見えたが、確かに守部が追われていたならば、そんな余裕はなかったろう。
    「安全な入山儀式を守部氏が知っていたとしても、追われる身では無理だろうな。彼は右藤くんや佐村くんと同じ目に合った。大山氏の部下たちはそれを目撃し、逃げ帰った」
     あんな自分の正気を疑うような光景を見て、黙っていられる人間はそういない。しかし同時に、そんな話を見ないで信じられる人間も、そういない。守部の死について、調査依頼が入るのは納得だった。
     一方で大山がわざわざ外部の探偵に、もう存在しない守部捜索を依頼したのは。茶々は頬を歪めて吐き捨てた。
    「そして大山は私たちを生贄にするために呼んだのね。探偵ふたりを協力させるなんて、妙だと思った。あのクソ親父」
    「守部氏でひとり、私と君とで合計三人だからな」
     正しいがぞっとする計算を八木は言う。茶々は親指の爪を噛んだ。しかも恐らく、クソ親父は大山ひとりではない。茶々にこの仕事を紹介してきた、元上司である探偵事務所の所長。わざわざ喧嘩別れした茶々に任せてきたあたり、知っていたのではないか。
     そしてあの眼球対策を教えなかった右藤と佐村。彼らも冷酷な計算をしていた筈だ。三人の生贄の真偽はともかく、危険な山において、人間の盾があるに越した事はないと。
    「しかし女性をひとり入れるあたり、前例順守で周到だなと思ったよハハハ! …アーッ! 茶々くん、イヤホンは! これには手を出さないでくれたまえ、予備がない!」
     笑顔の八木からイヤホンを奪い取って振り回し、茶々はひとまず煮えくり返る腹を抑えた。どいつもこいつもクソ野郎だ。右藤と佐村が生きていたなら、顔の原型を留めないほど殴ってやっている。
     しかし無事にこの山を下りなければ復讐も報復もできない。大山は先程の発砲音からして、麓で全てが終わるのを待っているだろう。茶々や八木といった三人以上の生贄を食らって、満腹した大多良山が鎮まるのを。
    「だからってアンタも生贄にされてやる気はないでしょう、八木」
    「勿論だ。君もだろう、茶々君? 私の手の内は大体明かした。勝算はどれくらいかな?」
    「…高いとは言えないけれど、無くはないわ。ポイントは祠での儀式よ」
     茶々は指を組んで言った。手はもう震えていない。こんな非科学的な状況ながら、自分はまだ落ち着いて物を言えている。その事が茶々を力づけた。自分はまだ、探偵小松茶々でいられている。
    「飢饉が何年置きか知らないけど、山に入る度に儀式をやってたんでしょ? 大人しくなるのは一時の事。でも工事は何年もかかる。生贄を何度も集めるなんて馬鹿馬鹿しい手間よ。今後を考えるなら、安全な入山の方法は大山にとっても価値ある情報だわ。それを提示すると言えば、解放の余地が生まれてくる」
    「なるほど。安価で人間を使い捨てる、という方法もなくはないがね」
     さらりと言う八木に茶々はぎょっとした。右藤と佐村の最期を話した時もだが、人命が関わる事に八木は恬淡とし過ぎている。茶々も多少の死者には慣れている。だが八木は異質だ。茶々の凝視を特に気付いた風もなく、彼は視線を宙にやりながら話し続ける。
    「しかし大山氏はまだその手段を知らないようだ。わざわざ探偵を騙して招く方法を取ったのだからな。そうなると君の言う通り、祠の儀式は交渉材料になる。ただ…」
    「そう、肝心の儀式がわからないから…」
    「いや、わかるよ」
    「だから全部早く言えって言ったでしょ! 二度と馬の情報が聞けなくなりたい⁉」
    「痛ァァァい! 茶々君! 耳はやめて! イヤァ!」
    「…アンタ女の子みたいな悲鳴を出すのね…引くわ…」
     高い声で嘆く八木に、茶々は思わず彼の耳を引っ張る手をゆるめた。わざとらしく耳を撫でながら、八木は懐から分厚い手帳を取り出す。余白がないほど書き付けられた文の羅列はいささか病的で、茶々は再び身を退きたくなった。体重を深くかけられた木の根がぱきりと鳴り、ほぼ同時に、背後でぶうんと羽音が鳴った。
    「八木」
    「うん?」
    「屈んで。今すぐ」
     引き攣った喉から発した声は、茶々自身にもひどく聞き取りにくかった。だが八木は素早かった。木の根から腰を上げ、すぐさま地面に横たわる。茶々もそうして堅く目を瞑った。
     ぶん、ぶん、ぶうん、と羽音が鳴り響く。すぐ目の前をあの眼球が飛んでいる気がして、茶々の手はまた震え出していた。その手の甲をつつかれて、茶々は「ヒッ!」と短い悲鳴を上げた。
    「茶々君、見たまえあれを」
    「な、な、何が見たまえよ…やだ絶対目なんて見ないわよやだやだ…」
    「我々の命綱の確認をしたくはないかね?」
     自信たっぷりな八木の声に、安心よりもむしろ苛立ちから茶々は目を開いた。そっと顔を上げると、あの眼球がやはりすぐ傍らを飛んでいる。睫毛をぶんぶんと震わせている有様に、茶々は気が遠くなったが、何とか目を凝らした。
     眼球の動きは一定の法則があるらしかった。数字の8を描くようにカーブを描いている。高度が揺れる事はあるが、予測通り、一定の高さより下には決して下がってこない。あの笹薮に隠れるか否か、ぎりぎりのラインだ。自分なら前屈みで歩けば見えないかもしれない、と茶々は思った。八木の方を向くと、彼は仰向けの大の字になって観察している。やっぱりこいつおかしいわ、と茶々は思った。
    「ふむ。人間のような眼球だが、視野は狭そうだ。我々があの高さにいれば地面も見えている筈だろう。しかしこの有様だからね」
     自分の真上を飛ぶ眼球を見つめながら八木は言う。茶々としては同意だが、だからと言って気付かれそうな至近距離で声は出せない。歯ばかりが同意のようにかちかちと鳴る。
    「私の想像ではね、茶々君、彼らはあくまでパーツに過ぎず、他の感覚器官の機能は持たないのではあるまいか? つまり目は目であって聴覚や触覚を持ち得ない。ただパーツ全てを司る、脳に該当する器官が恐らくは祠に…」
     滔々と語る八木の足元で、笹薮ががさりと揺れた。
    「ッ……!」
     息が止まった。心臓も止まったような気がする。しかし茶々の体は動いていた。
     飛び上がる。八木を引きずり起こす。背丈の割に軽い男だ。そうでなければ彼の足は、巨大な手の下敷きとなっていただろう。
    蛙のように跳躍した手は、少しの間、五本の指を広く開いてぐるぐる回っていた。だが、すぐに回転が止まる。指の関節が曲がり、地面を軽く抉る。ぶうん、と羽音が響き、
    「茶々君、伏せろ!」
     既に伏せている八木が袖を引っ張る。茶々はへたり込んだ。頭をちりっと何かがかすめた気がする。振り向けばあの手が、茶々の数メートル後方に着地していた。そして顔を上げれば数十センチ上方で、眼球がぶんぶんと唸りながら回っている。
     手はがさがさと藪を這いずり回っていた。眼球が茶々という標的を見失い、目測がわからなくなっているのだろう。だが茶々が理論を立てられたのもここまでだった。
    「ッ! …ッッッ!」
     喚き出しそうな口を抑えて、茶々は八木の手を掴む。とにかくここから離れたい。必死で茶々は八木に目で訴えた。
    「…よし、行こう」
     こめかみの汗を拭って八木は動いた。背広が汚れるのも厭わぬ四つん這いである。確かに長身の彼が屈んだだけでは見付かりかねない。茶々もその方が都合よかった。足が震えてもどうにか前に進める。
     虱潰しにでもするつもりか、手は大きく指を広げてがさがさと這いずり回っている。一番安全なのは、あの道を真っ直ぐ登る事だった。どうやら手と目は、ふたりがまだ笹薮に隠れていると考えているらしい。しきりに藪を掻き分けていた。
     しばしば道を横切るように動く手には肝が冷えたが、笹よりも木々が道の左右に増え始めた頃には、どうにか距離を取れた。振り返っても手も眼球も見えず、あの羽音も聞こえなくなっていた。
    「あれが君の見たという手か。…左手だったな」
    「やだやだもうやだ怖いのやだワケわかんないぃぃぃぃ…」
    「おーい茶々君、しっかりしたまえ。ここからは君が主役なんだぞ」
    「何よあれぇ…目玉に見付からなきゃ大丈夫じゃないの? どういう理論で動いてんの? 思考回路はあるの? …主役?」
     頭を抱えて地面を転がり回っていた茶々は、八木の言葉にようやく顔を上げた。号泣中の目にはいささか判別し難かったが、どうやら八木は苦笑しているらしい。何がおかしいのよ、と反発しようとして、ようやく茶々は彼が左足首を抑えている事に気付いた。
    「足をひねった」
    「…」
    「すまないが祠には君ひとりで行ってくれ。なあにこんな身長の私が行くより、小柄な君ひとりの方が成功率は上がるさ! ハハハ!」
    「何でよぉぉぉぉぉ!」

     いくら勾配が緩やかでも、茶々は登山初心者である。屈みながらの登山は重労働だった。ジャケットの前を開けても首や脇に汗が滲む。荷物で最も嵩張る寝袋は、八木のところに置いてきたかったが、彼の話を聞いては持っていくしかなかった。
    「洞窟の祠には山の本尊がある」
     例の手帳を開いて八木は言った。安楽椅子よろしく木の根元に座り、幹に背中を預けている。ただむき出しの左足首に、茶々の渡した湿布が貼られているのは、あまり格好いいものではない。
    「どんな形か明言はされていないが、恐らくそれが大多良山、ないし大多良坊の脳に当たるのだろう。子供たちはその本尊に大衾を掛ける。儀式はそれで終わりだ。簡単だろう?」
    「オオブスマって、何それ」
    「衾は掛け布団の古い呼び名だよ。入山前には各家から、布や糸をかき集めたとの記録があるんだ。文字通りの大きな掛け布団と思えばいいだろう。子供が運ぶものだ、中に綿は詰めなかっただろうがね」
     笠地蔵の童話を茶々は思い出した。しかし雪避けの笠ならともかく、布団を掛けて何になるのか。首を傾げる茶々に、八木は手帳を閉じて言う。
    「先程の伝説を思い出したまえ。大多良坊は眠って山になったと言うんだ。なら人間が山を登っている間には、そのように眠っていただこう、という発想じゃないか」
    「眠ったって伝説なんてあてにならないわよ。あんなにしっかり起きてる癖して」
     ぼやきはしても八木の推論で動く以外ないと、茶々はわかっていた。眼球に見付からないよう屈みながら洞窟の祠を目指す。そして本尊に寝袋を覆い被せる。茶々の仕事はそれだけだ。探偵でなくてもやれる仕事なのが腹立たしい。右藤や佐村のように動かされている。
     しかし八木の左足首は既に腫れてきていた。湿布だけでは一時しのぎだ。それでも自分ひとりで怪物どもの目をかわすのかと思うと、引きずってでも行きたい気がした。
    「…って何してるのよ」
     悶々としていた茶々は、八木が足元に石や枝を集めているのに気付いた。
    「手伝ってくれ。そうだな、そっちの重そうな石がいい」
    「まさかこれで、あいつらを攻撃しようっての? 抵抗して敵う相手じゃないわよ」
    「攻撃用じゃあない。攪乱用さ。少しは君をバックアップしなければ」
    「バックアップ?」
     例の羽音が響く。茶々は地面にしゃがんだ。勢い余って膝が痛い。だが悶えている暇もなく、自分たちの来た方向から眼球が現れる。宙をふわふわ浮く、自分の頭より少し小さな目玉は、ひどい悪夢そのものだ。気が遠くなり始める茶々に、八木は受け取った石を示した。
    「こうするのさ」
     八木は石を投げた。眼球の前を横切って、斜め後ろの藪に飛び込む。すると眼球は睫毛をしきりに瞬かせてそちらへと向かった。がさごそと重い音が聞こえるのは、あの手も動き出しているのだろうか。
    「動けないところに手が来ても困るからね。それにこうしていれば、足止めくらいにはなるだろう? 君も後顧の憂いがなく祠を目指せる」
     つまり八木はおとりになると言うのだ。確かに文字通りの一石二鳥、合理的な判断だ。だが自分の命を懸けた行為だ。少なからず茶々は動揺した。開いた唇が、微かに震えた。
    「…八木、アンタって…」
    「それに人間のように手が二本、目が二個ないとも限らないからな。万全とは言えないが挟まれるよりはましだろう。頑張ってくれたまえ、茶々君!」
    「やめてよおおおお! 増えるとこなんて想像したくないのおおおお!」
     結局は半泣きの道中となってしまったが、八木の協力がいくらか茶々の気持ちを軽くさせていた。もしかしたらあの場限りの偽りかもしれない。だが真実だと茶々は信じたかった。どうせ一蓮托生ならば、競馬狂いには目を瞑る。せめて自分を貶めず、信頼してくれる相手がいい。
     山道は深く、険しくなりつつあった。行く手を梢が遮り、足を止めて払わなければならない事も度々あった。それでも周囲よりは草が踏みしだかれ、道だとわかるのは、あの手が行き来しているせいではないか。幸い真正面から眼球や手が下りてくる事はなかった。
     しばらく歩いていくと、草と木が不意に途切れた。茶々は一瞬、白い壁が先を塞いでいるのかと思った。真っ白な坂道なのだ。長さは大した事がないが、傾斜のきつさはまるで壁である。登った先も見えない。よく見れば大小様々な白い石が、神社の玉石よろしく敷き詰められている。
     壁じみた坂道に、茶々は半ば這うようにして取りついた。踏みしめた靴先から、からからと石が滑り落ちていく。時々尖った石に腕を引っ掻かれながらも、どうにか茶々は登り切った。四つん這いのまましばらく呼吸を整える。周囲が一気に明るくなったと気付くまで、二、三分かかった。
     そこは木々に取り囲まれた円形の岩場だった。手入らずの木はどれもこれも中天高く伸びていたが、白い石の上には葉ひとつ落ちていない。振り仰げば、丸く切り取られたような青空と太陽が見える。まともな陽光は何時間ぶりだろう。白い石が日差しを反射して、茶々は目をこすりたくなった。
     百メートルほど先からは山頂部分に繋がっているようだ。再び森が茂り始めている。だが真正面にある洞窟の入り口はわかりやすかった。山肌に現れた口に比べれば、遥かに小さく、低い。茶々も入るためには屈まなければなるまい。こんなに晴れて明るいのに、内部は暗くてよく見えないのが不気味だ。しかし恐らくこの奥に「本尊」がある。
     ようやくここまで来たと、茶々は体を起こしかけて止めた。ぶん、とあの音が聞こえたからだ。ぶん、ぶうん、と。反射的に茶々は岩場に体を伏せていた。恐る恐る視線を上げれば、いる。あの眼球が、洞窟の入り口と、岩場の半ばあたりまでを、うろうろと円を描いて飛んでいる。
    「何であいつの嫌な推理ばっかり当たるのよ…!」
     そしてぼやきが消えぬ間に、巨大な手が視界の隅に現れる。茶々は飛び上がった。急いで登ってきた坂道まで後退し、身を隠す。半ば崖にぶら下がっているような姿勢はきついが、少しでも手に触れれば終わりだ。消失しそうな意識を必死で繋ぎ止め、茶々は眼前を横切っていく手を見つめた。指の付き方からして、「右手」だろう。
     そうして頭だけ出してしばらく経つと、茶々は先程の「左手」と眼球――仮に「左目」と思えばいいか――との違いに気付いた。どうもこちらは動く範囲が決まっている。「右目」の範囲は岩場の中ほどまで。一方「右手」は、岩場を左の端から右の端まで、満遍なく横切るルートを取っているようだ。
     ただ「右目」は円を描いて飛ぶだけでなく、心電図の波のように上下に動いてもいた。「左目」に比べて高さの幅が広い。しかも時々、ぐっと高度を下げる。茶々でも屈み歩行では見つかりそうだ。「右手」も端から戻ってくるスピードが早く、心なしか「左指」よりも指が長い。一度やり過ごしたとしても、もたもたしては掴まってしまう。
     安全を取れば匍匐前進一択。だが白い石の数々が起伏を作る岩場だ。早さには限界がある。茶々はどんどん自信を失っていった。弱気と共に、記憶の底に押し込めていた右藤と佐村の悲鳴が甦ってくる。逃げられない。嫌だ。もう嫌だ。茶々は耳を塞ぎ、目を閉じた。自分が急な坂道にしがみついている事は忘れていた。
    「…アアアアッ!」
     気付いた時には地面が目前に迫っていた。咄嗟に手が出たのは上出来だ。しかし坂道の勢いは殺し切れなかった。がしゃん、がしゃん、と白い石を吹き飛ばしながら、茶々は三回ほど転がり、草の生えた道でようやく止まった。
    「いっ…ぃいいったっ…!」
     大した距離ではなかったが、最初に打った左肩が頭の芯まで痛む。のたうち回りたいが、体の他の部位もひどく痛い。茹で海老のように縮まって茶々は呻いた。この世に永遠があるならば、鋭い痛みが鈍いそれに変わるまでの待ち時間だ。
     ようやく深呼吸ができるようになってから、茶々は少しずつ体を動かした。尻も足も、地面についた手のひらもじくりと痛むが、動く。左肩を動かすと胃まで痛くなったが、恐らく折れてはいない。ただ、左手の人差し指の爪が欠けて、赤い血を滲ませているのが、他の打撲よりも茶々には堪えた。
     この仕事が終わったら、新しいネイルポリッシュも買おうと思っていた。だが買っても、これではしばらく塗れない。何より、生きて帰られるかもわからない。存在を忘れていたスマートフォンは、電源を長押ししても画面は真っ暗だ。じくりと痛む人差し指に、茶々は肩を落とした。
    「…何やってんのよ、私」
     破格の報酬の筈だった。単純な所在確認の筈だった。少なくとも探偵の仕事ではあった筈だ。それが山の中を這い、化け物から逃げ、無様に転がり回っている。しかも自分の推理の働く余地がまるでない。翻弄されっ放しだ。元所長、大山、右藤と佐村、そして八木。何が悲しくてあの馬狂いの命まで背負わなければいけないのか。彼がいくら足止めしても、あんな「右手」と「右目」がいては無意味だ。どうせ八木も自分も化け物どもに掴まる。大多良山の口に食われて終わりだ。
     茶々は俯いた。涙のひとつも零れるかと思ったが、目の奥は乾き果てていた。動かないスマートフォンの代わりに、茶々は側に転がっていた枝を掴んだ。あの眼球と手に当たっても構わない。いっそ楽にしてくれと思いながら、坂道に向かって投げた。高さは足りず、それは坂道の中腹にぶつかった。
     からからと軽い音を立てながら、坂道を構成していた白い石が再びいくつか落ちてくる。膝のあたりまで転がってきたそれは細長く、ごつごつとして、指の骨によく似ていた。
    「…え?」
     茶々はその石を手に取った。眼前に持ち上げてよく見る。単なる石ではない。まさに茶々の小指と同じほどの長さの、指の骨だ。
     こめかみのあたりで、どくりと血管が脈打った。体の痛みにも構わず、誘われるように茶々は白い坂道へと近付く。正気とは思えない理論が浮かんでは消えた。きっと八木に感化されたせいだ。
     恐る恐る手を伸ばす。坂道から飛び出ている石を掴み、引っ張ると、また石がぼろぼろと落ちた。一番大きなひとつは形がよくわかった。うつろなふたつの眼窩、その真下に開いた鼻の痕跡。上半分だけながら、頭蓋骨の特徴は一目瞭然だ。
     白い石は全て骨だ。坂道も、そして恐らくその上の岩場も、全て人間の骨なのだ。
    「う、」
     喉を突き上げるものに耐え切れず、茶々は口を抑え、道の傍らにしゃがみ込んだ。胃の中はほとんど空に近い。吐き出せるものがなくなると、嘔吐は嗚咽に変わった。
     死体は何度も見た。人骨もそうだ。だがこれは、茶々の許容を越えている。あの頭蓋骨は、子供のものだ。しゃくり上げながら茶々は思った。上半分である事を差し引いてもあまりに小さい。最初の指の骨も、長さからして恐らくは。
    ――山に立ち入らざるを得ない時は、三人の子供か女性がまず祠に参る仕来たり
     頭の中で八木の声ががんがんと響く。八木の提示した写真の、三人の子供たちがまぶたの裏で揺らめいている。ひとつの空間を作ってしまうほどの骨。何百年にも渡った死の堆積。しかもその多くが子供たちのもの。手や眼球を見た時より、頭がおかしくなりそうだった。
     胃が何度目かの痙攣を繰り返す。もう唾液しか出ない。茶々は顎を拭うと、頭蓋骨の方を見やった。何故これだけの人骨がここに集められたのか、八木なら考察を披露するだろう。茶々は考えたくもない。ただ、顔を歪めながらも、頭蓋骨をなるべく柔らかそうな草の上に移した。
    「…ごめんね」
     飛鳥野家誘拐事件で、さらわれた子供は十一歳だった。この骨が、あの子供よりも小さな子だったかもしれないと思うと、居たたまれなかった。遥か昔の出来事に、何ができる訳でもない。何を謝っているかもわからない。それでも茶々は小さな頭蓋骨に、詫びと共に手を合わせざるを得なかった。
     手を合わせている内に、吐き気とは異なるものが胸の奥を焼く。怒りだ。確かに子供は背が低い。だから見付からずに祠まで行ける。なるほど理に適っているかもしれない。しかしあの眼球が飛び回る道を、あの手が蠢く傍らを、子供たちが無事にやり過ごせたか? その結果が、この骨の量だ。
    ――まあ女性や子供を神が好むのはよくある事だが
     だがここの化け物が好んだ訳ではないだろう。この人々は町が、大人が、男が生き残るために追いやられただけだ。自分を騙した大山。自分を差し出した元所長。自分に何も言わなかった右藤と佐村。彼らのような者たちによって作られた頭蓋骨は、無言のまま黒い眼窩を茶々へ向けている。
     いつしか茶々の手は合掌を止め、きつく握り締められていた。食いしばった奥歯がかちりと鳴る。
     探偵の仕事は真実を見出す事だ。そうして見出した真実を、この山に埋もれさせてなるものか。先人ほど切実な生命の危険がかかっている訳でもないのに、自分たちの命で解決しようという卑怯者どもの、思うがままになってたまるものか。
    「首を洗って待ってなさいよ。…絶対に生きて帰ってやる」
     茶々は呟いた。目には涙と、光が戻っていた。
     地面には頭蓋骨以外にも、白い石ならぬ骨が散らばっている。ほとんどは小さく砕かれ、どれがどこの部位ともわからない。だが茶々は震える指先でそれらを拾い上げ、頭蓋骨の周囲へと集めていった。無意味な事はわかっている。けじめだった。茶々はこれから、彼らの骨を踏みしだいて、あの祠を目指すのだ。改めて手のひとつも合わせておきたい。
     最後の平たい欠片を拾い上げた時、茶々はその下に黒いものがある事に気付いた。
    「ん? これって、…印鑑のケース?」
     少し古びた黒革のケースは、蓋が開きっぱなしで、空の中身を露呈させていた。備え付けの朱肉だけが、指先で押すとまだ微かにインクを滲ませる。もしかして、と茶々はある事に思い当たった。これが正解なら、一抹の光が差し込む。茶々は膝をついてしばらく周囲の草を掻き分けた。骨の坂道を躊躇いながらもつついてもみた。だが、印鑑らしき物は見当たらなかった。
    「…仕方ないか」
     八木の事を思えば、あまり時間を取れなかった。「左手」や「左目」がやって来る気配がないのは、彼が足止めに成功しているからと思いたい。諦めて茶々はリュックサックの中に印鑑ケースを慎重に仕舞った。
     茶々は骨の坂道に向き合う。目を閉じ、脳裏に欲しかったネイルポリッシュを描いた。次の髪のメッシュは何色にするか考えた。買い替えたいマット、ソファ、理想の事務所像諸々を好きなだけ頭の中のキャンバスに広げた。
    「よし」
     両手で頬を軽く挟んでから、茶々は再び坂道を上りにかかった。生きて帰る方法がこれだけならば、泣いても笑ってもやるしかない。自分は探偵だ、と茶々は再度己に言い聞かせる。弁天堂脅迫事件や飛鳥野家誘拐事件を解決した有能な探偵だ。こんな状況だって、解決できない筈がない。
     坂道を這い上り、茶々はそっと岩の端から「右手」と「右目」の様子を観察した。やはり、あれの近くを進むのかと思うと、鳥肌が立ってくる。だが覚悟のせいか、先程よりはいくらか「右手」の速度は遅く見え、「右手」の高度は高く見える。匍匐前進では遅いが、這って歩くならまだいけるだろう。
    「いけるわよ」
     声に出して茶々は自分を鼓舞する。高さを減らすためにも、背中のリュックサックは坂道に置いて、寝袋だけを背中に担ぐ。茶々は四つん這いで岩場を進み始めた。
     白い骨がかさり、ぱきりと茶々の手や膝の下で音を立てる。しかし「右手」も「右目」も無反応だった。耳が無ければ聴覚も無いという八木の推論は恐らく正しい。それでも「左手」と「左耳」は、見失った侵入者を探そうとしていたから、多少の知能はある。今は衛兵よろしく定期的な動きだが、見付けられたら厄介だ。
     「右手」が岩場の左端に辿り着き、ターンしてくる。ぐずぐずしている暇はない。茶々は手足を速めた。「右目」の浮遊範囲にそろそろ入る。茶々が這うルートは、洞窟への入り口に真正面から突っ込む最短距離だ。案の定、「右目」も真正面から浮遊してくる。不意に高度を落とした「右目」に、茶々は素早く身を伏せた。背中の寝袋すれすれの高さを、「右目」は飛んでいく。
     大丈夫だ、と茶々は自信を持った。次に「右目」と「右手」が戻ってくるまでに、洞窟の中へ入れる。再び四つん這いになって、茶々は道を急いだ。急いだ勢いで、左足が骨のいくつかを背後に跳ね飛ばした。
     そのひとつが、「右手」の手の甲に乗った。
    「…えっ?」
     がしゃり、と音がした。振り返って茶々は息を呑んだ。「右手」は移動を止めていた。丸い指先が、岩場を撫でるように動いている。骨を漁ると言うよりはもっと繊細な動きに、茶々は嫌な予感がした。
     手には聴覚も視覚もない。だが、触覚がある。猟師が獣の足跡を辿るように、茶々が骨を掻き分けた痕跡を探っているのだとしたら。
     少しずつ「右手」は動いていた。指先は明らかに、茶々の這ってきた道を辿っている。不意に指が動きを止める。顔など何もない巨大な手が、確信を得て、にたりと笑ったように茶々には見えた。
    「~~~~~!」
     声にならない声を上げ、茶々は四つん這いで走った。だが白い骨を飛ばしながら、「右手」は猛然と距離を詰めてくる。洞窟まではあと僅か。茶々は思い切って立って走ろうとして、ぶうんと鳴る羽音に舌打ちした。「右目」が頭上を飛び回り始めている。どうやらこちらも警戒態勢だ。
     「右目」の視界に収まってしまえば、「右手」は正確に襲い掛かってくる。先程の「左手」のように跳躍されてはかわせない。だがこのままでは追い付かれる。四つん這いでは逃げ切れない。自分は馬ではないのだ。馬。八木。あの馬狂い。
    ――こうするのさ
     茶々は骨のひとつを手に取った。丸く、それなりに重い欠片だった。顔を上げれば「右目」がすぐそこを飛んでいる。体育のソフトボールでピッチャーを勤めたのは、もう何年も昔の事だったが、体よ思い出せと茶々は祈った。頼むから、思い出してくれ。
    「ごめんね!」
     骨に謝りながら、茶々はそれを放り投げた。「右目」の前を横切るように。
     ぶん、と一際強く睫毛を瞬かせて、眼球は骨の破片が飛んでいった方へ向いた。「右手」が茶々の踵の寸前で止まる。指の向きが、眼球の方へ移るのを横目に、茶々は立ち上がって走った。上体を屈めて洞窟へ駆け込みながら、背負っていた寝袋を下ろす。
     洞窟の奥行きは十メートルもない。本尊と八木が称したものもすぐわかった。最奥に置かれた石像だ。高さは精々、茶々の顎までだろう。造作はその辺の地蔵よりも粗かった。胴体の横に腕らしい刻みはあるが、だらんと垂れた手首から先は見えない。頭の左右には耳らしい突起が、顔の中央には鼻らしい盛り上がりがついているのに、両目はぽっかり空洞だ。中途半端に放置された図工の工作じみている。
     だが茶々にはじっくりと本尊を見ている余裕はなかった。縄張りを荒らされて怒る蜂よりも、凄まじい羽音を立てて「右目」が飛んでくる。そしてざりざりと低い天井で手の甲を擦りながらも、「右手」の指が迫ってくる。茶々はそれらから自分の身を守るように、寝袋を広げた。
    「さっさと眠れっ、化け物ども!」
     茶々は寝袋を本尊に覆い被せた。顔の前まで迫った「右手」の、指と爪の隙間に、白い骨が詰まっているのが見えた。「右目」の睫毛が肩をくすぐった。だがどちらも、停止した。
     巨大な指から力が抜ける。眼球が洞窟の地面に転がっていく。そしてその片端から、底なし沼に吸い込まれるようにして、「右手」も「右目」も地面に沈んでいく。「右目」が消えるまではあっと言う間だった。やがて「右手」も完全に地面の中に沈むと、茶々は忘れていた呼吸を再開した。
     胸が苦しいを通り越して痛い。打った左肩や、四つん這いで酷使した膝も今更のように疼く。だがそれゆえに、どうやら自分は生きていると実感が湧いた。くたくたと崩れ落ちそうになる体を、茶々は必死で支えた。ここで座ったら二度と立てなくなる。
    よろめきながらも茶々は改めて本尊を見やった。像を全て覆うには、寝袋の長さは僅かに足りなかった。それでも強風でも吹かない限り、落ちてくる事はないだろう。下山までの時間は稼げそうだ。
     寝袋の裾からちらりと、先程は存在しなかった筈の手指が覗けている気がしたが、茶々は何も見なかった事にした。

     洞窟を出てすぐは上体を屈めていたが、下り道では危険である。思い切って背中を伸ばしてみても、羽音や手の蠢く音は聞こえない。自分のやった成果を信じる事にすると、帰路はかなり楽だった。
     一度梢を鳴らしたのは、茶色い栗鼠の小さな影である。ちいちいと鳴き交わす鳥の声を聞いて、そう言えば往路では鳴き声ひとつしなかったと茶々は思い出した。人間が入り込まない時、あの大口は何を食べていたのかと思うと、鳥や獣が黙り込んでいた理由もわかるような気がする。やがて辿り着いた木の枝にも雀がいたが、その下に座っていた八木の姿は見えなかった。
    「八木? 戻ってきたわよ。…どこにいるの?」
     まさか、と茶々は背筋に冷たいものを覚えた。「左手」と「左目」は最後まで祠に現れなかったが、彼はおとりになり、そしてそのまま…
    「ちょっと! 聞こえてるの! 八木! やだ! もう…もうやめてよぉぉぉ…!」
    「無事に戻ってきたかね茶々君! お疲れ様!」
     背後からのうのうと現れた八木に、茶々は泣きながらリュックサックをぶつけた。口に直撃を受けた八木は「ぶべっ」と呻く。
    「アンタねえええええ! 聞こえてるならさっさと出てきなさいよ!」
    「んんっ、怖がらせたならすまない、ちょっとトイレに」
    「その手の競馬新聞は何よ! どうせ競馬中継に未練たらたらで電波を探し回ってたんでしょうがこの馬男!」
    「いやあ今頃ね、どうにも外したくないレースが…」
     耳に赤鉛筆という古風なスタイルは、やはり山ではなく競馬場に置くべきだ。それでも競馬場に置けば、裾が汚れ、葉や草があちこちに纏わりついた背広には違和感があるだろう。別れた時よりも、八木は薄汚れていた。茶々は少し声を低めた。
    「…こっちの手と目は?」
    「しばらくこの周辺をうろついていたが、途中で急いで山を登ろうとし始めてね。君が何かしたのだとわかったよ。私がわざと姿を見せたら、どちらに行ったものか迷っていたな。あの程度の思考力でよかった」
     さらりと言うが、この男なりに苦労はしたのだろう。しかもやはり自分のために足止めもしてくれていたのだ。この件で隠し事はしても、陥れようとしなかったのが八木だけと思うと、胸に何とも言えないもやもやが広がっていく。
    「まあ、そうね。幸運だったわ。…さっさと行きましょ。大山相手の交渉材料はもうひとつ出来たから、下りながら話すわ」
     そこから先はさっさと下山、とまではいかなかった。八木の左足首もまた、別れた時より腫れていた。加えて革靴である。たまに靴底を滑らせては眉をしかめる。湿布を張り替え、枝で固定もしてみたが、どうしても前を行く茶々に遅れがちだった。
    「ねえ、…手、肩に置いてもいいわよ。右肩の方ね。左はさっきぶつけたから」
    「ああ、ありがとう」
     気負いなく礼を言って、八木は茶々の右肩に体重をかけてくる。加減はしているのだろうが、重かった。信頼というものは、この気軽さと重さの狭間にあるのかもしれない。茶々は八木に合わせてゆっくりと歩きながら口を開いた。
    「…私もお礼を言うべきね。アンタの調査がなかったら、どこかで死んでいたわ。…ありがとう」
    「なあに、お礼は情報提供料で構わないとも。それと出資金をもらえれば、来週末には十二倍に…」
    「アンタの馬券ほど信じられない投資はないわよ。それに実行したのは私なんだから、そのお礼も払ってくれるわよね? 同額で相殺してあげる」
    「手厳しいね」
    「世知辛い探偵業同士、お互い様よ」
     そうだ、と茶々は思った。八木は胡散臭く狂気の推理を展開するが、とりあえず、自分と同じ探偵と認めてやれなくもない。八木の前で道を行きながらも、自然と茶々は笑っていた。
     鉄条網のドアに辿り着くと、予想通り大山がそこにはいた。大山だけではない。十人以上の男たちがずらりと並んでいる。手に猟銃を持った者も何人かいるが、普段と変わらぬ調子で八木がまず話しかけた。
    「どうも大山さん。守部さんの所在がわかりましたよ」
    「逃げ帰ってきたな」
     大山の両脇にいる男ふたりが、猟銃をがちゃりと鳴らす。茶々も肩に力が入ったが、強いて余裕の微笑みを浮かべながら言う。
    「守部さんはもう亡くなっていました。ご存知ですね? 山に食べられました。遺骨は祠の前にあるかもしれません。私と一緒に山に登った、右藤さんも佐村さんも同様です」
     僅かに大山の周囲の男たちがざわつく。計算をしたのだろう。守部とふたりで合計三人。彼らが考えていた生贄の数と帳尻が合う。だが大山は太い腕を組み、警戒を解こうとしない。
    「我々は何も、彼らを生贄に捧げたから生き延びた訳じゃない」
     茶々の肩から手を離し、黒い手帳を取り出して八木が言った。
    「正しい入山の儀式があるんですよ。あなたは町の古老の話をでたらめだと言っていたが、伝説には往々にしてヒントが隠されているものでしてね。この茶々君が、ご覧の通り、ボロボロになってまでやり遂げてくれました」
     男たちがざわめきながら茶々に視線を向けてくる。そんなに自分はボロボロか、と少し茶々は恥ずかしくなった。確かに這ったり転がったり吐いたり泣いたりと大変だったが、気を遣えと八木の足のひとつも踏んでやりたい。しかし彼はそんな茶々に知らぬ顔で語る。油断なく光る眼の先には、苦虫噛み潰し始めた大山がいる。
    「守部氏は亡くなり、そのご家族は町を出てしまった。正しい入山儀式を知るのはもう我々しかいない。どうですか、大山さん? この貴重な情報を知りたくはありませんか?」
    「…でたらめだ!」
     弾けるように大山は吠えた。男たちの間に一気に緊張が走る。大声と銃口を向けられた八木はしかし、少し猫背気味のいつもの姿勢だ。
    「そんな儀式とやらをやって来たにしては早すぎる。大体そんな儀式を、町の人間でもない小娘がやれるものか! どうせそこらで転がって汚してきたんだろうが! でたらめで逃げようったってそうはいかんぞ!」
     怒りよりも茶々は馬鹿馬鹿しさを覚えた。猜疑心が強いのは結構だが、大山自身も山の怪異の存在を、少なくとも聞いてはいる。なのに交渉の余地もなく断るとは。ただ、八木との打ち合わせ通りの展開ではあった。
    「じゃあでたらめは止めて、あなたにも分かりやすいお話をさせて頂きますね」
     そう言って茶々は八木より一歩前に出た。大山たちがじわりと半歩引き下がる様に、茶々はビジネスではない本当の笑顔を浮かべたくなった。
     彼らは怯えているのだ。守部のように死ぬと思っていた探偵たちが、生きて山を下りてきた。しかも平伏して命乞いするならともかく、情報を提供しようと言ってくる。あまりに予想外の振る舞いを、彼らは怖がっているのだ。
    「これ、何かわかります?」
     茶々は更に一歩踏み出すと、あの坂道で拾った印鑑ケースを取り出した。怪訝に目を細めた大山が、ふた呼吸の後に目を見開く。なんだ、なんだと、周囲の男たちもざわめき始めた。
    「そ、それは…それはあああ…!」
    「見覚えがありますでしょう。そう、守部さんが持ち出した、契約印のケースですよ」
     守部は開発賛成派によって大多良山へ追い上げられた。八木は、彼が契約印を持ち出す余裕などなかったろうと話した。だがでっち上げにしては、盗まれたと語る大山の怒りは真に迫っていた。むしろこれを持ち出した事が、守部へのリンチを決行する理由になったのではないか。
    「山の途中で見付けました。守部さんが落としたのか、或いは落ちたのでしょう」
    「な、中身はどうした! 印鑑はどうしたんだ!」
    「勿論、ありましたとも」
     探偵は真実を明らかにするのが仕事だ。ただ、そのために、自身に偽りのベールを纏う事も恐れはしない。それが自分の命に関わるとあらば尚更だ。
     茶々は印鑑ケースを高くかざした。男たちの渇望の目が集う。悪代官たちに印籠を翳す時代劇のようだ。しかしお裁きは、自分たち探偵の役目ではない。
    「儀式なんて馬鹿馬鹿しいかもしれませんね。しかしこの印鑑の隠し場所とセットだとしたら、いかがです? 開発事業はかなり大がかりなものになるのでしょう。探偵ふたりの命と報酬。それと引き換えにするだけの価値はあると思いませんか?」

     町で唯一のレンタカー営業所が貸し出したのは古いセダンだった。車内はどこか煙草くさかったが、贅沢は言っていられない。大山傘下のタクシーだの運転手だのに頼るよりはましである。足首がまだ痛む八木を助手席に、報酬金の詰まったトランクケースを後部座席に、そして自身を運転席に乗せて、茶々は車の少ない国道を走らせていた。
    「守部さん側の依頼主には何て説明するの?」
     車の運転など久し振りだった。法定速度を頑なに守り続けながら、茶々は隣の八木に聞く。返答はない。横目で見ればイヤホンを耳に嵌めて、何やらぶつぶつ呟いている。茶々は手を伸ばしてそのイヤホンを外した。
    「アアン! 本日の最終レースが!」
    「早速馬に集中してんじゃないわよ! 家に帰るまでが仕事でしょうが! こっちは怪物との追いかけっこと運転で草臥れてるんだから、雑談に付き合うくらいはしなさいよ!」
     茶々の怒鳴り声よりも、最終レースの終了時間というのが利いたのだろう。八木はしおらしくイヤホンのコードを巻いてポケットに仕舞い込む。再度言うのも間が抜けているようで、黙った茶々に八木はそれでもちゃんと質問の答えを返してきた。
    「…彼らには経緯と、我々が見たままを説明するとも」
    「納得する? 大山たちみたいにでたらめだって言いだけど」
    「彼らもあの町の住民だったんだ。むしろ、開発賛成派たちよりも大多良山の伝説を信じているよ。守部氏の死も覚悟の上のようだった。ただ現代人としての納得のため、第三者に背中を押してもらいたいのだろう」
     明言はしないが、恐らく八木の依頼人は守部の家族だ。「町を出てしまった」と先程八木は大山たちに語っていた。反対派を袋叩きにしようとする町ならば、出て行って当然だと茶々も思う。しかし、あの祠の前に集められた骨の主たちは、出て行けなかった。
    「…いい時代になった、とも思えないけど」
    「何か言ったかね?」
    「ひとりごとよ。しかしアンタも報酬をいくらって吹っ掛けたの? すごい量」
     札束の詰まったトランクはひとつではない。ふたつだ。振込では信用できない、現金で用意しろと言った時の、大山の顔といったら見ものだった。可能なら破産するくらい奪ってやりたかったが、これが上限のぎりぎりだ。それでも茶々のトランクより、八木の方が重かったのだから呆れる。
    「なあに、元の倍額程度さ! 特別サービスと言っていい価格だな」
    「随分と儲かるのね、『裏』の仕事」
    「これだけ危険な目に合うのだからね。人件費も相応に使わなければいけない」
     右藤と佐村を茶々は思い出した。一体いくらで彼らを雇ったか知らないが、高額であろうとこんな命がけの目に合うなら御免だ。そう思う茶々に、八木は奇妙に明るい笑顔を向けてきた。
    「君もどうかな? この手の仕事は人手が必要な事が多くてね。君のように信頼できる協力者がいるとありがたい限りだ」
    「冗談止めてよ。二度とごめんだわこんな怖い仕事! アンタとも駅に着いたらお別れだからね!」
    「そう言っても狭い業界だからね。それに君は才能があるよ。黙っていたが気付いているのだろう? あの山に、口と、目と、手まであるならば――」

    「馬鹿にしおって、あの金たかりの蛆虫ども…!」
     ぶつぶつと繰り返しながらも、大山は痛む膝をこらえて山道を登っていた。茶々と八木が伝えてきた契約印の隠し場所は、洞窟の祠の手前との事だった。目印が書かれた紙を大山は強く握る。
    「し、しかし大山さん、大丈夫ですかねえ。守部みたいな事になったら…」
    「だから若い連中を先に行かせとるんだろうが! 信用しろ!」
    「それならもう彼らに任せて…」
     馬鹿者、と大山はすぐ後ろを登っている、青年会の新副会長を怒鳴り付けた。
    「任せ切って守部みたいに奪われたらどうする! ただでさえごちゃごちゃしたんだ。見張らんとあいつら何をしでかすかわからんぞ! お前も次の町長を狙っとるんだろうが、しゃんとしろ!」
     渋々と副会長は頷き、大山の後に従う。ただでさえ守部の契約印盗難があったのだ。あんな小娘の提案に乗らざるを得なかった大山を、周囲は侮りつつある。来年は県会議員の選挙時期だ。大山は開発事業を実績に、開発利権で得た金を引っ下げて、出馬するつもりだった。そのためにも、何としてでも契約印を取り返さなければならない。
    「えいくそ、洞窟はまだか! 急ぐぞ!」
     重ねて大山は声を荒げる。藪の奥でざわりと鳴った音も、大山の耳には届いていなかった。

    「――鼻や耳、いや足まであったとしても、おかしくはないと」

     葉擦れの音が強まる。ざわり、ざわりと、音を立ててそれはやって来る。大多良山を登っている男たちの元へ。
     笹や草が踏みしだかれる。小さな五本指を有した巨大な足が、跳躍する。居丈高に怒鳴る大山の上へ。
    「…あ?」


    「ただの憶測よ。推理じゃないわ」
     路肩でパンクしている車をおっかなびっくり避けながら、茶々は言った。日没近い空はそろそろオレンジ色に染まり始めている。赤い西日に透けた茶々の髪は、名前通りの澄んだ茶色に染まっていた。
    「だから言わなかっただけ」
    「憶測か、なるほど。私は大衾を被せてもあれらが再出現するのは、それこそ覆い切れない足か何かがあるからだと…」
    「アンタもそれを言わなかったじゃない、八木。私たちは探偵よ? ロジックも何もない不確定な情報で報酬は受け取れない。そうでしょう?」
     八木はうっすら微笑んでいた。嘘偽りは話さないが、代わりに重要事項を隠しておくやり口は、彼もご同様だ。同じ穴の貉ではないかと、つんと顎をそびやかした茶々に、八木は口を開く。
    「やはり君は『裏』でやっていく才能があるよ、茶々君。是非またよろしくお願いしたいものだ。これは別件の依頼なのだが…」
    「絶対いや。…ちょっと、何よそのしゃ、写真、って何よこれえええ! 何でこんなのが写ってんのよおおお! やだやだ怖いやだやめてよおおおおお!」
     取り出された写真の有様に、号泣しながら茶々は必死でハンドルにかじりついた。本日一体何度目の涙か、もう数える事もできない。茶々にわかるのは八木が、大山たちとは異なりながらも、やはり絶対に信頼したくない人間だという事だった。
     事故を起こさずに茶々が駅まで運転し切ったのは奇跡であった。「また会おう」と笑顔の八木には無言で、茶々はホームに入ってきた特急へ飛び乗った。悪い夢を見ていたような気がするが、抱えたトランクの重さは現実だった。そしてその中に入っている金も。

     茶々は帰ってから、美容室に行った。髪を染め直した。限定のネイルポリッシュも買った。限定以外の新色二色も買った。事務所は潔く移転した。好みのインテリアを揃え、ドローンや必要な機械類を買い替えた。
     大多良山の一件を紹介してきた元上司の所長は、殴ってやりたかったが、ぐっと堪えた。代わりに所員を引き抜いた。事務所唯一の女性となっていた浦川は、所長に辟易していた。茶々からのオファーを喜んで受けた彼女は、すぐに小松探偵事務所の一員となった。彼女が所長の脱税の証拠を持参してくれたのは、喜ばしいサプライズだった。
     元上司の探偵事務所にガサ入れが入るよりも、あの町の土砂崩れのニュースの方が早かった。開発事業は土砂や大山たちと共に流れ去り、大多良山の名前は忘れ去られていった。
     そしてまた月日が流れた。茶々はいくつかの難事件で名前を上げ、業界では名の知られた探偵になろうとしていた。傷害、殺人、あらゆる事件に関わった。だがそれでも、あの骨の岩場、あの頭蓋骨は、きっと生涯忘れないだろうと茶々は思う。
     何よりも、
    「何でまたアンタがいるのよ…」
    「つれないなあ茶々君」
    「近寄らないでよ変態馬探偵! アンタがいるといつもいっつも怖い事が起きるんだから!」

     何故かしばしば出くわすようになってしまった八木の存在が、忘れさせてくれないだろう。
    高尾 Link Message Mute
    2022/11/19 20:51:53

    大多良山にて

    裏バイト逃亡禁止の二次創作です。茶々さん中心で八木さんとの出会いを捏造しています。割と長めです。
    2022年4月に開催されたオンイベにて、PDF無料頒布をしていました。その節はお世話になりました。

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      2022年6月に書き上げ、ぷらいべったーに載せてました。
      高尾
    • 温泉へいこう裏バイト二次創作です。ユメちゃんとハマちゃんが温泉でいちゃいちゃしてる短編です。
      2022年4月のオンイベで配布していました。
      高尾
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