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    七十六年、梅雨 今年は梅雨明けが遅いらしい。気象予報士の話を裏付けるように、西へと傾きつつある太陽は、雲で遮られて輝きは鈍い。昨日に続き雨は降らなかったが、空気全体は湿っていた。ジーンズが足に纏わり付いているようで、シャツの袖を捲っても、高校時代より少し伸ばした髪をかき上げてみても、爽やかな気分には程遠かった。
     街路樹の枝も瑞々しい緑を失って、花壇の紫陽花もまだ何色とも付かないつぼみを膨らませる頃だ。一日の疲れが出る時間帯という事も手伝って、講堂前を行き交う学生たちもくすんだ顔をしていた。昨日昼に同じ場所を、ロッキード事件に対する抗議のデモ隊が突き進んでいったとは思えない。
    「…喜一っちゃん、待ってよ、ねえ、待って」
     朗らかに明るいのは、背後から追ってくる呼び声ばかりだ。幼稚園からの呼称を、大学生にもなって使われるのはくすぐったい。無視して人ごみに紛れる手もあったが、連呼される恥ずかしさと天秤にかけて、後藤喜一は足を止めた。
     講義終わりの学生たちをかき分けて、顔馴染みが現れる。背丈は後藤とほぼ同じくらいだが、くっ付いている顔は声と同様の明るさだ。爽やかさも度を過ぎれば考えものだと、思いながら後藤は首を傾げた。
    「なに、健ちゃん」
    「なに、じゃないよ。今日は稽古日だからね。道場に行かないと」
    「ああ、うん」
     後藤はどうして健を無視しなかったのかと、既に後悔し始めていた。夜の講義、アルバイトと、次々脳内に休みの言い訳が浮かぶ。だが後藤のスケジュールを大体把握している健は、躊躇いなく背中を押していく。鞄を持たず手ぶらの健に、もしかしてと後藤は尋ねてみた。
    「ねえ、健ちゃん、わざわざ俺を迎えに来た?」
    「当然じゃないか! 昨日はデモでお休みだったしね。新入生の頃は慣れないよ。僕の時も稽古日はいつも先輩が迎えに来てくれた」
    「迎えじゃなくて連行じゃないの、それ」
     ぼやきは演劇部の発声練習に邪魔されて、健の耳まで届かなかったらしい。四限が終わるとサークルや部活動の動きが活性化する。ひっそりと吐いた後藤の溜め息も、行き交う学生たちのお喋りに運ばれて消えていった。意気揚々と健は話し続ける。
    「先輩たちは少し厳しいけど、見込まれてるのさ。今年の新入生で経験者は喜一っちゃんくらいなんだから」
    「中学生までの経験だよ」
    「昔は強かったじゃないか、覚えてる? 大会におばあちゃん同士が応援に来てくれてさ」
    「小学生での大会だよ」
    「懐かしいなあ。そっちのおばあちゃんは元気?」
    「…元気だよ」
     ずらりと立て看板の並ぶ道を歩きながら、もう何を言ってもあまり変わらないだろうと後藤は半ば諦めて答える。祖母は毎日「何で喜一は東大に行けなかったのかねえ」と繰り返している、とは飲み込んだ。
     後藤は今年の春、この大学に入ったばかりだ。子供の頃に間違いなしと言われた東大は、受けるだけ受けて落ちた。他の適当に受けた大学で、最も興味を持てそうなのがここだった。必修単位科目は退屈ながら、たまに気になる講義もある。可も無く不可も無い大学生活を、不可にやや寄せて来ているのが、健と剣道部の存在だった。
     健の家と後藤の家は、ご近所同士の付き合いだ。特に祖母たちは大の親友である。マイペースな後藤に比べて、ひとつ年上の健が余程しっかりして見えたのだろう。祖母や母が「うちの喜一をお願いね」と言うのを後藤は何度も聞いていた。
     任せてくれと胸を叩くのは、小学校まででいい筈だ。しかし後藤が大学の後輩となったのが悪かったのか。それとも例によって祖母が「お願いね」と頼んだのが悪かったのか。健は張り切った。助かったのは講義選びの助言までだった。
    「喜一っちゃんも剣道部に入ろう!」
     流石に毎朝、その調子で実家に迎えに来られては敵わない。「あのラブコールをどうにかしなさいよ」という姉の命令と、「とにかく見学だけでも」という健の懇願。そして特に気になるサークルもなかった事が、隙を作ったと後藤は反省している。その隙に付け込まれ、今はこうして健に引きずられているという訳だ。
     昔から後藤は背が高い。運動部の勧誘はあちこち受けたが、大半が匙を投げた。後藤自身も不向きを自覚している。子供の頃から上を敬えと言われれば舌を出し、姿勢正しくせよと言われれば背中を丸める性分だ。剣道も祖父の知人が道場主だったせいである。高校受験を理由に辞められた時はほっとした。健の顔を立ててやるとしても、わざわざ大学でまで、部活動に余暇を捧げてやりたくなかった。
    「来月の予定もきっともう出てるよ。OBの先輩方も週一回は来られるそうだから、楽しみだね。当番表も出てるんじゃないかな」
    「…ああ、あれね」
     道場の入っている体育館が近付くにつれ、大荷物の学生たちが増えていく。脇腹を直撃しそうになったラケットバッグから距離を取ると、後藤はふっと眉をひそめた。
    「ロッカー整理だの、道場磨きだのはともかくさ、あの泊まり込みは何とかならないかな」
    「いや、それは…しょうがないよ。先輩方が勝ち取った棟なんだ、いつアカの連中に攻められるかわからないって言ってただろう?」
     打って変わって受動的な健に、後藤は鼻を鳴らしたくなった。後藤たちが向かっている体育館近くの西門横には、古い棟がある。書庫として建てられた小さな棟だ。しかしそこは少し前まで、健の言う「アカの連中」のアジトだった。
     五十五年に日本共産党は武装闘争から方針を転換した。武力革命を辞さない若者はこれに反発し、やがて新左翼、五流二十二派と称される数多の党派に分裂した。そうして六十年代に結成されたさる党派が、この大学を拠点校としている。活動の中心が大学生なのは良くある事だから、奇異ではない。党派最大のアジトは戸山のキャンパスながら、こちらのキャンパスにも分隊の砦よろしく、彼らが占拠している場所があった。西門のすぐ近くに位置する棟である。
     しかし後藤が入学する前年、体育会部活はこの棟から党派を追い出していた。党派は五年前に学生のリンチ殺人事件を起こした事で、多くの学生から批判され、一時は追放運動も起きた。保守傾向の強い体育会部活が彼らを嫌うのは自明の理だった。しかも西門の棟と体育館は目と鼻の先である。
     日頃から溜まった鬱憤は、党派によるキャンパス内での乱闘がきっかけとなり火を噴いた。党派所属員の多くが地方遠征に出た折、体育会部活が連合を組み、西門の棟を襲撃したのだ。
    「あのいまいましいZヘルメットをいくつも木刀で叩き割ってやったぞ!」
     そう剣道部の先輩は豪語していたが、後藤は少々疑っている。だが留守組を何人か追い払っただけにしても、勝利は勝利だ。 しかし相手の主力は健在。加えて暴力に慣れている。数年前の追放運動が不完全燃焼で終わったのも、運動のリーダーたちが次々党派に襲撃されたせいだ。同じ新左翼の別党派との対立も、実質上の戦闘状態に突入して五年近い。加えて社会闘争が下火になった今なお、数百人の動員力を誇っている。
     体育会部活は棟の徹底防衛を打ち出した。各部の男子部員で泊まり込み、見張りをするのだ。
    「それにしたってさ、毎日そう何人も出す必要ある? サッカー部や野球部くらい頭数がいるならいいよ。しかも俺なんて実家暮らしの新入生だからって、週二回も三回もあの湿気くさいところに泊まるんだぜ」
     後藤は一昨日泊まった棟を思い出してぼやく。元書庫だけあって棟には窓が少なく、日当たりも悪く、梅雨入り前から湿っぽい空気が充満している。そんな中に若い男子数十人が詰め込まれるのだ。酒も麻雀などの遊戯も「監視を何だと思っている」と禁止されている。ひたすら交代で棟の周囲や内部を歩き回るだけだから、退屈極まりない。アルバイトで学費を稼ぐ生徒は、会う度に不満を漏らしていた。
    「あれがアカとの戦争だって言うなら、最前線の厭戦ムードは深刻だよ。早く手を打ってくれなくちゃ困るな」
    「だからって剣道部からの人員が減るとがっかりされるよ。うちは武道派だって頼られてるんだ」
    「あのね健ちゃん。頼る、頼られるなんて話じゃなくてさ…」
     体育館のドアを開きながら後藤は溜め息を吐く。部長たちの考えは知らないが、健より人が悪いにしても、面子にはきっと固執するだろう。部活と泊まり込みが続く日々では、大学生活に飽きが来そうだ。つい本音が出た。
    「あんなちっぽけな棟ひとつ、守ったところで練習場にもならないじゃない。さっさと撤退しちゃえばいいんだよ」
    「今、何て言った?」
     背後からの声は健のものではない。後藤はぎくりとした。中途半端にドアを開けたまま、そうっと肩越しに振り返る。健の凍り付いた顔が視界に入る。続いて彼の背後に立つ、見慣れた先輩の姿が。むっつり唇を結んだいかつい顔に、後藤は頬を引きつらせつつ言った。
    「…柴田先輩、どうも。お先にどうぞ」
    「馬鹿野郎!」
     体育館内から響く様々な学生たちのかけ声を圧して、柴田の声は轟いた。後藤は耳を塞ぎたくなった。健は直立不動で、気の毒なくらい青くなっている。対照的に柴田の顔はどんどん赤くなっていく。
    「後藤! お前は我々の勝利の証を何だと思ってる!」
    「すみません」
     三年生の柴田は十年早く生まれていたら、詰め襟に高下駄でキャンパスを闊歩していただろう。剣道部では下級生の取り纏め役という、最も横暴な立場にある。とりあえず後藤は健の隣に立って背中を伸ばした。バレーボールを抱えた女子学生たちがちらちらこちらを見てくる。殴るなら彼女たちが体育館内に入ってからにして欲しい。
    「我々剣道部は過激思想からこの大学を防衛するため、率先して動かねばならん! あの砦を防衛する事が学舎の平和に繋がるんだぞ!」
    「はあ」
    「いや柴田先輩、後藤くんは…」
    「誰がお前に発言しろと言った! 謹聴しろ、謹聴ッ!」
     激しい怒声に健が身を竦める。気付いているか知らないが、柴田が嫌うのは後藤よりも健なのだ。高校から剣道部で活躍し、二年生ながらも大会の選手に選ばれ、しかもハンサムだ。ただ潰そうにも、健は部長を初め周囲の信頼が厚い。そうなると柴田の矛先は、健が勧誘してきた新入生に向けるしかない。つまり後藤である。
    「大体お前は日頃から不真面目なんだ! 昨日も道場に来なかっただろうが!」
    「はあ、デモでお休みだと聞いていたんで」
    「だからって言われるがままに休む新入生がどこにおる! それに下らん本を持ち込んで人を集めただろう!」
    「共通科目の課題図書ですよ」
    「何が課題図書だ、どうせアカの有害図書だ! 部員どもを染めようと言ったってそうはいかんからな!」
     柴田を唾を飛ばす勢いだ。先日後藤が例の棟の泊まり込みで、他の新入生たちとマックス・ウェーバーを読み合わせた事が余程気に食わないらしい。ろくに読み込んでもいない他学生にも呆れたが、こちらの言い分にもむっとした。後藤は別にマルクスの信望者ではない。あっという間に過激化した新左翼の党派たちにもシンパシーは感じない。だが本と学びをろくに知りもせず腐されるのはうんざりだ。黙って説教に付き合うのも飽きて、後藤はわざと驚いた顔をしてみせた。
    「あれ、ウェーバーは共産主義者だったんですか? いや俺、全然知らなかったなあ。プロ倫も、経済と社会も、去年出たロシア革命論も読んだんですけどね、未邦訳なのかな」
    「ちょっと、喜一っちゃん…」
    「でも参ったなあ。先輩もご存じだと思いますが、政経じゃ資本主義についても学ぶんですよ。マルクスの資本論くらい高校で読んでるし、ウェーバーでさえお仲間なら、俺たち政経の連中はみんなアカの手先になっちゃうなあ。副部長と、あと仁多コーチも政経出身でしたっけ?」
     袖引っ張る健を無視して、後藤はわざとらしく続けた。柴田の顔が紅潮を通り越してどす黒くなる。マルクスとウェーバーの区別も付かないような手合いだが、嫌みはわかるようだ。これで拳が飛んできたら退部してやる、と後藤は決めた。健の面子を思い、三ヶ月は剣道部に在籍してるつもりだったが、そろそろ潮時だ。
    「後藤、貴様、貴様…」
     来るかな、と後藤は視界の隅で、柴田の震える拳を見ていた。だが柴田はその手を、大きなスポーツバッグの中に突っ込む。まさか凶器か。逃げようとした後藤の面前に、ぐいと突き付けられたのは、木刀やナイフではない。大きな封筒だった。
    「おい、これが何かわかるか?」
    「…封筒ですね」
     予想外の物体に、後藤は見たままを答えた。柴田は銃口よろしく封筒を後藤に突き付けたまま、にたりと嫌な微笑を浮かべる。声のトーンが下がったのも余計に不気味だ。
    「こいつはな、我々の先輩方からアカどもに対する果たし状だ」
    「果たし状?」
     思わず後藤は繰り返してしまった。そんなものを聞いたのは中学校までだ。傍らの健もぽかんとしている。しかし呆れと疑念がこもった声に、柴田はむしろ機嫌良く吠えた。
    「西門を出た先にアカのアジトがあるのは知ってるだろう、お仲間なんだからな? 今日の練習は免除してやる。代わりにこいつを連中に叩き付けてこい! 絶対にお前の手で渡せよ! そうでなければこの誇り高い剣道部員と認めんぞ!」
     誇り高い剣道部員にしては、時代劇の悪党のような高笑いを柴田は響かせた。後藤の胸元に封筒を押し付けて、大股で体育館へと入っていく。その後ろ姿が見えなくなるとほぼ同時に、「まずいよ」と健が早口で話しかけてきた。
    「果たし状だって? いくら何でも危険過ぎる。ね、喜一っちゃん、早く柴田先輩に謝ろう。僕も一緒に頭を下げるから」
     講堂前で捕まった時と同じように、健は体育館の中へ引っ張っていこうとする。だが後藤は踏ん張りながら、白い封筒をためつすがめつ眺めた。果たし状と言えば三つ折りの封筒だが、こちらはA四サイズがすっぽり入る大きさだ。薄さからして、中身は紙が二、三枚だろう。念のため指で探ったが、嫌がらせの剃刀などが仕込まれている訳でもなさそうだ。
    「喜一っちゃん、ほら!」
    「…行かないよ、俺は」
    「何を言うんだよ! あいつらがどういう連中かわかってるだろ!」
    「まあね。でもこれ、面白いと思わない? うちの剣道部の名前も書いてないぜ。果たし状ってのはハッタリにしても、随分と素っ気ないじゃないか」
     傍らの健は憤慨するが、後藤は視線を封筒から逸らさなかった。ぱりっとした白い紙が余計にビジネス的で無愛想だ。ただ表に、濃く大きく書かれた宛名ばかりが目立っている。後藤は指先でその文字をなぞりつつ言う。
    「それにほら、この宛名。革命的共産主義者様云々じゃない。個人宛てだよ。誰だろうな、こいつ?」
    「どうでもいいよそんな事! 本当に喜一っちゃんは、昔からおかしな事ばっかり考えるんだからな。早く柴田先輩に謝って返そう」
    「…あ、そう」
     封筒を引ったくりかねない健の手から、後藤は体を翻して逃れた。封筒を梅雨時の寝ぼけた日差しに透かしても、中の文面は読み取れない。「喜一っちゃん!」といよいよ怒った声を出す健に、ようやく後藤は顔を向けた。こちらも声を低め、真剣さを出す。
    「謝れって言うけどね、健ちゃん、こんなにすぐ頭を下げたらどうなると思う? 部員全員の前での土下座くらいはさせられそうじゃない」
    「それは、そうかもしれないけど、」
     歯切れ悪くたじろぐのは、健も柴田が同様の行いをしてきたと知っているからだ。彼も体育会部活に所属して長いが、体育館百周やひとりでの掃除ならともかく、衆人環視の前で恥を掻かせるのは気の毒だと思う性格である。後藤は首を振って言った。
    「俺にも意地があるんだからさ。こんなにすぐお手上げです、勘弁してくださいなんて頼めないよ」
    「だからって喜一っちゃん、危険な真似はいけないよ」
    「しませんよ。練習免除の許可も下りた事だし、今日はとりあえず休むわ」
     後藤が冷却期間を置くつもりだと理解したのだろう。頷かないにせよ、健は少しほっとした様子だ。彼くらい子供の頃から後藤を心配してくれた他人はいない。だが感謝すべきと思いながらも、払い除けたくなってしまうのも事実だった。単に大人になって鬱陶しいからという理由ばかりではない。健が言う「おかしな事ばっかり」な考えのひとつを、後藤は口にした。
    「健ちゃん、そんなに俺が心配?」
    「当然だろ! 幼馴染みなんだから」
    「じゃあね、例えばだよ、俺がもし柴田先輩をどうにかしようって言ったら、一緒に手伝ってくれる?」
     意表を突かれたらしく健が目を丸くする。少し首を傾げたまま後藤は回答を待った。健は僅かに黙った後、力強く頷き、しかしこう答えた。
    「それは、僕が出来る事なら可能な限りやるよ。柴田先輩はやり過ぎるとは思う。…でも、他の先輩は良い人たちばかりじゃないか。その先輩方を差し置くような真似は…大袈裟だよ。ちょっと、おかしいと思うな」
     誰より道場に響く声が、弱々しく答える。後藤は薄っすら微笑んだ。予想通りだ。健は良識人だ。理不尽には怒る。弱い者を庇う。だがそれはそれだけだ。
     柴田には理不尽と思う。だがそれを下級生への指導と放置している指導陣には何も言えない。今年判明したロッキード事件には憤る。だが昨日のデモには参加しない。彼はそういう人間で、多くがそういう人間だ。
     後藤とて道義心が強い訳ではない。むしろ健には一歩も二歩も譲る。しかしその曖昧さが、存在しているにも関わらず誰もが見て見ぬ振りをしている事柄が、時々我慢ならなくなるのだ。それを根こそぎ引っ繰り返してしまいたい衝動に駆られるのだ。
     昨日の抗議デモは多数が参加した。だが民衆が出来るのは抗議と投票だけだ。選挙さえも金ずくめな現代で、どこまで民衆の声が効果的に届けられるだろう。癒着の構造、政府のあり方そのものを変革できるようなあり方を論議しようとしても、新左翼の袋小路に追いやられる。彼らが乱雑に振るった暴力のお陰で、人々は政治を斜に見始めている。
     汚職に世論が一時沸き立っても、世論は世論、波のうねりに過ぎない。そんな中では身内だろうと他人だろうと、後藤の苛立ちと衝動を理解してくれる相手は今までひとりもいなかった。だから後藤は既に、笑顔で流す事に慣れ切っていた。
    「ありがと。その時はよろしく。それじゃあ、俺は行くよ」
    「あ、ああ、また明日ね」
    「サボりだと思われたら嫌だから、児玉先輩にでもこっそり事情は伝えといて。じゃ、迷惑かけるけど、よろしくね」
    「帰りに家に寄ろうか? 明日どうやって柴田先輩に謝るか、一緒に考えて…」
    「いいよ、いいよ」
     さっさと後藤は健に背中を向けた。十歩も歩くと「また明日!」と爽やかな別れの挨拶が聞こえてくる。善良な幼馴染みに手を振るだけで答えて、後藤は来た道を戻っていく。少し歩き、体育館が見えなくなってから、靴先を逆方向へと向けた。目指すは西門だ。
     健にはああ言ったが、後藤の好奇心は封筒に向いていた。本当に剣道部が党派へ叩き付ける果たし状なのか。果たし状でないならば何なのか。宛名の筆跡は柴田の金釘流とは異なる。単なる柴田の嫌がらせなら、これは手が込み過ぎている。
     柴田もまたこの役割を誰かに押し付けられたのではないか? 彼を怒らせた原因である棟の前を通り、西門を出て行きながら後藤は考える。もし指導部が絡んでいれば面白い。三年生の児玉は柴田を嫌っていた。彼自身の人望はさほどではないが、部の師範が彼の大叔父に当たる。合わせて上手く使えば火種になるだろう。失敗したら失敗したで、「大事な役割を新入生なんぞに任せた」という方向へ持っていけばいい。後藤は元々退部するつもりなのだから、痛くも痒くもない。
     どうせならこの宛名の人間とも、どういう経緯で剣道部と繋がったのか話が聞きたい。後藤は改めて封筒を見やり、首を傾げた。大学闘争が下火になり、社会運動も潮が引いてから、新左翼の党派は総じて秘密主義者と化している。癒着を囁かれている大学当局ならともかく、敵対している体育会と、堂々とやり取りするのは奇異だった。
    「…ペンネームかな?」
     党派の上層部は仲間内でさえも本名を使わないと聞く。仰々しい名前はその類とも思えた。白い封筒の表に書かれた――「甲斐洌輝」という名前は。

     西門から駅まで真っ直ぐ歩けば十五分。若者向けの商店が立ち並ぶ道だ。加えて駅は複数の路線が混在しているから、社会人相手の店も多い。駅に近付くほど雑多な賑わいが増していく界隈だ。ただ今日、後藤が道を曲がったのは、まだ大学の方に近いあたりだった。
     西門の棟を追い出された党派のアジトがこの辺だと、体育会部活では有名な話だった。秘密主義者とは言え、これだけ大学に近ければ、出入りしている顔ぶれなどで検討が付く。後藤にもすぐわかった。休業中と貼り紙のされた二階建てのスナックと、細長いビルに挟まれた、四階建ての建物だ。往事は病院だったのだろう。外壁から名前は外されていたが、残された日焼け痕は「安田医院」と読めた。
     それ以上に特徴的なのは、正面入り口の半ば下ろされたシャッターだ。何かがぶつかったらしく大きく歪んでいる。視線を上げれば二階の窓も同じようなシャッターで閉ざされ、鉄格子が嵌められているものまでもある。間違いない、と後藤は確信した。連日内ゲバでの暴力事件が報道されている組織に相応しい。こんな建物が周囲に複数あってたまるか。
     退勤や帰宅時間だと言うのに、周囲に人影はない。隣の高いビルは工事中らしく外壁に足場が組まれていたが、工事の人員も見えなかった。見張りのいる方がやりやすいと思いながら、後藤は病院にぶらぶら近付いていった。
    あと数歩で入り口というところで、病院の陰から男がひとり出てきた。咥え煙草に長い髪。絵に描いたような左翼学生だ。一瞬後藤はぎくりとしたが、丁度良いと思い直して歩み寄った。
    「すいません、甲斐って人はいます?」
     なるべく無害な声を後藤は意識した。あまり愛想が良いと逆に警戒される。相手のペースを乱すためにも、さっさと封筒を見せ付ける。
    「これを渡すように言われて。剣道部からなんだけど」
    「…ああ、なんだ。メッセンジャーかい」
     厳しく誰何されるか、激烈に拒まれるか。思い切って出した部の名前に、相手は予想外の穏やかさで返してきた。封筒の宛名を一瞥して眉を寄せたが、すぐシャッターの向こうを煙草の先で示す。
    「甲斐ならいつもは四階の奥にいるよ。階段を上がって真っ直ぐ、突き当たりの右側だ」
    「…俺が入っても?」
    「それを渡すんだろう? 寄り道はしない方がいい」
    「まあ、ええ、どうも」
     想像以上に話が早い。もごもご礼を言いながら、後藤は自分もシャッターを潜ろうとした。背中を屈めた拍子に、学生の持っている本が目に入る。ブックバンドで束ねられた三冊の内、こちらに向いた一冊は表紙も、右上に貼られているシールも覚えがあった。あ、と後藤は顔を上げた。
    「アーレントの『全体主義の起源』」
     急に身を起こした後藤に、学生が目を瞬かせる。ブックバンドを持ち上げる彼へ、後藤は畳みかけた。
    「それ、一昨日の午前中に、神田の伊藤書店で買ったんだろ? 全三巻セット、棚の二段目にヤスパースと並べて置いてあったやつだ」
    「当たりだ。…君も狙ってた口か、名探偵?」
     後藤は悔やしさを覚えつつ頷いた。「全体主義の起源」には高校時代に挑み、二巻を読み終えたところで受験のため中断していた。大学に入った今、再開するには丁度良い。だが昨年末にアーレントが死去した事で、著書は再注目を受けた。どこかの学部の参考図書になったのも災いした。
    「図書館は予約でいっぱい。この近くの古本屋は全部当たったけど、ないんだよ。たまに見かけても一巻とか二巻だけでさ」
    「ユダヤ人とヨーロッパの歴史は日本人好みじゃないのさ。どこかの教授も言っていたな、『まずは三巻だけ読めばいい』」
    「余計な助言だよ。お陰で神田まで探しに行ったってのに、悩んでる内に買われちまうんだから」
     大学近辺の古本屋よりは良心的な価格だが、一・二巻は既に読んでいた事が後藤を躊躇わせた。悩みに悩んで一昨日、店に足を運べば、別の本が鎮座している。後藤が行ったその日の、午前中に売れたと言うのだ。
    「こんなところで再会するなんて、くそ」
     歯噛みする後藤に、学生は目を細めた。長髪に無精髭だと年齢が読めず、胡散臭くなるものだが、人好きのする微笑の気配が漂う。意外とまだ若いのだろうか。
    「貸すか?」
    「いいの?」
     思わず飛びつきそうになった後藤に、言い出した学生の方が少し驚いた顔をする。その様子に後藤は冷静になった。相手は新左翼の活動家だ。六十年代ならいざ知らず、七十年代の今は犯罪者と同義語だ。彼らにとって思想はもはや線引きの道具だ。敵対党派の人間にはところ構わず襲い掛かり、鉄パイプやゲバ棒で頭を潰す。一度敵と見なされれば、昨日までの味方でさえもリンチで死に至らしめる。この男はそんな党派の一味だ。あまり深く付き合うとまずい。
     そう思いながらも後藤は、学生が目元の笑いを深める様子に、気恥ずかしさを覚えた。相手の立場に躊躇ったのを見透かされている。
    「今日はそいつを渡しに行くんだろ? 気が向いたらまた来るといい」
    「そうするよ。…でも、あんたも珍しいな、アーレントを持ち歩くなんてさ」
     あまつさえ逃げ道まで用意された気まずさに、後藤はつい言わずもがなな事を口にした。アーレントは「人間の条件」でマルクスを批判したとして、活動家たちからは好まれていない。だが学生はせせら笑うように、軽く肩を揺すった。
    「読んでいる本でそいつの信条を決め付けるのは嫌いでね。相手の主張を知らずにどうやって闘える?」
    「…その通りだ。正しいよ、あんた」
     反マルクスだ、反革命だと、最近の活動家は喧しい。だがこういう人間もいるのか。低く賛辞を述べて、後藤はさっと身を屈めた。このままだと封筒の存在を忘れ、延々と話し込んでしまいそうだった。
     入り口のシャッターを潜っていると、学生が「気を付けてな」と言う声が聞こえた。後藤が背を伸ばす頃にはもう、去っていく足も見えなくなっていた。

     入り口周囲は広かった。元は病院の待合室として使われていたのだろう。四角く張り出した受付カウンターはそっくり残っていたが、ソファは撤去され、大きな脚立や机がいくつも置かれてある。しかし窓全てにシャッターが下ろされているせいで、ひどく暗い。それでも階段はすぐわかった。真正面だ。
     階段前では廊下が右手に伸びていて、その先からは明かりと、微かに音楽まで聞こえてくる。挨拶した方がいいだろうか。少しだけ後藤は悩んだが、「寄り道はしない方がいい」という学生の助言に従い、さっさと階段を登った。踊り場には掃除用具入れらしいロッカーが置かれていたが、後藤の靴はたまに、紙屑やよくわからないものをぐしゃりと潰した。
     四階の奥。階段を上がって真っ直ぐ、突き当たりの右手側。甲斐という男の居場所を、後藤は口の中で反芻した。三階に達すると周囲がぼんやり明るくなったのは、窓のシャッターが上げられたせいだろう。着いた四階には左手側の窓から、西日の名残が差していた。太陽は沈んだが雲はかなり薄くなってきた。菫色の空の下で、ぽつりぽつりと明かりが灯り始めている。
     廊下の右手側には、昔の病室や検査室がずらりと居並んでいた。「四○壱」などの古めかしい名札がまだ掲げられている。しかしドアは全て締め切られ、人の気配はない。放課後の学校を後藤は思い出した。静けさにつられて自分の足音も殺しつつ、後藤は真っ直ぐに廊下を進んだ。突き当たりの部屋のドアに触れるより、それが内側から開かれる方が早かった。
    「誰だ、お前は」
     突き当たりの右手側。目当ての部屋だ。ならばこの男が甲斐か。今日は意表を突かれてばかりだと思いながら、現れた男に後藤は軽く頭を下げた。怪しまれぬよう白旗よろしく、白い封筒も掲げてみせる。
    「あ、どうも、甲斐さんですか? これを渡すように…」
    「山本さん! やはり甲斐の奴どこにもいませんよ!」
     後藤の愛想笑いは固まった。男の背後から三人、更にその隣のドアから四、五人。誰もが金属パイプ片手だ。彼らに取り囲まれながら、山本と呼ばれた最初の男はこちらを睨み続けていた。後藤よりも頭半分背丈が低いが、喧嘩前の猫のように剣呑な目だ。
    「どうやって逃げたんだ、あいつ。今日はずっと階段を張ってたじゃないか」
    「窓からだよ。避難はしごが降りてた」
    「気が付かれたか。…何だ貴様は?」
     十人ばかりの男たちの目が、一斉に集中する。後藤は背中に冷たいものを覚えた。まずい気がする。姉が宿題で描いた絵に、麦茶をこぼした時よりずっとまずい。後藤がそっと封筒を小脇に抱え直すのと、山本という小柄な男がずいと一歩踏み出すのと、ほぼ同時だった。背丈の割に権高な声が空気を震わせる。
    「甲斐へそれを渡すと言ったな。所属はどこだ?」
    「頼まれただけなんですけど、…剣道部から」
    「剣道部だとッ」
     一気に山本の声のトーンが上がった。周囲の空気がぶわりと膨れる。これが本当の殺気というものかとどこか遠く思いながら、後藤は身を翻していた。視界の隅で、学生たちが鉄パイプを握り直すのが見えた。
    「体育会のスパイだ! 捕まえろ!」
     山本の命令以外に、応じる声ひとつ上がらない。剣道では相手を威圧するためにも掛け声が発される。だが無言のまま振るわれる暴力もひどく不気味だ。後藤は久し振りに全力疾走した。廊下を突っ切り、階段を数段飛んで駆け下りた。
    「…くそ、逃げ足の早いネズミだ」
    「甲斐のお仲間にお似合いだな」
    「違いない。しかし剣道部とはな。どこから入って来たのか…」
     学生たちがそんな会話を交わしながら再び階段を登っていく。彼らの声が聞こえなくなると、後藤は額に汗が吹き出すのを感じた。とりあえず呼吸を整えてから、ゆっくりとロッカーのドアを開く。階段の汚さから、ろくな掃除用具が入っていないと目星を付けたが、当たってくれて何よりだ。自分ひとりを収めるスペースに恵まれた。
    「あ、おい中津川、甲斐の奴を見なかったか?」
     しかし上階から響く声に、後藤は再びロッカーに入ろうとして、止めた。中津川という名前に覚えがある。会話は恐らく四階あたりからだ。こちらは一階と二階の間だから、下りて来てもまだ余裕がある。「いいえ」と応じた細い声もやはり記憶に引っかかり、後藤はロッカーの手前で耳を澄ませた。
    「本当か? お前らがあいつに漏洩したんじゃないだろうな」
    「漏洩って、僕らは何も知りませんし、していませんよ。園部さんたちこそ何かあったんですか?」
    「嗅ぎ回るなよ。必要な報告があれば後でする。それより、甲斐を見付けたら我々に知らせろ。四階のいつもの部屋だ、いいな」
     中津川と呼ばれた声が何と答えたかわからないが、「はい」以外は許されない調子だった。それきり足音は去っていく。こちらにやって来ないのを確かめて、後藤は角が少しよれてしまった封筒を取り出した。
     甲斐という男は、どうも内ゲバで追われているらしい。果たして剣道部とのやり取りが関わっているのか。後藤としては気になるが、身の安全を考えればこのまま帰るべきだ。次に見つかれば袋叩きである。幸い、一階から人の気配はまだ感じられない。先程のシャッターを潜れば、あっと言う間に帰れるだろう。しばし後藤は封筒と睨み合った。
    「…もうちょっと、粘ってみるかな」
     それでも後藤が視線を上階に向けたのは、中津川の名前のせいもあった。思い出したのだ、どこで聞いたのかを。

     窓から見える外は、雲と共に夕陽の名残も失せ、夜へと傾き始めていた。すみれ色を越えて藍色に近付いた空に、街灯に紛れてしまいそうな一番星がひとつ。三階の廊下は電気も灯らず暗いままだが、「生理検査室」と名札の掛けられた部屋からは、白っぽい光と話し声がこぼれていた。
     ドアに耳をくっ付けて、後藤はその話し声を聞いていた。子供の探偵ごっこじみているが止むを得ない。誰も通りがからないのが心底ありがたかった。
     室内には男が三、四人。ひとりは先程の中津川だ。追って来た学生たちは「四階のいつもの部屋」にいると言っていたから、加わってはいないだろう。何より中津川の声が、ずっとリラックスしている。恐らく相手は彼の同輩たちだ。後藤はどう振る舞うべきか想定を終えると、ドアをノックした。彼らに聞こえる範囲で、なるべく弱々しく。
    「あのう、すいませえん」
     今までの挨拶のどれよりも力無い声で、後藤は呼びかける。沈黙は短かった。鍵の回る音がして、ドアは細く開いた。眼鏡をかけた青年が、警戒した、しかし先程の山本たちよりはずっと取っつきやすい顔で立っている。後藤は頭を下げ「すいません」と繰り返した。
    「俺、先輩に言われて、ここへ書類を届けるようにって…。誰もいなかったんで入って来ちゃったんですが…」
    「何だ、誰だ?」
    「知らない奴だよ。先輩に言われて来たんだって」
    「あれっ!」
     眼鏡の青年の向こうに、幸い中津川が顔を見せてくれた。高い頬骨の目立つ顔は記憶通りだ。逃すまいと後藤は声を上げる。少し声が大きかったか、眼鏡の青年の肩がびくりと跳ねた。
    「中津川さんですよねえ。俺、論理学Ⅰを取ってて、星教授の」
    「…ああ、星教授の。見覚えあるよ、火曜の講座だろ。えっと確か…」
    「後藤です、後藤。いやあ、助かったなあ。地獄に仏だ」
     名乗りながら後藤は頬を緩めてみせる。記憶の通りだった。
     中津川は院生だ。彼が助手を勤める星教授の論理学は、出席者は多いが人気自体は低い。教授の話し方には後藤も眠気を誘われる。ただ内容は興味のある分野だったから、質疑応答には毎回手を上げていた。そして教授の横からマイクを運んでくるのが、助手の中津川だった。
     その程度のやり取りでも毎週になると、流石に顔くらい覚える。中津川も驚いたが警戒は解いたといった様子で、眼鏡の青年に頷いてみせた。
    「政経の生徒だよ、僕が助手やってる講座の。一年だから、まあ、大丈夫だと思う」
     そうかと眼鏡の青年も納得したようだった。彼と代わった中津川に、後藤は大仰に溜め息を吐いてみせた。
    「いやあ、すみません。俺ものこのこお邪魔したくなかったんですが、部活の先輩に押し付けられちまって。あの、甲斐さんって人、います?」
    「えっ、甲斐さんを探してるの」
     中津川は頬を引きつらせ、あたりに警戒の視線を走らせる。出て行けと言われるだろうか。だが後藤は知らぬ顔で、彼が何かを言い出すより前にと、封筒を見せびらかした。
    「その人にこれを渡せって言われてるんです。渡したらすぐ退散しますよ。ええと、もっと上の階ですかね?」
     わざと後藤は階段の方へと振り返り、中津川に背中を向けた。今にも行ってしまいそうな振りだ。予想通り、中津川の慌てた声が追ってくる。
    「いや、待って、待ってちょっと。そっちはまずいんだ」
    「はあ」
    「…少し…中で話そうか」
     引き留める声に、後藤はしてやったりと笑いたくなった。過激派に所属しているのが不思議なくらい、ナイーブで人の好さそうな青年だという見込みは当たった。「いいんですかあ」と頭を下げつつ、中津川の招きに応じて、後藤は生理検査室へと入っていった。

    「よりによって甲斐さんに会いに来るとはねえ」
     中にいたのは眼鏡の青年と、中津川と、ギターを持って鎖骨まで髪を伸ばした青年の三人だった。眼鏡と長髪は当初こそ不審げに後藤を眺めていたが、中津川の説明でむしろ憐れに思ったらしい。しみじみとそう言われ、後藤は首を傾げた。
    「何かあったんですか」
    「ここがどういう場所かは知ってるかい、新入生?」
    「革命の砦でしょ」
     尋ねてきた眼鏡だけでなく、三人が一斉に笑った。長髪がギターを掻き鳴らす。後藤は彼らが落ち着くまで、室内に軽く視線を走らせていた。小さな部屋だ。詰め込まれた古い寝台や、裾の茶色くなった間仕切りカーテンは、病院時代の異物だろう。最近の党派の常らしく、ここで集団生活を営んでいるらしい。三人は寝台の上に座り、レコードや雑誌や灰皿を広げていた。
     それでも微かなスペースには小ぶりな本棚が、お決まりの資本論などを抱えている。しかし本棚の上に積み重ねられた何十枚ものレコードの方が、彼らの手には取られているようだった。壁には洋画のポスターさえも貼られている。大学キャンパスにずらりと居並ぶ物々しい立て看板は、ここにはなかった。
     まるでヒッピーだと後藤は呆れ半分に思った。日米共に社会運動華やかなりし六十年代が、こんな所で生き続けているとは。これは思想活動に興味のある青年ぶるより、マルクスに無縁な一年生を装う方が、彼らの好みに合うだろう。
    「…革命の砦か、傑作だ! 俺たちにゃ仰々しいよ。さしずめ自由の館だな、ここは」
    「はあ」
    「まずは一服しろよ、一服。歓迎するぜ新入生」
    「あ、どうも。いただきます」
     笑いを収めた長髪が、普段あまり吸わない煙草を勧めてくる。素直に後藤は青いパッケージから一本ご相伴に預かった。わざと軽く咳き込んでみせると、「大丈夫か一年坊主」と笑いながら背中を擦ってくる。顔を隠してゲバ棒を振るう手合いにしては、随分と親切で陽気な連中だ。
     咳を収めてから、後藤は中津川に改めて頭を下げた。普段よりも途切れがちな口調は、身の置き所のない新入生らしく聞こえるだろう。
    「本当にすみません、中津川さん。俺、ここで会ったって、誰にも言いませんから」
    「いいよ。君も災難だけど、先に他の連中に見付からなくてよかった」
    「そうしゃちこ張るなって。俺たちゃどうせ党派の抜け損ない組だ。お前をゲバ棒で叩き回したりしないよ」
    「おい、少しは慎めよ。俺たちだって革命の闘士なんだぞ」
     眼鏡が長髪の言葉に口を挟んだ。だが長髪はのんきにギターを鳴らし、どこ吹く風という顔である。
    「じゃあこいつに真面目にオルグしろってか? 気の毒だろ、ラブ・アンド・ピースで騙されて俺たちみたいになったらさ」
    「自主性が無いように言わないでくれよな。お前も俺もさ、真面目に世界の事を考えてさ、社会変革の為に身を投じたんじゃないか」
     黙って煙草を吹かしながら、後藤は眼鏡と長髪のやり取りを聞いていた。彼らも中津川と同じ年頃なら二十代半ばだ。党派が学生のリンチ殺人を起こしたのが五年前だから、それより前に入学した世代だろう。当時は学生運動が下火になっても、党派間の武力闘争はさほど表沙汰になっていなかった。
    「そうは言うけど、もうベトナム戦争も終わっちまったんだぜ。三里塚も労働争議も大学生に受ける話じゃないだろ? アジア解放も夢のまた夢。若いのは飽きてるんだよ」
    「いや、昨日のロッキード事件抗議デモの盛り上がりを見てみろ。みんな政治そのものへの興味関心は失っていないんだ。反米、反資本主義の気持ちはまだまだ燻ってる。そこに我々の革命のきっかけが…」
     長髪のからかいに眼鏡は反論を続けていたが、どこか台本の丸覚えのような調子だった。彼らの活動の始まりは、長髪の言う通りサークル同然だったのだろう。それが次第に過激化していく。歌の歌詞同然だった革命思想が、やがて社会に向ける矛先だと気付いた時には、もう抜け出せなくなっている。半端な革命闘士がいたものだと、後藤は上滑りな眼鏡の語りを聞きながら思った。
     しかし後藤には都合が良かった。自分で抜け損ないと言うような連中である。情報は引き出しやすい。党派の主流から外れているようだが、多少の事情には通じているだろう。一番口が軽そうな長髪には期待できそうだ。
    「あの、甲斐さんってどんな人なんですかね」
     ただ警戒されないよう、あえて後藤は静かに煙草を吸う中津川へ尋ねた。
    「先輩からは何も聞けなくって。うちの学生なんですか?」
    「いや、…ああ、今年からそうだな。前は東大だったっけ」
    「そうそう、勿体ない。山本さんなんて何浪しても駄目だったんだろ?」
    「言ってたぞ、こっちの方が面白そうだから来たって。あの人は筋金入りだね。俺たちみたいな半端者とは訳が違うよなあ」
    「確かに。海外に飛ばないのかな。こんな傍流でぶらついてるより余程いいや。毎日お隣のビルがトンテンカンテン喧しいしな」
    「他のアジトよか広くていいだろ? ベッドも備え付きなんだから」
     違いない、と声を合わせて彼らは笑う。しかし傍流と呼ぶからには、このアジトはあまり地位が高くないと後藤は踏んだ。本拠地はあくまで戸山キャンパスであり、こちらは分隊のひとつに過ぎないのだろう。しかも彼らは西門の棟を追い出されているのだ。
     三人のような半ヒッピーの闘士といい、他の学生たちに所在を気付かれている事といい、半端者の集まりなのかもしれない。さしたる機密事項もないからこそ、こうして寛いで過ごせるのではないか。党派の所属員は公安の影を恐れ、アジトは秘中の秘、外出時はヘルメットとマスクで顔を隠すと評判だった。呑気なものだと後藤は煙草を吹かす。
    「…そんなに凄い人なら、リーダーなんですか、ここの」
     甲斐について後藤が問いを重ねると、途端に三人は唸り出した。視線をちらちら交わし、どこまで言ったか悩む様子だ。後藤は少し質問を変える事にした。肝心なのは剣道部との繋がりである。
    「でもうちの部長方と交流があるんでしょ? こんな封筒を渡せって言われるくらいなんだから」
    「体育会系とは、まあな。交流って言うか…」
    「交渉かな」
     眼鏡の煙草を横から抜き取り、中津川が補足する。後藤は次の発言を待つように、じっと視線を注ぐ。しばらく中津川は黙っていたが、やがて耐えかねたように続けた。
    「…知ってるかわからないけれど、体育会系とは…縄張り争いとでも言うのかな。話し合いがあってね。甲斐さんがそれの責任者ではあるんだ」
     濁してはいるが、縄張りという単語で後藤はぴんと来た。西門横のあの棟だ。取るか取られるかと言わんばかりの強硬さを示しつつも、体育会の上層部たちは交渉につく余地を持っていたのか。彼らも馬鹿ばかりではないらしい。後藤は少しほっとする思いだった。
    「じゃあ、この封筒も交渉と関係してるんですかね」
    「多分ね。だから余り、大っぴらに見せない方がいいよ」
    「…何でですか? そりゃあ俺も外では隠そうかなって思いましたけど、中津川さんたちは知ってますよね?」
     勘付きながらも隠す必要を後藤はあえて問う。苦虫噛み潰した中津川の後を、「お前の為だよ」と長髪が引き取った。
    「交渉は周知の事実さ。俺たちは体育会系ほど見栄っ張りじゃないからな。でも反対するも、ここでは自由って訳だ」
     そして徒党を組んで殴りかかる自由もあるという訳だ。後藤はその言葉を飲み下し、新入生らしく頷いた。よろしいと言うように長髪がギターを撫ぜる。去年の流行歌を爪弾き始めた彼を横目に、眼鏡が紫煙を吐きつつ言う。
    「しかしどうする、その封筒? 俺たちが預かってやってもいいが」
     甲斐は西門の棟を巡って体育会連合と交渉中。だが山本たちに反対され、このアジトを離れる目に合っている――情報はこの程度が限界か、と後藤は思った。柴田の凋落には材料が少し足りないが、明日は部長に直接、封筒の話をご注進してやれば済むかもしれない。
    「それじゃあ…」
     お願いしますと腰を浮かしかけた時、ドアが強くノックされた。三人の顔が一斉に強張った。鏡もあれば後藤も同じ顔をしていたに違いない。ノブの回る音がするが、幸いにも後藤が入ってから鍵を掛けられていた。
    「中津川、いるか!」
    「園部さんだ。…はい。どうされました?」
     予想より落ち着いた声で中津川が応じる。彼が手を振ると、眼鏡が立ち上がって寝台を押した。長髪もギターを傍らに置いて、間仕切りカーテンを寄せていく。現れた壁にはもうひとつ、ドアがあった。眼鏡が低い声で後藤に囁く。
    「こっちから出ろ、新入生。隣室を抜けた先に非常用階段があるんだ。頭を割られたくなきゃ見つかるなよ」
    「隣にもひとりいるけど、まあ締切前だから追ってはこないだろ。しつこかったら中津川たちからオルグを受けてたって言っときな。そいつ相手なら通じる」
    「あ、ありがとうござい…」
    「待ってください。今開けますから!」
     中津川がこちらに横目を向けつつ声を張り上げる。もう時間がないとの合図だ。後藤は急いでドアの向こうへと身を躍らせた。中途半端になってしまった礼を受け止めるように、眼鏡か長髪か、どちらかが背中を強く叩いた。

     がちゃりと鍵の回る音が響く。後藤はあたりを見回した。カーテンが締め切られているだけでなく、電気も点いていない。ただ先程の生理検査室よりも、かなり狭いようだ。
     目を閉じて暗闇に多少視界を慣らすと、後藤はゆっくりと歩き始めた。何せ彼らの言葉通りなら、こちらにも人間がいるのだ。暗さからして仮眠中かもしれないが、鍵の音で起きたとも限らない。そう思う端から右足の靴先が何かに触れた。段ボールだろうか。大した音はしなかったが、後藤は身を縮めた。その拍子に、結局三人に任せられなかった封筒が、ばさりと床に落ちた。
    「誰だあっ!」
     斜め前からの大声に、後藤は尻尾を踏まれた猫のように飛び上がりかけた。丸いライトがこちらを向いて、闇に慣れかけた後藤の目を刺す。
    「締切前は邪魔するなと何度言ったらわかるんだ! フォント作りは芸術なんだぞ! 右耳からペンを刺して左耳から引っこ抜いてやろうか!」
    「すみません。いや、あの、ちょっと、オルグを受けてて」
     ぎらぎらと動くライトに手を翳し、後藤はそれが男の額にベルトで付けられているものだと理解した。大方、作業に集中するため他の照明を全て落としていたのだろう。顔はよく見えないが、片手に握り締められたペンが、相手の本気の高まりを伝えてくる。中津川のオルグ云々が通用する気配ではない。後藤は慌てて床から封筒を拾い上げた。
    「出て行きますよ。すぐ出て行きますから」
    「さっさとしろ! 集中力を取り戻すのに何時間かかると思ってる!」
    「はいはい。あの、出口はどっちですかね? 暗いやら眩しいやらでもう目が…」
     猛然と男はペンで左方向を示す。机やら何かの機材やらにあちこちぶつけながら、後藤は急いで部屋を出た。向こう側に人がいるか、確かめている余裕もなかった。
     幸いにして廊下は無人だった。窓の外はもうとっぷり暮れて、近在の家の明かりが蛍のように浮かんでいる。たまに見かける色鮮やかな灯は、赤提灯やスナックだろう。後藤は不意に空腹を覚えた。そう言えば昼から何も腹に食べていない。こちらへ来る前に、食堂でカレーでも入れておけばよかった。
     ただ、食事が取れるのはもっと先になりそうだ。曲がり角の向こうから、話し声や足音が響いてくる。覗こうか迷ったが、あの山本たちに見付かっては、中津川たちの配慮が無駄になる。後藤は大人しく非常用階段を探した。声が響く方とは逆側に、大きな防火扉が開きっ放しになっている。そこには先程よりは小さな階段があった。
     後藤はそっと階段を見下ろした。非常灯は設置されていたが、点滅を繰り返してすぐ真っ暗になってしまう。後藤は封筒を落とさないよう、慎重に抱えて段差を一歩一歩踏みしめた。歩調と合わせるように、非常灯がぱちん、ぱちんと鳴っていた。
    「おや」
     努力空しく、不意の声で後藤は階段を踏み外しそうになった。爪先で辛うじてバランスを保つ。ようやく安定した姿勢で振り返れば、階段に男がひとり腰掛けている。ぱちん、と非常灯が鳴って、緑色の光がその姿を照らした。入り口のシャッター前ですれ違った、あの学生だった。
    「まだ中にいたのか、名探偵」
    「…どうも、アーレントさん。そっちこそ」
     安堵と怒りを交えて後藤は返した。学生は片頬を歪めて、後藤の胸元の封筒に目を留める。
    「何だ、まだ渡せていないのか」
    「教えてもらった部屋に行ったけど、甲斐って人は留守だったよ。逃げたんだと。…党派の中でも内ゲバやるなんて、あんた方ちょっと激し過ぎるんじゃないの」
     余裕綽々な学生の態度に、少しばかり反骨心を刺激されて後藤は言った。初めから彼は後藤の訪問理由を知り、さらりと甲斐の情報を開示してきた。アーレントの件もあり、中津川や山本たちと異なる気楽さも覚えてしまう。相手も後藤の皮肉な物言いに、特に苛立ちも見せず頷いた。
    「統一した赤軍派もああだからな。大義の為だけで協力し合える連中なら、五流二十二派まで分裂しちゃいない」
    「山本さんだっけ? 俺も総括されそうになったんだけど」
    「うちで総括なんて言葉は使わないさ。君は部外者だから、ただのリンチだ」
     言葉を弄する活動家にしては思いがけない率直さだ。気を呑まれた後藤に、学生は「そいつは」と封筒に話を戻した。
    「後生大事に抱えるほどの物なのか?」
    「…さあね。俺も気になっているけど、何せ嫌がらせで押し付けられたもんで」
    「そんな物で右往左往させられてるのか? 開けてしまったらどうだ」
     言われてみるまで、後藤は開封を考えてもみなかった。中身を確認し、捨てるなり持ち帰るなりする。単純に甲斐に渡す事を目指すよりも、ずっと楽で、得られるものは多い。剣道部や柴田との事だけを考えれば一番手っ取り早い方法だ。
    「開けて中身を見て、価値ある物か判断すればいいだろう。自分でやるのが気まずいなら、俺に渡すか?」
     階段に座っている学生が、頭上にのし掛かって来たような錯覚を後藤は覚えた。軽く伸ばされた手に、どうぞと封筒を渡してしまいたくなる。しかし後藤は眉を寄せ、首を横に振った。
    「嫌いなんだ、そういう秘密警察みたいな真似はさ。それに俺もこいつを最大限活用させてもらうつもりなんだ。楽な手段を使っちゃ気が引けるよ」
     すっかり皺の寄ってしまった封筒を、後藤は軽く振ってみせた。学生はしばらく黙っていたが、ふとその眉が和らいだ。
    「なるほど。なるほどな。余程真面目なのかと思ったが、おかしな倫理観の持ち主だ、君は」
     褒められているのか、貶されているのか。首を傾げる後藤に、「貶しちゃいない」と語尾に笑いを含めて学生が言う。どうやら笑われてはいるようだ。だが悪い気のしない笑いだ、と後藤は思った。お前はおかしいという言葉は、耳にたこが出来るほど聞いている。ただ、侮蔑も隔意も含めないものは、初めて聞いたような気がした。
    「まだそいつを甲斐に渡したいと思っているなら、一階の厨房に行ってみな」
     煙草を咥えながら学生が言う。目を瞬かせた後藤に、彼は続けた。
    「行き先の当てくらいは聞けそうな奴がいる」
    「感謝するわ。お陰でもうちょっと粘ろうって気になってきた」
    「何だ、今その気になったのか。言わなけりゃ良かったな」
     後藤は笑った。軽く手を上げて謝辞を伝え、階段を下りていく。ぱちん、と音がして、非常灯がまた消えた。微かな紫煙の香りばかりが後藤を追って、やがてそれも途絶えた。

     どの階でも非常用扉は開け放たれていた。二階の扉の前で後藤は肝を冷やした。あと三段で下り終えるという時に、扉の前を何人かが足早に駆けていったからだ。やり過ごして一階に着くと、こちらは相変わらず暗い。ただ、少し先を明かりが照らしている。そう言えば初めにやって来た時も、廊下の先には光が見えていた。ここだったのか。
     近付いていくと、調理後特有の暖かな空気と、味噌汁か何かの香りが漂ってくる。後藤はぐうと鳴り始めた腹を抱えながら、室内を覗き込んだ。長方形の部屋に、二十人は座れそうな長いテーブルと丸椅子が並んでいる。中央には腰掛けた女性がひとり、コーヒーでも飲んでいるようだった。厨房と食堂なのだろう。後藤は壁を軽くノックした。
    「あの、すみません、ちょっといいですか」
     女性が顔を上げる。後藤よりは年上だろうが、まだ若い。恐らく彼女も学生だろう。何と聞いたものかと後藤は迷ったが、結局すっかりお馴染みになってしまった質問にした。
    「甲斐さんって人、知りません?」
     黙ったまま彼女は立ち上がった。胸まで伸びた長い髪に、ベルボトムのジーンズがよく似合う長い足。きれいな人だな、と後藤は思った。無言で見つめられると、姉で女性とのやり取りに慣れていてもどぎまぎする。
    「甲斐に何か用?」
    「ええと、この封筒を渡すように言われてて、あ、ちょっと!」
     呼び捨ての意外さで、後藤が気を取られている隙に、女子学生は封筒に手を伸ばしてきた。咄嗟に後藤は封筒を後ろ手に隠す。油断ならぬ相手はそれ以上の深追いをせず、腕を組んで後藤を見つめている。これは姉で覚えがある。説明せよという態度だ。
    「…部活の先輩からこいつを渡すように言われたんですよ。四階に行ってみたけど、山本さんって人たちが、いなくなったとか何とか言ってまして」
    「さっき来てたわよ」
    「は?」
     後藤は目を丸くした。女子学生は少し柳眉を寄せながら、淡々と続ける。
    「腹が空いたって、三十分くらい前」
    「甲斐って奴が? ここに来て飯を食ったの?」
    「食べていった訳じゃないわ。おにぎり二つ渡したら、またふらっと」
     どうかしている。後藤は呆れ返った。山本たちにあんな狙われ方をして逃亡したのに、まだ近在にいて、あまつさえ食堂に出入りするとは。しかし、まさかと後藤は封筒を見下ろした。甲斐が危険でもこの建物に居続けているのは、この封筒を受け取るためではないか。
    「何か言ってませんでした? どこかに行くとか、何か、誰かを待っているとか」
    「特に何も。どうせ山本たちの仕業でしょ。甲斐も取り巻きたちが戻ってくるまで寄り付かなければいいのに、見栄っ張りだから」
     どうやら甲斐にも山本にも好意的ではなさそうだ。飽き飽きしているような女子学生の話し振りに、後藤は率直な感想を述べた。
    「あの、慣れてません?」
    「慣れてるのよ。いつもの事だから。山本は東大嫌いなの」
    「ああ、そう言えば、何浪もしたって…甲斐って人は東大から移って来たんでしょ」
     生理検査室の三人との会話を後藤は思い出す。東大に落ちてさっさと諦めた身としては、山本の気持ちはよくわからない。人間のコンプレックスに思いを馳せそうになった後藤を、女子学生の声が引き留めた。
    「ちょっとは事情を知ってるのね」
    「まあ、ちょっとですが」
    「君、所属は?」
    「政経です。一年生」
    「そっちじゃなくて、党派は?」
     思想信条に生きる活動家らしい問いだ。ノンセクトと言えば紛らわしく、ノンポリと言えば軽蔑されるだろう。後藤は思い切ってこう答えた。
    「剣道部です。マルクスとマックス・ウェーバーの区別が付かない先輩のせいで、ぼちぼち退部させられそうだけど」
    「…嘘。そんな人間が大学にいるの?」
    「いるんですよ、それが。資本論とプロ倫も、本ならみんな同じだと思ってるんじゃないかな」
     ようやく女子学生の唇が少し緩んだ。やっぱりきれいな人だと後藤が思っていると、同意するように腹がぐうと大きく鳴った。すぐ手で押さえたが、目を丸くした様子から聞こえたに違いない。よりによってこんな美人にと思えば耳が赤くなるが、背に腹は代えられない。後藤は半ば開き直って「あのう」と切り出した。
    「なんか、食う物ありませんか。昼から何も食ってなくて。あ、金は払いますし、材料のご提供だけでもいいんですが」
    「…入っていいわよ。まだおにぎりが残ってるから」
     厨房には大きな鍋や容器が揃っていた。コンロ上には何も乗っていなかったが、流し台の小皿の布巾を取れば、小さな握り飯がふたつ。海苔は萎びて、米は干からびていたが、空腹が文句を言わせない。いただきますの声もそこそこに、厨房に立ったまま後藤は握り飯を平らげた。梅干しがいつも以上に舌に染みる。
    「こっちで食べても構わないのに」
     苦笑の気配を漂わせながら、女子学生が湯呑みを出してくれた。少しぬるい茶をひと息に飲み干して、後藤は礼を言いつつ首を振った。
    「ごちそうさまです。…誰か来たらと思うと、落ち着いて食えないですよ。見付かったら先輩も困るでしょ」
    「まあね。君、山本たちに追われたの」
     後藤が頷くと、女子学生は溜め息を吐いた。ジーンズのポケットから、平たくなった煙草の箱を取り出す。ライターを持っていたら火を差し出したくなるような、アンニュイな色気が漂った。見惚れそうになるのを押さえて、後藤は先程引っかかった会話の内容を尋ねてみた。
    「囲んでぶっ叩かれそうになりました。でも甲斐って人にもああいうお仲間がいるんですか。取り巻きが云々ってさっき言ってましたけど」
    「君、口は硬い?」
    「まあ、おにぎりふたつも頂いたんで」
    「あとでちゃんと代金を徴収するわよ。…甲斐の金魚の糞志望は大勢いるわよ。でも他アジトの仲間と他県へ応援に出されてる。しばらく甲斐は孤立無援。もっと早く袋叩きにされると思ってたわ」
     煙草を挟んだ唇から、血なまぐさい言葉が紡がれていく。実際に山本たちに襲われていなければ、後藤にも現実味のある出来事とは感じられなかっただろう。しかし次いで吐き出された言葉に、鉄パイプで追われた記憶が背筋を冷たくさせた。
    「あなたも次に会ったら殺されるわよ。のんきな連中もいるけど、山本たちはこんな隅っこにいるから余裕がないの。殺しの数でなら指導部に負けない、って誇示したがってる」
    「…個人に暴力を行使したって、万人の万人に対する闘争が喚起されるだけじゃないですか。戦国武将の方がまだ穏当だな」
    「そう、そしてその自然状態に、裸一貫で首を突っ込んでいるのが君って訳」
     言われてみれば随分と危ない橋を渡ってきたものだと、今更ながらぞっとする。取り落とさないよう気を付けて、後藤は空になった皿や湯呑みを洗い場に置いた。蛇口を開くのとほぼ同時に、女子学生が煙草に火を点ける。
    「命の方が大事でしょう。帰った方がいいわ。昨日もシャッターに傷が付けられてね、ばたばたしてるの」
    「ああ、そう言えば…。襲撃とかも、あるんですか」
     入り口のシャッターが大きく歪んでいた事を後藤は思い出して問う。ふっと紫煙を吐いて、女子学生は独り言のように続ける。
    「わからない。でも敵にアジトが割れてる、近日中に襲撃があるとも限らない、速やかに退避しよう、ってのが甲斐の主張。それなら防戦だ、一度や二度の脅しで拠点放棄は弱腰だ、ってのが山本の主張。今日も両者一歩も譲らずだったわ」
    「…そう言えばさっきも二階に集まってたみたいですけど、先輩は行かなくていいんですか?」
    「飯炊き女は帰れって言われたの」
     眉をひそめた後藤と、対照的に女子学生は軽やかに笑った。
    「嘘。そこまでストレートに言う馬鹿じゃないわ。でも女子メンバーが炊事担当なのも、夕食を作ったらすぐ帰れと言われたのも本当。しつこいから一度は出たけど、腹が立って。ひとりでまた来てやったの」
    「戦略的撤退、からの奇襲ですか?」
    「そんなところ。…でも二階の集会場に行ったところで、ジャンヌ・ダルクだ、いや魔女だって持ち上げられるのかと思ったら、奇襲も面倒になっちゃってね」
     気怠そうに髪をかき上げる女子学生に、はあ、とぼんやりした相槌しか後藤は打てなかった。数年前に赤軍派の起こした事件では、女性メンバーがしきりに取り上げられていた。こちらの党派も男女区別ない革命闘士と思ったが、どうもそうではないらしい。スポンジで皿にぐるぐる円を描き続ける後藤に、女子学生はふっと細い煙を吐いた。
    「お代はいいわ。お皿と湯呑みはそっちの棚」
    「…助かります。どうも」
     アーレントの「全体主義の起源」を逃した腹いせに、同じ古本屋で同額以上を散財してしまった後藤にはありがたい話だった。尻ポケットの財布は封筒並みの薄さなのだ。皿を拭く後藤に、「ねえ」と女子学生が食堂の方へと向かいながら言った。
    「その封筒、代わりに甲斐に渡すわよ。帰りがてら探してあげる。同じ釜の飯を食った相手が死ぬところ、もう見たくないもの」
     煙草の煙と、物騒極まりない台詞を引きずる彼女に、後藤は躊躇った。頷いてしまえば楽だが、ここまで来て任せるのは本意ではない。これは己の意地であって美人への見栄ではないのだ、と自分に言い聞かせつつ、すらりとした後ろ姿に向かって答えた。
    「どうせここまで来たんだ。近くにいるなら、自分で探してみますよ。知りませんか、家…は、ここか。ともかく、行きそうな場所の当てとか」
    「行きつけの店くらいはわかるけど、…まだこの近くか、中にいると思うわよ。山本たちが血眼で探し回ってるのを、馬鹿だなって酒の肴にしてるかも」
    「…性格悪いな」
     後藤の呟きに、女子生徒は振り返った。首を横に振る否定の仕草に、叱られるかと思ったが、彼女は真剣にこう続けた。
    「性格じゃないわ。人が悪いの」

    「由美! まだいたのか!」
     食堂に現れた学生は、女子学生を見てそう言った。白にZマークのヘルメット、湿気も厭わぬ長袖の上着、片手には鉄パイプという武装姿だ。先程までの静寂が嘘のように、一階のあちこちから足音が響いている。
    「理由も聞かずに撤退なんて出来ないわよ。何があったの? どこかに出撃?」
    「逆だ。ブクロ派の襲撃だ」
    「今? …ガセじゃないの?」
    「目白の部隊からも情報が来た。こっちへ向かってるらしい」
    「救援は? それこそ目白は?」
    「どこも県外への出撃で手薄なんだ。自分たちの身の安全が第一さ。とりあえず俺たちだけで防衛するが、突破されたら拠点放棄もやむを得ない。…もういいだろう、早く出ろ!」
    「参加するわよ」
    「バカ、街での闘争と違うんだ! 時間が惜しい。行くぞ! さっさとバリを完成させないと…」
     由美と呼ばれた女子学生の抗いを無視して、学生は彼女の腕を引っ張っていく。食堂の入り口を出ていく直前、彼女はこちらを振り返った。「きをつけて」か、「にげて」か、どちらかわからない唇の動きを残して、ふたりは廊下へと去っていく。
     後藤はテーブルの下からずるずる這い出した。身を隠すのには慣れてきたが、襲撃という単語がこめかみのあたりで脈打っている。山本たちだけでも厄介だったのに、対立党派が押し寄せて来ているとは。党派同士の抗争に巻き込まれ、重傷を負った市民の記事が、後藤の脳裏に過る。
    「…まずい事になったぞ」
     自分の血の気の引く音が聞こえた気がした。後藤は食堂を見渡した。ヘルメットのひとつもあれば、仲間の振りして逃げやすい。だがテーブルと椅子以外は、座布団を入れた段ボールがあるのみだ。マスクもなければ、タオルや布巾はステッチが付いた小さいものばかり。到底顔を覆えない。生理検査室の三人から何か譲って貰えばと、後藤は歯噛みした。
     だが後悔しても遅い。黙って食堂に隠れ潜んだところで、襲撃者たちを待つばかりだ。後藤は廊下へと出た。相変わらず電気も点かず暗い。しかし入り口のあたりでは蛍よろしくライトが尾を引いている。どうも一階廊下は天井照明を外しているらしい。幸運が後藤に残っているとするなら、これだけだろう。
     後藤はシャツのボタンを開き、封筒を腹に収めてから、前を閉じた。皺だらけになるが仕方ない。少し動いても封筒が落ちないのを確かめ、後藤は入り口へと向かう。一階や二階の窓にはシャッターが下りていた。暗がりに紛れ、正面脱出に賭けるしかない。
     ほんの数歩も進まぬ内に、正面から誰かが走ってくる。後藤の心臓はぎくりと跳ねた。足早に逃げたい。しかしどこへ逃げても袋小路だ。やがてぼんやりと、消火用らしいバケツをいくつも重ねて抱えた学生の姿が浮かぶ。灯りは持っていない。軽く息を吸って、後藤はなるべくきびきびと叫んだ。
    「――代わります!」
     叫ぶと同時にさっと腕を伸ばす。バケツが上手くノーヘルの頭を隠してくれるよう後藤は祈った。
    「おう、頼む!」
     学生はあっさりとバケツを後藤に任せ、傍らを通り抜けて行った。ふうっとひと息吐く余裕はない。積み重ねたバケツで、なるべく正面から顔がわからぬようにしながら、後藤は小走りに入り口へ向かった。
     広い元待合室では、二十人近い学生たちが働き蟻のように動いていた。ヘルメットに取り付けた懐中電灯がサーチライトよろしく暗がりを切り裂き、時々後藤を竦ませた。学生たちの多くは、机や脚立を運び、ドア前に積み上げてバリケードを作っていた。そしてそのバリケードの向こうでは、ぎいぎい軋みながら、入り口のシャッターが下りようとしていた。
     待ってくれ、などとは到底言えない。既にシャッターは後藤の膝近くだ。しかも積み重ねられていくバリケードと学生たちで隔てられている。駆け寄る訳にもいかない。後藤が呆然と佇む数秒の内に、シャッターは完全に閉ざされた。
     おしまいだ。自分の奥歯がきゅうと鳴る音を後藤は聞いた。これでもう、外に出られない。
    「配置につけえッ」
     小さな影が声を張り上げる。それぞれの作業をしていた学生たちが、鉄パイプを肩に抱えてバリケード前に集結し始めた。全員が自分の配置を頭に叩き込んでいる動きだ。紛れようがない。後藤はしゃがんでバケツを下ろす振りをしながら、目星を付けていた方へと走った。
     狙うは受付カウンターだ。待合室に張り出したその中なら、屈めば外からわからない。床を半ば滑りながら、後藤は肩でスイングドアを押し、カウンターへと突入した。
    「同志諸君! 反革命のウジ虫集団が、我々の砦に押し寄せようとしている!」
     演説が始まった。山本の声だ。声がゆっくりと移動しているのは、学生たちの周囲を巡りつつ鼓舞するつもりらしい。カウンターの陰で座りながらも、後藤はほっと息を吐いた。どうやら見咎められずに済んだ。しかしこれでは食堂よりも、最前線にいる分、身の危険は増している。
    「諸君らの士気はむしろ高まっているものと思う。我々の理念は、卑怯卑劣な反革命集団のバールに曲げられるものではないからだ! 数を頼みにした烏合の衆よりも…」
     カウンターのすぐ近くまで山本が来た時、その声が止まった。後藤は眉を寄せたが、すぐに気付いた。スイングドアが揺れている。後藤の突入の勢いがまだ残っていたのだ。改めて手足を縮め、後藤は呼吸を殺した。山本の手が、きい、と微かに鳴り続けるスイングドアに置かれた。怪しんで開くか。こちらを覗き込むか。
    「…烏合の衆よりも、ひとりひとりの燃え盛る闘志こそが肝要だ!」
     スイングドアの動きを止めると、山本は演説を再開した。声が再び待合室を巡り始める。後藤は手で口を覆った。そうでもしなければ、安堵の息どころか声さえ上げてしまいそうだった。
     山本の演説が、先年の闘争の赫々たる勝利に及んだ時、外からぴいっと鋭い笛の音がした。警察か、と後藤は思った。踏み込んで来たら、自分も一味と思われる。逮捕されたらどうなるだろう。いっそ最後の嫌がらせで、親に代わって柴田の名前でも出してやろうか。健とふたりで怒鳴られた夕方が、遙か昔のようだ。
    「来たぞ!」
     だが後藤にはノスタルジーに浸っている暇などなかった。雷鳴のような音が響く。思わず後藤は耳を塞いだ。シャッターに何かがぶつかっている。しかも雷雨の夜のように立て続けに。膝立ちになり、後藤はそっとスイングドアの隙間から顔を出した。案の定、誰もが直立不動でシャッターに目を向けていた。
     五秒ほど静寂が周囲を支配した。やがて今までと違う鋭い金属音が、机と脚立のバリケードまでも揺さぶり出す。歯医者で聞くそれを何十倍にしたような音と共に、容赦なくシャッターが歪む。火花が飛ぶ。後藤はどうやら相手が警察ではないと悟った。警察が工業用ドリルを使うだろうか? いや、鉄球を使うまでもない相手にはあり得るのか?
     程なくシャッターには穴が開いた。バールの切っ先が突き入れられ、梃子の原理でぎいいっと穴を広げていく。シャッターの向こうに、白いヘルメットが見えた。党派の名前を堂々書いたそれは、揺らめくライトに現れては消えて、まるで亡霊の一群だった。
    「防戦せよッ」
     ついに山本が号令した。たちまち学生たちが前方へ駆けていく。鉄パイプがバリケード越しに敵を突き始める。だがシャッターがこじ開けられ、向こうがある程度の空間を確保すると、ぎらめく刃物がバリケードをも破り始めた。斧や鋸だ。確かに工業用ドリルの入手が可能なら、大工用品は容易いだろう。振るわれる巨大な刃物の前では、「怯むな!」と叫ぶ山本の声ばかりが勇猛だ。
     それでも辛うじて鉄パイプの槍衾は維持されていたが、白煙を上げる缶詰が無数に放り込まれ、ついに戦線は崩壊を始めた。機動隊の催涙ガスほど強烈な臭気ではない。しかし胸の詰まるような不快感は、恐らく害虫駆除剤だ。あちこちで咳が聞こえ出し、丸められた背中を濛々と白い煙が遮る。
     顔を覆う物のない後藤は、息を止めてカウンターから這い出した。一体何個持って来たか知らないが、一度に投げ込み過ぎだ。これではあちらも視界が利かない。とにかくバリケードは破られ、シャッターは開いた。逃亡するなら今だ。だが入り口付近は当然ながら激戦区だった。
    「うわっ!」
     真横から振り下ろされたバールを後藤は慌ててよける。相手のヘルメットの下の顔は、マスクならぬガスマスクだ。これなら確かに呼吸は維持できる。後藤は半ば感心し、半ば呆れて、白い煙に紛れた。
     涙の滲む目を擦り、煙の臭気にむせ込み、自暴自棄めいて振り回される鉄パイプかバールを避ける。一度ならず二度ほど誰かとぶつかりもした。転びもした。ぐるぐる回っている内に、方向感覚も無くなっていく。後藤は短い咳を繰り返しながら、手を伸ばして壁を探った。これ以上ここにいたら鼻も肺も擦り切れそうだ。
     指先が奇跡的に壁へと触れる。だがそれを頼りに数歩動くと、壁の感触はまた消失した。倒れ込みそうになりながらも後藤は顔を上げた。涙で歪んだ視界に、階段が映った。

     無言で交わされていた鉄パイプとバールの闘争は、叫びと喚きの渦に取って代わろうとしていた。金属的だった破壊音も、肉と骨を痛打する重い音へと移り変わる。白い煙の彼方から、誰かの悲鳴が楽譜最後の和音めいて長く響いた。それでも二階まで離れてしまえば、遠い。
    「…厄日だ、今日は…」
     ひとしきり咳と呼吸を落ち着かせて、後藤は呻いた。縁起担ぎとは無縁ながら、人生最大の厄日と言わざるを得ない。外の様子は窓のシャッターでわからないが、もう街灯や電灯ばかりが輝く漆黒の夜だろう。それでもまだ深夜にはなっていない筈だ。あまりに長い一日だった。
     腹に抱えた封筒を、取り落とさないよう位置を改めてから、後藤は髪を掻き回した。何故こんな事に、など考えて時間を無駄にはできない。逃げ場所を探すのだ。非常用階段を下りれば非常口はあるだろうが、入り口のようにバリケードで固められている恐れが高い。そうなると矢張り窓だ。二階からなら最悪でも足首を痛めるくらいで済む。三階では危険だと、後藤は高校時代の同級生で知っていた。
     一階から二階まで、窓は鉄格子やシャッターが下ろされていた。しかしどこかひとつくらいは隙がないか。何せここは二十人以上が寝起きしているアジトだ。誰かひとりくらい、うっかりをやらかしているだろう。希望的観測に後藤は賭ける事にした。
     幸い二階廊下の天井照明は生きていた。後藤は廊下や部屋を片っ端から見て回った。どの部屋も寝台や、書きかけの立て看板、プラカードでいっぱいだった。灰皿の煙草がまだゆるく煙を上げている部屋もあった。だがどの部屋も窓は固く閉ざされて、唯一の例外は、子供ひとり通れそうな空気窓だけだった。
    「…参ったな。やっぱり三階か」
     廊下に出て後藤はぼやいた。多少の怪我は覚悟でやるしかないか。踵を折って動けなくなった同級生の姿が、後藤の脳内で昨日のように蘇る。顔をしかめつつ階段へ走ろうとした後藤の耳に、誰かが上ってくる足音が聞こえた。害虫駆除剤の白煙も薄れ、戦場が各階に移ろうとしているのか。
     咄嗟に後藤は間近な部屋へ入った。細くドアを開き、そっと廊下を見やる。片手にバール、白に党派名を書いたヘルメット。後藤は舌打ちしたくなった。攻め手側だ。アジト側でも危険だが、バールよりは鉄パイプの方が威力は低い。
     男は周囲を見渡しながら、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。後藤は部屋の中を見渡した。どうも立て看板の制作現場だったのか、アトリエさながらにそれとプラカードが居並んでいる。そしてペンキが入った箱の傍らに、錆を浮かべた鉄パイプが一本。思いがけない僥倖だ。後藤は剣道経験に初めて感謝を捧げたくなった。重さ硬さでバールに劣るが、経験が補ってくれると信じたい。
     音を立てないようにしながらも、あえて後藤は部屋のドアを全開にした。誘いだった。警戒して廊下を歩いている時よりも、誰もいないと思った直後の方が油断する。案の定、男は部屋に入ってきた。明かりを点けて室内を見渡している。
     後藤は横一列に並べた立て看板の裏に隠れながら、その様子を観察した。男の顔はガスマスクではなく、お決まりの白い布マスクに覆われている。誰もいないと見て取ったか、目元をほっと和らげると、そのまま彼は部屋から出て行った。ありがたい事に、ドアを広く開けたままだ。後藤は鉄パイプと共にその後を追った。
    「…!」
     足音のせいか、迫る気配のせいか。男が振り返り、マスクの奥でくぐもった低い声を上げた。奇襲としては失敗だ。振り下ろすにはまだ遠い。やはり今日は厄日だと思いながら、後藤は足を止め、鉄パイプを握り締めて男と対峙した。適当な雑巾を巻き付けたのは正解だった。向かい合っているだけで手のひらに汗が滲む。心臓も張り裂けそうだ。剣道試合でもここまで緊張した事はない。
     一方で男は軍手を嵌めていると言うのに、しきりにバールを構え直そうとしていた。頻繁に揺れる切っ先と、仲間を呼ぶ声も出さない様子に、後藤はふと眉を寄せた。半歩すり足で近付くと、「ヒッ」と短い悲鳴が上がる。バールの先も、男の膝も、小刻みに震えていた。顔面で唯一むき出しの目は半ば飛び出し、鉄パイプの動きに釘付けだ。ここまで来ると後藤も気付いた。
     怯えている。この男は、怯えているのだ。そう言えばあれだけ仲間がいるのに、二階にひとりでやって来たのも奇妙だった。もしかして一階での戦いに怖じ気付いたのか。他者をリンチして憚らない党派に所属し、武力闘争での革命を謳いながら、自らが参加する戦闘には怯え、個と個の暴力に身を竦ませる。後藤には驚きだった。愚かだ。無様だ。殺されても自業自得だ。
     しかしそう思い切ろうとしながらも、後藤は震える男を見ていられなかった。ここで男を倒しておかなければ、仲間を呼ばれて厄介だと分かっている。わかってはいるが、今にも取り落とされそうなバールが、後藤の手から力を失わせる。自分がそこまで男を怯えさせているという事が、苦い味を口の中へ広げていく。
     後藤は溜め息を吐いた。彼の頭上に鉄パイプを振り下ろす事は、もう出来そうになかった。
    「…なあ、あのさ」
     ゆっくりと後藤は口を開いた。男はびくりと肩を震わせた。とうとうバールが床に転がる。慌てて取り上げようとする彼の前で、後藤も鉄パイプを下ろした。ぎょっとした男に、後藤は首を振って言った。
    「止めようよ、こんなの。停戦しよう」
     恐慌状態に陥るかもしれないと思ったが、男は迷っているようだった。床のバールと、後藤の手の鉄パイプの、交互に視線を走らせている。後藤は一歩、また一歩と後ずさり、五歩分離れたところで鉄パイプを床に置いた。
    「ほら、これでお互い武装解除だ。俺はこのまま消えるよ。…階段の足場にね、掃除道具用のロッカーが置いてあるんだ。あんたが望むなら、事が終わるまで中に入ってりゃいい。意外と気付かれないぜ」
     男の強張っていた肩から、そうとわかるほどに力が抜ける。黙ってこちらを見つめる目に、先程までの恐怖はない。後藤が頷けば、相手も小さく頷き返す。後藤は細い糸のようなものが、自分と彼との間に掛かるのを覚えた。
    「あっ、おい! いたぞおっ! 残党だ!」
     だがその糸を、叫び声が断ち切った。学生たちが階段を駆け上がって来る。次から次へ増えるヘルメットの数は、山本たちの比ではない。後藤は一目散に逆方向へと走った。棒立ちの男を突き飛ばして横をすり抜ける。大袈裟に尻餅でもつけば不審がられまい。
     全速力を出しているのに、夢の中のように遅々として進まない気がする。焦るな、と後藤は自分に言い聞かせた。窓は駄目。あちらの階段も駄目。ならばこのまま非常用階段を駆け上がり、三階まで行く。そしてどこかの窓から飛び下りる。本当に逃亡ルートはそれだけかと、引っ掛かるものがあったが、考えを巡らせる余裕はない。
     閉まっている防火扉を見た時、後藤は膝から崩れ落ちそうになった。だが扉のノブは速やかに回り、ひとりで動かせた。後藤が防火扉の隙間から身を潜らせた時、白いヘルメットがもう何十個集っているかもわからなかった。扉を閉め、急いで鍵を回す。防火扉はかなりの厚さだ。これで少しは時間が稼げる。
    「何だ、今の音は?」
     一階から聞こえた声が後藤の目算を破る。既にそちらには攻め手が押し寄せていたのだ。ならば二階の防火扉など役にも立たない。再び後藤は走り出した。目指すは上だ。急がなければ追い付かれる。三階の防火扉が開けっ放しだったのは幸いだった。そのまま三階へ、
    「こっちだ!」
     突っ込んでいこうとした後藤を、活動家たちの叫びが出迎える。後藤は大急ぎで背中を向けた。もう防火扉を閉めている余裕もない。下からは追手が案の定、けたたましい音を立てて階段を駆け上がって来る。
    「くそ!」
     もつれそうな足を叱咤して、後藤は更に階段を上る。あの学生が座っていた段を二段飛びで踏み越える。もう逃げ道は選べない。階段は四階で行き止まりだ。後藤は四階へ駆け込み、急ぎ防火扉を閉じた。
     暗い廊下には一瞬静けさが広がり、まだ追手は来ていないように思えた。だが後藤の荒い呼吸が二度繰り返されるより早く、廊下の先にひとつふたつと、白ヘルメットが姿を見せ始める。無意識の内に獣のように唸りながら、後藤は髪を掻き回した。
     焦るな。考えろ。足だけ動かしていたらこのざまだ。とにかく考えろ。頭を動かせ!
     がちがちと鳴り始めた奥歯に指を噛ませ、後藤は記憶を引っ繰り返す。何か重要な事を忘れている気がする。何だ? 一階の入り口、カウンター、食堂、階段、踊り場、ロッカー、二階の集合室、三階の生理検査室、暗い隣室、四階の甲斐がいると言われた部屋、山本たちが…
     四階。甲斐のいた部屋。奴は逃げたと山本たちは言っていた。ずっと見張っていたにも関わらず逃げたと。四階から、階段を使わずにどうやって?

    ――窓からだよ。避難はしごが降りてた

     後藤は血の滲んだ指を口から離した。わっと叫びたかったが、今や白ヘルたちは廊下を埋め尽くすばかりの数で迫っている。後藤は掴み掛かって来たひとりを突き飛ばすと、すぐ近くの部屋に入った。正面の階段から見れば最奥、突き当たりの右側の部屋だ。ドアに鍵は掛けられたが、連中の数ならばもうドリルの必要はないだろう。ほんの一時しのぎに過ぎない。
     狭い部屋だった。テーブルと椅子がひとつ。その脇に本棚がふたつ。それだけだ。平時なら気になる本棚を無視し、後藤は大きな窓に飛び付いた。
     長方形のベランダの右端には、「避難はしご」と書かれた赤い箱がひとつ。その箱の中ではなく上に、避難はしごは丸めて置かれていた。後藤はそれを引っ手繰ると、ベランダに金具を取り付けた。固定を確かめてはしごを下ろせば、脱出ルートの完成である。
     正面入り口の方ではまだ騒ぎが聞こえるが、こちらは建物の裏側だ。下も敷地内の木で囲まれて、入り口からは距離がある。下りて裏手の塀を越える時間は十分にあるだろう。よし、と足を掛けようとしたところで、後藤は違和感に気付いた。
    「…え」
     はしごの先は、三階のベランダを少し越えた時点で止まっていた。
    「え、…ええ?」
     明らかに長さが足りない。改めて後藤ははしごを引っ張り上げた。伸び切っていないのかと思ったからだ。だがそうではない。いくら後藤が引っ張っても、目を凝らしても、はしごの長さは変わらなかった。再び下ろしても、矢張り三階のベランダ付近でぶらぶら揺れている。
    「えええええ!?」
     後藤の頭は真っ白になった。背後で重い音が響く。振り向けばドアが丸く膨らんでいる。再び迫る恐怖が後藤の呼吸を詰めさせた。
     甲斐はまさか三階まで下りて、そこから階段を使って逃げたのか。山本たちの数なら有効だろうが、今の相手の数では無理だ。しかし自分も賭けるしかないのか。それとも途中で地面へ飛び下りるか。後藤は心が決まらぬまま、まだ他に避難はしごがないのかと、赤い収納箱の蓋を開けた。空っぽだ。悪態と共に後藤は蓋を勢いよく閉じた。
     はしごへ向かいかけた後藤は指に、何かざらりとしたものを感じた。箱の蓋に付いていた土か砂だろう。無意識に服の裾で拭ってから、後藤は足を止めた。改めて箱の蓋に目をやり、次いでその上に足を掛けて、乗った。箱が動かないのを確かめ、壁の向こうへと身を乗り出す。建物の右側面に当たる部分だ。
     壁だけだろうと思っていたそこには、足場があった。正しくは、「安田医院」と外壁に縦に取り付けられた看板が。
     そして病院の隣、細長いビルに組まれた工事用の足場が、看板のすぐ横まで伸びていた。

    「くそ! はしごを伝って逃げたか!」
    「惜しいが仕方ない。運が良ければ下の同士が捕まえてくれるだろ」
    「他の部屋は? 残党がいないか、もう少し探して…」
     ベランダに集った者たちが、そんな会話を交わす。声が次第に遠ざかり、やがて消えていくのを確認すると、後藤はとうとう座り込んだ。鉄骨で組まれた足場の硬さが、服の生地越しに伝わってくる。それがなければ後藤は自分が今どこにどうしているのか、分からなくなりそうだった。
     避難はしごの箱に立ち、看板の上に移り、隣のビルの足場へと渡る。高所が余り得意ではない後藤には、多少勇気が要った。だが最も不安だった看板は、成人男性ひとりの重みにも耐えた。そこから足場まではほんのひと跨ぎだ。箱の蓋のざらつきは後藤の思い付き通り、その逃亡ルートを使った先人の、靴底に付いていた砂利か何かだったのだろう。
     我武者羅に動かしていた手足の感覚が失せている。恐怖から逃れるため、脳が一枚薄皮を張り巡らせたようだ。それを吹き払うように、後藤は詰めていた息を吐いた。深呼吸を続けていると、左手が微かに震え始める。先程噛み締めた指もじくりと痛い。後藤はおかしくなった。何て今更なのだろう。人間の頭と体はこんなにもちぐはぐだ。デカルトが二元論を唱えたのも少しわかる。
     微かな笑いをもぎ取るように、湿った風が吹いた。見上げた夜空はどうやら晴れだが、雲が無くなると同時に風も出てきたようだ。未だ早足の脈には心地良い。後藤はシャツのボタンをひとつ開けた。途端に腹のあたりで覚えた違和感が、自分が今夜こうして逃げ回る羽目になった原因を思い出させる。
    「…どうしたもんかな、これ」
     取り出した封筒は皺だらけになっていた。角も折れ、後藤の汗まで少し染みてしまっている。だが「甲斐洌輝」と書かれた宛名は、まだ黒々として健在だった。体育会部活連合と党派の交渉という、各方面の火種になりそうな存在ではある。だが今夜を振り返って後藤は眉尻を下げた。命懸けで逃げ回るほどの物ではなかった。
     剣道部なんてすぐ辞めてしまえばいい。辞めた後に柴田に悪評立てられようが構わない。健も幼馴染みとは言え大人なのだから、柴田が嫌がらせをしようが自分で解決するだろう。体育会と党派の対立などまるきり関わりが無いのだ。このまま封筒をここに置いて立ち去ればいい…
     そう囁く声を聞きながら、後藤は座り込んだまま足場を眺めた。ビルの上から下までみっしり組まれた足場には、簡易階段が取り付けられていた。周囲が静かになれば、これを使えば容易く地面まで下りられる。だが後藤の大きな目はつい、逆の方向へ動いていく。
     後藤は立ち上がった。万が一にも落ちないよう鉄骨を掴みながら、簡易階段へ足を掛け、上へ、上へと登り始めた。

     攻め手側の乗って来たトラックが、近隣と彼らを分かつ砦のように道を塞いでいる。周囲の建物に明かりは点いていたが、厄介を恐れてか通報の様子はない。家のひとつに入ってしまえば、普段と変わらぬ静かな夜が続いているのかもしれなかった。
     八階建ての屋上から見下ろせば、白いヘルメットがもそもそと蠢いている。敵も味方も同じ白ヘルだから、この距離からは区別も付かないが、戦闘自体は攻め手側の勝利でほぼ終了していた。あとは逃げ切れなかった人間の始末と、アジトから機密事項を運び出すばかりだ。別働隊の救援が難しい上に、警察が駆け付ける様子もない事から、多くは安心し切って談笑している。病院内の探索もあっという間に終わるだろう。
     彼らの笑い声を届けた風が、煙草の紫煙をも吹き飛ばす。階段で嗅いだものと同じ香りだ。香りと呼ぶには少々苦いそれに、屋上へと到着した後藤は顔をしかめた。煙草を咥えた背中が、こちらへと振り向く。
    「あんただろ、甲斐って」
     睨みながら言う後藤に、甲斐は――入り口で出会い、階段でも話したあの学生は、にやりと笑った。
    「よう。もっと早く気付くと思っていたぞ」
     全く悪びれない甲斐の言葉に、後藤は溜め息を吐きながら近寄った。「人が悪い」という由美の言葉が思い出される。全くもって同感だ。
    「気付くって、あんたの素性か、それとも避難はしごか? 俺は殺され掛けたんだぜ。あんたがさっさと名乗ってくれたら、こんな夜中まで追い回されずに済んだってのに」
    「だから非常階段で言っただろう、捨てるなり開けるなりしてしまえば良かったんだ」
    「そいつは問題のすり替えだよ。名乗らないあんたが悪い。そら、どうぞお受け取りください、だ」
     確かに意地を張ったのは自分だと思わなくもないが、後藤はそう言い切って封筒を突き出した。甲斐は片手で受け取ると、自分の名前が書かれた封筒を一瞥し「やっぱりな」と呟いた。さして興味のない様子に、つい後藤はいらいらと眉を寄せてしまった。
    「見ないのか、中」
    「うん? ああ。…それよりも、ちょっと見てみろ。面白い事になりそうだぞ」
     甲斐は屋上柵の向こうへと顎をしゃくった。下の光景ならば、どうせリンチが繰り広げられているだけだ。そう思いながらも後藤は甲斐に促され、渋々と見下ろした。
     停車中のトラックの周囲に、活動家たちがいる。ただ奇妙な事に、彼らはトラックに乗り込むでもなく、横一列に集い始めていた。まるで突撃に備えるようだと思った後藤の耳に、わああっと人の叫び声が届く。
    「…救援か? いや、」
     程なくして現れたのは、四、五十人の集団だった。後藤は目を凝らした。どういう訳か中のひとりは、後藤にも馴染みの防具を被っている。彼らは手に木刀だのバットだのを持って、次々と活動家たちに襲い掛かっていた。装備のちぐはぐさと言い、雑然とした動きと言い、どう見ても党派の戦闘部隊ではない。
     しかし勝利を得たところに突撃されて、党派側は動揺していた。じわじわ隊列は後退し、やがてトラックに乗り込み始める。撤退する気だ。病院内に留まっている仲間に伝える為か、トラックのクラクションが繰り返し鳴らされる。むしろその音に勢いを得たように、攻め手側はトラックを取り囲み、それぞれの獲物で殴り付け始めた。中から引っ張り出される者もいる。慌てふためいて病院から飛び出した白ヘルが、囲まれ各個撃破されていく。
     何度も殴り付けられたタイヤが、耐えかねたようにゆっくりと動き始める。残った連中は切り捨てる覚悟を決めたのだろう。強く吹かされたエンジンに、攻め手側が離れた隙を突き、トラックは走り始めた。それに追手と、置いて行かれた者が混在しながら縋り付き、殴り合い、走っていく…
     後藤は顔を上げた。甲斐はすぐ隣で悠然と煙草を吹かしながら、その風景を眺めていた。階段では大きく見えたが、こうして並ぶと背丈は後藤と大差なかった。
    「思ったより人数が来たな。良い勝負になって何よりだ」
    「どういう事だよ。あれ、うちの体育会だろ? 何でそれがこんな所に、…あんた、仕組んだんだな? どうやった?」
    「教えて欲しいか?」
     重ねられた問いに、後藤は苦虫を噛み潰した。甲斐が短く喉奥で笑い、煙草を柵に押し当てる。
    「頭を下げるのは御免だってツラだな。まず先に君の推理を披露して貰おうじゃないか、名探偵」
    「冗談じゃないよ、こんなに情報量に差があるってのに。推理の仕様がないだろ」
     後藤はそう言いながらも髪を掻き回し、甲斐へと体を向けた。ただでさえ翻弄されたのだ。尻尾巻いて降参するのは業腹だった。
    「…あんたと山本は対立してた、と言うかあっちはあんたを嫌ってた。西門の棟の交渉にも当然反対だ。体育会なんて実力行使で追い払えって考えだろうさ。俺もリンチされそうになったんだからな」
     剣道部の名前ひとつで激高した山本を思い出しつつ、後藤は言った。甲斐は黙って柵に背中を預けている。異論はないという態度だ。
    「お仲間がいない隙に、山本はあんたを排除しようと考えた。あんたも馬鹿じゃない、それくらい気付いてただろ。でも身を隠してやり過ごすだけじゃ、根本的解決にならない。同じ事の繰り返しだ、山本を取り除かない限りは」
     微かに甲斐の眉が動いた。否定ではないと取って、後藤は続ける。
    「身勝手にテロをやろうって連中だ。議論で大人しくなる訳がない。それに党派には指導部がいるんだろ? そいつらを納得させて、山本を完全に除外するには、内輪揉め以外に理由が必要だ。リーダーとして同士を率いたものの敵に敗北とか、そういう失態がな」
    「とは言え多勢に無勢だぞ」
     初めて甲斐が口を挟んで来た。後藤に反論しつつも、面白がっているような口ぶりだった。
    「敗北してアジトや機密情報を奪われるのは、確かに失態だ。だが山本よりもその点はむしろ、救援を出さなかった指導部が糾弾されるだろうな」
    「でも山本は単純に指揮を執った訳じゃない。襲撃を予想していたあんたを、問答無用で追い出してるんだ。同情の余地は減るよ」
     単純に、甲斐がアジトを追い出された直後に敵の襲撃があれば、彼が報復のため情報漏洩したのだと考える者もいるだろう。だが甲斐は近日中の襲撃と、一時撤退を主張していたのだ。そうなれば甲斐への疑いは減り、山本への批判は強まる。予測出来た筈だ、指導部に何も伝えなかった、と。
    「しかもこのアジトは窓際扱いなんだろ? 指導部が山本を庇うかは怪しいところだな。それに奴の失態はもうひとつある」
    「何だ?」
    「交渉相手からの使者を追い返した事さ。俺は逃げられたからいいけど、普通なら大怪我だぜ。そうなったら体育会も黙っちゃいない。四年前みたいな規模になるかは知らないが、追放運動のひとつくらい起こるだろうさ」
     言いながらも後藤はつい、詰問したくなった。流石に自分の身の関わる問題だからだ。
    「あんた、俺を袋叩きにさせるつもりで、アジトの中に入れたんだろう?」
     吸い殻がどこかへ飛んだ。甲斐は涼しい顔で無言を通している。肯定だと後藤は受け取った。この野郎と掴みかかってやりたい気もしたが、ここまで話を交わした相手に殴りかかるのは、いささか間が抜けている。後藤を暴力へとさらう波は、とっくの昔に失せていた。甲斐が口を開いたが、矢張り後藤の問いへの回答とは異なっていた。
    「順を追っていこう。まずメッセンジャーの理由だが、体育会の方も強硬派と交渉派で意見が割れていてな」
    「…まあ、一時的に組んでた烏合の衆だからな。そうもなる」
     体育会部活の数は二十以上。部長たちだけでも相当な数になる上に、各指導部も含めれば膨れ上がる。党派でさえも内ゲバを起こすのだ。柴田のような連中を相当数抱えておきながら、交渉に乗った事自体が希有だと後藤は思った。
    「強硬派たちは交渉そのものに反対だ。何もせずに明け渡すなど我慢ならんという訳さ。不満たらたら、跳ねっ返りどもはどこかでガス抜きを求めている。良くやったと拍手喝采でき、かつ深刻になり過ぎないもの。例えば果たし状なんかだな」
     後藤は絶句した。甲斐と体育会の交渉を聞いてから、果たし状など柴田の作ったでたらめか、勘違いだと考えていた。だがそれが真実そうだったと言うのか。
    「俺に直接渡したなら、大笑いして受け取って、それきりだ。強硬派は多少胸が空く。めでたし、めでたしだ」
    「まさか、それだけの為に…」
    「だがそこに山本が介入する」
     甲斐が封筒を掲げ、拳で軽くそれを突いた。後藤は口を閉じた。ここからが本題だ。
    「洒落の通じない連中だ。お前の言う通り、使者は袋叩きにされるだろうよ。強硬派は激怒する。体育会は分裂し、交渉もお流れだ。それが俺の狙いだとしよう。さて、お前はどう考える?」
     話を思い掛けない方向に振られ、後藤は眉を寄せた。ただ、それは後藤も考えていた事だった。西門の棟を巡る交渉が、甲斐には些事だと思う方が、納得いく組み立てが出来たからだ。後藤は口を開いた。
    「…そもそもあんなちっぽけで湿気臭い棟ひとつ、交渉を繰り返す価値はないからだ。体育会だって持て余してるから交渉に乗ってるんだろうよ。決裂しても山本の責任になるなら、そうしたって構わない」
    「半分当たりだ。利用価値の意味から言えば、まさにそうだ。だから交渉なんて悠長な真似をやれている訳でね。ただ、」
     甲斐は低く続けた。少しざらついた声が鉄のような響きを帯び始める。特に大声を出している訳ではない。だがこの声が聞こえ出せば、多数が会話をしている中でも、誰もがつい耳を傾けてしまうだろう。後藤も僅かに、背筋を伸ばし掛けた自分に気付いた。
    「シンボルとしての価値を見落としていないか? あの棟は小競り合いとは言え、一般学生たちが久々に党派へ一撃を食らわせた証なんだ。今はまだ体育会もテロへの恐怖で意見が割れているが、腹を決めればあそこは抵抗と勝利のシンボルになる。有効活用すれば追放運動が再度盛り上がるかもしれん」
    「それなら、余計におかしいじゃないか。何故そんな交渉を終わらせる真似をする? 残り半分の理由は何だ?」
    「あの棟は取り壊すと決まってるんだ」
     後藤は目を丸くした。対照的に甲斐は目を細める。
    「流石にこいつは初耳だったか。…我々の交渉の目的は返還じゃない、大学も含めた放棄交渉なのさ」
    「大学も?」
    「元々あの棟は、取り壊しとなったところを党派が占拠したんだ。大学側と党派の癒着は知っているな?」
     有名な話だ。後藤は頷いた。党派が大学に根付こうとした頃、他の新左翼や共産党の下部組織よりはましだと、当局は毒をもって毒を制する道を選んだ。以来それが伝統となっている。四年前の追放運動の渦中に行われた、党派に対するリコール投票も、大学当局により無効を宣言されていた。
    「当局としては占拠を大目に見てはいたが、固定資産税だの何だの厄介はある。さっさと取り壊したいのが本音さ。占拠者が体育会に変わったなら、逆にやりやすい。党派に比べりゃ従順な良い子揃いだ。ただ、連中にも面子がある」
    「まあ、そうだろうな。急に取り壊すから引き上げろって言われても、反発する奴はそれなりにいるよ」
     俺は嬉しいけど、と後藤は思いながら、脳裏に柴田の姿を浮かべた。きっと大騒ぎするに違いない。
    「しかも体育会が同意して離れたところで、すぐ党派に再占拠されては元も子もないからな。だから当局はこっそりと俺たち双方に頼んで来たんだよ。互いに合意の上で取り壊しに掛からせてくれ、とな」
     それで交渉に至れた訳だ。後藤は納得した。単純な所有権の交渉なら、体育会も反対派が多数だろう。だが大学当局に引き渡すなら、まだ顔が立つ。泊まり込みの負担や不満も手伝って、交渉派が主導権を握るのも無理はなかった。しかし、と後藤は話の始まりを思い出す。
    「でもあんた、その交渉決裂を狙っていたんだろ?」
    「党派が得たい物は何だと思う? 旧アジトの引き渡しを黙って見ていろと言われる訳だ、それで納得すると思うか?」
    「…西門の棟や、ここに代わるアジトだ。それも出来ればキャンパス内部に。それさえ手に入れられたら…ああ、そうか」
     後藤は呻いた。党派にとっての利点が西門の棟でないならば、話は全く変わってくるからだ。
    「あんたにとって真の交渉相手は体育会じゃない、大学側なんだな。新アジトの条件を大学側が飲めば、あとは体育会が引き渡しにごねようと、交渉が決裂しようと知った事じゃない。無視して新しいアジトに移っちまえば、それまでだ」
     新アジトに対して、以前のような強硬手段を体育会が取る事は困難だ。党派の人員数や暴力性もあるが、それ以上に、勝ち取った棟の後始末が悪過ぎた。得た物を手放せと言われれば、柴田のように反対はする。だが次の目標は新アジト相手だと言われれば、多くは思うだろう。「またこんな事が待っているなら、割に合わない」と。
    もっと早く気付くべきだったと、呻く後藤に甲斐が更に促す。
    「ただ、それだけでは積極的な理由にはならん。それ以外の利点はどうだ?」
     先程の会話を後藤は思い返した。使者が袋叩きにされれば、体育会は、特に強硬派は激怒する。更に甲斐はそれを何と表していたか。体育会の分裂だ。後藤は考えながら、独り言のように低い声で言った。
    「…使者がやられたら、強硬派は頑なになる。だが交渉派も味方の勝手で顔を潰されたんだ。アンチ党派には回るとしても、今後は部活同士の連合なんてお断りだ。盾役の体育会が分裂してちゃ、追放運動が起きても四年前と同じ一過性で終わる。棟をシンボルとして有効活用するなんて夢のまた夢。リーダーをテロったら、それでお仕舞いだ」
     甲斐は無言で後藤を見ていた。名探偵の推理で追い詰められた犯人のように? とんでもない。満点を取った生徒を見る教師の目だ。そんな甲斐よりも、彼にヒントを与えられなければ解けない己の方が、後藤には腹立たしかった。しかしもうこの際だ。疑問は全て解決しておこうと、後藤は言葉を重ねた。
    「それじゃあ次にいこう。体育会の救援は? あの数じゃ俺みたいな事情を知らない下っ端部員も動員されてるぜ。どうやって左翼嫌いを動かしたんだ?」
    「直接的に救援を求めた訳じゃないさ。素人に頼っちゃ活動家の面目丸潰れだ。最近この大学の近くで敵対党派がうろついている、襲撃してアジトを乗っ取るつもりかもしれない、と話しただけだ」
     確かに体育会は縄張り意識が強い。昔から存在している党派ならまだしも、新たな党派が大学近辺に芽を出そうとしては捨て置けないだろう。だがそんな噂ひとつであの人数が動くものか。首を傾げる後藤に甲斐は続けた。
    「それに柔道部の部長の弟が、先週そいつらに誤爆されたそうだからな。うちの構成員と間違えられて頭を殴られたらしい。気の毒な話だよ。敵討ちになったなら何よりだ」
    「おい、ちょっと」
     取って付けたような憐れみを述べる甲斐に、つい後藤は口を差し挟んだ。ここまで来たら疑いの念を持たざるを得ない。
    「それもあんたが襲わせたんだろ」
    「随分と人を疑ってくれるな?」
    「あのさあ、それが袋叩きにしようとしてた人間に言う台詞じゃないって、わかってる?」
    「無事にお前は逃げたじゃないか」
     余りにけろりと言う甲斐に、後藤は反発するのが面倒になった。この男に頭を下げさせるよりも、夏に雪を降らせる方が楽に違いない。それに謝られるよりも、気掛かりを開帳させる方が、ずっとすっきりするのは事実だった。自分への呆れも含めて頭を振る後藤に、甲斐は屋上の柵に手をついて言う。
    「正直に言うと、俺もこればかりは期待しちゃいなかった。まだまだだな。本命が失敗して、保険が成功するとは」
     本命とは、と問い返そうとして後藤は止めた。聞かなくても分かる。自分を山本たちに袋叩きにさせる事だ。後藤が逃れた以上、その策は使えない。
     代わりに甲斐が保険と称した、体育会の救援は動いた。強硬派はこの勝利で増長するだろう。彼らは交渉など必要ないと改めて主張し、交渉派たちと更に揉めるだろう。そして犠牲者が出ない分だけ、追放運動まで発展する可能性は低い。党派としては上々とすべきだ。敵も味方もひっくるめて、これだけの策を弄せる男はそういない。
     しかし甲斐はむしろ、大規模な騒乱を望んでいるように後藤には見えた。利点云々の推理ではなく直感だった。割れたガラスやシャッターの破片、何とも知れないものが点々と転がる路上を甲斐は眺めている。その鼻梁鋭い横顔には、祭りが終わった子供の侘しさが僅かながらも漂っているようだった。
    「…失敗の原因が言うのも何だけど、こんなに大掛かりに手を回したんだ。ひとつくらい思うようにいかない事もあるんじゃないの」
     つい慰めじみた事を後藤は口にしていた。今、後藤の存在に気付いたかのように、甲斐は目を瞬かせた。刹那の内に不敵な活動家の表情が戻ってくる。
    「大掛かり? この程度の事が?」
     骨っぽく甲斐は笑った。取り出された新しい煙草が、指揮棒のように宙を躍る。
    「たかが百人程度だぞ? こんな、大学ひとつも動かせない騒ぎはほんの一歩だ。国を揺るがすくらいでなければ、本当に大掛かりとは言えんさ」
    「そいつは、革命って事か」
     今更めいた事を後藤は聞いてしまった。新左翼の活動家にとって革命は自明の理ながら、今や本気で向かっている者はごく僅かだろう。革命を謳いながらも、取り組む事は党派の生存と、場当たり的なデモに過ぎない。だが甲斐は諦めているようには見えなかった。
    「勿論だ。今はちゃちな騒ぎひとつだが、いつか起こしてみせる。党派の連中がお題目に使うような代物じゃない、本当の革命をな」
     不遜極まりない甲斐の答えに、後藤は見惚れた。この男は違うのだ。行き止まりの袋小路から目を背け、大言壮語で自分をも惑わそうとする連中とは、違う。本気でこの国や世界を変えようとしている。
     まだ火を付けていない煙草を咥え、甲斐は目を細めていた。お前なら分かるだろう、と語り掛けられている気がした。頷きかけて後藤は我に返った。水に落ちた犬のように頭を振って、頭に残る言葉を追い出したくなった。ノンポリの自分からしてこれだ。かくも堂々と言ってのける甲斐に、「金魚の糞志望」が集うのもわかる気がする。そして傍流のアジトに追いやられている理由も。党派さえもせせら笑う男が間近にいては、指導部としては堪らないだろう。
    「ところでひとつ聞きたいんだが」
     マッチを擦る音がして、苦い香りが広がった。微かなオレンジ色の火が、甲斐の周囲をぼうっと照らす。周囲の民家は次第に明かりを消し、眼下にはインクにどっぷり浸したような夜が広がっていた。
    「俺が山本潰しに敵の白ヘルを招いた事は、気にならないのか? 仲間を売るのかと、いの一番に追求して来るかと思ったが」
    「ああ。だってそいつは分かり切った事だろ」
    「何故だ?」
    「何故って」
     後藤は口を閉じた。何も答えられなかったからではない。答え難かったからだ。誰かが聞けば「おかしな考え」を通り越して、糾弾されるに違いないからだ。後藤は刹那、いつものように言い紛らわせようかと思った。だが甲斐の鋭い目が射竦める。冷たい刃物を差し込むように、曖昧な倫理のカーテンをこじ開け、真っ直ぐに胸の内へ食い入ってくる。
    「…俺があんたなら、そうするからだ」
     それがひどく、心地良い。
    「こっちがひとりなら手段に構っちゃいられない。危機にあるなら尚更だ。使えるものは、敵であれ味方であれ、何でも使うさ」
     味方と口にした時、後藤は中津川を思い出した。長髪と眼鏡の事も。彼らはアジトに残っていた。甲斐の取り巻きではなく、山本を支持してもいなかった。彼らは今頃どうしているだろう。戦闘から無事に離脱出来ているか。怪我はしているだろうか。それとも路上に横たわり――
     後藤の眼前を白が覆った。軽い感触が額に当たる。あの封筒だ。脅かすなと撥ね除けようとして、後藤は甲斐の声に気付いた。笑っている。低く、虎が喉を鳴らすような、物騒な笑い声が、紙切れ一枚挟んだすぐ側で響いてくる。
    「矢張りお前は、おかしな奴だ」
     声には同類を見出した者の喜色が滲んで、体の芯を震わせた。それでも辛うじて上げられた反発の声は、十八年間そう言われ続けてきた人間の意地に等しかった。
    「おかしい、って、何が」
    「普通の奴が、アカのアジトに足を踏み入れるか? こんな所までやって来るか? 全てこいつのせいだと知って、怒りもそこそこに理由を知りたがるか? 知って大人しく矛を収めるか?」
     封筒が取り払われる。後藤の胸にそれを押し付けながら、甲斐は囁いた。
    「お前はおかしいよ。俺と同じだ」
     後藤はくらりとした。胸の封筒を抱えなければ、その場に崩れ落ちそうな気がした。勝手に同じにしないでくれという言葉が、喉元まで込み上げているのに、甲斐の目を見ている内に馬鹿馬鹿しくなっていく。
     こいつと俺とどう違う。まだ策も規模も及ばない。だが人間ひとり排除する事に、さして躊躇わないのは、自分も同じではないか。敵味方問わず何人もの死傷者を出して平然としているこの男に、自分は間違いなく惹かれている。
     愕然とする後藤の口に、不意に何かが突っ込まれた。煙草だった。生理検査室で貰ったそれよりも遙かに苦く、演技ではない本当の咳を後藤は漏らした。新しい煙草を咥えながら甲斐が笑う。先程よりはもう少し、人間らしい笑い方だった。
    「さて、これで推理はほぼ終わりだ。開けてみな。ここまで辿り着いたご褒美だ」
    「…わかったよ、くそ」
     滲んだ涙を拭って、後藤は半日ずっと持ち歩いていた封筒の上を切った。中に入っていたのは白い紙一枚。封筒と違って宛名どころか、何も書かれていない。まっさらな白紙だった。
    「こんな事だろうと思った」
     白紙を取り出して引っ繰り返しながら後藤はぼやいた。体育会からの果たし状と言うが、悪戯半分でやる事なら、わざわざ文面にする必要はない。メッセンジャーに口伝えするだけでいい。
     剣道部の誰かや強硬派が作って、柴田に押し付けたのだろう。押し付けた相手も、柴田が袋叩きにされるくらいは構わないと思っていたのかもしれない。他者を冷血と非難する裏で、自分自身も平然と冷酷な振る舞いをする。普通の人間とは随分と上等なものだ。後藤の溜め息は、重い紫煙と共に燻りながら消えていった。
    「炙り出し、って訳でもないか。自分たちの署名くらい残しとけばいいのに」
    「証拠は残したくなかったんだろう。臆病な連中だ」
    「…殴られるのは御免だけど、あんたの作戦通りにいったところ、ちょっと見たかったな」
     柴田も部長たちもどれだけ慌てふためくだろう。想像して薄く微笑む後藤の傍らを、同意のように苦い煙が流れていった。
    「お前はこれからどうする?」
    「そうだな、…少し雲隠れするかな。剣道部の部長たちも、俺に封筒押し付けた奴も、ちょっとは反省させたいし」
     柴田は嘘をつけない。先輩方にあの果たし状はどうしたと詰められれば、後藤に渡した事をきっと白状する。その後藤が姿を見せないとあれば、多少は肝を冷やすだろう。
    「事情を知ってる友人が正義漢でさ。俺が行方不明になれば、流石に黙っちゃいられないよ。まあちょっとは騒ぎになって、俺が顔を出す頃には、辞めやすくなるんじゃないかな」
    「辞めるのか?」
    「続ける訳ないだろ?」
    「何だ、体育会に通じる奴がいたら便利だと思ったのに」
    「こんな新入生をスパイ候補にしないでくれ。命が幾つあっても足りやしない」
    「お前も言っただろう、使えるものは何でも使うさ」
     平然とした甲斐の答えに、後藤は煙草を一気に灰にした。「冗談だ」と甲斐は言うが、きっと八割方本気だろう。そう思って煙草を投げ捨てた後藤に、彼は続けた。
    「どうせ実家暮らしだろう、新入生。雲隠れするならいい場所を知ってるぞ」
    「どこだよ。他のアジトは御免だぜ」
    「俺の家だ。アジトじゃない」
     ここからも割と近いぞ、と甲斐は言う。後藤には意外だった。彼くらいなら敵からも狙われやすい。襲撃を警戒してアジトに寝泊まりし、都外の実家にもおいそれと近寄れない党員がいるとも聞いた。甲斐も煙草を捨てて、眉をひそめる後藤に言う。
    「それとも過激派の隠れ家には近寄りたくないか?」
    「今更だよ、そんなの。…党員になれってオルグしないなら、お言葉に甘えさせて貰うけど」
    「する訳がないさ。最近は内ゲバばかりでつまらんぞ。代わりに、そうだな、今度立ち上げる研究会の下読みにでも付き合って貰うか」
    「下読み? 何の?」
    「アーレントの『全体主義の起源』」
     研究会という言葉に胡散臭さを感じていた後藤だったが、その本には黙らざるを得ない。甲斐がにやりとした。彼の目線を追っていけば、屋上の片隅に、鞄と本が三冊置いてある。
    「俺も大学へ入ってすぐ読んだが、改めて確かめておきたくてな。どうだ?」
    「願ったり叶ったり過ぎるな。お断りしたいくらいだよ。…お世話になります」
     後藤は頭を下げた。甲斐がよろしいとばかりに背中を叩いてくる。息が詰まりそうな強い力だった。単純に貸し借りするよりも、深みに嵌まっていくような気がしたが、もう遅い。それが嫌ならこんな所まで来ていなかった。あそこで立ち去っておけば、と思うタイミングは幾つもあって、後藤はそれら全てに目を瞑った。
     おかしいのだ、自分は。そしてもうひとり、ここにはおかしい男がいる。
    「でもいいの、こんな部外者を家まで入れちゃって。あんたの名前は知ってるけど、俺の方はまだ、自己紹介もしてないぜ」
    「ああ、そう言えばそうか。…お前こそ、本当に知っていると言えるかな?」
    「おいおい何だよ、それ。この期に及んで甲斐じゃないとか止めてくれよ」
     意地の悪い問いかけに後藤は憤慨した。そんな可能性さえも、この男からはぽろりと現れそうで恐ろしい。後藤は持っていたままの封筒の宛名を示した。
    「実存主義的な回答も無しだ。せいぜいこれはペンネームです、くらいにしといてくれ」
    「本名だが、この字が違う」
     甲斐は封筒の「洌」の字を指さした。
    「良く間違えられるが、さんずいじゃない、にすいだ。それで、甲斐冽輝」
     微かに寄せられた眉根は、どうやらこの男の苛立ちを表しているらしかった。そう言えば封筒を渡した時も、「やっぱりな」とか何とか言っていた。名前の字を間違えられるのは、甲斐にも腹の立つ事らしい。可愛い面もあるじゃないか、と後藤は思った。言われるまで下の名前の読みはさっぱり分からなかったが、その事は一生言わないでおこうと心に決めた。こちらも名乗ってやる。
    「俺は後藤喜一。字は前後の後に藤、喜ぶに、漢数字の一」
     一番の一、と言うのは子供臭くて嫌いだった。相手に比べて随分と単純な名前だと思わなくもなかったが、甲斐は頷くだけで特にコメントしなかった。
    「後藤君か」
    「君は止めろよ。俺もさんだの先輩呼びはしないから」
    「それもそうだな。一年同士、同輩でいくか」
    「…編入したって聞いたから学年はわかるけどさ、あんた、幾つ?」
     やや無精髭の生えた顎を甲斐は撫ぜる。三十過ぎてもまだ学生でいる活動家もいるが、彼の回答は意外だった。
    「二十一。お前は?」
    「嘘だろ。…十八」
    「未成年に煙草を勧めるのはまずかったかな?」
    「成人ぶるなよ。ちょっと前まであんたも未成年の癖に」
     後藤も年よりは上に見られる方だが、甲斐には負ける。たった三つ違いでこの貫禄か。それに加えてまだ自分は、剣道部を脅かすくらいが関の山だ。中学の時の全国テストで自分の上に、何人もの名前が連ねていたあの頃よりも、「負けた」という言葉が実感された。当時よりも清々しさを覚える完敗だった。
    「折角だ、研究会にも参加しろよ。当局との交渉ついでにな、小教室をひとつ使う話を付けたんだ」
    「小教室って確か、サークル活動に使えないんじゃなかったか?」
    「正式な許可は得たぞ。政治活動は行わない、党派の所属も、左も右もお構いなし。話すのは文学、芸術、政治に経済、何でもありの自由な集まりだ。参加者はただ、この国を変えたいと思ってさえいればいい」
    「…ちょっと聞くけどさ、それ、あんた以外に何人いるの」
    「ふたりはいるだろう。俺と、お前と。どうせお前も矛盾だらけのこの国を、はいそうですかと飲み込んで生きていける人間じゃない。違うか?」
     こんな事を言われては敵わない。苦笑しながらも後藤は、どうにも自分の心が浮き立つのを感じていた。
    「俺とお前と、ふたりでこの国を変えようって? まるで子供の秘密基地だな」
    「ひとりで俺はここまでやって来たんだ。ふたりいれば、いつか革命のひとつくらいは起こせるさ」
     後藤は自然に頷いていた。夢物語には思えない。昔から感じ、知識を得てからは肌身に迫る矛盾と閉塞感を、甲斐とならば根底からひっくり返せるような気がした。誰もが見て見ぬふりをして過ごしているものを、烈日の元に曝け出す時が来る。その時に後藤は、甲斐の隣にいたいと思った。彼に及ばず意のままに動かされる駒ではなく、同士として、同じ地平を見据えて立っていたいと。
    「…とりあえず今は補給だな。腹が減った」
     言われて後藤も空腹を実感した。握り飯ふたつはとっくの昔に消化されて、早く次を寄越せと胃が騒ぎ始めている。
    「何か食う物ある?」
    「ない。が、駅の近くにこの時間までやってる蕎麦屋があった」
    「渋いな。ま、いいか。行こう。…邪魔だな、これ」
     甲斐が鞄と本を拾い上げる。後藤は手の中の封筒と白紙を見下ろし、重ねて縦に引き裂いた。次いで横に、縦に、斜めに。何度目かの行程の間に、甲斐も手を伸ばして来た。ふたりは黙ってしばしの間、紙を裂く作業に没頭した。
     やがて吹く夜風に手を広げる。無数の細かな白い紙片はまるで、季節外れの雪のように舞った。
    高尾 Link Message Mute
    2022/11/19 20:57:27

    七十六年、梅雨

    パトレイバーの甲斐×後藤二次創作です。まだ×未満ですが今後その予定があります。
    大学時代に出会うふたりの話です。大体喜一くんのニューレフトワンダーランド大冒険です。色々なところがおかしいと思いますが目を瞑ってください。
    2022年6月に書き上げ、ぷらいべったーに載せてました。

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      高尾
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      高尾
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