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GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

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    Sol Invictus 夢を見た。
     どこかのホールだ。ドーム型の天井から黒い布が垂れ下がっている。刺繍された白い三つの星は見覚えがある。独立方針を決めた時にシンボルとして考え出されたものだ。だが、こんな布に付けられているのは初めて見た。
    長い布の裾は床に至り、白い房飾りが伸びている。いや、房飾りではなく花だ。白い薔薇の花が床に散らばっている。そして薔薇に囲まれて、白い棺が置かれていた。
     棺の蓋は閉じられている。近寄ろうとすると、夢の中のせいだろう、足の動きは緩慢だ。だが後ろから背中を押されるような、奇異な圧力も感じられた。靴の下で何かがぱきりと音を立て、見れば白い薔薇が粉々に砕けている。凍っていたのだ。薔薇に覆われた床もどうやら凍っているようだが、それよりも棺だと夢特有の義務感が促す。
     棺に近付くにつれて、空気は冷え、こぼれる呼吸が白い煙となって棚引いた。これ以上近寄るべきではない。だが何としてでも棺の中を確かめねばならない。相反するふたつの思いが体を運ぶ。棺の蓋には小さな窓が付いて、霜がびっしりと下りていた。内側は見て取れない。
     蓋へ伸ばした手は小刻みに震えていた。触れた棺は冷え切って、初めての衝撃が背骨に走り抜けるほどだった。手のひらが金具に張り付く。それでも、手が腐り落ちたとしても、見届けなければならない。中に何があるのか、検討もつかない筈なのに、漠然とした確信が心臓を打ち鳴らす。
     私は棺を開く。三つの星に見下ろされながら。
     空は晴れ。雲は多少あるが薄く、太陽や星の光を遮る程ではない。今日はいい日だ。普段は余り会えない相手に会えた。セイロン共和国本軍との戦争が始まれば、また更に忙しくなり、挨拶を交わす事も難しくなるに違いない。その前に多少なりとも話す時間が出来たと、満ち足りたヘリオスの歩みを、傍らの囁き声が邪魔をする。
    「いいんですか」
    「何がだよ」
     アマチは無言のまま、横目だけを向けてきた。少し前ならはっきり言えと脇腹を殴ってやるところだ。今はヘリオスも黙り、耐え難くなったアマチが口を開くまで、待つだけの余裕がある。
    「教えていないんでしょう、あの事」
    「俺の寿命の事か?」
    「寿命じゃありません。再生能力が通常の人間並みになるだけの事で…」
    「何度も言わせんなよアマチ、俺には分かるんだ。他人の体じゃねぇんだぞ。その時が来たら、絶対に俺は死ぬ」
     ヘリオスは言い放った。物理的な確証を得ていないアマチは不審げだが、何せ三百年付き合ってきた肉体である。ヘリオスは確信していた。
     どこが悪い、痛いといった事ではない。ただ、体内を巡る何かが、着実に弱ってきている。再生誘導体か、或いは星から魔力を受け取る器官か。ゼンマイ式のおもちゃに心があれば、停止していく時はきっとこんな感じがするだろう。
    「なら余計に、言わなくていいんですか」
     繰り返しアマチは言う。彼は促すように背後へと視線を向けるが、ヘリオスは前だけ向いていた。
     アマチの視線の先にはコサイタスがいる筈だ。ぼんやりと立ち尽くして、シバが袖引くまでそのままに違いない。彼は滅多に驚かないが、度肝を抜かれるとそうして微動だにしないのだ。散々驚かしてやったヘリオスはよく知っていた。そうなったコサイタスを、驚いただろう、凄いだろうと、揺さぶってやるのが好きだった。楽しい日々だった。
    「昔の仲間だと言っていたじゃありませんか。シャクター将軍のように多少でも知っているならともかく、寝耳に水になるでしょう。後々大変ですよ」
    「大丈夫だって。もう魔人のトップなんだぜ、あいつ。俺とも全然顔合わせねぇし」
     本当に久し振りの会話だった。研究や事務仕事でヘリオスは本部に籠もりがちだったが、コサイタスはあちこちに駆り出されている。ギョーマンのような交渉仕事は不向きでも、幹部が出なければ収まらない場はまだ多い。今日もどこかの町の陳情を聞くとかで、シバが時間に遅れるとやきもきしていた。すれ違う機会もなければ、食卓を囲む時間もない。
     あれでどうやって自分を殺す気だったのだろう。考え出すとヘリオスはおかしくなってくる。市外への出張なら隙はあるが、コサイタスばかりかシバも多忙で、上手く時間を合わせられないのではないか。そのせいで今まで実行に至らなかったとしたら、ふたりの不器用さにヘリオスは礼を言いたい。短くとも話す時間が出来た。
    「だから、いいんだよ」
     自分よりずっと立派になってくれたと話せた。敵を皆殺しにする役割を果たさずともいいのだと示せた。愛を伝えて、コサイタスを久々に驚かしてやった。それ以上に話す事など、何もない。
    「ま、弔辞くらいは読んでくれるだろ。それにちょっとショックを受ける方が、予算の維持には都合いいんじゃねぇか?」
    「それはそうですが…」
    「オスカーはケチだからな。無駄金使うなって削られそうになったら、あいつを頼れ」
    「…その時は頼らせて頂きますけど、愁嘆場は御免ですからね」
    「分かってるって。この体、ちゃんとお前にくれてやるよ」
     ぼやくアマチにヘリオスは言った。非道な人体実験の咎で拘束され、ジャングルで蟲の餌にされかけながらも、得体の知れない勧誘にアマチはすぐ頷こうとしなかった。口約束の金なら幾らでも高く積める。そう言う博士の度胸が気に入って、ヘリオスが差し出したのは自分自身だった。
    ──もし俺が死んだら、この体を好きにしていい
     ナイフで胸を割り、アマチの眼前に心臓を差し出しながら、ヘリオスはそう告げた。アマチは承諾した。頷いた拍子に口が心臓に触れて、彼の顔が吐きそうに歪んだ事を、ヘリオスはまだ覚えている。
    「ならいいですが、遺書のひとつも書いておいて下さいよ」
     死期近い不死者にそう言える図々しさも、ヘリオスは気に入っている。さも人情派のようにコサイタスを気にしてみせても、本音は不死者の遺体をかっ攫われたくないのだ。白衣一枚に包まれたエゴが、迫る死を抱える身には不思議と気楽だった。分かったと笑ってヘリオスは頷いてやる。
    「代わりにちゃんと有効活用しろよな。不死性の研究だけじゃなく、宇宙での生命維持、と、かっ」
     音もなく背後から忍び寄り、頭上を越えていった漆黒の球体が、ヘリオスの言葉を中断させた。ヘリオスの後頭部すれすれを飛んだそれは、天井を削り取って消滅する。モルタルの欠片が床にぱらぱら落ちた。当然ヘリオスは絶句したが、目を剥いているアマチの顔で我に返った。
    「…シバ! 急に何しやがる!」
     きっと自分もアマチと似た顔をしていたに違いない。一抹の気恥ずかしさを押し殺す為にも、ヘリオスは振り返って怒鳴り散らした。こんな声を上げるのもいつ以来だろう。しかしコサイタスと同行している小さな虚術使いは、廊下の彼方からヘリオスに負けぬ勢いで叫び返してくる。
    「あんたが悪いんだ!」
    「ああ!? 人を殺しかけといてその台詞かよ! ごめんなさいはどうし…」
    「うるさい! うるさいうるさい!」
     金切り声に遮られてヘリオスは鼻白んだ。あの可愛げのない、言い換えればしっかりしたシバが、まるで地団駄を踏む子供だ。子供は子供だが、そもそもコサイタスがこんな真似を許すのか──待て、コサイタスはどこだ?
     シバの横で小さくうずくまっているものを認め、ヘリオスは虚術を受けた時以上にぎょっとした。あの冴えない色は間違いない、コサイタスの背広だ。ヘリオスは無意識に一歩踏み出した。
    「…コサイタス? おい、どうした?」
    「あんたのせいだ!」
     天を指していた指先から、煌びやかな光が零れ出す。指が勢いよく振り抜かれれば、虚空への入り口が飛んでくる。幸いにカーブして壁を削るに留まったが、頭よりも大きなそれが直撃したら、もう自分の体は再生不可能だ。壁の破片を頬に受けながら、血の気が引くのをヘリオスは覚えた。腹の底がすっと冷えていく。膝が震え始める。中腰で自分と距離を取るアマチへ、よくまあ動けるものだと賞賛してやりたい。
    「何から何まで! あんたのせいだぞ!」
     だがシバの上に集っていく極彩色の破片を見て、ヘリオスは己の膝を殴り付けた。普段のシバならコントロールも効くが、どうやら望み薄だ。三つ目の球体はヘリオスをすっぽり包み込める大きさに膨れ上がっている。つまり黙って立っていれば、死ぬ。
     覚悟していたとは言え、こんな死に様は御免だ。床で微動だにしないコサイタスを見やり、ヘリオスは頬に苦笑を刻んだ。万を擁する組織のトップまで上り詰めた癖に、全く手を焼かせてくれる。
    「責任! 取れ! 馬鹿野郎ッ!!」
     泣きながら叫ぶシバの頭上で、三つ目の球体が完成する寸前、ヘリオスは駆け出した。視界の隅でアマチが頭を抱えてしゃがみ込む。下手に動くよりはその方がいいだろう。
     球体はシバの頭上から、天井を削り取りながら飛んだ。そこから高さを落として標的を呑み込もうとする軌道だ。つまり、前方へ移動してしまえば──
     ヘリオスは地を蹴った。体を一直線に伸ばして、球体と床との間に残された、僅かな隙間に滑り込む。床の汚れと溜まった埃がよく見えた。シャクターに掃除費用を節約するなと言わねばなるまい。しかしもしこれが最後の思考になったら嫌過ぎる。もっとまともな事を考えれば良かった。星やロケットの研究。超人機械。コサイタス。あのケチ。ハゲ。
     祈りと罵りの瞬間が過ぎ、黒い髪の毛が何本か床に散らばった。どれも短いから、シャクターのようにはならないだろう。ひと呼吸後に天井や壁の石材が崩れる音と、アマチの小さな悲鳴が響く。こちらも生きてはいるだろう。もうひと呼吸してから、ヘリオスは立ち上がった。埃で白っぽくなった背広を払い、乱れた襟を整えて、ふたりに近付いた。
     シバは本格的にしゃくり上げて、もう虚術の発動よりも自分の涙と涎を拭うのに忙しい。服の袖ではなく、ハンカチを使うあたりがコサイタスの薫陶だ。しかし既にぐしゃぐしゃになっている様に、ヘリオスは溜め息を吐いて、自分のハンカチを差し出した。
    「おら」
    「…う」
    「洗って返せよ」
    「うるさい…」
    「こっちの台詞だぜ、ちびっこ破壊神」
     新たなハンカチ越しにぼやく少年には苦笑を残して、ヘリオスは屈み込む。コサイタスは相変わらずの姿勢だった。床に膝をついてうずくまっている。まるで土下座でもしているようだと思いながら、ヘリオスはコサイタスの微かに震えている肩を叩いた。
    「おい、コサイタス。…おい。生きてるか?」
     いつか彼が倒れた時の事をヘリオスは思い出す。あの頃は人間の加減が分からず、コサイタスも体調には無頓着だったから、随分な無茶をさせたものだった。いくら呼んでも死んだように眠るコサイタスの寝顔に、彼は壊れてしまうのだと思い知らされた。
    しかしヘリオスの呼びかけに応じて、コサイタスはゆるゆると顔を上げる。半ば予想通りとは言え、初めて見る彼の表情にヘリオスは眉を寄せた。
     コサイタスは泣いていた。シバのようにしゃくり上げる事はしないものの、黄色い目から流れる涙は劣らぬどころか、勝る勢いだった。
    「…何で泣いてんだよ、お前」
     溜め息交じりに尋ねたヘリオスへ、すぐにコサイタスは返答しない。顎を伝い落ちた涙が、ぼたぼたと床に大きな水玉模様を作る。それでもコサイタスはいつだって、ヘリオスの問いには答えを出そうとする男だ。一秒後か、一日後か、一年後か知らないが。
    「お前、が」
     とりあえず生きている内には答えが出そうだ。ヘリオスは待った。遠慮がちな足音と、アマチの「ちょっと、こっちへ」という声が聞こえてくる。シバを医務室にでも連れて行くのだろう。背中で聞きながらヘリオスはほっとした。養い親の号泣など子供に見せたいものではない。コサイタスの発話も、シバが去ると心なしか滑らかになる。
    「お前が、あんな事を言って、私の話を、何も聞かないで、…どこかへ行こうとして」
    「詫びなんていらねぇよ」
    「…殺そうとしたのに、何故、そんな」
     ヘリオスは鼻で笑った。こちらを見返してくるコサイタスに、言わずもがなの事を言う躊躇いが浮かぶ。だがそれを伝えなければ、コサイタスは納得すまい。「あのな」とヘリオスは彼の肩を軽く叩いて、切り出した。
    「俺はな、死ぬんだよ。五ヶ月くらい先かな。再生能力が人間並みに落ちる」
     コサイタスの涙が止まった。流石に驚きの方が勝ったらしい。黙って俯いてしまった彼に、ヘリオスは小さく笑った。
    「だからお前の計画なんて、どうって事ねぇんだよ。悪いな」
    「…嫌だ」
     己の耳をヘリオスは疑った。コサイタスの拒否はもう珍しくない。しかし理由もなしに、嫌だと言ったのか。あのコサイタスが?
    「嫌だ。…そんなの、嫌だ。駄目だ」
    「駄目だって言っても、お前…」
    「嫌だ!」
     聞いた事もない大声でコサイタスはそう言う。コサイタスの手が腕を掴み、指先が骨まで届きそうなくらい強く食い込んでくる。黄色い目からはまた涙が噴き上がっていたが、悲嘆よりも激高の勢いでコサイタスは繰り返した。
    「嫌だ、嫌だ、嫌だ! 死なないでくれ!」
    「わ、分かったって! 駄々こねるんじゃねぇ! ったく、組織のトップ張ってる魔人が何て様だよ?」
    「そんなものどうでもいい!」
     ぼやくヘリオスを揺さぶってコサイタスは言う。叫び続けて息が切れたのか、喉がひゅっと鳴った。大きな耳の先が、雨を受けた草木のように萎れていく。
    「お前がいなくなるなんて、嫌だ」
    「…コサイタス」
    「何でもする。出来る事ならば、何でも。ゼロ旋風でも、封印でも、何でもする。だから、どうか」
     コサイタスの指先が食い込む腕に、ヘリオスは鋭い痛みを覚えた。
    「私を置いていかないでくれ…」
     掠れた声でコサイタスが呻く。語尾は涙に消えて、あとは丸められた背中が震えるばかりだった。
     ヘリオスはその背中に手を伸ばした。びくりとコサイタスが震え、腕に絡む指の力が益々強くなる。振り払われるとでも思ったのだろうか。まるでしがみつく子供だ。ヘリオスは苦笑を噛み殺す。善も悪も欲望も、子供の方がまだ知っている。そんな男を引っ張り回して、いらぬ世界を教えてしまった。
    「…しょうがねぇなぁ」
     シバは正しい。何から何まで自分のせいだと、思いながらヘリオスはコサイタスの背中を撫でた。指の力が少しだけ弱まる。思い切ってヘリオスは、手だけでなく腕を回し、コサイタスを抱き締めた。氷を飲んだようにぎくりと体が強張る。初めて肩を抱いた時もそうだったとヘリオスは思い出す。何度かの繰り返しの後、嫌かと問えば、長い思案の後に「嫌ではない」と返ってきた。恐らく今も嫌ではないだろう。
     腕から離れて、持て余しているようなコサイタスの手を、ヘリオスは引っ張った。自分の背中に回させると、ぎくしゃくと背広を掴む感覚がする。元の位置に戻ってきた耳に、ヘリオスは囁いた。
    「どこにも行かねぇよ」
     非科学的だ。一時しのぎだ。安心させる為のでまかせだ。裏付けになる理論も証拠も何もない。だが力一杯、抱擁と言うよりは体を締め返してくるコサイタスに、ヘリオスは微笑んだ。嘘なら三百年間の人生で山ほど吐いてきた。後は野となれ山となれだ。
    「あの…」
     躊躇いがちな声が響く。コサイタスを抱き締めたまま、ヘリオスは肩越しに振り返った。
     あたりは酷い有様だった。ぽっかりとえぐれた床と天井と壁と、散乱している石材の類と、それを引っ被ったらしい灰色頭のアマチと、真っ赤な目でこちらを睨んでいるシバと──
    「何でまだいるんだよお前ら!」
    思わず叫んだヘリオスに、アマチは粉だらけの頭を振った。
    「天井が落ちて埋まっちゃったんですよ、向こう側の通路。…いや私もお邪魔するのは恐縮なんですがね。そろそろ思い出した方がいいんじゃないですか?」
    「何を?」
    「お仕事。それぞれの。チャムへの出発時間、もう過ぎてますよ」
    「…ホテル・サリナでの陳情聞き取り、五分後っス」
     流石にコサイタスも顔を上げる気配がした。出発を遅らせられるヘリオスはともかく、コサイタスの方は絶望的だ。馬だろうと馬怪蟲だろうともう間に合わない。そしてまだ埋まっていない廊下の方からは、異変に気付いた者たちのざわめきが響いてくる。
     とりあえずヘリオスはコサイタスから腕を放した。一拍置いてからコサイタスも追随する。ただ彼の耳は再び元気を失い、顔も俯きがちだ。涙はもう落ち着いているが、瞼はひどく腫れている。心臓を直接掴まれたような苦しさに、ヘリオスは腹を決めた。
    「…アマチ、そっちのガキを頼んだぜ。あとここの被害は上手い事言って誤魔化しとけ。俺待ちの連中にもよろしくな」
    「頼み過ぎじゃないです?」
    「使えねぇ舌を引っこ抜かれる方がいいか?」
    「分かりました。頼まれましたよ」
     渋々アマチが頷くのを確認して、ヘリオスはコサイタスの手を掴んだ。引っ張れば、さして抗いもせずに付いてくる。彼を連れてあっちだこっちだと奔走していた太陽倶楽部時代のようで、ヘリオスの歩みも自然と当時のように大股になった。消火器やスコップを持って駆け付けてきた党員たちに、横柄な声も出るというものだ。
    「オラ、どけ! 見世物じゃねぇんだぞ!」

     オスカー・シャクター将軍は多忙を極めている。組織の基盤作りから各勢力との交渉、来るべき戦争への準備に、敵味方を飛び越えた投資。考え事は膨大だ。
     だからこそほんの僅かな休憩時間が重要だ。補佐官や秘書たちを下げさせて、執務室でひとり葉巻を燻らせる。その重要性を知る周囲は、余程の緊急事態でなければ、シャクターに用件を取り次ごうとしない。
    「うるせぇ! 俺が緊急って言ったら緊急なんだよ!」
     止める秘書を突き飛ばし、執務室の扉をヘリオスは蹴破った。窓辺に立って外を眺めていたシャクターは、眉を寄せて振り返る。
    「何だお前か、どうした? やけに騒がしいが」
    「ちょっとな。…コサイタス、そこにいろよ」
     ヘリオスは廊下にコサイタスを置き、ひとりで執務室に入った。右往左往する秘書や補佐官たちは、コサイタスがいる事で少し安心したのだろう。それ以上に邪魔をする気配はない。
    「一階の天井に穴が空いただけだ。そうだ、それよりオスカー、お前ちゃんと掃除業者に金払ってんのか? 床が埃だらけだったぜ!」
    「掃除より工事が先だな。で、どうした?」
    「仕事の件なんだけどよ」
     きい、と小さく扉が開いた。コサイタスが顔を覗かせている。ヘリオスが振り返り「後でな」と言うと、頷いて引っ込んだ。扉が閉まる。向き直ったシャクターは、不審げに首を傾げた。
    「…どうしたんだ、コサイタスの奴」
    「後で詳しく話す。色々あったんだよ。まずは俺のチャム出張だが、延期する」
    「分かった」
    「コサイタスの今日の仕事も、延期か取消か代行だ。明日もその方がいいかもな」
    「待て。何があった?」
     シャクターが身を乗り出す。ヘリオスが説明しようとすると、また扉が小さく鳴り、隙間からコサイタスが顔を出した。無言の視線に、手を振ってヘリオスは応じた。
    「大丈夫だ、もうちょっと待ってろよ。…それでな」
    「待て、待て待て! 何なんだお前らは!」
     再び扉を閉めたコサイタスに、シャクターが頭を抱えた。細かく聞かずに仕事をさばく有能な将軍の顔から、一気に素が覗ける。分刻みのスケジュールをこの際、棚上げする事に決めたらしい。
    「本当に何があった! そもそもコサイタスはホテルで陳情聞きの時間だろうが! 順を追って話せ!」
    「だから色々あったんだよ! 時間取らねぇように端的に説明してやろうって気遣いが分かんねぇのか、このハゲ!」
    「ヘリオス…」
    「お前はお前で待ってられんのかコサイタス!? もう入ってこい! 鬱陶しくて敵わん!」
    「しょうがねぇだろ! 俺が死ぬって聞いたばっかりなんだからよ!」
    「死ぬ?」
     葉巻が床に転がった。呆気に取られたシャクターを横目に、コサイタスに大丈夫だと言ってやりながら、ヘリオスは頷いた。そう言えば体調不良はシャクターに伝えていたが、余命宣告の話まではしていなかった。
    「再生能力をアマチに調べさせたんだよ。半年…五ヶ月くらいで人間並みになる。俺は死ぬ」
    「…常人並みになるだけだろう。あと三、四十年は生きられる。俺よりは長生きするぞ」
    「ないね。自分でも分かる。時間切れだ」
     ヘリオスは床の葉巻を拾ってやった。まだ煙を発しているそれを、シャクターは受け取り、灰皿で潰してしまった。
    「アマチがヤブだ、という線はどうだ?」
    「オスカー。あいつを見込んだのは俺だぜ?」
     胸を張って言うヘリオスに、シャクターはうっすらと灰色の溜め息を吐いた。発想でも戦闘でもないところでシャクターの不意を突けるとは、ヘリオスにも予想外だった。少々楽しいが、あまり嬉しくもない。
    「なるほどな。コサイタスが動揺もするか」
    「そうそう。自分で殺そうとしてたってのに号泣しやがって…」
    「殺そうとしてた!? あいつが!? お前を!?」
    「いや、自分じゃなくて、シバでだけど」
    「シバで!? 何を考えてるんだあいつは!」
     激高するシャクターの反応は真っ当極まりない。しかしヘリオスは鼻を鳴らしてしまった。
    「いいじゃねぇか。どうせお前だって次の戦闘じゃ、あのガキの虚術を利用するつもりなんだろ? 俺ひとり殺すのに使うくらい可愛いもんだぜ」
    「戦争と暗殺は大違いだ! …俺もモラルにこだわるつもりはないが、大義名分のひとつもなしに子供に手は汚させん。しかもお前は味方なんだぞ? あの馬鹿、そういう私利私欲はないと思っていたが…。そもそも何でお前を…さっぱり分からん!」
     見損なったと言わんばかりにシャクターが頭を振る。言われてみれば確かに、コサイタスの振る舞いは私利私欲の発露だ。組織の為ではない個人的な殺意にコサイタスは従ったのだから。欲望など存在しないと思われている氷の魔人の、立てた爪痕の名残が、ヘリオスの腕にちくりと痛みを走らせた。
    「…ヘリオス、何をにやついてる」
    「ん? そうか?」
     指摘された頬をヘリオスは指でこすってみせた。シャクターは胡乱げな視線を向けてきたが、深く問わずに肩を落とした。
    「いいだろう。お前の出張は延期。コサイタスの仕事も、とりあえず今日の分は何とかしよう。…ヘリオス、奴と俺とで通信会社との夕食会をする予定だったんだがな。お前が代わりに」
     扉が開く。コサイタスが顔を覗かせる。ヘリオスは彼を指しながら、シャクターに答えた。
    「出られると思うか?」
    「分かった! お前らふたりともさっさと帰っちまえ! シバは置いとけ、俺の家に連れて帰るからな!」
     シャクターの怒声に甘える事にして、ヘリオスはさっさと執務室を出て行った。コサイタスがすぐ近寄ってくる。目を離したらすぐ死んでしまうとでも思っているのだろうか。ヘリオスは笑って彼の腕を引いた。
    「聞こえたな? さっさと帰って、ピザでも取ろうぜ」
     本部を取り巻くようにして、シャクターは幹部たちに家をあてがっていた。一箇所に集中させないのは、万が一の時に全滅するのを恐れての事だ。シバの禁忌虚術級が相手ではその配慮も無に帰すだろうが、テロ対策には有効だ。
     ヘリオスの家もあるにはあったが、家というのはどうも性に合わない。家具だ何だと揃えてみたものの、結局放置して、点々と居場所を変えるようになった。「野良猫じゃあるまいし、緊急時の事も考えてみろ」と苦言を呈したのはギョーマンだ。「うるせぇな」と受け入れてからは、ヘリオスの居場所は本部の研究室が主である。ふたりで過ごすには不向きだ。
     コサイタスの家は以前ヘリオスが訪れた時と変わらず、極めてシンプルだった。どうにか「家庭の温かみがある」と呼べそうなのは、カーペットやクッションの暖色くらいだ。塵ひとつ落ちていない床。絵やメモが一枚も貼られていない壁。メイミョーの実験室の方が賑やかなのではないかと、ヘリオスはシバに尋ねたくなった。
     キッチンをヘリオスが荒らしても、コサイタスは何も言わなかった。随分と口数も意見も増えたと思っていたが、すっかり太陽倶楽部の昔に戻ってしまったらしい。自発性に乏しく、与えられた役目をこなす、鈍麻と紙一重の冷徹の魔人だ。ただ、コサイタスがそればかりの男ではないと、ヘリオスは知っている。視線は決して自分から逸れない。見えなくなる場所には移らない。コーヒーのマグを渡した時、触れた指はぴくりと震えた。
    「落ち着いたか?」
     ソファに並んで座りながら、ヘリオスは聞いた。コサイタスが頷いたのは数秒後だった。両手でマグを持っている様といい、二十歳過ぎの魔人が妙に幼く見える。ホットミルクでも良かったかもしれないとヘリオスは思いながら、自分のコーヒーを啜った。客人用のカップとソーサーがあったのは、この家では奇跡的だ。
    「正直びびったぜ。急に地面に転がって泣き出すんだからよ」
     返答も相槌もないのは太陽倶楽部時代で慣れている。それでも話を聞く誰かがいるのは、夏の真昼に木陰があるようなものだ。ひとりで過ごした三百年間の大半をヘリオスは忘れているが、コサイタスと出会っての一年間で身に沁みて感じていた。話しかけてくる誰かがいる事も、この男は同様に感じているだろうか。
    「俺も、まあ、遺言めいた事を言っちまったけど、何かあったか?」
     窓の向こうでは太陽が傾き始め、リビングをぼんやりとした黄色の光で染めている。ふうっと吹いたコーヒーの湯気が、差し込む西日と絡んで溶けた。
    「夢を見た」
     砂糖を入れようかとヘリオスが悩み出した時、コサイタスが口を開いた。号泣の残滓でざらついた声で紡がれた言葉に、ヘリオスは首を傾げた。
    「珍しいな。お前、夢なんて全然見ねぇタイプだったろ」
    「前日にメルクルの葬儀に参列したから、そのせいだろう。葬儀の夢だ」
     ヘリオスも知っている相手だった。元魔人ギャングの会計係だ。複雑な計算が得意だから、一緒に帳簿を突き合わせた事が何度もあった。とは言えヘリオスが裏方に回り始めてすぐに、別の町の行政を任せられ、最近はほとんど会っていなかった。数日前に病死したと聞いている。二十九歳。無理もない年だったと。
    「恐らく、どこかのホールだ。戴天党の弔旗と、白い薔薇が飾られて、棺が置かれている。棺の蓋を開けると、中には…」
    「俺がいる?」
     途切れそうになったコサイタスの言葉を、ヘリオスは繋いだ。神妙な頷きが返ってくる。どうせ遠からぬ未来だとヘリオスは笑いたくなったが、再びコサイタスが何かを言おうとする様子に、口を閉じた。
    「お前を殺す以外に、考えていた方法がある」
     コーヒーの黒い水面へと視線を注ぎながら、コサイタスは穏やかならぬ事を呟き始めた。
    「どこかに閉じ込めるのはどうだろうか、と。誰にも会わなければ、お前はずっと、変わらないのではないかと思った」
     分厚い壁に、頑丈な扉と鍵。脱出の為に死なないような、身動きが取れるぎりぎりの狭さ。淡々とコサイタスの語る部屋は実に快適そうで、ヘリオスはつい眉を歪めてしまう。
    「窓はひとつだけ開ける。星が見える方向に。ここも逃げられないように、頭が通らない程度の大きさにする」
    「そうかよ。…そうか、棺だな」
     物騒な建築士の言いたい事に、ヘリオスは気付いた。部屋の特徴を集めれば、まさに棺そのものだ。苦笑代わりに、コーヒーの湯気をふっと吹く。
    「殺すのと合わせて実現してるのを見られたって訳か。で、俺の死体を見て、どうだったよ?」
    「何も感じなかった」
     素っ気ない答えだった。お前らしいと返し掛けて、ヘリオスは止めた。コサイタスの骨張った指が、マグを強く握り締めている。
    「喜ばしくもなければ、悲しくもない。何も感じなかった。真っ暗な何かに、全てが吸い込まれていくようだった」
     波打ち始めたコーヒーが、マグの縁を越えてコサイタスの指を濡らす。常人なら反射的に撥ね除ける熱さも、冷徹の魔人にはどうと言う事もない。全ての熱をコサイタスは奪う。自分自身の感情さえも、彼の氷地獄にはただの熱源に過ぎない。
    ヘリオスは手を伸ばし、コサイタスの手からマグを奪った。テーブルに置く小さな音を合図のように、コサイタスは言った。
    「私はこんな事を本当に望んでいたのか、分からなくなった」
    「今はもう分かってるよな」
     自分のカップもテーブルに置いて、ヘリオスは言った。コサイタスが視線を上げる。力の籠もった眉間を、ヘリオスは指で軽く小突いてみせた。
    「自分で言ったじゃねぇか、置いていかないでくれって」
    「…そうだ」
     コサイタスが肯定した途端、目の端から透明な涙が膨れ上がり、たちまち頬を滑っていく。どうやらまた涙のスイッチが入ってしまったらしい。
    「私は何も変われないのに、お前はどんどん変わっていく。それが恐ろしかった。…今も恐ろしい。本当に、死んでしまうのだろう?」
     正直に話しながらもまだ涙の止まらないコサイタスを、ヘリオスは笑い飛ばした。
    「まだ泣くのかよ。俺より先に脱水で死んじまうぞ、お前? アマチもいるんだ。半年ありゃ原因探すなり、星への手段を探すなりして…」
     じっと見つめてくる黄色い目に、ヘリオスは黙り込んだ。ハンカチの代わりに手のひらを伸ばし、濡れた頬をぐいと拭ってやる。冷徹の魔人らしからぬ温かさだ。いっそ吹きすさぶ氷の嵐に生まれれば、この男はここまで苦しむ事もなかったろう。そして自分も相棒にしようと思わず、今もどこかでひとり蟷螂の斧を天へと振り上げていただろう。
    「…嘘だ、嘘、嘘。そうだ、俺は死ぬ」
     コサイタスが小さく息を呑む。また彼が泣き叫ぶ前にと、ヘリオスは急いで続けた。
    「でも俺だって死にたくねぇからな。アマチに言われてからずっと考えたぜ、死なない方法。馬鹿らしいが一番効きそうなやつがある。聞くか?」
    「聞かせてくれ」
    「お前を殺す」
    ──仮にお前が不死身でも、続けるなら命以外の全てを失う
     シャクターは上手い事を言ったものだ。彼の言う通りになった。ならば他の全てを失えば、命だけは得られるのではないか? 死への恐怖が鉤爪を立てている時は、言葉遊びのような思考でさえも一抹の希望に変わる。
    「お前を殺して、何もかも捨てて、ここを離れる。尻尾巻いて逃げるんだよ。結構真剣に考えたんだぜ? そうやってひとりになったら、俺はまた昔みたいに戻れるんじゃねぇか、ってな」
     昔と言いながらも、色鮮やかなのはコサイタスと出会ってからの事ばかりだ。だからこそ死の恐怖に包まれる夜は聞こえてくる。それを手放せば生かしてやろうと囁く声が。自分以外の生き物など全て同じに過ぎないと嘯く、傲岸な不死者の声が。
     予定を調べた。周囲を調べた。日課の動き。シバとの訓練。大掛かりな虚術や廃術に似合わない、たったひとりを消滅させる為の下準備。すぐに気付いた。シバの目から漂う敵意と殺意は、死を実感した身には容易く感じ取れる。笑ってしまった。こんなところまで似たもの同士だとは。
     ぽかんとこちらを見返しているコサイタスに、いつか降伏した日の彼が重なった。あの時も、今も、自分の選択は間違っていない。ヘリオスは言った。
    「でも止めた! 考えるのも二度と御免だ。なぁコサイタス。俺たち本当、気が合うよな」
     コサイタスは黙っている。何を言うべきか必死で頭を動かしているだろう男の手を、ヘリオスは握った。
    「残り時間はあと五ヶ月ちょっとだ。それでも俺の側にいたいか?」
    「…いたい」
     手が強く握り返される。爪が食い込み、骨が軋む。微かにヘリオスは眉をひそめ、痛みを味わった。感じなかった筈のそれが今は愛おしい。痛みを与えてくる、力加減を知らない男と同様に。コサイタスはそのまま低い声で言い切った。
    「お前の側にいたい。昔のように、昔よりも、ずっと側にいたい」
    「急に老けてジジイになるかもな」
    「構わない」
    「内臓がどんどん腐っちまうかも」
    「それでも構わない」
    「知らねぇぞ、どうなっても」
    「どう変わっても、お前の全てを見ていたい」
     もうコサイタスは泣いていなかった。西日が黄色い目に差し込んで、まるで夕陽のように燃えて見えた。やがて訪れる夜へと抗う束の間の輝きは、三百年間で見たどの太陽よりも強くヘリオスの脳裏に焼き付いた。例え片端から記憶が失せていく脳細胞であろうとも、こればかりは決して忘れまい。
    「…あーあ」
     ヘリオスはコサイタスの額に、ごつんと自分の額をぶつけた。瞬きながらも遠ざかろうとしないコサイタスの目には、出会った頃よりもひとつふたつ黒い斑点が増えている。二十歳を過ぎた彼にも、長い時間は残されていない。不意に目の奥に何かが込み上げてきて、やり過ごす為にヘリオスは睫毛を伏せた。
    「泣いて、縋って、こうなるか。すっかり人間になっちまったな、俺たち…」
     ぼやきを肯定も否定もせずに、コサイタスはヘリオスの手を握り続けている。コーヒーはとうに冷めて、柔らかい斜陽が、身を寄せ合うふたりへ静かに降り注いでいた。

    「じゃあな、おやすみ。七時より前には起こすなよ」
     宣言通り夕食にはピザを食べ、誰彼から贈られたワインを一本開けた。太陽倶楽部時代の仲間について話している内に、コサイタスがいつも寝るという時間に達した。子供のシバに合わせているのだろう。ヘリオスには早過ぎる時間だったが、諸々の疲れが文句をひとつ言うに留めた。
     子供部屋に寝かせられるのは御免だとヘリオスが主張すると、コサイタスはあっさり自室を明け渡した。ベッドに書き物用の机と、小さな本棚。新兵の寮と変わらぬ簡素な部屋だ。軍属時代と異なるのはクローゼットの背広の数くらいだろう。そのクローゼットを開けて検分するヘリオスにも文句ひとつ言わず、廊下からパジャマ姿で眺めている。
    「足りない物は」
    「ねぇよ。メシも食って酒も飲んで、十分だ」
     早々と下着一枚になりながらヘリオスは言った。全裸でも良かったが、他人のベッドでは少々気が引ける。もっともコサイタスは気にしないだろう。瞼の腫れた顔を頷かせ、ドアを閉めた。
     電気を消してヘリオスはベッドに潜り込んだ。たまに寝る研究室の実験台に比べれば、どんなベッドも快適だ。このところすっかり慣れ親しんでしまった睡魔に、あっさりヘリオスは身を委ねた。
     坂道を下るように遠退いていった意識が、戻ってきたのは小さな音のせいだった。ドアノブが回る。静かに開けたのが誰かは、目を開けずとも明白だ。しばしの沈黙の後に、ドアが閉じられ、廊下を歩いていく足音が小さく響く。やがて再び眠気が訪れた頃に、ドアが開かれ、閉じられ、廊下を去っていく。そして…
     四度目にドアを開けたコサイタスは、眼前で仁王立ちしているヘリオスに目を見開いた。
    「…起こしてしまったか」
    「眠れる訳ねぇだろ! 五分おきだぞ、五分!」
    「すまない」
     俯いたコサイタスにヘリオスは顔をしかめる。幾ら口で側にいると誓っても、姿が見えないと落ち着かないのは昼間と同様らしい。二年前にシバを庇った時は反抗期だと思ったものが、今は退行して後追い期だ。野暮ったいパジャマ姿の中年が、どうにも小さく見えてしまう。
    「…しょうがねぇな」
     二歳の人間も、二十歳を過ぎた魔人も、三百歳を超えた不死者には似たり寄ったりだ。そう思う事にしたヘリオスは、コサイタスの腕を引っ張った。突き飛ばすようにしてベッドの中へ入れて、その傍らへ横たわる。
     シングルベッドに男ふたり。横向きにならなければ体がはみ出る窮屈さだ。閉口しながらヘリオスは布団をあちこちへと引っ張る。目を瞬かせているコサイタスに、「何だよ」と尖った声も出るというものだ。
    「これならわざわざ確認する必要もねぇだろ。明日は仕事なんだからな、狭いのは諦めてさっさと寝ろ」
    「しかし」
    「いいから、寝ろ、ほら」
     まだ身を起こそうとするコサイタスの体に、ヘリオスは問答無用で腕を回した。強く力を込めたのは拘束のつもりだったが、棒のようになっていたコサイタスから力が抜けていくと、何やら寝かしつけじみてきた。赤らんだ瞼がゆるゆる下りてくる。
    「ちゃんと寝てたのかよ、お前」
    「それは」
    「答えなくていいって、寝ろ。いつかみたいにぶっ倒れるなよ」
     腕にぎゅっと力を込めて、ヘリオスはコサイタスの答えを封じた。硬い髪を掻き回してやると、本格的にコサイタスは口も目も閉ざし始める。ヘリオスは苦笑した。冷徹の魔人が今日は実に子供めいている。思わずヘリオスは、コサイタスの頭に唇を落としてやった。
    「そう、いい子、いい子」
     からかい半分の言葉を受けて、コサイタスは相槌めいた短い呻きをひとつこぼす。規則正しい呼吸が、何度か繰り返された後、深いものへと変わっていく。ヘリオスは回した腕を戻そうか一瞬考えたが、動かすより早く睡魔に襲われた。
     次にヘリオスがうっすら目を開くと、部屋はまだインクのような闇が漂う深更だった。ふくらはぎの辺りに硬い感触がする。ヘリオスは軽く身をよじって、自分の足がコサイタスに乗り上げていると悟った。腕も変わらずコサイタスの背中にあるから、彼にしがみついているような格好だ。三百年生きて寝相の悪さに気付くのは初めてだ。寝ぼけ眼で自嘲して、ヘリオスは足をそっとどけてやった。
     コサイタスが名前を呼んだような気がしたが、ヘリオスはもう目を閉じてしまっていた。言葉で応じる代わりに、背中をぽんぽんと叩いてやる。ふうっと吐き出された細い息からして、また寝付いたらしい。ヘリオスも口元を緩め、再び眠りについた。

     朝食は当然のようにコサイタスが作った。ソーセージやサラダの皿が次々に置かれていく様に、ヘリオスは溜め息を吐く。
    「お前も忘れる事があるんだなぁ。俺は朝メシなんてほとんど食わねぇぞ」
    「覚えている。だが栄養は取った方がいい」
     焼けたトースト二枚を皿に乗せ、コサイタスは言う。料理の手順も、皿をテーブルへ移す様も滑らかなものだ。軍属時代の仕事よりも、日々の繰り返しがなせる技だろう。置かれたジャムの瓶は半分が空で、何枚かの皿はひと回り小さい。ここにはいない子供の存在を強く感じながら、ヘリオスは山盛り一杯のジャムをトーストに塗った。
    「…苺じゃなくて苺怪蟲のジャムじゃねぇか! 先に言えって! これお前が食えよな!」
     チャムへの出張を取り止めたヘリオスに、今日の予定はあってなきが如しだ。コサイタスを連れてシャクターと会い、昨日彼に押し付けた仕事やシバについて共有すれば済む。その後で研究室へ寄って、アマチの機嫌のひとつも取ってやろう。もっとも全て、コサイタスが離してくれるならばの話だが。
     ふたり連れ立って赴いたシャクターの執務室は、入る前から慌ただしい様子だった。報告書を片手に足早に出入りするのは、秘書よりも幹部兵士の姿が目立つ。そもそも扉が開きっ放しなのも珍しい。
    「おい、オスカー。話せるか?」
     足ではなく手で扉をノックしながら、ヘリオスは執務室を覗き込む。ソファから立ち上がったシバが、ヘリオスを認めてぎゅっと唇を噛んだ。しかし睨んでくる目元の赤さに、思わずヘリオスは笑ってしまった。
    「お前ら本物の親子かよ! 見てみろよコサイタス、あいつの目! お前とそっくりだぜ!」
     ヘリオスの後ろから顔を覗かせたコサイタスも、同じく赤く腫れた目をしている。シバは途端に目線をさ迷わせ、背中を向けてしまった。こっちを向けよと肩に手を掛けようとしたヘリオスを、何やら副官に伝え終えたシャクターが止める。
    「子供をからかうなヘリオス。…コサイタスもいるな、聞け」
    「何だよ」
    「チャムの町で爆発テロが起きた」
    「どこだそれ。…チャムだぁ?」
     副官を去らせてシャクターが頷く。彼に指で促されるまま、複数の視線が壁の地図に集う。火の点いていない葉巻の先が、チャムの位置をつついてみせた。
    「建物ひとつが崩れる程度だったらしいが、ヘリオス、お前が行く予定だった場所だ。命拾いしたな」
     肩越しにヘリオスはコサイタスを振り返った。少し目を見張っている様子からして、相当に驚いたらしい。それはそうだ。コサイタスが泣いて引き留めなければ、今頃自分は瓦礫の下から引きずり出されていただろう。
     視線に気付いたコサイタスが、ヘリオスの頭から爪先まで見下ろしていく。存在を確かめていくような目線に、小さくヘリオスは肩を震わせた。
    「それでどうも他の町でも、似たり寄ったりのテロが起きたらしくてな」
     シャクターの葉巻の先がそのまま、チャムから北へ、北から東へと弧を描いて移動する。こちらの境界線を狙うような軌道に、ヘリオスは眉を吊り上げた。
    「どこもうちの勢力圏だろ。ただ事じゃねぇな。被害は?」
    「報告待ちだ。だが恐らく立地的に発電網狙いだな。セイロンの連中、堪忍袋の緒が切れたらしい」
     葉巻を口に咥え、シャクターはにやりと笑う。予想通りの展開ではあった。未承認ながらもセイロン共和国を名乗り、好き勝手にやってきた進駐軍である。お蔭で拡大を続け、本国にも見過ごせない勢力となってきた。承認する代わりに一旦指揮権を返上せよ、正式に指揮下に入れと、既に再三「命令」が発せられている。のらりくらりとシャクターはかわしていたが、開戦は元から秒読みだった。
    「いよいよだぞ。戴天党の旗揚げ開始だ。ギョーマンが出張から戻り次第、決起式をやって出陣だ」
    「予定通りだな。で、総裁は誰に任せる?」
    「今更聞くか?」
     地図からコサイタスへと、三人分の視線が注がれる。それでもコサイタスはいつも通り平然たるものだ。頼もしいと言えるだろう。瞼の腫れさえなければ。呆れ混じりの声でシャクターは続けた。
    「…そういう訳でな。このクソが付くほど肝心な時期に、修羅場を繰り広げられちゃ困るんだ。分かったなヘリオス?」
    「何で俺にだけ言うんだよ」
    「お前以外に俺の話を聞く奴がいるか?」
     ヘリオスは口を閉ざし、揃って泣き腫らした顔をしているコサイタスとシバを見やった。後者は少々不本意げな顔をしていたが、神妙にヘリオスはシャクターへと頷いた。
    「そうだな。俺が大人で良かったな、オスカー?」
    「全くだ、三百歳児め」
    「何だよ。ギョーマンみたいな事言いやがる」
    「あのな、ヘリオス。教えてやろう。大人ってのはな、自分の体について、仕事が絡む時は誰かに正確に伝えとくもんだ。医者以外の誰かにな」
     シャクターの葉巻を咥えた口は笑っているものの、眉間には深い皺が刻まれている。ヘリオスは知らぬ顔で横を向いた。見栄坊なのはお互い様ではないか。
    「お前だって余命が分かっても、ギョーマンには伝えねぇ癖に」
    「あいつに言わん時は誰にも言わん。言う時はお前ら全員に言う」
     肩を竦めたヘリオスは、背広を何かに引っ張られている事に気付いた。案の定コサイタスが、沈痛な面持ちで上着の裾を握り締めている。
    「コサイタス、だから何も今すぐは死なねぇって…」
    「…とりあえず、お前はしばらく総裁の精神安定係だな。落ち着くまで他の仕事はさせんぞ」
    「おい!」
    「開発方面はアマチに任せちまうからな。しっかり励めよ」
    「ふざけんなてめえ! 子供のお守りじゃねぇんだぞ!?」
    「シバ、お前はどうする? 今日から帰るか?」
     むげにコサイタスを振り払い切れないヘリオスは、シバについ期待の眼差しを向けた。伊達に二年間、コサイタスと同居していないのだ。彼が帰って来れば、多少はコサイタスも子供の目を気にして、もう少し大人らしく振る舞う時間が増えるだろう。
     しかし小柄な少年は、養い親に負けず劣らず沈痛な顔を横に振った。
    「嫌っス。もう少し、将軍の家に置いといてもらっちゃダメっスか?」
    「おいシバ! 一人前に家出してんじゃねぇ! オスカーの家なんて止めとけよ、どうせ女の連れ込み宿だろ!」
    「…うちだって、似たようなもんじゃないっスか」
     冷ややかな横目を向けてきたシバに、ヘリオスよりもコサイタスの方が衝撃を受けた。未だにヘリオスの背広を掴んでいた手がぱっと離れる。思わずヘリオスはよろめいた。
    「シバ。そんな言い方は良くないぞ。謝りなさ…」
    「ダメっスか、将軍」
     いかにも父親らしく指摘するコサイタスを、無視してシバはシャクターへ言い募る。コサイタスは絶句した。これは本物の反抗期だ。あの従順なシバにもこんな時期が来るとは。これは見物だ。思わずヘリオスは目を輝かせた。
    「まあ、ダメじゃないが…お前も聞いたな? 構ってやれる時間はないぞ」
    「大丈夫っス。それに、作戦はちゃんと遂行します」
     困った顔をしたシャクターに、頬を紅潮させながらシバは言う。虚術の活用、即ちシバの参戦は、彼がコサイタスに拾われた時から考えられていた事だ。本国との大々的な開戦が初陣になると、とっくの昔にシバは覚悟を決めている。少年の必死さに折れたように、シャクターは顎を引いた。
    「分かった。おい、しばらく預かるぞ」
     一応最後の言葉をコサイタスに投げるのが、シャクターなりの温情だろう。衝撃覚めやらぬコサイタスに代わり、「おう」とヘリオスは応じた。しかしこれで自分ひとりでコサイタスをどうにかする訳だ。ほっと胸を撫で下ろしているシバに、つい意地悪くヘリオスは囁いた。
    「いいけどよ。夜中に帰りたいって泣いても、お迎えには行かねぇからな?」
     じろりとシバが睨んでくる。人間と同じ丸く黒い虹彩が、文字通り虹のような煌めきを発して拡散する。虚術の気配に思わずヘリオスは後ずさった。瞬きの後に目を元通りにして、つんとシバは顎をそびやかす。
    「このクソ…」
    「コサイタス、ぼちぼち怪蟲部隊との打ち合わせ時間だぞ。昼飯後にもう一度こっちに来てくれ。その時間になりゃ各方面からの情報も揃ってる」
    「…分かった」
     まだシバに未練ありげだったが、渋々とコサイタスは踵を返した。その背中にシバが横目を向けているのを視界の隅で確かめながら、ヘリオスは苦笑を堪えた。
     怪蟲の鳴き声が空気を震わせ、鵺の進軍が大地を揺らす。人魔変わらぬ悲鳴が上がる。棚引く煙は火砲の名残だ。整然と降伏出来た部隊は運が良い。司令部を失った兵の多くは四方八方に散らばって、戦場は今や各勢力との境界近くまで広がっていた。
     西の彼方で空が赤く染まった。人間の目でさえも確認できる炎に、周囲の兵士たちがざわめく。これだけの規模の炎術は、命を削ったとしても容易く使えない。オーパスの当千術士の仕業だろう。虎の子の砲兵部隊へと、シャクターが位置転換を命じる。
    「退却支援だ。狙いはオーパス方面。合図を出したら速やかに撃て。…シバ?」
    「伝えに行ってくるっス!」
    「おい、シバ! 伝令はいらん! …全く、気を付けろよ!」
     セイロン共和国軍司令部を壊滅、否、消滅させた少年は、シャクターの制止も聞かずに地中へと消えた。燃える火の海の只中に、養い親がいると思うと耐えきれなくなったのだろう。開戦までつんけんした態度を取っても、孝行息子は簡単に止められないらしい。
    「今夜あたりは家に戻るかもなぁ」
     足を組み替えながらヘリオスは呟いた。独り言ではあったが、シャクターが苦虫噛み潰した顔で振り仰ぐ。
    「だったら俺には僥倖だが、戻ってきたら将軍の命令は聞けと教えてやれ。当千術士に好き勝手動かれちゃ自軍の破滅だ」
    「前向きに善処しとく」
    「それとヘリオス、下りてこんのか。狙撃兵がいたら格好の標的だぞ」
    「こんな戦況で、悠長に狙いを付けられる敵がいるかよ」
     巨大な鵺の肩に座ったまま、ヘリオスは鼻で笑い飛ばした。軍服も防弾ベストも付けず、いつもの黒い背広に軍用コートを引っ掛けたきりだから、撃たれれば高確率で死ぬだろう。
     鵺はメイミョーに「そちらの虚術使いを追い払うのに多大な被害が出た」とシャクターが当てこすった結果、ご好意で贈られた特注品だ。大きすぎて周囲との連携が取りにくく、規格外に頼りたくないシャクターの判断もあり、早々に司令部の威信を高めるマスコットと化した。しかし肩に座れば誰より高いところで戦場を見渡せる。丁度いい椅子としてヘリオスは気に入ったが、シャクターは嘆息して頭を振る。
    「バカと何とかは高いところが好きと言うが…」
    「隠す方を間違ってねぇか? まあそんな度胸のある奴がいたら、一度くらいは撃たれてやってもいいね」
    「冗談にしても止せ。コサイタスが泣くぞ」
    「まだ死ぬまではいかねぇよ。まだな」
     シャクターが微かに眉を寄せる。事情を聞いて泣きながら怒ってきたギョーマンといい、既に死者を見るような目は勘弁して欲しい。だから知らせたくなかったのだ。半ば無視する口実の為に、ヘリオスは双眼鏡を覗き込んだ。
     西の戦線にまだ炎は消えず、ところどころ陽炎で視界が揺らめいている。噂の炎術士は青二才と聞くが、腕前はなるほど大したものだ。オーパスは辺境の小国だが、この当千術士を盾に勢力拡大を目指すだろう。そして人間への盾以上の台頭を望まない他魔人国家は、戴天党にひっそりと塩を送るだろう。欲望の複雑な編み目は綻びも多く、出し抜く隙は幾らでもある。だからこそ、オーパスと今ここで雌雄を決する訳にはいかない。
     兵士たちは次々と退却を始めていた。炎術が再度降りかかる前にと、みな足早である。それでもセイロン軍と異なり恐慌に陥っていないのは、ギョーマンと、コサイタスがいるからだ。コードネームがそれなりに気に入ったらしい男の、被ったヘルメットがレンズの中に現れる。次いで、コサイタスが。
    「見えたぜ。トライスターも総裁も元気に撤退中だ」
    「よし。撃て!」
     シャクターの合図を受けて、火砲が轟音を響かせる。いつの間にか灰色の雲が垂れ込めていた空を、科学技術による赤い火が切り裂いていく。炎術に威力で劣っても、こちらはまだ連発しやすい。支援攻撃としては十分だ。ヘリオスは引き続き、双眼鏡でコサイタスを追った。
     不意にレンズの中にシバが現れる。顔は細かく見て取れないが、コサイタスも驚いたらしい。ぎくりと竦んだ足が、駆け寄るシバを見て再び動き出す。火砲と炎術に追い立てられたからだけではあるまい。あの子を混乱させてしまったと、毎晩のように繰り返していたのだから。
     養い親と合流したシバの歩みは、どこか弾んでいる。労いの言葉でも掛けられたのかもしれない。その背中をカバーするコサイタスの表情は、顔が見えなくても分かった。子供を見守る親の目だ。自分といた時のコサイタスが、決して見せる事のなかった表情だ。
    「馬鹿な奴」
     ヘリオスは呟いた。コサイタスはシバを大切に扱っている。大仰な名前を付けて、能力を開花させ、四六時中連れ回し、何百何千何万の人命を奪わせる。誰の真似事かは、ヘリオスには嫌になるくらい分かっていた。その果てにあるものが何かも、身をもって知っていた。
     双眼鏡をふたりから周囲へと動かせば、血はなく、傷もなく、苦悶も露わにねじくれた死体が散乱している。敵も味方も巻き込むゼロ旋風より、もっと容易く安全な方法をコサイタスは見付けていた。彼が手を伸ばせば、全ては熱を失い、死に至る。
     それでも敵味方の被害者は千人に届くかどうか。新バラタ市でゼロ旋風を解放した時を思えば、笑ってしまうほどちっぽけな数だ。シャクターも取り返しがつくと認める数だ。だが彼らの中にも、掴みかかる死を恐れた者はいるだろう。生きていたいと涙した者もいるだろう。死なないでくれ、自分の側にいてくれと、泣いて縋る誰かを持つ者もいるだろう。
     たかが千人。千人分のそれが全て、戦場で凍り付き動かない。
    「本当に、馬鹿な奴…」
     双眼鏡をヘリオスは外した。火砲と炎術の熱気のせいか、灰色の雲は幾分か薄くなり、ところどころで宵の空が覗けている。静かに瞬く三つの星も、また。
     天の御座。不死者の故郷。超人機械がそこにいるならば、変わってしまった自分を見下ろしているだろうか。いつか自分のように変わるかもしれない魔人の、側にいたいという願いを、笑って見下ろしているだろうか。
     シャクターが振り返った。落ちて粉々に砕けた双眼鏡を認め、眉間に皺が寄せられる。ヘリオスは足をぶらぶら揺らしながら、次に発せられるだろうお説教を待った。だがシャクターは葉巻を軽く囓ると、予想以上に静かな声で「おい」とヘリオスを呼ばわった。
    「そろそろ総裁のご帰還だぞ。そいつで出迎えに行ってやれ」
    「こいつに乗って?」
    「戴天党の初戦の大勝利だぞ? 派手な祝い方のひとつもせんとな。烏みたいに座ってないで、勝利の女神くらい演じてくれ」
    「お前のハゲ頭に月桂冠を被せろってか? 冗談じゃねぇぞ」
     口汚く腐しながらも、ヘリオスは巨大鵺の手綱を引っ張った。暴れる馬怪蟲の背に乗っているのと大差ない、ひどい揺れ方だ。しかし周囲の兵士たちが慌てて避けていくのは悪くない。吐き気を堪えてヘリオスは鵺での前進を続けた。
     豆粒のようだった姿が、次第に誰が誰と肉眼でも把握できる大きさになってくる。元は下っ端のアイスクリーム冷やし係が、養い子と、多くの部下に囲まれているのが見えてくる。遙か頭上で輝く三つの星はいつか、彼と勝利を祝福しているのだと語られるだろう。太陽へ挑んで焼かれた烏のように、ヘリオスは星へ向けて傲然と顔を上げた。
     挑んでやろう。残り数ヶ月の余命だとしても、死ぬ事がない身であるかのように、最期のその時まで、生き汚く。
     ヘリオスは片手を上げた。学校で教師の問いに答えるように、コサイタスの手が上がる。間近になっても速度を緩めない巨大鵺に、総裁を包んでいた人波が蜘蛛の子散らすように離れていく。流石にシバは嫌そうな顔をしながらも、コサイタスの隣に立っていた。
    「ヘリオス」
     鵺の涎が間近に滴り落ちても、コサイタスは動じない。ヘルメットを外すと、短いなりに乱れた黒髪と、大きな耳が露わになる。応答を一言一句聞き漏らすまいとするように、耳朶の端が小さく揺れた。
    「見ていてくれたか」
    「当然だ。全部見てたぜ」
     見ていてやらねばならない。アイスクリーム冷やし係から戴天党総裁に成り上がり、子供を守るようになり、泣いて喚いて縋り付くようになった男を。変わろうが変わるまいが、コサイタスの全てを。
     ヘリオスは微笑した。鵺に片膝をつかせ、コサイタスに手を伸ばす。
    「ちゃんと全部、空の星にいるみてぇにな」
     頷いたコサイタスが、手を伸ばす。万物の熱を根こそぎ奪う手を、ヘリオスは何の躊躇いも恐れもなく握り、己の方へと引き寄せた。巨大鵺の肩へと引っ張り上げられるコサイタスに、シバが目を丸くする。連隊の旗手が持っていた軍旗を拾い上げれば、無骨な巨大鵺が凱旋式のチャリオットと化す。軍旗を高々と掲げながら、コサイタスの傍らでヘリオスは胸を反らした。
     勝利の女神など片腹痛い。たとえ死にゆく身だとしても、この男の隣では、自分は不滅の太陽神だ。
    「──死なないんじゃありませんか」
     診察室めいた研究室の一角で、アマチはそう言った。結論から言えと急かされ続ける研究者は、たまに必要な前提さえも飛ばしてしまう時がある。つまり言っている事は分かるが、意味が分からない。
    「は?」
     その一言しか返せないヘリオスに、アマチは今までの検査のデータ表を取り出してみせた。身長体重の移り変わりのような線グラフは、緩やかな右肩下がりを続けていたが、終わりの方では急な上昇を示していた。データ開始時点には至らぬものの、回復傾向とは言えるだろう。
    「ご覧の通りなんですよ。あくまでここ二週間程度の話ですが、今までが今まででしたからね。少々楽観的になっても構わないでしょう」
    「おい待てよ。って事は」
    「ですから、死なないんじゃありませんか。最近の体調はいかがです?」
     かかりつけ医に相応しい言葉だった。しかし言われてみれば、どこかで何かが流れ落ちていくような感覚は薄い。夜に眠気は覚えるものの、常に纏わり付いていた疲労感も消えた。それでも絶好調には程遠く、結局ヘリオスは首を傾げた。
    「ぴんと来ねぇよ、そんなもん」
    「…ヘリオスさん。あなた以前、自分の体は自分が一番云々と言ってませんでした?」
    「蛇の道は蛇って言うよな」
    「正式に蛇の杖を持てる身ではないんですがねえ」
     悪びれないヘリオスへ、アマチは嘆息して言う。いかにも被害者然とした様子だが、それで人体実験や解剖を繰り返していたのだから呆れる。医学のひとつも出来て当然だとヘリオスは思う。そして実際、アマチは出来る男だ。
    「で、ドクター・アマチ、お前の見立ては?」
    「予測を立てるにはデータが少なすぎますよ。現段階では一般論になりますね。あなた自身の方が良く分かってらっしゃるんじゃありませんか? それか、お隣の方が」
     ヘリオスは隣に視線を移した。小さな丸椅子に、ヘリオスと並んで座っているコサイタスは、いつもと変わらぬ無表情を横に振った。
    「私は素人だ。専門家でさえ困難な予測など出来る訳がない」
    「良く言うあれですよ、総裁。病は気から、の逆で」
    「行くぜ、コサイタス」
     アマチの思わせぶりな与太話に、これ以上付き合ってはいられない。ヘリオスは立ち上がり、コサイタスの背中を軽く叩いた。
    「次の検査説明にはもっとマシな理論を立てとけよ。じゃねぇと建設中のラボ、製薬工場にしちまうぞ」
    「分かりました。ではまた来週。お大事に」
     かかりつけ医に中指立てて応じ、ヘリオスはさっさと研究室を立ち去った。どうせ明日か明後日には、何か別の研究で会う事になるのだ。
     少し遅れて、コサイタスが追い付いてくる。戴天党総裁就任と、セイロン共和国への勝利を受けて、コサイタスは益々多忙だった。三十分足らずの診察でも同席する余裕は乏しいが、強い希望に患者の方が折れた。
    「遅ぇよ。さっさと行くぞ。遅れたらオスカーにまたドヤされちまう」
    「アマチに注意点を聞いていた」
    「聞くなそんなもん。メシ食って寝る以外に言われたか?」
    「無理しないようにと」
    「やっぱりな。ヤブでももっとマシな助言するぜ」
    「あと、愛の力は偉大だそうだ」
    「ブッ殺してくる。先に行ってろ」
     即座に踵を返そうとするヘリオスを、コサイタスが肩を掴んで止めた。
    「彼は優れた人材だと思う。殺さない方がいい。それに今からでは遅れてしまう」
    「うるせぇ! どいつもこいつもくそったれ!」
     床を蹴りつけてヘリオスは声を荒げた。アマチといい、総裁用の新邸に自分の部屋まで用意させたシャクターといい、生温かい訳知り顔で祝福してくるのが腹立たしい。「何が何だか知らんが、お前と顔付き合わせるシバ君の事を考えてやれ!」と説教してきたギョーマンや、白々した目を向けてくるシバの方がましだ。彼らは彼らで鬱陶しいが。
     自分とコサイタスはそういう愛ではない。ならばどういう愛かと問われれば、ヘリオスも、とにかく自分の持っているこれだと答えざるを得ない。それにコサイタス以外の他人に、説明してやる必要もない。
    「どうしても必要なら、後から始末する」
     ヘリオスを押し留めながら、さらりとコサイタスは物騒な事を述べた。総裁の肩書きと白い軍服は、冷徹の魔人を更に周囲から隔絶させて見せる。冷たく恐ろしい男と言われ、小さな優しさも持ち合わせる男と囁かれるコサイタスに、ヘリオスは肩を落とした。
    「分かった。やらなくていい。あいつを見付けるのも大変だったからな。論文かき集めるわ、ベンガルのジャングルで怪蟲を追い払うわ…まだ賄賂の元も取れちゃいねぇ」
    「ならば行こう。…ヘリオス」
     再び歩き出すと、コサイタスが名前を呼ぶ。顔を上げたヘリオスに、黄色い目を微かにさ迷わせながらコサイタスは呟いた。
    「良かった。私がこんな事を言ってしまっていいのか、分からないが」
    「バカ」
     俯きそうなコサイタスの肩に、ヘリオスは無造作に腕を回す。軍服にぶら下げられた勲章が涼しい音を立てた。箔付けにシャクターが付けさせたが、その内にどれかがどこかで落ちるだろう。小さな星ひとつの勲章をヘリオスはつついた。
    「喜べよ。どうなるか俺も知らねぇけど、とりあえず今日は飲もうぜ。すぐ死んじまう事はなさそうだし」
    「ああ」
    「…もう一緒に寝なくても眠れそうか?」
     シバには不本意だろうと、目下三人で同居を強いられる最大の理由だ。セイロン共和国との戦闘から、コサイタスの後追い期は静まった。ただ、夜は、一緒の方がよく眠れると言うのだ。気付けば新邸の寝室には立派なダブルベッドが搬入されていたが、コサイタスが首を縦に振れば、ヘリオスはそこから解放される。大きなベッドで窮屈なくらい身を寄せ合う事からも。慣れた体温からも。
     応答を待つ必要はなかった。問い掛けにコサイタスは意表を突かれたらしい。予測もしていなかった事態への狼狽だと見て取れる人間は、ヘリオス以外には多くあるまい。
    「そうした方が、いい」
     ぽつりと紡がれた言葉の後、唇を軽く噛んでからコサイタスは続けた。
    「と、言うべきなのだろう」
    「ん。じゃあ続行な」
     ヘリオスはコサイタスの肩を叩いた。からかわれるのは癪に障るが、コサイタスがこう言うならばそれでいいのだ。戸惑っているらしく硬い肩を、ほぐすように指先に力を込めた。
    「いいのだろうか」
    「いいに決まってんだろ。お前は俺の唯一の相棒だぜ」
     目を細めてヘリオスが囁くと、コサイタスは頷いた。肩から少し力が抜ける。彼は黙り、ヘリオスも黙った。互いの体温のように沈黙を共有しながら、ふたりは陽の明るい廊下を足早に歩き去った。
    高尾 Link Message Mute
    2023/01/21 17:55:00

    Sol Invictus

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    堕天作戦の二次創作です。ヘリオス生存ルートifものになります。コサヘリです。

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    • ユール堕天二次創作です。クリスマスのヘリオスとコサイタスのお話。太陽倶楽部を名乗るちょっと前くらいでしょうか。高尾
    • 七十六年、梅雨パトレイバーの甲斐×後藤二次創作です。まだ×未満ですが今後その予定があります。
      大学時代に出会うふたりの話です。大体喜一くんのニューレフトワンダーランド大冒険です。色々なところがおかしいと思いますが目を瞑ってください。
      2022年6月に書き上げ、ぷらいべったーに載せてました。
      高尾
    • 大多良山にて裏バイト逃亡禁止の二次創作です。茶々さん中心で八木さんとの出会いを捏造しています。割と長めです。
      2022年4月に開催されたオンイベにて、PDF無料頒布をしていました。その節はお世話になりました。
      高尾
    • 温泉へいこう裏バイト二次創作です。ユメちゃんとハマちゃんが温泉でいちゃいちゃしてる短編です。
      2022年4月のオンイベで配布していました。
      高尾
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