Iris 手首を撫でさすっていく内に、赤い擦過傷は消えていった。荒縄で引っ張られ続けた傷である。常人なら完治まで数日はかかる。だが数秒の後に、白い手首が露わになる。固まった地の名残は塵となり、晴れた空の彼方へと飛んでいった。
「こんな目に合わせやがって。手首ごと切り落としてやるところだ」
血の染み付いた荒縄を地面に投げ捨てて、ヘリオスは物騒な事を言った。国境警備の目をかいくぐるため、軍の捕虜移送を装おうと提案したのは彼である。荒縄の調達も、引っ張り蹴り付ける演技指導までも行ったが、忘れたのだろうか。だが黙っているコサイタスに、ヘリオスは唇だけで微笑んだ。
「いい度胸してるぜ、お前。ありゃ見抜けねぇよ。俳優にでもなるか?」
「天を掴むにはそれが必要なのか」
「んな訳ねぇだろ。でも演技力ってのは重要だ、有象無象どもを動かすにはな」
コサイタスは頷いた。その時が来ればきっとまた、同様にヘリオスは台本を書き、指示を与えてくるだろう。ただ今は、有象無象どものいる場所に辿り着くのが先だ。ここから北東へ向けて進めば、人間との中立地帯が広がっている。まだ建物のひとつも見えはしないが、無法と退廃と悪徳の噂は、マデイヤ軍の基地にまで届いていた。
「徒歩なら四日。馬か何かをぶんどっちまえば二日だ。それらしいのを見付けたら教えろよ、コサイタス。魔人の方が視力は上だ」
袖に仕込んだナイフを確かめながらヘリオスは言う。強盗働きも手慣れている様子だ。今回のマデイヤ軍基地には捕虜として連行されたらしいが、魔人の勢力圏まではそうして近付いてきたのだろう。細い道の彼方に目を向けながら、コサイタスは頷いた。
「分かった」
「…四の五の言わねぇんだな」
「否定した方がいいのか」
「要求じゃねぇよ。事実の指摘だ」
不意に肩に重みが掛かり、コサイタスは体を強張らせた。すぐ横にヘリオスの顔がある。どうやら肩を抱かれたらしい。学校で同級生に金銭を要求されて以来の仕草だ。当時の同級生と同様に、コサイタスを前へと促しながらヘリオスは囁く。
「益々気に入った、って事だ、相棒」
自分の肩からじわりと力が抜けるのをコサイタスは感じた。施設の日課を済ませた時、厨房で言われたアイスクリームの数を作り終えた時よりも、強く深い何かが胸の空洞を響かせていく。だがコサイタスがそれに、十八年間で得た言葉をひとつひとつ当てはめていく間もなく、ヘリオスが「おっ」と呟いた。この不死者は興味の矛先をころころと変える。
「コサイタス、こっち見ろよ」
言われるがままにコサイタスはヘリオスへと視線を向けた。力仕事などした事もないような指先が、コサイタスの目尻を軽くつつく。
「こんな色してたんだな、お前の目。気付かなかったぜ」
逃避行の道中である。夜間の移動が多く、見咎められやすい昼間は農家の小屋や廃墟に潜んでいた。明るい日の下でヘリオスと向き合うのは、確かに初めてかもしれない。そう納得しながらもコサイタスには、ヘリオスが何を言うかなど予想出来なかった。目の色など、軍の証明書に記載した以外の記憶がほとんどない。それでも記憶の奥底を探せば、ぼんやりした色だ、冴えない色だと言われた事が、うっすら思い浮かぶのみだ。
「いい色だ。冬の曇り空と同じだな」
だがヘリオスはそう言って笑った。コサイタスはなるべく開いておこうとした目を、つい瞬かせてしまった。
「流石は俺だぜ、名は体を表すってのはこの事だ。やっぱりお前はコサイタスだよ」
見えていなかったのに良く付けられたものだと、ヘリオスは自画自賛を繰り返す。褒められたらどう反応すべきか、経験は乏しいながらもコサイタスは知っている。しかし今は謝辞も謙遜も出てこない。
何を言えばいいか分からぬまま、とりあえず自賛への同意を示そうとしたコサイタスは、細められたヘリオスの目を見た。長い睫毛に囲まれて、少し眦の下がりがちな、不死者の目を。
陽光の下で輝く丸い虹彩は、今の空と同じ、晴れやかな青緑色をしていた。