温泉へいこう「いってきまーす! ハマちゃんバイバーイ! また来てね! やくそくだよー!」
「ほらミライ、ちゃんと前を向かないと転ぶぞ」
「ころばないもん! おにいちゃんもハマちゃんにバイバイするの! いっしょにバイバイしなきゃ行かないもんね!」
「…ば…バイバイ…」
「あはは。ふたりともバイバイ、まったねー」
ミライは元気よく、望は照れ臭そうに手を振る。和美も笑顔で手を振り返した。ミライはしばらくぴょんぴょん飛んではしゃいでいたようだが、子供ふたりはすぐ人波に紛れてしまう。何せ朝のラッシュ時間だ。
「休日なのに早く起こしちゃってごめんね、ハマちゃん。昨日は遅かったのに」
「いいよいいよ! ってかこっちこそ急に泊めてもらった上に、朝ご飯までごちそうになっちゃってさ。ありがとね」
和美がそう言うと、ユメは少し微笑んでドアの鍵を閉めた。
黒嶺家に和美が泊まったのは、駅員バイトの件以来だ。またあの駅へ働きに行く訳ではない。昨夜この近くでの飲み会に参加して、帰る頃には終電が無くなっていただけだ。打診するとユメは快く承知してくれた。
「いいのよ朝ご飯くらい。だってハマちゃん、私たちに素敵なお寿司をご馳走してくれたんですからねっ」
「すみませんでした…」
つんとした声のユメに、和美は頭を下げざるを得ない。昨夜、道の途中で望とミライの存在を思い出したまではいい。深夜営業をしていた寿司屋で折詰を買ったのもまだいい。だがそれを片手に「起きてるか! ハマちゃんだぞ!」と大声出して乗り込んだのは、無かった。
「借金取りかと思って焦ったわよ。いつもお酒には気を付けてって言ってるのに、大人ならちゃんと節制して」
「はいはーい。終電を逃がさないよう気を付けます」
「…別に、来ても泊めないって訳じゃ…」
手を上げて宣誓した和美に、ユメがもごもごと呟く。これなら何とか誤魔化せそうだ。和美は「よしっ」とユメの大きなバッグを引っ張った。
「私らも早く行こ! ユメちゃんのバイトに間に合わなくなっちゃう!」
「ちょ、ちょっとハマちゃん、大丈夫よ急がなくても! 銭湯は逃げないんだから!」
慌てたユメからはもう飲酒への忠告は出てこなさそうだ。よしよし、と和美は笑い、バッグを引っ張りながら足早に駆けた。通勤中の人間たちが怪訝そうにこちらを向くのに、ユメが恥ずかしそうにしている気配が伝わる。
和美のバイトは「裏」がほとんどだが、ユメは「裏」の合間に、普通の単発バイトも入れていた。一日で何十何百万も稼げる裏バイトに比べ、雀の涙のような報酬に馬鹿馬鹿しくならないかと和美が聞くと、ユメは首を振って答えた。
「気分転換になるの。それに大きなお金は返済や貯金に充てちゃうから、自分のお小遣いも欲しくて…」
借金返済、ふたりの弟妹の学資貯金、生活費。それでも多少ゆとりがありそうだが、ユメの事だから自分を後回しにしてしまうのだろう。
今朝のミライは「これ! おねーちゃんが買ってくれたシール!」と和美にキャラクターもののシールを見せびらかしてきた。望の持っていた通学バッグは真新しかった。一方ユメは、和美と組んでしばらく経つが、服も持ち物もあまり変わっていない。そういう子なのだ。「自分のお小遣い」を欲しいと思えるようになった事こそが、ユメにとってのゆとりなのかもしれない。
今日も夕方から近所の店へ、期末セールのレジ応援に行くという。部屋でだらだらと過ごそうかと思っていた和美には肩透かしだったが、少しべたつく自分の髪と、昨日の道のおぼろげな記憶が、すぐ代替案を思い浮かべさせた。
「じゃあさ、それまでスーパー銭湯に行こう!」
「ほら、ここ。昨日帰り道で見かけたんだ。ロウリュも無料だってよ。やってみたかったんだよねー」
淡いピンク色の生地に濃いピンク色で「女性専用 ゆのはな」と書かれた暖簾をふたりはくぐった。玄関ホールのカーペットから壁紙まで、ややくすんだピンク色で統一され、そこはかとない野暮ったさと胡散臭さを漂わせている。オープン三ヶ月後という真新しい時期だからいいが、二年後三年後になれば昭和の風俗店になりそうだ。
「お湯の香り…」
少々意地悪く周りを見渡す和美だったが、何気ないユメの呟きにぎょっとした。
「えっもしかして、クサい?」
「あ、違うの、大丈夫。ちゃんと硫黄の香りよ」
「あーよかった。ご近所の不思議スポットは駅だけで十分でしょ」
「そうね…」
まだ朝の通勤時間だからか、客の姿は見当たらない。フロントの眠たげな女性から鍵と着替えを受け取り、ピンクのスリッパをぺたぺた鳴らしながらふたりは奥へ向かった。着替えの作務衣はピンク色を覚悟していたが、どういう訳か濃いあずき色である。
「何でこっちはピンクじゃないんだ? 統一感ないな」
首を傾げる和美だったが、隣のユメは淡々と袖を通している。無視した訳ではないだろうが、どこかぼんやりした様子だ。そう言えば朝からいまいち生気がない。自分が夜中に大声で起こしたせいだろうか、やはりまだ怒っているのだろうかと不安になりながら、和美はユメの作務衣の裾を引っ張った。「きゃっ」と小さな悲鳴が上がる。
「…あのさあユメちゃん、やっぱまだ怒ってる? それとも疲れてる?」
単刀直入に聞く和美に、ユメが目を瞬かせる。着替えたせいでほつれた黒髪が頬にかかって、仕事中のしゃんとした姿よりは少し頼りなげに見える。和美の問いに開かれた目が、一拍遅れて瞬いた。
フリーズしかけたな、と和美は思った。現在の読み込み率八十五パーセント。ぐっと何かを飲み込んだような顔をしてから、ユメは口を開いた。
「…疲れても怒ってもいないわ。ただ、ちょっと…」
ダウンロード完了後もユメは歯切れが悪い。昔から感情を率直に伝えるのは苦手な子だ。口をぎゅっと結んでいた学生時代を思い出して、和美は逆に口を綻ばせた。
「じゃ、お湯に入ってから聞こうか?」
街中の露天風呂も乙なものだ。閑静な温泉宿と異なり、行き交う人の声や車の音といった喧騒がそのまま飛び込んでくる。だがそれを聞きながらお湯に浸かるというのが良い。昼からの飲酒に似た贅沢だ。
入り口こそ小さな店に見えたが、露天風呂やその周囲の敷地は広く取られていた。客が立ち上がっても覗かれないよう、垣根や屋根を上手く配置している。周囲にさして高い建物はないから気楽だ。
「ッカー! 最高! 酒が飲めたらもっと最高!」
和美は湯船のど真ん中で手足を伸ばしたい放題にしていた。何せふたり占めの露天風呂である。マナー違反ながら泳ぐ事もできるだろう。
しかしユメは「落ち着かないわ…」と湯船の片隅で手足を縮めている。湯に浸からないよう纏め上げた髪もどこか堅苦しい。和美はうっかり仰向けにひっくり返りそうになるのを持ち直しながら、そんなユメに溜め息を吐く。
「ユメちゃんも楽にしたらいいのになー。もし見られたらタコ殴りにして慰謝料取ろうぜ?」
「ハマちゃんたら…」
そう言いながらも、ユメは腕をゆっくり前方へ伸ばし始めた。そのまま頭の上へと両腕を持ち上げていく。胸が大きいと肩が凝ると言うから、後でマッサージでも勧めてやればいいかもしれない。ユメの二の腕の柔らかな線を、和美はぼんやり眺めていた。
「あんまり見ないでよ」
「ごめんごめん、絶景だなと思って」
「もう! …でもハマちゃんが元気そうでよかったわ。びっくりしたもの。急に温泉なんて言い出すから」
「いやここ、温泉っつうか銭湯…あ、」
和美ははたと気付いた。じとりとこちらを見据えているユメに、つい苦笑がこぼれる。露天風呂の風景は確かに温泉と呼んでもよかった。本物の高級旅館の有していた露天風呂よりは、遥かに安っぽくはあったが。
「…夢の湯の事はさ。もう大丈夫だよ」
同じ名前を持つ彼女はまだ視線を逸らそうとしない。確かにあの案件で、よりショックを覚えたのは和美の方だ。だが今はもう気持ちを切り替え、ユメをこうしてスーパー銭湯へ誘えるくらいにはなっている。湿った金髪を和美はぐしゃぐしゃ掻き回した。
「逆に気ぃ遣わせちゃった?」
「ううん。ただ…そうね。引きずっているのは私の方かもしれない」
風がひゅうと音を立てて、露天風呂の水面を揺する。広がっていく波紋を、ユメの首振る動作が打ち消して、湯の表面は一瞬命あるもののように蠢いて見えた。
「ハマちゃんは八木さんが言ってた事、覚えてる? あのお湯は浸かった人間と入れ替わるんだって」
「そう言えばなんか…見舞いに来た時に喋ってたような…」
正直和美はうろ覚えだった。八木の推理披露は怒涛の早口である。心身ともに不調な時についていける代物ではない。眉を寄せる和美に「あのね」とユメは続けた。
「馬鹿みたいな話だけど、その時は自信があったの。お客様ならともかく、望やミライや…ハマちゃんが入れ替わったなら必ずわかるって。でも駅のバイトで向こうに行った時、私、わからなかった」
変わりない弟。いつも通りの妹。微かな違和感はあったが、恐らくあれはタンスやテーブルの位置が違うといった、環境への些細なものだった。こちら側と全く同じやり取りをして、食事をした。
別人だなどと思ってもみなかった、向こう側の自分と鉢合わせるまでは。
「長年一緒にいるのになんてひどい姉なんだろう、あの子たちに顔向けできないって思ったわ。それにあの時は何も臭いを感じなかったの。…次に似たような事があったら、私はハマちゃんを助けられないかもしれないって、そう、思い出したら…怖くて…」
語りながらもユメは俯いていく。最後の方は独り言のような小声だ。彼女の顎をつたって水滴が、お湯の表へとぽたり、ぽたりと落ちていく。
和美はその湯を両手ですくうと、無言のままユメに引っ掛けた。一度、二度、三度目には思い切り両腕を使うと、ユメの頭から顔までずぶ濡れだ。慌てて腕をかざしたところで守り切れるものではない。
「は、ハマちゃん! 何するのよ!」
「ユメちゃんのリフレッシュ! スッキリするっしょ? そんな事を考えてたなら言ってくれたらいいのに」
「そんな事って何よ」
「真面目な事。私は望やミライみたいな家族はいないけどさ、向こうでユメちゃんに会った時は正直、ビビってたよ。私のユメちゃんか、向こうのユメちゃんなのか、言われなきゃ正直わかんないだろうなーって」
ユメがずぶ濡れの赤い顔を上げる。彼女の手を和美は取った。そろそろ湯が体に馴染んで、指先が桜色に染まっている。暖かくて、柔らかくて、皮膚がふやけて少しざらついた指だ。朝も早起きして望とミライの弁当を作っていた指だ。
「向こうの望とミライたちだって、ユメちゃんの事がわからなかったんでしょ?」
「…うん」
「一緒にいたのもたかが一時間くらいでしょ?」
「…うん」
「やっぱそれじゃわかんないって! そっくりな世界だったからさ。でもお互いわからないで過ごせてたって事は、どっちのユメちゃんも同じくらいあの子たちを大切にしてたって事だよ。いいんじゃないの、それで?」
「…強引ね、ハマちゃん」
そう言いながら、ユメの声は先程よりも穏やかになってきていた。うっすらゆるんできた口元に、和美は明るく続ける。
「なに、今頃気付いた? それに本当にヤバい乗っ取りだの成り代わりだのの時は、ユメちゃんの鼻はちゃんと利いてくれそうだし。そうじゃない時は私みたいに聞けばいいんだよ」
「『あなた、こっち側のハマちゃん?』って?」
「そうそう。だから私がユメちゃんに聞いても怒らないでよ。相棒がすぐわからないなんて、ちょっとロマンチックじゃないけどさあ」
「怒らないわよ。…ありがとう、ハマちゃん」
ようやく微笑んでくれたユメに、和美は笑い返した。
「じゃ、露天風呂の次はどうする? マッサージ? サウナじゃロウリュ体験もできるらしいよ? ユメちゃんは血行促進しとかないとね、毎日重いもの持ってるんだし…」
「重いものって何よ! 止めてよその言い方と目つき!」
先程のお返しのようにユメが和美にお湯を浴びせてくる。ずぶ濡れにされるのをぎゃあぎゃあ叫んでやり返しつつ、和美はこちら側に戻ってきた夜に見た夢を思い出していた。
――出せ! ここから出せよ! 私はユメちゃんと戻るんだ!
自分が、自分の部屋で、そう叫びながらドアを叩いている。そうしてもうひとりの自分が、ドアの前に椅子や机を積み上げて、アパートを去っていく。
きっと深い意味はない。ただの夢に過ぎない。和美は向こう側で一度も自分自身と出会わなかった。出会わなかった、と思っている。あんな夢を見たのは、別世界の自分だの、夢の湯の入れ替わりだのが、脳の中で仕事の不安と結びついたせいだと思っている。今こうして子供みたいにユメとお湯をかけ合って騒いでいるのが、本当の自分自身だと思っている。
「あなた、ハマちゃん?」
いつかそうユメに聞かれた時、当然だと頷けると、願っている。