2024/03/17春コミ サンプル『まもって騎士様!』 暗闇で満ちた部屋。朝も夜かも分からない。幼いオーエンは一人でここにいた。扉は外から鍵がかかっていて開かない。叩いてもひっかいても開かないから、外に出るのはとうに諦めた。ここでできることといえば、絵本のページを手繰ることくらいだった。
わずかな明かりを頼りにオーエンは絵本へと目を落とす。オーエンはあるページで手を止めた。騎士様が現れたのだ。オーエンは絵本の中の騎士の姿をなでた。
心の芯まで闇に染まりそうな室内で、オーエンを慰めるのは騎士様だけだった。いい子でいれば助けに来てくれるはず。いつだって騎士様は幼いオーエンの希望だった。
外からどすんどすんと足音が近づいてきて、オーエンは背後の扉を振り返った。耳障りな足音は扉の前で止まる。あいつが来た。胸に苦いものが込み上げる。扉がぎぎぎと音を立てて、ゆっくりと開いていく。オーエンは絵本を閉じて、胸に抱えた。
騎士様、騎士様。
オーエンは目をぎゅっと閉じる。まぶたの裏では絵本の騎士の姿を思い浮かべていた。
口に洋菓子を頬張りながら、今日ははずれだな、とオーエンは思った。
「どういうことだ、話が違う!」
「うるさ……」
目の前の男が激昂している。オーエンはなにも悪くないので、男の訴えを無視して皿の上のミルフィーユを口に運び続けた。
オーエンのセーラー服のリボンに、ミルフィーユのかけらと粉砂糖がぽろぽろ落ちる。
温かい日差しの下、オーエンはオープンテラスで洋菓子を食していた。目の前のテーブルには、オーエンの大好きな、たくさんの甘いものたち。正面に座る男だけが最悪だった。
「金は払うと言ってるだろう……!」
男は顔を赤くして怒っていた。
オーエンは、はあとため息を吐く。
「おまえが買うのは僕の時間でしょう。なにを勘違いしているの?」
「金を払うんだから、どこに連れて行こうがなにしようが、自由のはずだ!」
「違う。買うのは時間だけ。僕をどうこうする権利なんかおまえにはないよ」
男はテーブルを叩いた。衝撃で皿やカップがかたかた音を立てる。
男ってこれだから嫌い。
オーエンは男をにらんだ。男というのは感情的で、すぐに声を荒げて、自分の言うことが通らないときには暴力を行使してもいいと勘違いしている。オーエンは目の前の男だけでなく、男性全般を嫌悪していた。
オーエンは嘲笑を浮かべる。
さて、こいつをどう遊んでやろうか。こういう男は、年下の若い女に言い負かされるのがなによりの屈辱だ。そうしてやってもいいが、怒り狂ってオーエンに手を上げてくる可能性もある。オーエンは、自身に危害が及ばないよう男をからかう方法について、考えを巡らせた。
オーエンは、もう恐怖におびえる子どもではない。そして、いい子にしていようがいくら待っていようが、自分を助けに来てくれる騎士様なんて現実にはいないことを、十九歳のオーエンは知っている。騎士様は、所詮は子どもを慰めるだけの幻想にすぎなかった。他人に助けてもらうことを期待すべきではない。自分を守れるのは自分だけだ。
ふと、テーブルに影が落ちた。オーエンは思考をやめて顔を上げる。
「いったい、どうしたんだ?」
オーエンたちのやり取りが気になったのか、声をかけてきた人物がいた。その人物はオーエンに背を向けているせいで顔は見えない。凛とした声。右の耳のうしろで結ばれた紅の髪が垂れていて、動くたびにゆらゆら揺れていた。
「な、なんでもないさ……」
男は、先ほどの勢いが嘘のように弱々しく答えた。あれだけ威張っていたくせに、他人の目が入ると途端に気が小さくなる。自分のやっていることが良くないことだと分かっているから、第三者に咎められるとビクビクする。
「あんたたち、どういう関係だ? 友達——じゃあないよな」
「いやあ……ええと、別になんだっていいじゃないか、はは……」
問い詰められて男は動揺していた。あやしい、と誰の目にも明らかなくらいに。
赤髪の人物が携帯端末を取り出す。
「警察呼ぶぞ?」
「あっ、これから用事があるんだ! 私はもう帰るから、あとはゆっくりしてくれ……」
男は伝票を手に、そそくさと会計を済ませて去っていった。
赤髪がオーエンのほうを振り向いた。
「大丈夫か?」
男と対峙していた時とは変わって、穏やかな声音。
陽光を背に話しかけてくるから、まぶしくてオーエンは目を細めた。
「怖い思いしたよな」
心配そうな様子で赤髪の人物はオーエンの顔を覗き込んできた。オーエンの目の前に迫った顔は、左半分が長い前髪で隠れていた。隠れていないほうの右目が、オーエンを見つめている。蜂蜜色の瞳。
オーエンの胸に、なんだかむずがゆい感覚が湧きおこった。ちりちりと、日に焼かれるような——
思わず顔をそらしていた。
「……っ、余計なお世話」
かろうじて、それだけ口に出した。
「なんだ、大丈夫ならよかった」
目の前の人物——赤髪の女性は、白い歯を見せてニッと笑った。
すぐ去るのかと思ったのに、赤髪の女はオーエンのことをしばらくじっと見ていた。
こうして顔をまじまじと見られるのは、オーエンにとっては慣れた反応だった。オーエンの顔を初めて見た人間はみな同様の反応をする。
オーエンは左右の目の色が違う。
右は鮮紅色をしていて、左は琥珀色をしていた。この目を見ると、大抵の人間は驚く。
それにしても、じろじろと見過ぎではないかオーエンは思う。子どもになら無作法にじっと見られこともあるが、目の前の人物はオーエンと歳はそう変わらないように思えた。興味津津に食い入るように見つめられて、オーエンは居心地の悪さからため息を吐いた。
「あ、悪い……。あのさ」
赤髪の女がなにかを言いかけた。だがそのとき、背後から「さすが騎士様!」と囃し立てる声が聞こえてきた。赤髪の女が困ったように笑って、声の主たちのほうを向く。どうやら連れがいたらしい。
「騎士様……?」
オーエンが訝しんで後ろを見ると、赤髪の女の連れらしき者たちがこちらへと歩いてくるところだった。
騎士様と呼ばれた赤髪の女は、オーエンに申し訳なさそうな表情を向けたあと、連れの友人たちを伴って去っていった。
オーエンは、フォークをぐさりとミルフィーユの苺に突き刺した。口に放り込んだが、なんだか味がぼやけている。風に揺れる赤髪がまだ視界にちらついていた。
オーエンは今日もセーラー服に身を包み、電車に乗っていた。セーラー服を着ているが、オーエンは中高生ではない。趣味と実益と、悪意のために身にまとっていた。
——あの日、オーエンはテーブルの上の菓子たちをすべて腹に収めてから帰った。飲食代は男が会計済みだったが、赤髪の女が間に入ってこなければ、飲食の料金とは別に金が手に入るはずだった。
あの男はオーエンにとって客だった。オーエンの時間を買って、食事の時間を共にする。そういう取り決めで金が発生するのだが、あの男はそれ以上のことを要求してこようとした。だから、「はずれ」だった。取引の内容をよく確認していなかったり、わざと知らないふりをしてそういう要求をしてくる面倒な客がたまにいる。はずれの客でも、オーエンなら口先で金を捻り出させることはできる。あの日だって、散々からかってやったあと、脅しでもして金を巻き上げる予定だった。なのに、赤髪の女の邪魔が入った。
あの日から数日経っているが、赤髪の女のことを何度も思い出してしまって、オーエンはむかむかしていた。オーエンは男に怒鳴られた程度で怖いなんて思わないのに、心配そうに覗き込んできた、あの顔。あの声。「騎士様」と呼ばれていた赤髪の女は、男にいじめられている弱い女を救ってやったつもりのなのだろう。その浅ましさを嘲るようにオーエンは笑った。偽善だ。
電車のシートに座るオーエンの隣に、スーツの男性が腰掛けてきた。オーエンは周りを見渡して、違和感を覚える。乗客はまばらで、空いている座席なんていくらでもあるのに、わざわざオーエンの隣に座ってきた——痴漢か?
オーエンが隣の男をちらりと見ると、男はばっとオーエンの逆を向いた。すっとぼけたふりしてこいつ、とオーエンは内心で悪態をつく。このまま隣で密着しているだけなのか、それともオーエンがおとなしくしていたら触ってこようとするのか……。
これ以上怪しい動きを見せたら警察につきだしてやろうとオーエンは思った。この手の輩は、制服を着ている学生なら逆らわないだろうと高を括っている。……すでに、学生服の子どもに何度かこうした加害をしてきたのかもしれない。屑が。
だがこの男の運の悪いのは、オーエンをターゲットにしたことだ。オーエンは、通報されて青くなっている男の姿を思い浮かべて、ひそかににやりと笑った。
「あ、久しぶり」
上から声が降ってきて、オーエンはすっと表情を戻した。久しぶり? オーエンはそんな言葉をかけてくる人物に心当たりはなかった。
オーエンは声の主を見て、あ、と思った。
「なんか具合悪そうだ」
赤髪の騎士様だった。眉をひそめてオーエンを見下ろしていた。
別に具合なんて悪くないけど、とオーエンは言い返そうとしてやめた。隣の男がそわそわしだしたからだ。
「もしかして——」
赤髪の女が訝しんだ声で男に視線を移すと、男は急に席を立って別の車両に移動していった。痴漢目的だったのがばれたと思って、焦ったのだろう。オーエンは、去っていくスーツの男の後ろ姿を呪い殺すような目で見た。
赤髪の女が、オーエンの隣——男が座っていた席とは反対側に座ってきた。
「大丈夫か?」
「……だから、余計なお世話だって」
オーエンの言葉に、赤髪の騎士様は不思議そうな顔をした。
「あ!」
オーエンの顔を見て思い出したのだろう、騎士様の表情が明るくなった。
「ああ、あんたか! 久しぶりって言うほど前じゃないな」
騎士様はニコニコと笑顔だった。声も顔もやかましいな、とオーエンは思った。
「どうして『久しぶり』って?」
「痴漢かなって場面を見かけたら、そう話しかけてるんだ」
オーエンにしたような人助けを、見知らぬ人間に対してこれまで何度もこの騎士様はやってきたのだろう。やっぱり偽善者だ、とオーエンは冷笑を浮かべる。
「……ねえ。おまえ、騎士様って呼ばれてるの?」
「ん? ああ、あれは……」
赤髪の女の騎士様は、照れくさそうに笑った。
「学校の文化祭で演劇をやって、俺は騎士の役だったんだ。それからあだ名が騎士様になった」
「ふうん」
そう語る赤髪の女は、騎士様と呼ばれることを照れてはいても嫌がっている様子はなかった。こいつ、騎士に憧れてるのかな。変なやつ、とオーエンは思った。
「なあ、あんたあのとき大丈夫だったか?」
騎士様がオーエンの手をぎゅっと握った。初めて会った日のことを心配しているらしい。
会ったばかりの人間に、そんな白々しく心配してるみたいな顔をするんだ? ——オーエンはそう思って、嫌味たっぷりに笑った。
だが、伝わらなかったようで、騎士様はずっと心配そうな目をしてオーエンを見つめていた。
握られた手からじわじわと温かさが伝わってくる。オーエンは、はあと小さく息を吐いた。
「……ああ、あれ、バイトみたいなものだから」
「バイト⁉︎」
オーエンは、客と契約の上で一緒に食事をして金のやり取りをするのだと説明した。
「え、じゃあタダでご飯食べられて、その上お金までもらえるのか?」
「うん。そう」
「へえ……。そんなバイトがあるんだな……」
オーエンの場合、一緒に食事というよりは、甘いものを頬張るオーエンを客が眺めるという構図が多かった。
「危なくないのか?」
「別に……。客は男だけじゃないし」
あのときははずれの客だったが、普段は性別・年齢問わずいろんな客がいるし、基本は問題なく時間を過ごして終わる。恋愛目的の客が来てもオーエンは絶対に応じない。なにかトラブルが起こりそうになっても、オーエンは一人で対処する自信があった。
「危なくなければいいけど。自分のこと大事にしろよ」
そう言って騎士様は握った手に力をこめた。真剣な眼差しだった。
オーエンは馬鹿らしいと思った。関係ない他人なのに、なぜ世話を焼こうとするのだろう。
騎士様が小首を傾げて笑いかけた。
「あんた可愛いからさ、気をつけたほうがいいと思う」
「…………は?」
オーエンは困惑した。
可愛い? ——そんなことオーエンは自分で把握している。ただ、手を握られて笑みを向けられながらそんなことを言われて、オーエンは戸惑った。
「いきなり、なに」
「え? あ、悪い。思ったことをそのまま言ってしまう癖があって」
「……外見がどうかって話と、被害に遭うかどうかは関係ないだろ。どんな見た目してる人間だって、被害に遭うときはあるんだから気をつけようないし」
「ああ、確かにそうだな……。今のはよくなかった。すまない」
電車のアナウンスが、次の停車駅が近づいてきたことを告げる。
「あ、俺は次で降りるんだ」
騎士様は握っていたオーエンの手を離した。
「近くに住んでたらまた会うかも。俺はカイン。あんたは?」
「……オーエン」
答えなくてもよかったのに、オーエンは自らの名前を口にしていた。
「じゃあな、オーエン!」
赤髪の女騎士——カインは、人懐っこい笑みでオーエンに向かって手を振ると、電車を降りていった。
オーエンは自分のペースを乱されるのを嫌う。
自分のしたいことを、自分のしたいときにしたい。なににも囚われたくない。
だが、オーエンは取り憑かれたようにSNSの画面をスクロールする指を止められなかった。
がちゃりと部屋の扉が開いて、オーエンは顔を上げた。
「ごきげんよう、オーエン」
部屋に入ってきたのは、オーエンと同じ大学の学科に属するラスティカだった。
ここは、紅茶研究会のサークルの部室である。大学の部室棟の一番端に位置している。部室にはテーブルと椅子のほかに、人が寝転がることができる大きなソファが置かれており、オーエンはそこでSNSを見ていた。
「オーエンは今日はもう講義はないのかな。お茶を淹れようと思うけど、一緒にどうだろう?」
ラスティカはティーセットを取り出しながらオーエンに尋ねた。
「お菓子ある?」
「もちろん」
オーエンは起き上がって、ぐぐっと伸びをした。ラスティカが優雅な所作でお茶会の準備を始める。
「そうだ、今日はクロエが来てくれるよ」
「ふうん」
「クロエはそろそろ大学に慣れてきた頃かな」
クロエは同研究会に所属する大学一年生。一ヶ月前に入学式があった。
「時が経つのは早いね。私たちももう二年生だ」
「老人みたいなこと言ってるなよ」
オーエンは、ティーポッドに湯を注いでいくラスティカを眺める。ふわりといい香りが漂った。
窓の外からはにぎやかな声が聞こえてきていた。どのサークルも、新入生を迎えて活気にあふれていた。オーエンとラスティカのいる紅茶研究会の部室だけ穏やかな空気に満ちている。
「さあ、どうぞ」
ラスティカが紅茶の注がれたティーカップを二つ、テーブルに置いた。テーブルにはお菓子も並べられている。
オーエンはテーブルにつくと、紅茶を一口飲んで、クッキーに手をつけた。
ラスティカがにこにこと笑いながらオーエンに話しかける。
「少し落ち着いたかな?」
「なにが?」
「ずっと熱心に見ていたから」
ラスティカは、携帯端末の画面を指差した。オーエンがずっとSNSに張り付いていたことについて言っているらしい。
「なにか、不安になるようなことでもあったのかい?」
「別に……」
オーエンはラスティカに指摘されて、他人から見ても自分が普段と様子が異なることに気がついた。
オーエンが熱心にSNSで見ていたのは、あの赤髪の女騎士——カインについてだった。名前をもとに少し探れば、本人のアカウントや、知り合いがアップしたと思われる動画が見つかった。制服でダンスをしている動画や、同級生と楽しげにふざけ合っている動画など、カインの高校生活の様子が窺い知れる情報が転がっていた。なかでもオーエンの目に留まったのは、文化祭の演劇のワンシーンを撮った動画だった。女子校だから演者は全員女性だ。騎士に扮するカインが、レイピアのような細い剣を振るっている。それを見た観客の歓声も動画には収められていた。
「オーエンがなにかに執着しているのは珍しいと思って」
「ふん」
普段はふわふわしているのに、案外聡いんだよなこいつ、とオーエンはラスティカに思った。
ゆったりと過ごしていると、部室棟の廊下を歩いている足音が聞こえてきた。
「クロエかな」
ラスティカが紅茶を飲みながら扉のほうに目を向ける。
「お疲れさま!」
騒々しく扉が開く。現れたのは頬を紅潮させたクロエだった。
「お疲れさま、クロエ」
ラスティカがにこやかな笑みでクロエを迎える。だがクロエは部室には入ってこようとせず、いたずらっぽい顔で入口に立ったままだった。オーエンはクロエを見てにやりと笑った。
「おまえ、なんかよくないことでも考えてるの?」
「え、違うよ! 今日はね、なんと……」
クロエが廊下をちらりと見てから部室に入ってきた。
「新しい部員を連れてきたんだ!」
クロエに手を引かれて入ってくる人物があった。
「ええと、初めまして。一年のカインだ」
「……は?」
オーエンは目を見開いた。
「カインはね、俺と同じ学科なんだ!」
「そうなんだね。一緒にお茶を飲みながら自己紹介しようか」
ラスティカがティーカップを用意している横で、オーエンはカインを凝視したまま立ち上がった。カインは、オーエンの姿を見て固まっていた。
「あれ……オーエン⁉︎」
「え? なになに、カインはオーエンのこと知ってるの?」
クロエは大きな目をきょろきょろさせてオーエンとカインの様子を窺っている。
「知ってるっていうか……オーエンって大学生だったのか⁉︎ だってあのとき制服——」
オーエンはすっとカインに近づき、カインが話し切るまえに口をふさいだ。
「二人きりで話そうか」
オーエンはカインの耳元でささやいた。カインが首を縦に振るまで、オーエンはカインの口を覆った手を離すつもりはなかった。
カインは目をぱちぱちさせながらうなずく。
「えっ、えっ、どういうこと〜〜⁉︎」
騒ぐクロエを尻目に、オーエンはカインの手を引いて紅茶研究会の部室を出た。
オーエンは部室棟の外、人目につかない倉庫のあたりまで来ると、カインの手を離した。
「……オーエン」
カインがおずおずとオーエンを見ている。
「僕がセーラー服を着てたのは、バイトのため。バイトの話はあの二人にはしてない。ていうか、お前以外に話したことない」
「……」
女子高生であるほうがアルバイトの売り上げがよかったし、客を欺いてるのが楽しかったから、オーエンはセーラー服を着て女子高生だと偽っていた。また、客に身元がばれるリスクを減らすために詐称していたのもある。
「別に、言いふらしたっていいけど」
「秘密は守る」
からかうような調子のオーエンに、カインは真剣な眼差しで応えた。
「……ふうん」
「なあ」
カインが目を輝かせてオーエンに一歩近づいた。
「また会えたらって思ってたけど、実際会えてびっくりだ。同じ大学だったんだな」
子犬みたいな目をしたカインに、なぜだかオーエンはたじたじになる。
「……っ」
「俺、オーエンに伝えたいことがあって」
カインがオーエンにぐっと顔を近づけてきた。
「ほら、あんたの目と俺の目、一緒なんだよ」
オーエンの目の前には、長い前髪を上げたカインの顔があった。前髪で隠れていた瞳があらわになっている。
琥珀色の右目に、鮮紅色の左目。
カインの目は左右で色が違った。
オーエンとは左右が逆だったが、オーエンとカインは左右別々の、同じ瞳の色をしていた。
「……ああ、だからおまえ、あんなにじろじろ見てたのか」
最初に会ったとき、カインがオーエンの顔を食い入るように見ていた理由が分かった。
「あはは、失礼だったよな」
悪びれた様子もなくカインは笑う。
「なあ、秘密の話が終わったなら部室に戻らないか? ほかの部員の人にも挨拶したいし」
「おまえの目は秘密なの?」
「え? いや、びっくりされるから前髪伸ばして隠してるだけだ」
カインは部室へと歩き出すも、すぐ足を止めた。
「……あれ。どっちだっけ」
「はあ。ついてきて」
オーエンは紅茶研究会の部室に向かって早足で歩き始めた。
「待ってくれオーエン!」
くっついてくるカインに、オーエンは主人についてくる子犬を連想して笑みがこぼれた。
紅茶研究会の部室に戻ると、ラスティカが新しく紅茶を淹れてくれた。クロエがほっと胸を撫で下ろしている。
「オーエンがカインをいきなり連れていっちゃうから、どうしたのかと思ったよ。怒ったのかなってびっくりしちゃった」
「へえ、どうして僕が怒るの?」
「オーエンとカインが実は因縁の相手で、すごく仲が悪かったらどうしようって思ったの……」
「きみたちがいない間、オーエンとカインがどういう関係なのか想像してたんだ」
「もし因縁の相手だったら、俺、とんでもないことしちゃったのかな、どうしよう⁉︎ ってラスティカに相談してて……!」
オーエンはくすりと笑った。
「ずいぶん楽しそうにおしゃべりしてたんだね?」
おしゃべりはほどほどに、オーエン、ラスティカ、クロエは改めてカインに自己紹介をした。
「今日はいないけど、部員はあと一人いるんだ」
ラスティカが戸棚に残っているティーカップを見ながら言った。
「これでやっと五人目だね! カイン、入部してくれてありがとう。部員が五人揃わないとサークルが存続できないのに、うちの人たち全然勧誘に力入れないんだもの」
クロエがオーエンとラスティカを見る。
毎年、新入生獲得のために各サークルは必死に勧誘活動をする。だが、ビラを配ったり大声で新入生に声掛けするなんて、オーエンは面倒くさくてやりたくなかった。ラスティカもそういった勧誘は乗り気ではないようだった。
「兼部は自由だし、こういうゆるめのサークルも気になってたからさ。それにしても、部屋の小物とか壁の絵が素敵だな!」
カインは部室内をきょろきょろと見回している。
部屋のコーディネートは、おしゃれ好きのクロエの趣味が反映されている。ティーセットや壁に掛けられた絵画はラスティカのものだ。クロエが入部してから一ヶ月も経っていないが見事なものだった。
「部室もすごくいい感じだし、紅茶研究会なんて興味ある人多そうなのに、部員がこんな少ないのは意外だな……」
カインがつぶやく。
オーエンは冷ややかに笑った。
「ここは僕のための部屋だからね。正直部員なんていらないけど、いなきゃこの部屋を占領できないみたいだから、仕方なく置いてやってるんだ」
「……それってなんか失礼じゃないか」
カインはむっとした顔でオーエンを見た。クロエが慌ててカインに説明を試みる。
「あっ、あのね。ここって数ヶ月前にできたばっかりのサークルなんだ。もともとこの部室を使ってた廃部寸前のサークルがあって、そこをオーエンが乗っ取った……じゃない、譲り受けたんだ」
「今、乗っ取ったって言ったよな……?」
大学内にごろごろできる場所が欲しかったオーエンは、廃部になりそうなサークルの部室を乗っ取って、自分が自由に過ごせる部屋を手に入れた。ただしサークルの要件が部員が五人以上いることだったのでオーエンはまず、ちょうどその辺にいたラスティカを強引にサークルに入れた。サークルとしての体裁を整えるため活動内容はラスティカの好きな紅茶にまつわるもの、サークル名は紅茶研究会とした。
「その後にネロっていう、今日はいない子をオーエンが誘ったんだ。俺は大学に入る前からラスティカたちと友達だったから、入学したら紅茶研究会に入るよって約束してたんだ」
「僕が僕のために作ったんだから、部員は最低限の人数いればいいし、たくさん増やす必要もない」
威張るオーエンの隣で、ラスティカがティーカップから湯気を昇らせる。
「オーエンは男性が苦手だし、多人数でなく少人数でゆったりできる場所が欲しかったんだよね?」
「それに、人数が少ないのも秘密基地みたいで楽しいよ!」
「まあ、そういうこと」
ラスティカとクロエの言葉に乗ってオーエンはふんぞり返っていたが、カインはとりあえず納得したようで、険しかった表情をゆるめた。
「あんたたちがいいならそれでいい……かなあ」
カインが眉を下げてクロエとラスティカを見る。
「オーエンの邪魔にならなきゃなにしてもいいって言うから、部屋の内装は好きにさせてもらったんだ!」
クロエはきらきらした瞳で言う。
「私も、こうやってゆっくりお茶ができる空間があって素敵だと思うよ」
穏やかにお茶会を楽しむラスティカを見て、カインは苦笑した。
「あんた、無理矢理オーエンに加入させられたのにのんびりしてるな……」
カインの苦笑に、ラスティカはふわりとした笑みを返した。
「改めて、紅茶研究会へようこそ、カイン。オーエンはあんな感じだけれど、きみを歓迎しているよ。気に入らなかったら入部を認めないはずだから。それに」
ラスティカがオーエンの目を見た。
「よかったね、オーエン」
「は?」
「だって、きみが執心していたのは——むぐ。これおいしいね。ありがとうオーエン」
オーエンは、ラスティカの口に無理矢理ショートブレッドを押し込んでいた。
「シュウシン? なんだ?」
カインはきょとんとしている。
「ふん。部員になったんだから、せいぜい僕の部屋のために尽くしてよね」
オーエンはカインの肩を引き寄せて、脅すようにそう言った。
新入生の入学当初の高揚した空気が落ち着いてきた頃。
オーエンは講義終わりに、講義室の窓際に一人で座っている人物に近づいていった。
「やあ、ネロ。最近部室来ないね?」
「うわっ、オーエン……」
ネロは、驚いた猫が毛を逆立てるかのように身構えた。引き攣った顔でオーエンから目をそらしている。
「いやあ、いろいろ忙しくてさ……」
「ふうん」
「今日も難しいかなーって……」
「へえ、そう」
ネロは自分の荷物を整えて立ち上がろうとしていたが、オーエンが微笑を浮かべながらそれを阻んでいた。
「……」
「……」
「あの、次の講義があって」
「退いて欲しかったら分かるよね?」
「う……」
「おはようオーエン! ……と誰だ?」
そこにカインがやって来た。
「ああ、ネロが部室に来ないから、まだ知らなかったんだね」
「あ、もしかして紅茶研究会の……?」
カインは、ネロがまだ会ったことのない部員だとオーエンの言葉から察したようだった。
「俺はカイン。一年だ」
「あー、ネロだ。どうも……」
次の講義が始まるので、軽く自己紹介をしたあと、ネロは急いで講義室を出て行った。
カインがオーエンに話しかけてくる。
「俺は次ここの講義だけど、オーエンもか?」
「そうだけど」
「じゃあ、隣に座ってもいいか?」
「……好きにすれば」
オーエンは一人で講義を受けることが多い。他人とつるむのが嫌いだから、友人はほぼいない。他人が近くに寄るのは不快だし、オーエンの人嫌いを周りもなんとなく察しているのか、わざわざオーエンの近くに座ってこようとする者はいなかった。だがカインはそのように臆することはなかった。
講義が始まって十五分ほど。カインの頭がかくんと揺れた。オーエンがカインを見ると、カインのまぶたは閉じていた。寝ている。
オーエンはカインの頬をつねった。
「っ、う?」
カインはうめいて目を開ける。オーエンは声を立てずに笑った。
その後も、講義中にカインは何度も居眠りをしていたので、オーエンはその度カインの身体をつついたり、髪を引っ張ったり、太ももをつねったりして面白がった。
「今からそんなんじゃ、先が思いやられるね?」
「はは……」
講義が終わると、カインは情けなく笑っていた。
「オーエンはこれから部室に行くのか?」
「だったらなに」
「じゃあ、俺も行こうかな……」
オーエンとカインが紅茶研究会の部室に行くと、ほかには誰もいなかった。
カインがテーブルの上にテキストとノートを広げる。オーエンは怪訝な顔をした。
「居眠りしてたのに勉強しだすとか、おまえは真面目なのかそうじゃないのかどっちなの」
「うーん……。講義聞いてても、難しくて頭に入らなくて。それで寝ちゃうんだよな」
カインはそう言うと、テキストを読み始めた。オーエンは部室に鎮座するソファに寝転がる。
しばらくすると、カインは「うーん」とか「あー」とか言いながら悩み始めた。
カインはそうやって頭を抱えていたが、とうとうどうにもならなくなったのか、テーブルの上に突っ伏した。
「はは……そんなに難しい?」
オーエンは面白がって、カインの横に腰を下ろした。
「オーエンはこれ分かるのか?」
「当たり前。だって今日の講義でやってたところでしょう」
「じゃあ、助けてくれオーエン!」
「なんで僕がそんなこと……」
「頼む!」
カインが上目遣いでオーエンを見る。あどけなく親を見上げる子犬みたいな瞳だった。
オーエンはきゅっと唇を噛んだ。
「……ていうか、そんなのでよく入学できたね?」
「あー、俺、スポーツ推薦なんだ。だから皆がやってた受験勉強はしてなくて……」
「なんのスポーツ?」
「フェンシングだ」
なるほど、とオーエンは思った。SNSで見た、カインが演劇の中で剣を振るっていた動画を思い出す。
「ふうん、それで騎士様、ね」
オーエンはそうつぶやいて、にやりと笑った。
「で? 騎士様はどこが分かんないの?」
「教えてくれるのか⁉︎ ありがとう!」
カインは感激して目をきらきらさせた。
「ここがいまいち意味が掴めなくて——」
一年生の初期の時点でつまずいているようではこの先まずいだろうと、オーエンは呆れながらカインの指す部分を見る。
仕方なくオーエンはカインの勉強を見てやったが、教えてみると意外にもカインの出来は悪くなかった。突っかかっているところを紐解いてやれば、すいすいと進んでいった。頭の回転が悪いわけではなく、基礎をところどころ取りこぼしているのだ。
「オーエンの教え方、うまいな。こんな理解できるなんて今までなかった」
「ふん……」
褒められてオーエンはそっぽを向いた。
「お礼させてくれ。購買でなにか買ってこようか。オーエンはなにが欲しい?」
カインがオーエンのほうを向いて言った。横に座っていたから顔が近い。オーエンがカインを見ると、お互いの視線がぶつかった。
「欲しいもの……」
そうつぶやくオーエンを、カインがじっと見つめていた。
カインの右目は、オーエンの左目と同じ色をしている。しかし、なんだか、鏡で己の瞳を見ているときとは違う、むずむずとした感情がオーエンの胸にあった。
「……」
「……」
黙ったままのオーエン。オーエンの言葉を待っているカイン。
静寂を破るように、部室の扉が開いた。
「お疲れさん……って、あれ」
ネロが部室をのぞいていた。
オーエンが部室の入り口に目を向けると、ネロは慌て始めた。
「もしかして、邪魔だったか……?」
「は? なにが」
「今、なんか、あんたらいい感じじゃなかった……?」
「いい感じって?」
首を傾げるカインの耳をオーエンが引っ張った。
「痛っ」
「生意気。おまえはまだまだ遅れてるんだから、ちゃんと勉強してろよ」
「見つめ合ってたかと思ったら、今度は喧嘩か……?」
ネロが呆れたように言った。
「……」
オーエンは、手の甲を額にあてた。——熱い。自分の顔がなぜ熱くなっているのか分からなくて、オーエンは誰にも悟られないよう顔を伏せた。