共寝 春の夜は、風が気持ちいい。
大いなる厄災が照らす夜の中を、カインは軽く駆けていく。人間は息を潜める満月の下を、魔法使いは悠々と過ごす。
カインの今日のトレーニングは、魔法舎の周りのランニングだ。気温がちょうどよくて走りやすい日だった。
気がつくと、予定していた時間よりもずいぶん長く走り続けていた。明日のことを考えるならもう就寝すべき時刻だった。カインは魔法舎の玄関へ足を向けた。
魔法舎の階段をとんとんと駆け上がり、カインは二階の自分の部屋へと向かった。
ドアノブを回そうとしたその時。
「騎士様」
背後から聞こえた声に、カインの肩がビクッと跳ねた。
急いでいたとはいえ、今の今まで周囲の気配に気づけなかったことにカインは焦った。
ばっ、と後ろを振り返る。
「……オーエン? なんだ、こんな時間に」
目の前にオーエンがいた。カインの問いかけにオーエンは、うつむいて小さな声で答えた。
「ひとりで寝るのが怖くて……」
「……んん?」
不審に思ったカインは、オーエンをしばらく見つめた。
いつもオーエンが纏っている、冷酷で人を嘲るような雰囲気がまったく感じられない。目の前のオーエンは、厄災の傷の影響を受けた、幼子のような彼だった。
「寝るのは暗くてひとりだから怖い。騎士様、一緒にいて」
「えっ、うーん……」
面倒な気配しかしなかったが、かといって、オーエンの求めを断る術をカインは持っていなかった。このまま部屋の前で粘っていても仕方がない。
「困ったな……。とりあえず、部屋に入るか?」
「いいの?」
オーエンはパッと顔を輝かせた。
カインが扉を開けると、オーエンは部屋の中をきょろきょろ見回した。
「さて、どうしたものかな……」
カインは部屋を軽く片付けながら、子どものようなオーエンを扱いかねて呟いた。当のオーエンは、そろそろと部屋の中へと足を踏み入れ、ベッドの方へ向かっていった。
「眠いのか?」
「ここで寝てもいい?」
嫌とかダメと答えるのはなんとなく忍びなかったので、カインは口ごもった。オーエンはそれを了承と受け取ったのか、あるいは拒否されることなどもとより無いものと思っているのか、ベッドの中へと潜り込んでいった。
「騎士様、騎士様」
布団から顔を覗かせて、オーエンがカインに呼びかけている。
「どうだ、寝られそうか?」
「騎士様も一緒に寝て」
「うーん、それはちょっと……。狭いから難しいかな」
オーエンの口調は添い寝をねだる幼子のそれだが、体格はカインとそう変わらない。このベッドは大人が二人で寝るには窮屈だ。
「僕をひとりにするの……?」
「ああ、ごめんごめん。ほら、そばにいてあげるからさ……」
カインはベッドの傍らに座り、オーエンに優しく語りかけた。
「なにか楽しいお話でもしようか。そうしたら怖くなくなるかな」
「騎士様の絵本のお話がいい……」
「あー、絵本は俺の部屋には無いんだよな……。書庫で探すか、誰かに借りてこようか?」
「やだ。騎士様、どこにも行かないで」
オーエンはカインの服をぎゅうぎゅう引っ張った。
「どうして騎士様は僕から離れようとするの。僕が嫌い? 嫌いだから一緒に寝てくれないの?」
「そ、そんなことはないさ。嫌いじゃないよ」
「じゃあ、一緒に寝てよ」
オーエンをぐずらせると怖いということは、カインが一番よく知っている。カインはとうとう観念して、ベッドへ入ることにした。
カインが布団の中へ潜ると、オーエンがカインの服の胸元をぎゅっと掴んだ。カインに離れていってほしくない気持ちの表れか、掴む力は強く、明日にはきつい皺になるかもな、とカインはぼんやり思った。
カインは、胸元にオーエンがいるので行き場をなくした左腕を、オーエンの身体の上を通しておそるおそる下ろした。壁側を向いたカインが、オーエンを抱え込む形になる。
「眠れそうか? 暑かったり狭かったりしないか」
「ううん、大丈夫」
ふわふわした声音でオーエンは答えた。安心したのか、オーエンはうつらうつらしている。カインは、ふうと一息吐いた。
カインが左手で枕元をぽんぽんと優しく叩いていると、いよいよオーエンは寝息を立て始めた。
「おやすみ、オーエン。良い夢を」
カインは、ランニングでの程よい疲れからか、オーエンが寝入ってからすぐに眠りについた。
夢の中でカインは、部下の兵たちに囲まれていた。団長、団長と親しげに呼ばれる。カインはひとりひとりの兵たちに応えて、彼らの近況を尋ねたり、彼らから報告を受けたりしていた。充実して楽しかった、かつての日々。それが終わってしまったのは……。
ドン、と胸に衝撃を受けてカインは目覚めた。
「は? なにこれ、なんで騎士様が隣で寝てるわけ」
上体を起こしたオーエンが、冷たく言い放った。カインは軽く咳き込んだ。
「っ……、起きたのか、オーエン」
「なんで騎士様が隣で寝てるのかって聞いてるんだけど。……ここ、騎士様の部屋?」
「ああ、俺の部屋だ。オーエン、記憶がないんだな……」
「ちっ。……記憶がない僕のために説明してよ。ほら、早く」
オーエンはいらいらしながらカインの言葉を待った。
カインは、どう説明したものか一瞬迷ったが、どのように言ったって誤解を招くに違いないと思い、そのまま話すことにした。
「ええと、ひとりで寝るのが怖いって言ってたんだ。おまえが」
「は?」
「一緒に寝てほしいってせがまれたから同じベッドで寝ていたんだ」
「……全然意味が分からない。騎士様は、一緒に寝てほしいって言われたら誰とでも寝てあげるわけ? ははっ、お優しいことだね?」
「そういうことではないんだが……」
「ええ? じゃあ何、ただの節操なしってこと? 騎士様がそんなことでいいの?」
記憶がないとはいえ、オーエンに頼まれて一緒に寝ていたのに、散々な言われようだなとカインは苦笑した。
「寒空の下で凍えてる人がいたら、温めてあげたいと、自分の熱を分けてあげたいと思うじゃないか。そういうことだ」
「へえ。じゃあ、この僕を憐れんでくれたわけだ」
「うーん、そういうことでもなくて……」
オーエンと話すのは疲れる。目覚めたばかりなのにオーエンはよく口が回るなあと、カインは寝ぼけた頭で思った。
オーエンがベッドに手をつくと、ぎしり、と軋む音がした。
「それにしたって、騎士様油断しすぎじゃない?」
「何がだ?」
「ここまで懐へ入られてたら、目玉でもなんでも取られ放題。またなにか取られたって文句言えないよ」
「え、オーエンは目のほかにまだ俺から欲しいものがあるのか?」
オーエンが一瞬固まった。
「……なに、もし欲しがったら、くれるわけ?」
「もう片方の目玉はやめてほしいが。というか、なんで目玉なんか欲しがったんだ。そんなにいいものか? 俺にとっては大事なものだけど、他人から見てそんなに羨ましいものかと考えると、疑問だな……」
琥珀色の寝ぼけ眼でカインがぶつぶつ話すのを、オーエンは静かに見つめていた。
「なあ、俺の目の何がよかったんだ?」
「……」
オーエンは答えず、感情の読めない瞳でカインを見つめ続けている。
「まあ、なんだっていいか。……いいや、よくないぞ。もう体の一部を持っていかれるのは嫌だな。欲しがるなら、もっと普通のものにすればいいのに」
「…………騎士様は、普通のものなら、誰にでもくれるの? 欲しいって言えば……」
「なんでもってわけじゃないけど、あげられるものなら。……ああ、そういえば、貧しい人のために自分の体の一部を分け与えてしまう、騎士の話がなかったか? 子どものころ、絵本で読んでもらったやつ。オーエンは知らないか? 誰かに読んでもらったことは?」
「……ない。なにそれ。知らない」
「騎士じゃなくて、王子だったかも。あの話は、確か、宝石でできた自分の瞳も貧しい人のために与えてしまうんだ。それで、その後はどうだったかな……。ああ、うろ覚えだ。そうだ、今度オーエンに読んであげようか」
カインは、絵本を読んでほしいと願った子どもの頭を撫でるつもりで、オーエンへと手を伸ばした。オーエンの頰に、カインの手が触れる。
「は?」
「あれ、ははは。間違えた。今のオーエンはいつものオーエンだったな……」
眠気でいっぱいのカインの頭では、思考はうまくまとまらない。
「……馬鹿なの?」
オーエンは、そう小さく呟いた。
窓の外では、それまで藍色だった空が白んでいくところだった。
曙の光が窓から差し込み、カインとオーエンを照らした。カインが見上げたオーエンの顔は、春の朝焼けの色と同じ薄紅色に染まっている。オーエンの白い肌には朝焼けが綺麗に映えるんだな、とカインは思った。
カインは、大きく欠伸をした。
「なあ、まだ眠いから寝ていいか? 完全に朝になるまではもうちょっと時間があるだろ?」
カインはもぞもぞと布団をかぶり直した。
「……え、ちょっと、だから油断しすぎでしょうって、騎士様……」
戸惑うオーエンを珍しいなと思いながら、カインは重い瞼を閉じた。