天狼の影(後編) 窓から差し込む朝日を浴びてカインは目を覚ました。体を起こそうとして、背後の気配に気づく。体の上に置かれた腕をそっとよけて、カインは静かに起き上がった。
ぐぐっと伸びをして、大きく息を吸った。
「んん……オーエンはまだ寝てるか」
布団で丸まっているオーエンを残し、カインは身支度を始めた。
昨日は家に帰るとオーエンがいてカインは驚いた。匿って、と言われすぐ寝てしまい、承諾していないのになんとなく受け入れた形になってしまった。オーエンはほんとうにここに居着くつもりなのだろうか。オーエンはこの家を「狭いし古くて汚い」と言っていたが、正直カインもそれは否定できない。
見慣れない服がハンガーに掛かっているのがカインの目に入る。おそらくオーエンのスーツのジャケットだろう。カインの所持している安物の背広と比べると、生地が異なり高価そうなのがカインの目にも明らかだった。
警察官とヤクザという、正反対の世界に生きているカインとオーエンだが、身につけているもの一つとっても別世界の人間なんだなとカインは思った。オーエンがこの家にいることの異様さがさらに増す。
「……もう起きてるの。早くない?」
オーエンの不機嫌そうな寝起きの声が聞こえた。
「ああ、オーエン、おはよう」
「出かけるの?」
「今日は夜勤で午後出勤だが、その前にひとっ走りしてこようかと」
「うわ」
オーエンは信じられないという目をした。
「部屋に篭っているのは苦手なんだ」
「だからって、こんな朝早くから」
カインは玄関で靴を履き、ドアを開けかけて部屋の中を振り返った。
「じゃあ、行ってくる」
「……」
きょとんとした顔のオーエンを後目に、カインはドアを閉めた。
オーエンと普通に話をして、オーエンを置いて家を出てきてしまった。もっと用心すべきなんだろうな、とカインは苦笑する。
傷が回復せず弱っているとオーエンが言っていたから、甘く見ているのだろうか。一晩過ごして何もなかったから、安心してしまったのだろうか。
特に盗まれて困るようなものもないし、まあいいかとカインはそのまま走り始めた。
それから数日、オーエンはカインの家に居続けた。
「ただいま……って、うわ」
「おかえり騎士様」
カインは部屋の中を見てぎょっとした。オーエンが一人掛けのローソファで優雅にくつろいでいる。このローソファはカインの家にはなかったものである。オーエンがどこからか調達してきたようだった。
カインが自分の家に帰るたび、なにか物が増えている。
最初は部屋の冷蔵庫にケーキなどの菓子が増えている程度だったのに、ついには家具まで増えてしまった。
「椅子買うって、おまえ……」
「畳だから足付きの椅子は買わなかったんだよ? 感謝しろよな」
カインの部屋にはもともと物が少なかった。休日は出かけることが多く、部屋でのんびり過ごすことはあまりない。基本的に寝るだけに使っていたようなものだった。なにより、四畳半の部屋では物を増やせなかった。
カインは遠い目をした。
「狭い部屋がさらに狭く感じるな……」
「ふん」
部屋をぱっと見る限りでは、カインの物よりもオーエンの物のほうが多く見える。数日ですっかり侵食されてしまったな、とカインは顔を引き攣らせた。
「オーエンって幹部だよな? ずっとおまえがいなくて組織は大丈夫なものなのか?」
「へえ、僕の組を心配してくれてるの? 警察官なのに」
「そりゃあ、暴力団は弱体化してくれたほうがいいに決まってる。単純に、どうなんだろうって気になっただけだ」
オーエンはローソファの背もたれに身体を預け、目をつむった。
「組がどうなろうが、別にどうでもいいけどね」
「え?」
カインは目を丸くしてオーエンを見つめた。
「どうして。責任感とかないのか」
「責任感? はは、なにそれ」
心底馬鹿らしいという顔でオーエンは笑った。
「……そんなだから、部下に好かれてないんだろ」
「ふふ」
「おまえの部下は、おまえに命や人生を預けてるんじゃないのか」
ヤクザは厳しい上下関係の組織だ。擬似的な親子関係で結ばれていて、親の命令に子は絶対服従だ。組同士の抗争で怪我を負うこともあるし、親分や兄貴分を守るため部下自らが犠牲になることだってある。
オーエンが首を軽く傾けると、銀色の髪が揺れた。
「大体さあ、誰かに頼らなきゃいけないとか群れなきゃいけないやつは、弱いやつって決まってるわけ。強いなら一人で生きていけるはずだろ。なのに、徒党組んでるわけでしょう、ヤクザは。ふふ、おかしい」
オーエンの繊細な銀糸の髪を見ていると、どうしてこの人物はヤクザをやっているんだろうとカインはぼんやり思った。
「……そう言うオーエンだって、組に所属してるし、群れてるうちの一人じゃないか」
「一人で生きていこうと思えば生きていけるよ、僕は。ヤクザは好きでやってる」
オーエンの「好き」は、ろくでもないことだろうなとカインは思った。警察のことを好きだと言ったときのように。
オーエンは楽しそうに語り出した。
「ヤクザははみだし者が集まって組を作ってるわけだけど、一員になるときには盃を交わすんだ」
親子の契りとか、兄弟の契りという風に、血縁関係のようなものを結ぶ。だが、擬似的な血縁関係とはいえ子が親を裏切ることも時折起きる。
「結局まやかしの絆。部下が裏切っておまえの組を乗っ取る気だよ、とか吹き込めば、すぐ信じちゃって争い始める」
くく、とオーエンが笑った。
「あいつら、猜疑心でいっぱいなんだ。怖そうな見た目して威張ってるくせに、心が弱いところが好きだよ」
こいつはやっぱり性格が悪いとカインは思った。
「でも、それってほかの組のことだから楽しいんだろ? オーエンが組に戻らなかったことで、オーエンの組が内紛起こしてバラバラになったら困るよな……?」
「それはそれで面白いかも」
「ええ……?」
オーエンが立ち上がり、カインの目の前に顔を近づけ薄笑いを浮かべた。
「騎士様は、僕に早く帰って欲しいんだ?」
「そりゃあ、まあ──って、うわっ」
カインはオーエンに足を払われ腕をぐっと引かれた。部屋が狭いせいで立て直せないまま、崩れるように倒れ込む。
気づけば、座るオーエンに背中から抱えられるような体勢になっていた。
「な、なんだ……?」
「嫌がるならもっとやりたくなる」
そう耳元で囁かれ、オーエンの腕が後ろからカインの胴体に回ってきた。カインは拘束されて動けない。
「騎士様が僕に帰って欲しいなら、ずっと居てやろうかな」
「いやいや、オーエンからしたらここは狭くて古くて汚いんだろ?」
「じゃあ僕の家にさらってやろうか。ヤクザに飼われてる警察官って面白いし」
「そうなったら俺は懲戒処分だと思うぞ……」
めちゃくちゃな話だが、オーエンだったらなんでもやりそうな気がしてきてしまう。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
オーエンは依然カインを腕で抱えたままなので、カインは玄関に立つことができない。オーエンが動く様子もなかった。
「おい……」
「面倒くさい。別に出なくていいだろ」
再度チャイムが鳴る。
「…………」
カインはちらりとオーエンを見る。嫌なやつだし恐ろしいところもあるが、この状態だと甘えられているように思えてカインはなんだかむずがゆかった。オーエンは自分は一人で生きていけると言っていた割に、存外寂しがりなところもあるのかもしれない。
「あのー、誰もいないですか」
扉の向こうから声が聞こえた。
オーエンが小さく「あ」と声を上げる。
「出てきて」
「え? ……って蹴るなよ!」
カインはオーエンに急に蹴られて立ち上がった。渋々玄関に向かう。
扉を開けると、パーカーのフードをかぶり、口をマスクで覆っている人物が立っていた。フードからは水色の髪の毛が見え隠れしている。
カインを見てやっぱりいたんじゃないか、とうんざりしているのはマスクの上からでも分かった。
「悪い悪い、ちょっと取り込んでてさ……」
「これ、届けに来ただけなんで」
その人物は面倒くさそうに、カインに取手のついた白い箱を渡してきた。
「……ん?」
カインはその人物に見覚えがあった。
「じゃあ、これで」
「待ってくれ。なあ、会ったことあるよな?」
「……人違いじゃないですかね」
「いや、職業柄会った人間の顔は覚えてるんだ」
思い出した。
「パトロールのときに会った、小料理屋の……!」
「あー……」
ラフなパーカーを着てマスクをしていたためすぐには思い出せなかったが、調理服を着た青年の姿は記憶に残っていた。
パトロール中にこの青年から騒ぎがあったと聞き、情報をもとに向かった場所で内籐組の組員が暴れていたのだった。
「あのときはご協力ありがとう」
「いや、別に……。もう帰っていいすか?」
「あ、すまない。呼び止めてしまって」
青年は軽く頭を下げた。カインは扉を閉めようとするが──。
「おい」
聞き覚えのない声がして、閉めようとした扉の動きが阻まれた。
「!?」
カインは警戒して目を見張る。水色の髪の青年の背後に別の人物が立っていた。その人物が扉に手をかけているのだった。
顔の中央に大きな傷がある。カインはこの人物を写真で見たことがあった。
「極北組のブラッドリー……!?」
「お、兄ちゃん見ない顔だな。新人か?」
カインは以前、暴力団の事務所近辺の警備業務にあたったが、それはブラッドリーの放免祝いが開かれていたからだった。その際、資料で顔を確認していた。
ブラッドリーはぐっと身体を前に乗り出し、カインの部屋の中を見渡した。
「おい、オーエン! 夏休みはもう終わりだ。いい加減戻ってこい」
「ちっ……」
オーエンの大きな舌打ちの音がカインの背後で聞こえた。
カインの前方ではブラッドリーと水色の髪の青年がやり取りをしていた。
「どいてくれ。俺は帰る」
「あ? ネロ、俺がムショから出てきたらいなくなっててびっくりしたぞ。組抜けたんだってな?」
「……っ」
なんだか場が混沌としてきたなとカインは思った。警察官が住んでいるアパートで、暴力団幹部二人がいるのはまずい状況である。
「よし!」
カインは大きな声を出した。声量に皆が驚いて目を丸くしている。
「ここでこうやっていても埒が開かない。移動しよう!」
四人はファミリーレストランを訪れていた。夕食どきだったため食事を注文したが、水色の髪の青年──ネロという名前らしい──は、飲み物だけを注文していた。長居する気はないということだろう。
オーエンはいらいらしている様子だった。空気が重い。
ブラッドリーが口を開く。
「兄ちゃんがこうして俺たちを連れてきたわけだが──」
「俺はカイン。眞谷署の警察官だ」
「眞谷署ってことは、これから世話になるだろうな。よろしく、カイン」
「ああ、よろしく」
カインはブラッドリーの目を真正面から見つめた。さすが暴力団幹部、余裕と迫力があるなと感じた。カインのアパートを訪れたのだって、警察官の住んでいる場所だと承知の上で来たのだろう。肝が据わっている。
「よろしく、じゃないだろ」
隣でオーエンがカインを睨んだ。
カインとオーエンが横に座り、テーブルを挟んで向いにブラッドリーとネロが座っていた。
カインが彼らをファミリーレストランに連れてきたのは、人の目があれば暴れたり喧嘩することはないだろうという考えだった。また、オーエンは甘いものがないと動かないと言い張ったので、カインの知っている店の中で甘いものの種類が豊富なここに決めた。
ブラッドリーが頭をかいた。
「オーエン、もう怪我は回復したんだろ? おまえがいないと組が回らねえ」
「ふん」
「長えバカンスだなと思ったが──ずいぶんと気に入ったんだな」
ブラッドリーはにやにやした顔でカインに目をやり、オーエンに聞く。
「どこが良かったんだ?」
「は? じろじろ見るな」
ブラッドリーとオーエンがやり合っている横で、大きなため息が聞こえた。
「なあ、もう帰っていいか。俺はおまえたちとは無関係だ」
ネロがうんざりした顔で立ち上がろうとした。ブラッドリーが制止する。
「おい、待てネロ」
ネロはブラッドリーを無視してオーエンのほうを見る。
「なあ、あんたに従ったらあんた以外の組のやつとは関わらないようにしてくれるって言ってたよな」
「は!? なんだそれ、俺はだめでオーエンならいいのかよ」
「どっちも嫌に決まってるだろ。俺はもう堅気になったんだ」
ネロは千円札をテーブルに置くと、店から出て行ってしまった。
「はっ、律儀なやつだ。別にいらねえのに」
「借りを作りたくないんでしょ」
「ネロって、もともと極北組の組員だったのか?」
カインの問いに、ブラッドリーが懐かしそうな目をした。
「ああ、俺の右腕だった」
「でも嫌われてるみたい。可哀想なブラッドリー」
ブラッドリーがむっとした。
「組を抜けたって知って、あいつの居場所を組のやつらに聞いたが、全員知らないって言いやがる。おまえのせいか、オーエン」
「うん。ネロはおまえと縁を切りたいんだって」
「……」
ブラッドリーは不可解そうな顔をした。それを見てオーエンは薄笑いを浮かべている。
カインは見かねて口を開いた。
「なあ、俺が口を挟むのもおかしいけどさ。あんたとあのネロって人は直接ちゃんと話してないんだろ。こう言っちゃなんだが、オーエンって人を不安がらせるようなこと言うし、あんまり信じないほうがいいんじゃないか」
オーエンは人の感情をかき乱すことを愉快に思っている節がある。こじれそうな人間関係において、オーエンを間に置くのは得策ではないとカインは思った。
「……あははは!」
ブラッドリーが吹き出した。
「なるほどな。まだ短い付き合いだろうに、オーエンのことよく分かってるじゃねえか」
「そ、そうだろうか……?」
カインが横を見ると、オーエンはそっぽを向いていて表情は窺えなかった。
食事が運ばれてきた。カインはハンバーグやチキンのミックスグリル、ブラッドリーはステーキ、オーエンはパンケーキを頼んでいた。
ブラッドリーがステーキにナイフをぐっと押し込み、切り分けていく。
「俺が組に戻ってきてから内籐組を順調に追い詰めてる。あともう一息ってところだな」
「警察が黙ってないよ」
オーエンの言葉にブラッドリーが片眉を上げた。
「へえ?」
「うちのシマで最近シャブが出回ってるの、原敷署が内籐組と組んで流してるせいだし」
「じゃあ、ただ内籐組を叩くだけじゃだめだろうな」
原敷署はあろうことか、内籐組と裏で取引をして覚醒剤の密輸をわざと見逃している。原敷署がのちに大きな手柄を得るためだった。
ここでオーエンたちが内籐組を壊滅させてしまうと、原敷署は取引をした意味がなくなるため、原敷署は内籐組を守る方向に動くだろう。
「さて、どうしたもんかな」
「あの」
カインは食事の手を止めてオーエンとブラッドリーの顔を見た。
「この話って、俺がいたらまずいんじゃないのか……?」
「はは、今更」
「おいおい、こうやってヤクザの懐に飛び込んで情報得るのがマル暴の仕事だろ? 新人過ぎてそんなことも分かんねえのか」
「俺はマル暴じゃないぞ」
ブラッドリーが目をぱちぱちさせた。
「もったいないな。カイン、おまえマル暴向いてるぞ」
「ありがとうございます……?」
カインの現在の所属は眞谷署地域第一係で、主な業務はパトロールや道案内や落とし物の対応等、地域の困りごとを解決することである。いずれは別の部署に配属されることになるが、カインの志望はマル暴──マル暴は暴力団対策課の通称である──ではなかった。
「騎士様に関係ない話でもないでしょう。だって、このまま黙って見物してるつもり? 警察が覚醒剤を流すのを」
オーエンが意地悪そうな顔をしてカインを見る。
「そうだな……」
警察の悪行は許せないが、かといって自分一人になにかできるとも思っていなかった。警察内で協力者を募るのも現状難しいと感じている。
「……俺がおまえたちに協力したら、なにか変えられるのか?」
カインはオーエンの赤い瞳を見つめる。この件で動いたら消される、と以前オーエンはカインに忠告していた。そのオーエンがわざわざカインに「黙って見ているつもりなのか」と問うのは、なにかヒントがあるように思えた。オーエンは笑みを浮かべたままで言葉を発さなかったが、ブラッドリーがカインの言葉に呼応してぱちんと指を鳴らした。
「はは、そっちから俺らに協力したいって? いいじゃねえか。よし、おまえも入れて作戦を練ろう」
オーエンたち極北組は、敵対している内籐組を潰したい。ただ、内籐組は警察と手を組んでいる。極北組と内籐組が争って双方の戦力が削れるのは警察の望んでいるところだが、内籐組が完全に壊滅してしまうのは原敷署にとって困ることだった。内籐組を攻撃し過ぎると、警察が極北組への圧力を強めてくるだろう。
カインは、警察が覚醒剤の密輸を見逃しているのをやめさせたい。今回の警察と内籐組とのやり取りは、原敷署が組織ぐるみでやっていることだが、カインの所属している眞谷署もそれを黙認し協力している形だった。
オーエンがフォークでパンケーキをぐさりと刺した。
「内籐組はむかつくけど、原敷署のやつらも腹立つ。痛い目見せてやりたいな」
「警察からしたら、俺たちと内籐組が食い合ってくれたら嬉しいわけだ。その手には乗りたくねえ。警察も叩こう」
「叩くって、どういう……」
カインはオーエンとブラッドリーを見た。二人ともにやりと口角を上げていた。
「ふふ、怖気付いたの?」
「いや……」
「その方法をこれから考えるんだよ」
当然、警察を直接攻撃するわけではない。そうではない方法でダメージを与える必要があった。
内籐組と警察の双方が損をするのはどのような状況だろうとカインは考えた。
「覚醒剤の密輸を阻止するのは?」
内籐組と原敷署の取引は、内籐組が手引きした海外マフィアからの密輸を数回見逃せば、油断して一気に大量の覚醒剤を密輸するだろうから、それを原敷署が摘発するというものだった。
原敷署はこれまで覚醒剤摘発のノルマを達成できておらず、この大量摘発のインパクトで挽回しようとしているのだ。
「密輸を見逃すって約束していたのを、俺たちが邪魔するんだ」
カインはなにより、覚醒剤の流入を許し、広まってしまうことが我慢ならなかった。
「そうすると、内籐組は約束を破られたと思うだろうし、原敷署は大量摘発のチャンスがポシャるわけか。シンプルだが、それがいいかもな」
ブラッドリーが感心した。
「若いのに賢いし胆力がある。ポリ公が嫌になったら、俺の舎弟にしてやるよ」
「だめだよ、僕の犬だもの」
オーエンがカインに軽く寄りかかる。褒められたカインより、なぜかオーエンが得意げにしていた。
「おまえの犬じゃな……痛っ」
カインはオーエンに太ももをつままれた。オーエンは有無を言わせない笑みをカインに向けていた。
「じゃあ細かいところを詰めていくぞ」
ブラッドリーはそう言うと、店員を呼んだ。食事のし終わった皿を下げてもらい、追加で注文をする。オーエンがパフェを注文しようとしていた。
「まだ甘いもの食べるのか」
カインは自身が食べるわけではないのに、胸焼けしそうな気分だった。
「制覇しちゃおうかな、甘いもの全部」
「えっ。メニュー制覇したら、今度ここに来たときの楽しみがなくなるじゃないか」
「ふうん……。また僕を連れてこようと思ってるの?」
「ん? いや、そういうわけじゃないが……そういうことになっちまうのか……?」
一般論としてカインは述べたつもりだったが、友人と接するような感覚でオーエンと会話してしまったことに気づき、カインは首を傾げた。
「おいおい、デートの算段でもつけてんのか? いちゃついてんじゃねえよ」
ブラッドリーが呆れた声で言った。
カインもオーエンたちに協力すると申し出て作戦会議をしたが、新人警察官であるカインには正直なところ、作戦当日まで出番はなさそうだった。基本的にはオーエンたち極北組が主体となって動く形だ。情報収集するにしても、警察上層部や内籐組担当のマル暴からあまりいい目で見られていないカインは、怪しまれる危険が高い。
以前に、恐ろしい風貌のマル暴刑事に「極北組に肩入れしているんじゃないか」と詰められたときのことをカインは思い出した。あの時はそんなことない、と憤りを覚えたものだが、今は事実になってしまっていることにカインは苦笑する。
カインは眞谷署から出てパトロールに向かった。作戦決行当日まで、カインはあまりやることがない。オーエンはブラッドリーが来た日に組に戻っていった。
カインにとってはむしろ、怪しまれないようにいつも通りを演じるのが作戦の一部でもあった。
朝方の澄んだ空気の中、飲食店やバーの立ち並ぶ通りを歩いていると、見覚えのある人物が店の前を掃除していた。
「ご苦労様。ネロ、だよな。この前はどうも」
「あ……」
ネロが掃除の手を止めてカインを見た。カインはネロに笑顔を向けた。
「少し立ち話をしても? 作業の準備の邪魔になるだろうか」
「いや、大丈夫……」
ネロは不思議そうな目でカインを見てそう答えた。前回オーエンやブラッドリーと一緒にいた際の刺々しい雰囲気はなかった。
「お巡りさん、サボり?」
「え? あー、いや……この前はあまり話せなかったから」
「はは、いいじゃん、サボれるときにはサボりなよ」
ネロがはにかんで言った。
カインは一番最初にネロと会ったときのことを聞いた。気になっていたことだった。
「あれはオーエンの差金だった?」
パトロール中にネロから騒動が起きている場所の情報を得て、カインがそこに向かうと内籐組の組員が暴れていた。カインは彼らを取り押さえ、騒ぎを収めたのだった。そのときは疑問に思わなかったが、それから、カインの下に匿名のタレコミがされるようになり、内籐組の犯罪現場に駆け付ける機会が多くなった。カインにそういった情報が集まってくるのは、オーエンの仕業であることが後に分かった。だから、ネロがカインに情報をもたらしたのも、オーエンの指示によるものかとカインは思ったのだった。
「ああ、そうだよ」
「……。ネロはもう暴力団員じゃないんだよな? なぜオーエンに従うんだ?」
「そりゃあ、足洗ってすっぱり縁切って新しい人生始めたかったさ。いろいろあんだよ。──組抜けたら殺すって言われてたし」
ネロは掃除用品を玄関のほうに片付けると、少し散歩しないかとカインを誘った。
歩き始めると、ネロがぽつぽつと話し始めた。
ブラッドリーの右腕として組に所属していたこと。組を抜けたいと漏らすと、ブラッドリーに殺すと脅されたこと。ブラッドリーが刑務所にしばらく入ることとなり、この間に組を抜けようと決めたこと。
しかし、ブラッドリーが刑務所で服役することになっても、ブラッドリーの権力が弱まるわけではない。命令や意向は依然有効である。ネロが組を抜けたいと言ったところでブラッドリーは許さないし、部下の組員たちもそれに従うことになる。
ブラッドリーの意向に反対できるのは、ブラッドリーと同じくらいの力がある幹部級の者かそれ以上に力のある者だけだ。
「それで、オーエンを頼ったと?」
「それしかなかったというか。オーエンだって恐ろしいやつだよ、できれば関わりたくない」
オーエンは危険な存在だが、庇護を得られれば強力な存在にもなる。
「オーエンは甘党で、俺は料理とか菓子作りが得意だったから、あいつ好みの菓子を差し出せばそれでいいって言われて。指詰めなんかと比べても全然いいだろ。その交換条件で組抜けさせてもらった」
本来なら、この地域ではなく離れた場所で再出発をしたかったが、しばらくはオーエンの命令に従わなければならないから、ここで小料理屋をやっているのだとネロは言った。
「俺の家に来たのって、オーエンにケーキを持って来たんだよな?」
「ああ、そうだよ。あれも命令。あのとき、気づかないうちにブラッドに尾けられてたな」
カインとネロは公園にたどり着いた。公園の入り口にある車止めにネロが腰掛ける。
「たぶん、俺がどこにいてもいずれはバレたと思う。──俺とあいつはガキの頃からずっと一緒で、いろいろ悪いこともして、今更俺が一方的に離れようとしたところで虫がいい話だ……」
「ネロ……」
「おい、ネロ。大丈夫か」
カインがネロにかける言葉に迷っていると、背後から誰かの声が聞こえてきた。
ネロが顔を上げてカインの肩越しにその人物を見た。
「あれ、先生」
「ネロ、きみは職務質問を受けてるのか?」
「え? 違う違う」
ネロが笑いながら訂正するも、先生と呼ばれた人物は険しい表情をしていた。
「少し前からきみたちの会話が聞こえてきていたけど、タメ口で話すんだな。それはネロを侮っているからか?」
「え……?」
先生と呼ばれた人物がカインに鋭い視線を向けてきて、カインは戸惑った。
「きみたち警察は、市民を守ると言いながら、異物と判断したものには態度が変わるだろう」
「あ、いや。俺はタメ口で話す癖があって……」
カインは警察学校で上下関係をしっかり叩き込まれたため先輩・上司には敬語で接するが、そうでない場では敬語が外れることがあり、むしろ住民と話す際は親しみやすさから敬語を使わないことも多かった。
「ええと、最初からずっとこの態度だが失礼に感じたら申し訳ない。じゃない、申し訳ありません……」
「……きみは新人?」
「そうです。眞谷署の警察官のカインです。警察手帳をお見せしますね」
「……」
ネロがカインと先生をはらはらとした顔で見ていた。
「先生、心配してくれてありがとう。俺は大丈夫だから。職質じゃないし。……ん? これって職質じゃないよな? もしかして職質だったのか?」
「違うぞ! じゃない、違います」
ネロとカインのやり取りを見て、先生が少し頬を緩めた。
「……頭ごなしに悪かったな」
「前にさ、嫌な感じの警官に俺が絡まれたことがあって。それでファウストは心配してくれたんだよな?」
「まあ……」
先生と呼ばれていた人物はファウストという名前だとネロが紹介した。
ファウストは咳払いをすると、カインを改めて見た。
「警察官は、どういう人物に職務質問するのか基準のようなものがあるのだろう? 言動が変に見えたとか、言葉のイントネーションが違うとか、肌の色とか服装とか……」
「ああ……」
「それじゃあ、外見や振る舞いで犯罪者扱いするのと同じじゃないか。僕はよくないと思う」
ネロがファウストに同意してうなづく。
「ああ、外国人の子どもにきつい言い方をする警察官を前に見たことある。見た目が違うからって、なにも悪くねえのに。あれは本当最悪だと思った」
ネロがカインのほうをちらりと見た。
「あんたはそういう警察官にはならないでくれよ」
「分かった。じゃない、分かりました」
「はは、俺にはタメ口でもいいよ」
ネロが笑った。ファウストも当初よりは表情が和らいだように見えた。
カインは、暴力団組員や犯罪者に敵意を向けられたことはよくあるのでそれにはなんとも思わないが、市民に苦い感情を向けられたのはこれが初めてだった。警察官は正義感を持って職務に励むべきだと思うし、少しでも怪しいと感じたら犯罪を未然に防ぐために行動することがよいことだと思っていた。しかし、自分の正義感というのは、無条件に従っても大丈夫なものなのか? 自分の信じる正義がもし間違っていたら?
警察は常に正しいわけではないということは、警察署の悪事を見たばかりのカインには重々承知だった。正義の側だと認識されている警察が実はそうではなかったとして、ではその警察に“悪”とされてしまった人はどうなるのだろう。
カインは自身の手のひらをじっと見た。危険そうだと思った者を悪人だと決めつけてしまえる権力が自分にはある。しかし、自覚していない偏見や誤解はきっとあるだろうから、その判断に間違いが発生することもあり得る。正義とはなんなのだろう。それを常に考えておかなきゃな、とカインは思い、ぎゅっと拳を握った。
午後七時、繁華街の居酒屋のカウンターにて。
カインがビール片手に食事をしていると、隣にとある人物がやってきた。
「よう、カイン」
「! ブラッドリー」
ブラッドリーがカインの横に座った。ブラッドリーがさっと注文を済ませるのを、カインは意外な気持ちで眺めた。
「極北組の誰かが来るんだろうなと思っていたが、あんたが来るとは」
カインがこの店に来たのは、この店の名前と時間が記載された紙がカインの家の玄関ポストにあったからだった。カインはそれがオーエンの部下の手によるものだと思っていた。極北組から、原敷署と内籐組の覚醒剤密輸を阻止する作戦についての連絡事項があるのだと思い、カインはこの店にやってきたのだった。連絡するだけなら下っ端の組員でいいはずだから、ブラッドリーが来たことにカインは驚いていた。
「おまえとは一度サシで話してみたかったしな」
ブラッドリーは不敵な笑みを浮かべた。
以前は成り行きでともに食事をし話をしたが、こうして改まって話すとなるとカインは少し緊張した。
「話って?」
「ふっ、そんな固くなるなよ。尋問しようってわけじゃねえ。ちょっとした雑談だよ。どうしてオーエンにそんなに気に入られてるんだ、とか」
「気に入られてる、というのか? あれは……。なんか変な絡まれ方はするけど」
「ははは」
ブラッドリーがお通しに箸をつけた。
「オーエンにあんな口きくやつ、普通は腕折られてもおかしくねえ。正直そうしないのが薄気味悪いくらいだ」
「……」
「あいつがヤクザってこと忘れたわけじゃないよな」
思いがけず始まったオーエンとの共同生活の中で、カインはオーエンに対する警戒を解いていたのは確かだった。カインが迂闊だったと言われたらそれまでだが──カインのその態度は、オーエンがカインに対して気を許していたように感じていたからこそだった。
「あいつ、組を少し離れてたけど今はどういう感じなんだ?」
オーエンがカインの家に来たのは、部下から恨みを持たれているせいだと言っていた。オーエンは腹を撃たれていて弱っているから、この機を狙って復讐される可能性があるのだと。今は怪我から回復しているようだが、組を不在にしていたことで立場が悪くなっていやしないかとカインは思ったのだった。
「なんだ、心配してるのか? 今度は保護者気取りかよ?」
「いや、純粋な興味と言うか、極北組の内情はどうなんだろうな、と……」
「ふん……。まあ、オーエンはいろんなやつに恨まれてるが、だからと言って軽んじられてるわけではないからな」
オーエンは組の中でも重鎮なのだとブラッドリーは言った。オーエンがいない間、組の運営が滞ったことがあった。そうでなければ、ブラッドリーもわざわざオーエンを連れ戻そうとは思わない。
「慕われてはいないかもしれないが、畏怖されてる。オーエンの強さは全員が認めてるってことだ」
「実際に復讐しようとしたやつはいるのか?」
「失敗した時にオーエンにどんな目に遭わされるかって考えたら、実行するやつはほぼいないか、いたとしたら救いようのない馬鹿だけだ」
ブラッドリーが酒をあおる。
「おまえになにを言ったか知らねえが、あいつの部下にオーエンを殺せるやつはいねえよ」
「……」
「オーエンが消えたと聞いた部下のやつらはオーエンを見つけられなかったわけじゃねえ。あえて探さなかったんだ。見つけたとしても、下手に連れ戻そうとして機嫌悪くしたら、自分に火の粉がふりかかるからな」
「……どうしてオーエンは俺の家に?」
「なんでだろうなあ。家出したい気分だったとか? 組にいたら心が休まらなかったのかもな」
組から離れたいという気持ちが湧くこともあるんだなとカインは思った。なんとなく、ネロのことを思い出す。
ブラッドリーは上機嫌に話を続けた。
「やっぱり気に入られてるんだろ、カイン。オーエンは、警察内部に自分の協力者──犬って呼んでるやつだな、それを作るために警察官の詳細な情報を持ってる。新しく赴任する新人の情報も、だ」
カインは眉根を寄せてブラッドリーを見た。
「じゃあ、オーエンは俺と会う前に俺のことを知っていたのか?」
「そういうことになるな」
「なぜ俺に接触してきたんだ?」
「なにかオーエンの興味を惹くものがあったんだろ」
「そんなもの……」
「昔馴染みとか、因縁があるってわけでもないのか」
「俺は地元はこっちじゃないから、因縁もなにも、それまで会ったことすらないと思うが……」
カインは放免祝いの警備で会う以前にオーエンに会ったことはないはずだった。オーエンは一度会ったら印象に残るタイプだから、会っていたら覚えているはずだ。
「まあ、でもおまえを気に入るのはなんとなく分かる。俺らを見てビビらねえところがいい」
ブラッドリーは不敵な笑みを浮かべてカインを見た。カインはブラッドリーの目をじっと見る。
「いや、俺はあんたたちを怖いと思ってるぞ?」
「本気で怖がってたら、もっとビクビクしてるだろうよ」
「ビクビクしたところで怖くなくなるわけでもないし……」
「はっ、それはそうだな。──ああ、伝えるの忘れるとまずいから話しとくか。当日のことだが」
ブラッドリーが作戦決行日について説明を始めた。
決行日は再来週のこの日。カインは非番の日だった。
ブラッドリーが箸を止めた。
「あ。日にちも場所も誰にもバラすなよ」
「当たり前だ」
「場所はここだ」
ブラッドリーが机の下で紙をカインに差し出した。カインは紙を受け取り、手元に目を落とす。
「頭に入れたか?」
「ああ」
「じゃあ、その紙は飲み込んで処分しろ」
「えっ?」
カインは耳を疑ってブラッドリーへ顔を向けた。
「ほら、口開けろ」
「っ、がっ……!?」
ブラッドリーは右手の親指でカインの口を開け、丸めた紙を突っ込んできた。
「そのまま飲み下せ」
「ぐっ……」
ブラッドリーが口を押さえてくる。ごくん、とカインは無理矢理に紙を飲み込んだ。ジョッキに残っていたビールを喉に流す。
「っ、はあ。乱暴だ……」
「乱暴じゃないヤクザなんているかよ」
ブラッドリーは大きく口を開けて笑った。
「で、詳細だが──」
ブラッドリーが話を続ける。ここからは荒っぽいことはせずに話して欲しいとカインは思いながら、口角からこぼれたビールを手の甲で拭った。
夜には暑さが少し和らぐ。生温い風がカインの髪を揺らしていた。
カインは港湾で黒い海を眺めていた。今日が、内籐組が覚醒剤を密輸する日であり、オーエンたち極北組がそれを阻む日である。
原敷署上層部は、内籐組と計って海外から覚醒剤を密輸しようとしている。
密輸を何回か見逃せば、油断して大量の覚醒剤を海外マフィアが持ち込むだろう。それを原敷署が摘発すれば大手柄になる──原敷署はそういう目論見だった。
極北組が得た情報によると、内籐組の手引きですでに二回覚醒剤が持ち込まれたということだった。今回が三回目だ。これを見逃せば、次は大量に百キロほど密輸するのではないかと目されている。
カインは、はあと息を吐いた。
原敷署は、警察庁による覚醒剤摘発キャンペーンのノルマが達成できないために、このような行動に及んでしまった。もし、覚醒剤百キロの摘発ができれば、大ニュースになるだろう。本来は覚醒剤を取り締まるためのキャンペーンであるはずなのに、まったく逆の効果を生んでしまっている。カインは警察官に憧れて自分も警察官になったが、腐敗具合を見てしまうと腹の底に鬱々としたものを覚える。
──ふと、カインは人の気配を感じた。波や風の音とは異なる物音がカインの耳に入る。
足音や声のした方向を見ると、複数人が歩いてくるのが見えた。格好から見るに、暴力団組員と思われた。内籐組の者に見つかるとまずいと思い、カインは港湾に置かれているコンテナの陰に身を隠した。
「それで隠れてるつもり?」
「っ!?」
後ろから声が聞こえてきてカインは振り返った。
「……オーエン!」
「声、大きい」
オーエンの顔を見るのが久しぶりな気がして、カインは思わず片手を上げていた。親しい友人ならハイタッチをするか、肩や背を叩くかするだろうが、オーエンはそういう相手ではないし、オーエンの背後には部下たちが控えていた。場にそぐわない感じがして、カインはそろそろと手を下ろした。
「ふっ」
「……笑うなよ」
気まずそうにしているカインに、オーエンは嘲るような笑みを向けたあと、すっと冷静な顔になって部下たちのほうに目をやった。
オーエンが部下たちに指示を出している。カインはその姿を見て、カインの家に居着いていた頃のオーエンとの違いになんだか不思議な気持ちになった。
極北組の組員たちが命令を受けてそれぞれの持ち場に移動していく。ひと通り準備が整うと、オーエンがカインに再び近づいてきた。
「ねえ騎士様。警察の裏切り者になるって、どういう気分?」
「嫌な言い方するな……」
カインは苦さを覚えながらも、オーエンはこういうやつだったとも思った。
「原敷署のやっていることを見逃したら、悪事に加担したことになるだろ」
「裏切り者か、悪事に加担する悪徳警察官か──どっちかしかないの、可哀想だね?」
カインがむっとしてオーエンを睨むと、オーエンは嬉しそうに笑う。
「どうせ裏切り者になるなら、僕の犬になっちゃえばいいのに」
「おまえに可哀想と思われる筋合いはないし、犬にもならない」
「ふうん」
「そういえば──その、オーエンの犬というか、警察のやつは俺以外にはやっぱりここにはいないのか?」
「そうだね」
オーエンは、警察内に「犬」と呼んでいる協力者がいる。その中で今回の作戦に協力する者はいないと事前に聞いていた。
「あいつら、餌がないと動かないから。餌どころか、今回は警察内での昇進の道が断たれるかもしれないし」
オーエンはカインに顔を近づけてきた。
「騎士様は馬鹿だよ」
「覚悟はしてるさ」
カインがはっきりと答えると、オーエンは目を細めて笑った。
そこにオーエンの部下がやってきた。オーエンに作戦開始を伝える。
去ろうとするオーエンの後ろ姿に、カインは声をかけた。
「この前撃たれたんだから、あまり無茶はするなよ」
「へえ、自分の心配より僕の心配?」
極北組の者たちが配置につく。
カインが海へ目を向けると、暗い中を進んでくる船が微かに見えた。
ざぶんと波音を立てて船が着岸する。
カインらが息をひそめて様子を窺っていると、船から数人降りてくるのが見えた。
闇を人影がうごめく。
明かりがないため、はっきりとは見えなかったが、船から降りてきた人影は荷物を抱えていた。あれはおそらく、覚醒剤だろう。
船を降りた彼らに近づいていく別の人影があった。内籐組の組員だ。
船で覚醒剤を持ち込んだ売人と、内籐組の組員らがやり取りをしている。しばらくすると、小さな明かりが見えた。ライトで手元を照らしているようだ。覚醒剤や金銭の確認をしているらしい。
カインは物陰から出た。すうと大きく息を吸い込む。
「警察だ! 現行犯で逮捕する!」
カインが組員らに向かって言い放つと、組員らがざわめき始めた。
「警察だと……?」
「逮捕とか抜かしてるぞ。原敷署はなにをやってるんだ」
「もしかして、原敷署が裏切ったのか?」
内籐組は原敷署と組んでいるため、警察官が邪魔をすることは考えていないに違いなかった。組員らは混乱に包まれている。
カインは続けて言った。
「聞こえなかったか? 逮捕するって言ったんだ。全員手を頭の後ろに回して、地面に膝をつけろ」
組員の一人がカインにライトを向けた。カインはまぶしさに一瞬目を細める。
「飛び出してきた割には一人しかいないぞ」
組員がカインを見て言う。困惑していた組員らに安心したような空気が広がった。
「なあ、こいつ一人だけなら……」
「足を滑らせて海に落ちちまったことにすればいい」
「運が悪かったってことだな」
組員らがにやにやと笑いながらカインに近づいてきた。
カイン一人だけならすぐ始末して隠蔽できると思ったのだろう。
カインは組員らの目をしっかりと見据えた。うち一人の組員がカインを殴ろうと手を振り上げる。その組員はカインの揺らぎのない瞳に少し怯んだが、下卑た笑みを取り戻すとそのまま手を振り落としてきた。
カインは隙を見逃さず攻撃を避ける。
空中を殴った組員が舌打ちした。いらついた様子で再びカインを殴ろうとする。ほかの組員も加勢し、カインは複数人に取り囲まれた。
逃げ場のないカインの胸ぐらを組員が掴む。
「ここまでだな」
「ぐっ……」
カインは胸ぐらの手を振り解こうとするも、ほかの組員らに手足を拘束された。
「サツ一人くらい俺らにとっちゃなんてことねえ。原敷署が裏切ったのか、それともおまえがなにも知らされていない下っ端の警官なのか、どっちでもいいが大人しく殺されてろ」
「調子に乗るな」
カインが組員を睨むと、周りの組員らがさらに拘束を強めた。
「ずいぶん活きがいいな。──おい、ただ殺すのは惜しくないか? 普段のサツへの恨みを晴らすいい機会じゃねえか」
「はは、違いねえ」
背の高い組員がカインの前髪を掴むと、乱暴に上を向かせた。
「痛めつけたらどんな声で啼くか楽しみだなあ?」
「そいつをいじめていいのは僕だけだよ」
いつの間にか、内籐組の組員らの背後にオーエンが立っていた。
「は──?」
内籐組の組員らはなにが起こったか把握するまもなく、突如現れたオーエン率いる極北組の攻撃にさらされた。続々と極北組の組員らが集まり、内籐組の者をのしていく。
解放されたカインは、極北組と内籐組がやり合っている場から離れた。
「出てくるのが遅くないか?」
カインは、戦闘を眺めているオーエンに声をかけた。
「勇ましい騎士様が多勢を相手にどう立ち回るか見学してた」
「性格悪いな……」
「ふふ」
カインにそう言われて、オーエンはにやりと笑った。
「褒めてないぞ?」
カインはオーエンの隣に腰を下ろした。オーエンの部下の組員たちが舟に乗り込んでいくのが見えた。
今回の密輸場所の情報は極北組が掴んだものだった。カインがその情報をもとに警察に報告したとして、原敷署や原敷署を黙認している眞谷署に握り潰されてしまうだろう。それに、情報が漏れたと勘付いた原敷署が密輸場所を変更する可能性もあった。
そのためカインは警察にはこの情報は伏せていた。カインが密輸場所に一人現れることによって、「原敷署が裏切ったのではないか?」と内籐組に疑念を抱かせる効果を期待した。
疑念に囚われた内籐組に極北組が攻撃をしかける。原敷署が協力しているという事実に油断しきっている内籐組は、極北組にあっけなく叩き潰されるだろう。
「それにしたって、よくこの場所の情報を得られたな……。どこから掴んだんだ?」
「内籐組の裏切り者から。内籐組はもう落ち目じゃない? って言ったらすぐ寝返った」
「へえ……」
カインはオーエンの得意げな顔を横目で見た。
組員たちが争っているほうへ目を向けると、内籐組の者はあらかた制圧されたようだった。
「もう終わりか……」
カインが立ち上がると、オーエンは騒ぎの収束を確認するため船へ向かって歩いて行った。カインもそれに続く。
オーエンが内籐組の組員らを見下ろす。
「警察に協力させて調子に乗ってたのに、痛い目遭わされて無様だね」
「ぐっ、オーエン……!」
かろうじて息のある内籐組の組員がオーエンを睨む。オーエンはその組員の顔を革靴で踏みつけた。
「僕のシマでおまえらの好きにはさせないよ」
「いッ……」
オーエンに踏まれた組員がうめく。
「さて、そろそろ騒ぎを聞きつけて誰か来る頃かな」
オーエンが暗闇の中を見渡す。
控えている部下に対して、オーエンはこの後についての指示を出していた。
カインは、内藤組の組員がぶつぶつ呟いているのに気づいた。
「おまえさえ消せば……!」
「! おい──」
オーエンに踏まれている組員が懐から銃を取り出した。
組員はオーエンに銃口を向ける。
オーエンが組員を振り返るよりも、引き金にかかる指が動くほうが早かった。
「待て!」
カインは銃を持った組員の腕を掴んだ。
──闇の中に銃声が響く。
カインはどっと汗が噴き出すのを感じた。銃弾はオーエンを逸れていった。ぎりぎりで回避できたようだった。
「オーエン、大丈夫か」
カインがオーエンを見ると、オーエンはきょとんとした表情をしていた。
目を大きく見開いて、幼い子どものような顔だった。
命の危機を逃れ安堵した表情でもなく、自分を殺そうとした者への怒りでもなかった。そんなオーエンの顔にカインは違和感と──既視感を覚えた。
緊迫している状態なのにぱちぱちと目を瞬かせ、なにかに驚いたような顔。カインはこの顔を以前に見たことがあるような気がした。
どこで見たのだろう。
カインが記憶を呼び起こそうとしていると、後頭部に衝撃を感じた。目の前が暗くなっていく。
「いッ、……なん、だ?」
「邪魔しやがって……うッ、ぐぁ」
背後で内籐組の組員の声が聞こえた。続いて肉と骨がぶつかる音がカインの耳に入る。
暗くなりゆく視界がぐらりと揺れた。オーエンを撃とうとした組員が殴打されている光景がカインの目にうっすら映った。極北組幹部のオーエンを狙ったのだから、凄惨な仕打ちを受けているのだろうとぼんやり思いながら、まぶたは閉じていく。
「最悪……ちっ」
オーエンの舌打ちが最後に聞こえて、カインの意識は完全に途絶えた。
カインが目を開くと、そこは病室だった。横たえた身体を起こそうとすると、誰かの手に止められる。横を見ると、警察学校時代の同期の警察官がいた。
「しばらくは安静にしろって医者が──」
同期の警察官によると、カインは後頭部を殴られたために気を失っていたとのことだった。
港湾で銃声が聞こえたと通報があり警察が駆けつけると、内籐組の組員とカインが倒れており、カインは病院へと運ばれた。目立った外傷はなかったが、脳しんとうを起こしている可能性があるため、大事を取って安静にしているようにと医師から言われているらしい。
港湾でなにが起こっていたのかカインには報告の義務があるが、それは回復してからで構わないとのことだった。
同期の警察官にゆっくり休むように言われると、カインは疲労からか眠くなり、再び意識が落ちていった。
カインは夢を見た。
子どものカインが街を歩いている。そこは知っているような、知らないような街並みだった。
遠くから怒鳴っている声が聞こえてきた。なんだろうと思い、カインはその方向へと歩いていく。
大柄な男が二人と、学生服の青年がいた。大男が青年に絡んでいるらしい。カインからは青年の後ろ姿が見えた。怖くないのかな、とカインは青年の後ろ姿に思った。
大男が青年の服を引っ張った。危ない、と思った瞬間、カインは大男と青年の間に飛び込んでいた。
カインの手には竹刀があった。夢の中では剣道の稽古の帰りだったのかもしれないな、と思った。
子どものカインは竹刀を両手で握り、大男に切先を向けた。
弱いものいじめはやめろ、と大男に言った。
大男は固まってカインを見ていた。子どもの身長だと、大男が余計に巨大に思える。夢だからか、あまり怖くはなかった。──いや、子どもの頃からカインは無謀だったのかもしれない。
カインはここからどうするかを考えていなかった。同年代の中で剣道が強い自信はあったが、大男二人に立ち向かえるかは分からなかった。とりあえず、絡まれている青年を逃すことを優先しようと思った。
カインは振り返って青年の様子を見る。
青年はびっくりしたように目を見開いていた。後ろ姿を見て受けた印象よりも、幼い顔立ちに見えた。
泣き顔じゃなくてよかった、怖い思いをしていないようでよかったとカインは思った。
──カインはそこで目を覚ました。
夜だった。病室は暗い。窓際のカーテンが揺れているのが視界に入った。上半身を起こすと、病室の窓が開いていて、窓の近くに人影があるのが分かった。
暗くてよく見えない。人影がカインのいるベッドに近づいてくる。
「オーエン……?」
その人影はオーエンだった。どうしてオーエンがいるのだろうとカインは不思議に思った。
「散々だったね」
オーエンはふっと笑って言った。オーエンの表情はいつもより柔らかいものに見えた。暗闇の中で銀色の前髪が揺れている。
「僕が撃たれて死んだほうが、おまえにとっていいことなのに。かばうなんてさ」
「……死んだほうがいいなんて思わない」
「そうでなくても、警察官なのにヤクザを守って怪我したようなものだろ。騎士様は守るものを間違えてる」
オーエンはカインのベッドに腰掛けてきた。わずかにベッドが揺れる。
「咄嗟に身体が動くんだ。そのときに、こいつは助けようとか、こいつは嫌いだから助けないとか、考える時間はないんじゃないか?」
「はあ」
オーエンは呆れたように息を吐いた。
「そんなんじゃ、命がいくつあっても足りないね?」
「別に、死に急いでいるわけでもないんだけどなあ」
「警察官なんて職業選んでおいてよく言う……」
「確かに。あはは」
オーエンはむっとした顔をカインに近づけてきた。
「笑ってるなよ、まだ警察官になったばかりなのに、そんな調子じゃすぐ死ぬよ」
「心配してるのか?」
カインがそう言うと、オーエンは言い淀んだ。
「そんなわけ……」
「ああ、そういえば──俺とオーエンって、ずっと前に会ったことがある?」
オーエンが訝しんだ目をカインに向ける。
「……どうしてそんなこと聞くの」
「さっき夢で子どもの頃のことを思い出したんだ。俺はこっちの出身じゃないけど、剣道の大会でこっちに来ることがあって。そのときの出来事を夢に見てた」
大会の帰りのことだった。小学生のカインは、厳つい男たちに絡まれている学生服の青年を見て、助けようと間に入ったことがあった。引率の保護者が慌ててカインを連れ戻し、危ないことはやめてと心配していた。あの人たちはおそらくヤクザで、とても怖い人たちなのだと教えられた。見かけてもなるべく関わるな、と。
ヤクザらしき男たちに絡まれていた青年がどうなったのか、カインは知らない。誰かほかの人に助けられていたらいいなと思っていた。
「子どもの頃の話だから、あんまり詳細には覚えていないんだ。でも印象に残ってるのがさ、その学生の表情なんだ。怯えているのかと思っていたら、なんかぽかんとした顔してて」
撃たれそうなオーエンをかばったときの、オーエンの顔に似ているなとカインは思ったのだった。
「助けにきたのが子どもだったら、呆れてそんな顔にもなるだろ」
オーエンはぼそりと呟いた。
「あのとき、子どもの俺が助けようとしたのはオーエンだった?」
「さあね」
興味なさそうな口調とは対照的に、オーエンの右手がカインの顔に伸びてきた。カインの頬に触れてくる。
「もし──そいつが僕だったら、どう思うの」
カインは、なにを考えているのかよくわからないオーエンの目を見つめた。
「元気そうでよかったなと思う。俺はあのとき助けられなかったけど、誰かが助けてくれたのかなって」
オーエンは困ったような顔で笑った。今まで見たことのない顔だ、とカインは思った。
「それがもし僕だったら、誰かに助けてもらわなくても自分でなんとかしてる」
「そうなのか? オーエンは強いんだな」
「はっ、今更……」
オーエンの手がカインの頬を撫でる。カインはオーエンの指がなめらかに動くのを感じていた。
「オーエンはどうしてここに来たんだ?」
「おまえが警察に報告するときに、喋っちゃいけないことを喋らないよう釘を刺しに。あとは、間抜けな騎士様の顔を拝みに」
「間抜けって」
「ふふ」
困ったように笑うオーエンの顔がカインの目前にあった。この表情は好きだな、とカインは思った。オーエンの右手の親指が、カインの下唇をなぞった。
「馬鹿な犬ほど可愛い、かも」
「俺は犬じゃない……」
カインの顔にオーエンの頭の影が落ちる。カインは目を閉じた。ぎしり、とベッドのきしむ音がした。
唇にオーエンの唇が触れるのを感じた。最初はひんやりしていたそれは、すぐにカインの体温と同じくらいになる。
ぬる、と唇を舐められた。カインが口を開くと、オーエンが深く口づけてきた。入り込んできた舌に、カインも舌を絡める。
「ふ……」
「ん」
吐息と唾液の音が頭を支配していく。キスしながら頬、首筋を撫でられて、身体が熱くなる。やばいな、とカインは思った。
す、と唇が離れていった。カインは口の端に垂れた唾液を手の甲で拭った。
「病院でこういうことするのは良くない気がする……」
「気にするところはそこなの?」
オーエンがカインの耳元に口を寄せた。オーエンの髪がカインの耳をくすぐる。
「警察には余計なことは話すなよ」
「分かってる──って、うわあ!」
カインはオーエンに耳を軽く食まれて、思わず声を上げてしまった。
「あはは」
オーエンが意地悪な笑みを浮かべる。いつものオーエンだ、とカインは思った。
オーエンは立ち上がって窓際へ歩いて行った。オーエンの姿が、風で揺れるカーテンに見え隠れした。
じゃあね、と唇だけ動かすと、オーエンは窓から去っていった。
「ここ、何階なんだろうな……」
カインはぼんやりそう思ったあと、先ほどのキスを思い出して顔を覆った。
「次に会ったとき、平気な顔でいられるかな……」
オーエンや極北組とは職務上今後も関わらざるを得ないだろう。
安静にするように、との医師の指示とは正反対に、カインの胸の鼓動は激しく鳴り続けていた。しばらくは静かになってくれそうもない。カインは恨めしい気持ちで、オーエンの去っていった窓を見つめた。