イカロス 小鳥のさえずりを聞いて目が覚めた。朝が来たことを告げる小鳥たちに、オーエンはおはようと返す。
オーエンが身体を伸ばすと、木の枝が揺れて擦れた葉がばさばさと散った。オーエンは樹の上で眠っていた。朝のひんやりした澄んだ空気と柔らかい朝日が心地よく、目覚めはなかなか悪くはない。
特にあてもなくふらふらしていたところ、魔法舎の中庭で剣の素振りを行なっているカインを見つけたので、オーエンはそっと背後に忍び寄った。
「騎士様」
「うわあ! なんだ、オーエンか……びっくりさせないでくれ」
汗を拭いながら息を吐くカインを、オーエンはにこにこしながら眺めた。
「朝早くから鍛錬? 騎士様はご立派だね」
「そりゃどうも。おまえのことだから、どうせ皮肉だろう?」
「ふふふ」
オーエンは笑みを浮かべたまま首を傾げた。
「まあ、せいぜい僕から目を早く奪い返せるよう頑張ったら?」
「ああ、すぐに強くなってみせるさ」
カインは剣を構え、挑発するように切っ先をオーエンへ向けた。オーエンは光る剣先を見つめ、にやりと酷薄な笑みで応える。剣を握るカインの手に、少し汗が滲んだ。
二人はしばらく対峙していたが、オーエンが手を出してこないのを見るとカインは剣を下ろし、おもむろに口を開いた。
「……思うんだが、オーエンってどうして突然現れるんだ? もっと普通に出てきてくれたっていいのに」
「なに? 転移魔法の話?」
カインは左手の人差し指を顎に当てながら、視線を上方にさまよわせた。
「ほら、俺は厄災の〈傷〉のせいで他人は触れないと見ることができないだろ? でも、おまえだけは触れなくても見える。だから普通に視界に入ってきてくれるなら、転移魔法でも別にそうでなくても、さっきみたいに驚くことはないはずなんだ」
「で?」
「後ろから急に来るのはやめて欲しいなー、と……」
「あはは。その頼みを僕が聞くと思うの」
カインは肩をすくめた。
「そうだよなあ」
やめてくれと言われると、なおさらやりたくなってくる。それに。
「後ろから急に来たのが僕でなく、敵だったら?」
ハッとした顔でカインはオーエンを見た。
「騎士様は剣を振るうことだけに夢中なのかもしれないけど。一つのことに集中するのと、周りに全く気を配らないのは別のことでしょう」
オーエンはそう言うと視線をそらした。親切にここまで喋るつもりはなかったのに口が滑った。
「なるほど……。集中していても、見えていても見えていなくても、周囲に気を配らなくていい理由にはならないな」
カインは得心して、表情をきらきらと輝かせた。
「ありがとう、オーエン。もっと良い鍛錬ができそうだ」
「……」
感謝されると調子が狂う。はあ、とオーエンは大きくため息を吐いた。
「よし、じゃあこのメニューはここを工夫して……」
カインが鍛錬について考え込み始めた。
このままだとなんとなく癪だったので、オーエンはカインになにか嫌がらせできないか思考を巡らせた。
「あ、そうだ騎士様。僕のおかげならお礼してよ」
「お礼? 何がいいんだ?」
「この前、絵本読むって言ってたよね? あれやってよ」
「絵本……?」
カインは何のことかすぐに分からず、しばらく黙った。
「騎士様が言ってたんだから、頑張って思い出して? じゃあ、よろしく」
悩むカインを尻目にオーエンは中庭を後にした。背後からカインの慌てる声が聞こえてくると、オーエンの顔に笑みがこぼれた。
数日後の夜、夜更かしな魔法使い以外は眠りについた頃。夜空を飛んでいたオーエンは、魔法舎二階の角部屋の窓に小さな明かりを見た。窓に近づくと、それは机上のランタンの光だった。部屋の中で人影が動いている様子はない。オーエンは、音を立てずに窓からするりと部屋へ侵入した。
机の上にはランタンの他に本が数冊あり、カインがそこで突っ伏して眠っていた。読んでいる間に寝落ちたらしい。部屋の中を見渡すと、机の上だけでなく床の上にも本が積まれている。背表紙を確認すると、絵本や児童書、童話集の類だった。
オーエンは、机の上の読みかけと思われる本に目をやった。挿絵付きのページが開かれている。内容は、翼を得て空を飛べるようになった人間が、太陽に近づき過ぎたために翼が燃えて墜落してしまうというものだった。
「馬鹿なやつ」
オーエンは小さく呟いた。空を自在に飛び回れるのは、鳥と魔法使いと魔法生物だけだ。人間ごときが過ぎた夢を見るからそうなる。もっとも、最近では魔法科学のおかげで空を飛ぶ人間が実際に出てきているわけだが。鉄の翼は空には似つかわしくない、と苦い顔をする魔法使いは多い。
挿絵では、ページいっぱいの大きさの太陽と、翼に火がつき慌てている人間の姿が描かれている。この間抜けな墜落者は、太陽に接近するまで燃え盛る灼熱に気づかなかったのか、あるいは知っていたのに甘く見て天高く飛んだのか。どちらにせよ、愚かさは身を滅ぼす。オーエンは冷めた目で、そのページを少し眺めた。
「んん……」
カインが眠ったまま、頭を少し動かした。机上のランタンのガラスに数本赤い髪の毛先が触れて、ジジジと焦げる音がした。オーエンは、カインの後頭部に手をやって、こちら側へ少し引いた。
「迂闊だね、騎士様」
カインの頭をランタンから遠ざけるとオーエンは、カインの後頭部からうなじ、耳の後ろ、首筋へと指を滑らせた。カインの温かい体温が、オーエンの冷たい指へと伝わってくる。首の動脈をそっと触ると、どくんどくんと生命の鼓動を感じた。
オーエンは、カインの頸動脈をぐっと指で押した。首筋に沈んだオーエンの指を、脈が打つたび跳ね返す。
カインの体がぴくりと動いた。
「う……」
カインがうめき声を上げたところで、オーエンは首からぱっと手を放し、カインから離れた。
「あれ……。寝てたのか俺」
カインが机から上半身を起こし、目をこすりながら呟いた。頭を左右に軽く振り、大きなあくびを二つしたところで、カインはやっと気がついた。
「……誰かいるのか?」
「こんばんは、騎士様」
カインが後ろを振り返り、オーエンの姿を見つけた。
「え、オーエン……?」
「なかなかお礼してくれないから、こっちから訪ねてみようと思って」
オーエンは幽霊のように暗闇でひっそり笑った。
「この、本だらけの部屋は何なの?」
オーエンは部屋を見回しながらカインに聞いた。
カインは目をぱちぱちさせたあと、頭をかいた。
「あー、おまえと話してた件については思い出せたんだけど、あの絵本の題名が思い出せなくてな……。ほかのやつにも聞いてみたけど、話自体はなんとなく聞き覚えがあっても、やっぱり題名は分からないと言われた」
「それで」
「とりあえず片っ端から当たってみるか、と思っていろいろ借りてきて読んでいたんだ」
「で、見つかったの?」
「いや、まだだ」
カインは苦笑した。
「騎士様は馬鹿みたいに真面目だね」
表情のない顔でオーエンは呟くように言った。
「一気にこんなにたくさん本を読んだのは初めてかも?」
カインはふざけたようにそう言って、机の上の読みかけの本に目を落とした。
「そうそう、寝る前に読んでいたこれ、なんとなくムルを思い出したんだよな」
「……?」
「太陽に接近し過ぎたばかりに翼が燃えて墜落してしまう話。この話の趣旨は、能力を過信して太陽に近づき過ぎてしまった慢心をたしなめるものだから、ムルの場合とは異なるけれど。でも太陽に近づくところと、月に近づくところは似てるなー、と……」
大いなる厄災に近づき過ぎて、魂が砕け散ってしまったムル。
「恋で身を焦がす、とか、恋で身を滅ぼす、とか、なんだかロマンチックじゃないか。まあ、ムル自身やシャイロックは、魂が砕け散ったことをどう感じているのかは知らないが」
「全然理解できない。ロマンチックなのはその話じゃなくて、騎士様の頭のほうでしょう?」
「はは、言えてるかも」
カインは軽やかに笑った。オーエンはいらいらした声音でぼそりと呟いた。
「…………恋にしたって、そうでないものにしたって、自らの身を滅ぼすものにわざわざ進んで向かっていくのは愚かだろ」
「分かっていても、それでもなお、惹かれるがままに追っかけてしまうのが恋ってものなんじゃないのか?」
カインが懐かしむような瞳でそう語るのを見てオーエンは、肌を荒い鑢で擦られたような、そんな心地がした。それを悟られないようオーエンは、何でもないような顔をしてカインに言葉を吐く。
「……ふうん。なに、おまえ、西の国の魔法使いにかぶれたの?」
「シャイロックとは時々バーで話すけど。……そういえば、そこで聞いたんだったかな、恋ってのは信頼していない相手でも憎い相手でも、心を預け渡してしまう行為なんだってさ。それを聞くと、ロマンチックなだけじゃなくて怖いなって思うよ」
オーエンは顔をそらした。
「自覚のない恋だったら、なおさら怖い」
カインはそう言うと、両腕を上げて大きく伸びをした。長い欠伸をして、部屋を見渡す。
「さて。ここにある本のうち、読み終わったのは五分の一もない。目当ての話が見つかるまではまだまだかかりそうだ……」
「なんか、もういいや。飽きた」
オーエンはぽつりと言った。
「騎士様の恋愛観の話聞いてたら、うげーってなってきた」
「なんだ。ひどいな」
カインは頭の後ろを手でかきながら苦笑した。
「今日は騎士様のありがたいお話を聞かせてくれてありがとう。今度お返ししてあげるから、楽しみにしててね?」
オーエンは、見る者をゾッとさせるいつもの笑みを浮かべ、窓から夜空へ消えて行った。
頭の中を空っぽにしようとオーエンは猛スピードで空を駆けた。しかし、先ほどのカインとの会話がどうしても頭にちらつく。
ある対象について、慢心で近づくのと、破滅覚悟の慕情で近づくのと、恋心の自覚のないまま近づいていたのでは、三つ目が一番危険で愚かだ。自らの身を滅ぼすとも知らず、いつのまにやら飛び込んでいて、それで陥落してしまったのでは世話がない。
「…………ちっ」
オーエンは、自分が愚かであることを絶対に認めたくなかった。